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第三十五話「図書室の怪と、幻の書物」

 バベル・ガーデン七三九層。


 かつての武器保管庫を改装して作られたその広大な空間は、静謐なインクと古紙の香りに満ちていた。


 『バベル・ガーデン大図書室』。


 娯楽統括部長オズワルドの城である。


 メルキオラスの一言。


 『君、肉体労働苦手だけど、頭いいでしょ。娯楽統括部長として図書館の管理任せるからよろしくね』


 すれ違い様に決められた役職だったが、それは彼にとって天職だった。


 元魔王軍参謀本部・作戦立案室長であった彼は、真紅のダブルスーツを着こなし、鼻梁に乗せた銀縁眼鏡の位置を中指で押し上げた。


「…嘆かわしい」


 彼の視線の先にあるのは、貸出カウンターの記録簿だ。


 そこに記されているのは、『週刊少年ジャンプ』『なろう系ラノベ』『アイドル写真集』といったタイトルの羅列のみ。


「知識の探求こそが知的生命体の至上の娯楽であるというのに。なぜ、この者どもは絵と擬音ばかりの書物を好むのか」


 オズワルドは長い指で自身のこめかみを揉んだ。


 彼の背中からは、常に冷徹な知性がオーラとなって立ち昇っている。


 その威圧感ゆえに、図書室では私語はおろか、ページをめくる音さえ躊躇われるほどだ。


「部長、あ、あの…ご報告が」


 部下のオーガが、怯えながら声をかけた。


「何だ。簡潔に述べたまえ」


「は、はい!実は最近、夜の見回りをした兵士たちから、妙な噂が…」


「噂?」


「よ、夜中に…誰もいない閲覧室で、本が勝手に空を飛んでいると…」


 オズワルドの眼鏡が、キラリと鋭く光った。


「…非科学的だ。ここは魔導図書館ではない。物理法則を無視した浮遊現象など、管理不届きによる幻覚か、あるいはタチの悪い悪戯プラクティカル・ジョークであろう」


「で、ですが!複数の目撃証言がありまして!」


「ふん。恐怖心が眼球にノイズを走らせたに過ぎん。…よい、私が直々に確認しよう」


 オズワルドは踵を返した。


 その背中には「私の城で勝手な真似は許さん」という、静かなる激怒が滲んでいた。



◆◇◆◇◆



 深夜二時。


 図書室は、完全な静寂に沈んでいた。


 月光が窓から差し込み、無数の背表紙を青白く照らし出している。


 オズワルドは書架の影に身を潜め、懐中時計を確認した。


「…異常なし。やはり、愚か者どもの妄想か」


 彼が溜息をつき、撤収しようとした、その時だ。


 パサッ…。


 微かな音が、閲覧室の中央から響いた。


 オズワルドの動きが止まる。


 空調の風ではない。明らかに、紙が重なり合う音。


 パサッ、パサッ、パララララ…。


 音は次第に大きくなる。


 オズワルドは音もなく床を滑るように移動し、書架の陰から閲覧室を覗き込んだ。


「…!」


 常に冷静な元参謀の目が、驚愕に見開かれる。


 宙に浮いていた。


 一冊の、分厚い革表紙の本が。


 それは誰も座っていない椅子の頭上で、ひとりでにページをめくり続けている。


「…ほう。ポルターガイスト現象か。あるいは残留思念の類か」


 オズワルドは恐怖するどころか、知的好奇心を刺激されたように口元を歪めた。


 彼はスタスタと閲覧室へ歩み出る。


「そこな不法侵入者よ。我が管理下での無許可閲覧は重罪であるぞ」


 朗々とした声が響く。


 本がビクリと震え、空中で静止した。


 ゆっくりと、その本がオズワルドの方を向く。


 次の瞬間。


 ボウッ…。


 ページの間から淡い燐光が溢れ出した。


 光の粒子が集束し、本の真上に小さな人影を形成する。


 透き通るような肌、古風なドレス、そして悲しげな瞳をした、手のひらサイズの少女だった。


「…見えて、いますか?」


 鈴を鳴らすような、儚い声。


 オズワルドは眉一つ動かさず、腕を組んで頷いた。


「ああ、見えているとも。貴殿は何者だ。その本に憑依する霊体か?」


「…私は、精霊。この本に宿る『知識の記憶』です」


 少女――知識の精霊は、愛おしそうに自身が宿る本を撫でた。


「この本は、数千年前に書かれたとある学者の手記。…でも、もう誰も手にとってくれません。埃を被り、紙は痛み、文字は薄れていくばかり…」


 精霊の体が、チカチカと点滅する。


 その光は今にも消え入りそうに弱々しい。


「本は、読まれなければただの紙の束です。誰の記憶にも残らず、誰の役にも立たないまま…私は、消えようとしています」


 それは、存在の消失を悟った者の、静かな諦観だった。


 彼女はオズワルドに深々と頭を下げる。


「驚かせてしまって、申し訳ありません。…最後に一度だけ、風にページをめくらせて、往時の記憶に浸りたかったのです。すぐに消えますので…」


「…ならん」


 オズワルドの低い声が、精霊の言葉を遮った。


「え…?」


「知識が失われることなど、断じて許さん。それが如何なる些細な手記であろうと、先人が積み上げた叡智の結晶である」


 オズワルドは眼鏡を光らせ、一歩踏み出した。


「読まれないのなら、読ませればいい。忘れ去られるのなら、新たな記憶として刻み込めばいい。…それが、図書室管理者ライブラリアンたる私の矜持である」


「で、でも…こんな難しい本、誰も…」


「ふん。私に任せておきたまえ。…地獄の底からでも読者を引きずり出してやろう」


 元参謀の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。



◆◇◆◇◆



 翌日の夜。


 バベル・ガーデン大図書室は、異様な熱気に包まれていた。


「おい、なんだってまた夜に集合なんだ?」


「オズワルド部長の『強制招集』だぞ。サボったら査定に響くってよ」


「『特別朗読会』だとか…絵本でも読んでくれんのか?」


 集められたのは、警備班のオークや、資材搬入係のオーガ、元騎士の人間たち。


 およそ読書とは縁遠い荒くれ者たちが、閲覧室の床に体育座りで並べられている。


 その最前列。


 特等席のソファには、不機嫌そうな熊耳の少女――大家、真音の姿があった。


「ねえ、オズワルド。私の安眠時間を削ってまで呼び出したんだから、面白くなかったら分かってるわよね?」


 真音はスライム・ドロップを口に放り込み、ジト目で壇上を睨む。


 その隣では、メルキオラスが「まあまあ」と苦笑している。


「ご安心を、大家様。今宵は、皆様を『知の深淵』へとご案内いたします」


 壇上のオズワルドが一礼する。


 彼の手には、あの古ぼけた本が握られていた。


 そして、その肩には、誰にも見えない(真音とメルキオラスと一部の魔族には見えているが)小さな精霊がちょこんと座っている。


「では、始めよう」


 オズワルドが本を開く。


 静寂。


 彼が息を吸い込み、第一声を発した瞬間、その場の空気が変わった。


「――それは、嵐の夜のことであった」


 朗々たるバリトンボイス。


 抑揚、間、声色。すべてが計算し尽くされた、完璧な語りだった。


 彼が読み上げているのは、ただの学術書ではない。


 かつて一人の学者が、未知の病から村を救うために奔走した、苦悩と発見の記録。


 オズワルドの巧みな話術によって、無味乾燥な記録が、極上の冒険譚へと昇華されていく。


「…彼は諦めなかった!薬草を求め、断崖絶壁を登り、毒蛇の潜む沼地を越え…!」


 オズワルドがページをめくる。


 その指先は、ピアニストのように繊細で、本への敬意に満ちていた。


「すげぇ…」


「頑張れ…!その薬草を見つけてくれ…!」


 最初は退屈そうにしていた兵士たちが、次第に前のめりになっていく。


 オークが拳を握りしめ、騎士が固唾をのむ。


 物語の力。知識の奔流が、彼らの心を鷲掴みにしていた。


 そして、真音もまた。


 ドロップを食べる手が止まり、熊耳をピンと立てて聞き入っていた。


「…こうして、村には再び子供たちの笑い声が戻ったのである。――完」


 オズワルドが静かに本を閉じる。


 一瞬の静寂の後。


 ドッ…ワァァァァァァァッ!!


 割れんばかりの拍手が巻き起こった。


 口笛を吹く者、涙を拭う者。


 それは、忘れ去られていた「一冊の本」が、再び命を吹き込まれた瞬間だった。


「…ふん。悪くないわね」


 真音がニヤリと笑い、パチパチと小さな拍手を送る。


 オズワルドは恭しく一礼し、そして肩の上の「彼女」に視線を向けた。


 精霊は、泣いていた。


 しかしそれは悲しみの涙ではない。


 彼女の体は、かつてないほど強く、美しく光り輝いている。


『…ありがとうございます』


 精霊の声が、オズワルドの脳裏に直接響く。


『私の声は、届きました。私の記憶は、彼らの中で生き続けます』


 彼女はふわりと浮かび上がり、オズワルドの頬にそっと触れた。


 冷たくて、温かい感触。


『貴方のような方に巡り会えて、私は幸せでした。…さようなら、優しき管理者様』


「…ああ」


 オズワルドは短く答えた。


 引き止めることはしない。


 役目を終えた物語が、読者の心に溶けていくように、彼女もまた還るべき場所へ還るのだ。


 精霊は微笑み、無数の光の粒子となって弾けた。


 キラキラと舞い散る光の粉が、図書室の天井へと吸い込まれていく。


「お?なんだ今の光?」


「すげぇ演出だな!さすが部長!」


 兵士たちが歓声を上げる中、オズワルドは静かに眼鏡の位置を直した。


「…演出ではない。奇跡だ」


 ボソリと呟き、彼は手元の本を愛おしげに撫でた。


 その古びた革表紙は、以前よりも少しだけ、艶を取り戻したように見えた。



◆◇◆◇◆



 後日。


 図書室の貸出ランキングに、異変が起きた。


「おい部長!あの『薬草学入門』、まだ返ってこないのかよ!」


「俺が先だぞ!予約入れといたんだからな!」


 かつて誰も見向きもしなかった古い学術書に、予約待ちの行列ができていた。


 カウンターの中で、オズワルドは満足げに頷く。


「順番を守りたまえ。知識は逃げない。…焦らずとも、このオズワルドが管理している限りな」


 彼は万年筆を走らせ、貸出カードに新たな名前を刻み込む。


 その横顔は、いつもの冷徹な参謀のものではなく、本を愛する一人の「図書委員」のそれであった。

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