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第三十四話「大家の菜園と、奇跡の豊作」

 バベル・ガーデン六四〇層。


 ここは、かつてはただの岩場だったが、現在は整然としたうねが並ぶ、広大な農業エリアへと変貌を遂げていた。


 牧場統括責任者としてここを管理するアレクセイは、麦わら帽子を目深に被り、鍬を振るっていた。


「よいしょ、っと…。ふぅ」


 土を耕す感触。


 汗が頬を伝う感覚。


 かつて剣を振るっていた頃には感じなかった、大地と繋がるような充実感がそこにはあった。


「牧場長!あちらのトマト、色づき始めました!」


「おお、早いな!鳥に食われないようネットを張ってくれ!」


 部下の魔族たちに指示を飛ばし、再び作業に戻ろうとした、その時。


「ねえ」


 背後から、鈴を転がすような声がかかった。


「うわっ!?」


 アレクセイは飛び上がり、危うく自らの足を鍬で耕すところだった。


 振り返ると、そこにいたのはエプロンドレスの裾をひらひらさせた大家――真音だった。


 頭の上の熊耳が、好奇心に満ちた様子でピコピコと動いている。


「お、大家様!?ご視察でしょうか!?」


「ううん。散歩してたら、なんか楽しそうなことしてるなーと思って」


 真音は屈み込み、耕されたばかりの黒土を指先でつついた。


「土いじりって、面白い?」


「は、はい!作物が育っていく過程を見るのは、何物にも代えがたい喜びがあります。種を撒き、水をやり、手間暇かけて育てた命をいただく…これぞ生命の循環かと!」


 アレクセイが熱弁を振るうと、真音は「ふーん」と小首を傾げた。


「なんか、グミ作りと似てるかも」


「えっ、グミと…ですか?」


「素材からこだわって、手をかけて、美味しいものを作る。一緒でしょ?」


 言われてみればそうかもしれない。


 真音の瞳が、キラキラと輝き出した。


「決めた。私もやってみる!」


「へ?」


「私も野菜育ててみたい!専用の畑、作ってよ!」


 アレクセイは硬直した。


 この最強の大家が、鍬を持って畑仕事?


 想像がつかない。


 いや、もし失敗させて機嫌を損ねたら、この農場ごと消し炭にされるのでは?


「あ、あの…土で汚れますし、虫もいますよ?」


「汚れたら洗えばいいし、虫はデコピンで飛ばすから平気。…ダメ?」


 真音がジト目で睨む。


 頭上の耳がペタリと伏せられた。これは「不満」のサインだ。


「め、滅相もございません!直ちにご用意いたします!さあさあ、こちらへ!」


 アレクセイは冷や汗を拭いながら、日当たり良好な一等地の区画へと案内した。



◆◇◆◇◆



「まずは土作りからですね。この腐葉土を混ぜて…」


「こう?」


 ザクッ、ザクッ。


 真音はアレクセイから借りた小さなスコップで、楽しそうに土を混ぜ始めた。


 その手つきは危なっかしいが、表情は真剣そのものだ。


「そうです!上手ですよ、大家様!」


「えへへ。なんか泥遊びみたいで楽しい」


 鼻の頭にちょっと泥をつけた真音が、無邪気に笑う。


 その笑顔を見て、アレクセイはドキンと胸を高鳴らせた。


 普段の「家賃払え」という冷徹な大家の顔ではない。


 ただの、年相応の可愛らしい少女の顔だ。


(…不敬ながら、可愛いと思ってしまった)


「次は種まきですね。今回は成長が早いラディッシュにしましょうか」


「うん、それにする!」


 真音は種を受け取ると、指先で一つ一つ、丁寧に土に埋めていった。


「大きくなぁれ。美味しくなぁれ」


 彼女が呟きながら、ジョウロで水を撒く。


 その瞬間。


 ボゥン…。


 水が地面に染み込んだ場所から、淡いエメラルド色の光が立ち上った。


「え?」


「なっ!?」


 アレクセイが目を見開く。


 光は一瞬で消えたが、周囲の空気が明らかに変わった。


 濃密な魔力が、土壌に充満している。


「あ、あれ?なんか光った?」


「い、いえ…気のせいでしょう。恐らく」


 アレクセイは平静を装ったが、背中には冷や汗が流れていた。


 今の魔力量、上級魔法一発分はあったぞ?


 ただのジョウロの水が、大家の手を通しただけで「聖水」に変質したのか?


「ま、いいか!これであとは待つだけね!」


「は、はい。通常なら三日ほどで芽が出ます」


「三日かぁ。楽しみ!」


 真音は満足げに手をパンパンと払い、鼻歌交じりに去っていった。


 残されたアレクセイは、微かに発光する畝を見つめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「…何事も起きなければいいが」



◆◇◆◇◆



 翌朝。


 アレクセイが日課の見回りに来ると、信じがたい光景が広がっていた。


「な…なんじゃこりゃあああ!?」


 真音の区画だけ、緑の爆発が起きていた。


 昨日植えたはずのラディッシュの種が、一晩で発芽し、双葉どころか本葉まで展開して、フサフサと茂っているのだ。


「は、早すぎる…!魔法薬でも使ったのか!?いや、あれは純粋な大家様の魔力の影響…!」


 アレクセイが呆然としていると、空間転移の光と共に真音が現れた。


「おはよー。様子見に来たんだけど…わあっ!?」


 真音は目を丸くし、そしてパァァッと顔を輝かせた。


「すごい!もう生えてる!アレクセイ、これもう食べられる?」


「い、いえ、まだ根が太っていないかと…」


 アレクセイが言いかけた時、真音はすでに一株を引き抜いていた。


 スポンッ!


 現れたのは、瑞々しく輝く真っ赤な玉。


 しかも、通常のラディッシュの三倍はある大きさだ。


「…でかっ」


「…でかいですね」


 二人は顔を見合わせた。


 通常の生育サイクルを完全に無視している。


 これが世界樹の大家のスペックなのか。


「三日で芽が出るって言ったのに、嘘つき」


「も、申し訳ありません!私の常識が通用しなかったようです!」


「でも、これならすぐ食べられるね!よし、収穫収穫ー!」


 真音は大はしゃぎで次々とラディッシュを引き抜いていく。


 そのたびに、土から溢れ出る魔力の光がキラキラと舞う。


 アレクセイは、その幻想的で、そしてあまりにも非常識な光景に、ただただ感動していた。


(大家様が…こんなに楽しそうに…)


 泥だらけの手で、大きな野菜を抱えて笑う少女。


 そこには、世界を滅ぼしかねない暴力性も、冷徹な支配者の顔もない。


 ただ、命の恵みを喜ぶ、純粋な心があるだけだ。


「アレクセイ!これ、ヴォルグのとこに持っていくわよ!料理してもらうの!」


「は、はい!お供します!」



◆◇◆◇◆



 従業員食堂の厨房。


 持ち込まれた「真音印のラディッシュ」を見て、料理長ヴォルグは眼鏡をずり落とした。


「な、なんだこれは…!鑑定魔法で見ても、測定不能エラーが出るぞ!?」


「私が育てたの!美味しいやつ作って!」


 真音が得意げに胸を張る。


 ヴォルグは震える手でラディッシュを受け取った。


「こ、このハリ…ツヤ…そして内包する魔力量…。まさに神話級の食材だ…!」


「いいから早く!お腹空いた!」


「はっ!ただちに!」


 ヴォルグの目つきが変わった。料理人の本能が、この未知の食材に挑めと叫んでいるのだ。


 彼はナイフを振るい、ラディッシュを薄くスライスしていく。


 シャクッ、シャクッという小気味よい音が響く。


「素材の味を最大限に活かすには…やはり生か。カルパッチョ仕立てでいく!」


 ヴォルグは手際よく皿に盛り付け、特製のヴィネグレットソースを回しかけ、最後に岩塩をパラリと振った。


「お待たせいたしました!『大家様の奇跡のラディッシュ・カルパッチョ』でございます!」


 真音はフォークを突き立て、スライスを口に運んだ。


 カリッ。


「…ん!」


 真音の熊耳がピンと立った。


「美味しい!シャキシャキしてて、噛むとジュワって甘い水が出てくる!」


「甘味の中に、ほのかな辛味がアクセントになっていますね。これは…」


 一緒に試食したラズリも目を見開く。


 そして次の瞬間、彼の体から、ボッと湯気のような魔力が溢れ出した。


「うぬ!?魔力が…回復しただと?」


「えっ?」


「たった一口で…これは素晴らしい。エリクサー並みの回復効果がある野菜だ」


 ラズリの分析に、ヴォルグとアレクセイが絶句する。


 ただのサラダが、最高級ポーションを超える効果を持つ?


「なら、みんなにも食べさせてあげて!」


「え?よろしいのですか?」


「うん!豊作だったし、みんな元気になった方が仕事も捗るでしょ?」


 真音の気まぐれな(しかし合理的な)提案により、その日のランチには特別メニューとしてラディッシュが振る舞われることになった。



◆◇◆◇◆



 食堂は大騒ぎになっていた。


「おい、なんだこの野菜!食った瞬間、筋肉痛が治ったぞ!?」


「俺なんか、古傷の痛みが消えた!体が軽い!」


「えええ!?失ってた小指が生えてきた!?」


「うめぇ!甘ぇ!おかわりくれぇ!」


 兵士たちが次々と皿を空にし、活力をみなぎらせていく。


 その様子を、厨房の小窓から真音が覗き見ていた。


「ふふっ。みんな喜んでる」


「はい。大家様のおかげで、士気も爆上がりです」


 隣に立つアレクセイが、目頭を熱くして言った。


 真音は窓枠に肘をつき、満足げに笑った。


「畑って、楽しいね!自分で育てて、みんなが美味しいって言ってくれるの、なんかいい気分」


「…!」


 その言葉に、アレクセイは涙腺が決壊した。


 かつては「家賃」と「グミ」のことしか頭になかった大家が、生産の喜びを知り、他者への奉仕(福利厚生)に喜びを感じている。


 これは、バベル・ガーデンの歴史に残る大事件だ。


「大家様…!いつでもお待ちしています!次はトマトでも、カボチャでも、何でも育てましょう!」


「うん!次はねー、スイカがいいかな!冷やして食べたい!」


「はいっ!最高に甘いスイカを作りましょう!」


 涙ながらに力説するアレクセイと、次の収穫に思いを馳せて耳を揺らす真音。


 バベル・ガーデンに、新たな「名産品」が生まれる予感と共に、穏やかな午後の日差しが二人を照らしていた。


 ただし、翌日植えたスイカが、一週間後には人の頭ほどの大きさになり、自ら転がって収穫から逃げ回る「デッドリー・スイカ」へと進化し、アレクセイたちが必死の捕獲作戦を展開することになるのは――まだ、誰も知らない未来の話である。

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