第三十三話「新入り兵士と、種族を超えた絆」
カラン、カラン、カラン…!
乾いた金属音が、高高度の暴風にかき消されながら落下していく。
バベル・ガーデン第七四八層、第三居住区画修復現場。
足場の上で、緑色の肌をした巨躯が、情けなく縮こまっていた。
「あ、あわわ…!も、申し訳ありません!手が、手が滑ってしまって…!」
新入りのオーク兵士、ゴーグだ。
彼は丸太のような腕をわなわなと震わせ、直角に近い角度で頭を下げていた。
その必死な姿は、かつて魔王軍の前衛として人間を恐怖させた種族とは思えないほど、小市民的だった。
「…おい」
地を這うような低い声が、ゴーグの背後から投げかけられる。
ゴーグの背筋が、氷を入れられたように跳ねた。
恐る恐る振り返ると、そこには凶悪な目つきをした男が仁王立ちしていた。
頬に古傷のある、茶髪の元人間軍兵士――マルコだ。
「てめェ…これで何度目だ?工具を落としたのは」
「ひぃッ!さん、三回目です!いえ、四回目かも…!すいません、本当にすいません!」
「チッ。これだから魔族の新入りは…」
マルコは盛大に舌打ちをし、足元のスパナを爪先で蹴り上げた。
器用に空中で回転したそれをパシッと掴み取り、ゴーグの胸板に押し付ける。
「図体ばっかデカくて、手元は赤ん坊かよ。いいか、下の階層に誰かいたら死人が出るんだぞ。…ここじゃ『死ぬより辛い残業』が待ってるってこと、忘れてんじゃねェだろうな」
「は、はい!肝に銘じます!次は絶対に…!」
ゴーグはスパナを抱きしめ、涙目で敬礼した。
マルコはそんな彼を冷ややかな目で見下ろす。
「勘違いすんなよ。俺はてめェら魔族となんか馴れ合うつもりはねェ。上(ルミナ部長)からの命令で、仕方なく教育係やってるだけだ」
マルコはプイと顔を背け、自分の持ち場へと戻っていく。
その背中には、「近寄るな」というオーラが黒い炎のように立ち昇っていた。
(うぅ…怖い。でも、頑張らなきゃ)
ゴーグは自身の頬を両手でパンッ!と叩いた。
彼にとって、ここは最後の希望なのだ。
魔王軍が事実上の解体となり、路頭に迷っていたところを、この塔に拾われた(正確には借金契約させられた)。
衣食住があり、毎日温かいご飯が食べられる。
そんな夢のような環境を、自分の不器用さで失うわけにはいかない。
「よし…やるぞ、ゴーグ!君ならできる!」
彼は自分に言い聞かせ、再び巨大な石材へと向き直った。
◆◇◆◇◆
午後。
現場の空気は、張り詰めた糸のようにピリピリとしていた。
「おいデカブツ!そっちの固定金具、角度がズレてんだよ!」
「は、はい!直します!」
「馬鹿野郎、力任せに締めるな!ねじ切る気か!人間の道具はてめェらの棍棒とは違うんだよ!」
「す、すいません…!」
マルコの怒号が飛ぶたびに、ゴーグが縮み上がる。
だが、その叱責は的確だった。
マルコは元工兵部隊の出身だ。
石材の重心の見極め、効率的な魔力セメントの配合、足場の組み方。
その全てが無駄なく洗練されている。
(すごい…。これが、人間の技術…)
ゴーグは叱られながらも、その手際に見とれていた。
オーク族は力には自信があるが、繊細な作業は苦手だ。
マルコは、ゴーグが持ち上げた数百キロの石材を、指先ひとつの合図でミリ単位で調整させていく。
「…おい、何ボサッとしてやがる」
「あ、いえ!マルコさんの指示が凄くて…勉強になります!」
「…フン。お世辞はいいんだよ。さっさと次を運べ」
マルコはバツが悪そうに鼻を鳴らし、視線を逸らした。
その時。
ヒュンッ!
上空から、何かが飛来した。
風を切り裂く音と共に、現場の足場に着地したのは――。
「んー。進んでる?」
熊耳の少女――大家、真音だった。
今日はいつものエプロンドレスの上に、安全第一と書かれたヘルメットをちょこんと乗せている。
そのアンバランスさが愛らしいが、彼女が放つプレッシャーは現場監督の比ではない。
「お、大家様!?」
「ご苦労様ですッ!」
マルコを含め、周囲の作業員たちが一斉に直立不動になる。
真音は興味なさげに現場を見渡し、ゴーグの前で足を止めた。
「…新入り?」
「は、はい!本日配属されました、ゴーグであります!」
ゴーグは緊張のあまり、裏返った声で叫んだ。
真音はジト目で彼を見上げる。頭の上の熊耳が、ピクリと動く。
「ふーん。図体はいいわね」
彼女は懐からスライム・ドロップを一粒取り出し、口に放り込んだ。
「ここ、来週までには終わらせてね。あと、振動出しすぎないで。お昼寝の邪魔だから」
「りょ、了解しましたァッ!!」
「あと、アンタ」
真音の視線がマルコに向く。
「この新人、怪我させないようにね。治療費(ポーション代)もバカにならないんだから」
「…ッ、分かっております」
マルコが短く答えると、真音は「ならよし」と呟き、ふわりと浮遊して上層へと去っていった。
嵐が過ぎ去ったような静寂。
ゴーグはその場にへたり込んだ。
「し、心臓が止まるかと…」
「…立て。休憩時間はまだだ」
マルコが冷たく言い放つ。
だが、その手には先ほどまでなかったはずの、水筒が握られていた。
「ほらよ」
「え?」
「脱水で倒れられたら迷惑だ。飲め」
ドンッ、と胸に押し付けられる水筒。
ゴーグが呆気に取られている間に、マルコはさっさと作業に戻ってしまった。
(…優しい、のかな?)
ゴーグは水筒を握りしめ、少しだけ口元を緩めた。
◆◇◆◇◆
事件が起きたのは、夕刻だった。
一日の疲れがピークに達し、集中力が途切れかける時間帯。
第三区画の外壁、地上数千メートルの高所での作業中だった。
ゴウッ!!
突如、世界樹特有の突風――「樹風」が吹き荒れた。
通常の風ではない。乱気流を含んだ暴力的な風圧だ。
「うわっ!?」
運悪く、足場の端で留め具を調整していたゴーグの体が煽られた。
足元の鉄板が、経年劣化で脆くなっていた留め金ごと外れる。
ガキンッ!
足場が崩落した。
ゴーグの巨体が、重力に従って宙に投げ出される。
「あっ――」
視界が回転する。
眼下には、遥か遠くの雲海。
落ちる。
死ぬ。
ゴーグが死を覚悟して目を閉じた、その瞬間。
ガシィッ!!
強烈な衝撃が、彼の手首を襲った。
落下が止まる。
ゴーグが恐る恐る目を開けると、そこには鬼の形相で彼の手首を掴む、マルコの姿があった。
「ぬ、ぐぅ…ッ!掴まってろ、馬鹿野郎!!」
マルコ自身も、崩れかけた足場の鉄骨に片足だけで絡みつき、半身を空中に乗り出している状態だった。
オークの体重は、装備を含めれば二〇〇キロ近い。
人間の筋力で支えられる重さではない。
「マ、マルコさん!?離してください!このままじゃ、あなたまで落ちます!」
「うるせェ!黙ってろ!」
「でも…!」
ミシミシと、マルコの腕の骨が悲鳴を上げる音が聞こえるようだ。
ゴーグの目から涙が溢れる。
自分のような不器用な魔族のために、なぜ人間が命を懸けるのか。
「俺なんか、放っておいてください!元敵軍じゃないですか!」
「だから黙れって言ってんだろうがァッ!!」
マルコが吼えた。
首の血管が浮き上がり、顔が真っ赤に充血している。
「てめェをここで死なせたらなァ…!」
マルコは歯を食いしばり、渾身の力で腕を引き寄せた。
火事場の馬鹿力。
筋肉繊維が断裂する音さえ無視して、彼は叫ぶ。
「俺の教育が無駄になるだろうがァァァッ!!」
オォォォォォッ!!
気合一閃。
マルコはゴーグの巨体を、強引に足場の上へと引きずり上げた。
ドサッ。
二人は重なるようにして、安全な通路へと転がり込んだ。
「はぁ…はぁ…ッ!」
「ぜぇ…ぜぇ…!」
荒い呼吸だけが響く。
心臓が破裂しそうだ。
しばらくの沈黙の後、ゴーグが震える声で尋ねた。
「…なんで。なんで、助けてくれたんですか…」
「…」
マルコは仰向けのまま、乱暴に前髪をかき上げた。
そして、顔を背けてボソリと呟く。
「…目の前で仲間を見捨てるなんざ、元勇者軍の名折れだ」
仲間。
その言葉が、風の音よりも大きくゴーグの胸に響いた。
ゴーグの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「うぅ…うわぁぁぁん!マルコさぁぁぁん!ありがとうございまぁぁぁす!」
「うおっ!?抱きつくな!暑苦しい!鼻水を擦り付けるな!」
泣きじゃくりながら抱きついてくるオークの巨体を、マルコは必死に(しかし満更でもなさそうに)引き剥がそうとしていた。
◆◇◆◇◆
その日の夜。
従業員食堂は、いつもの喧騒に包まれていた。
「おーい、こっち空いてるぞ!」
「今日のメインは『厚切りドラゴンスモークハムのグリル』だってよ!」
そんな中、一つのテーブルが周囲の目を引いていた。
人間と魔族が混在して座ることは最近では珍しくないが、その二人の雰囲気は明らかに違っていたからだ。
「ほら、食え。もっと野菜も摂らねェと体が持たねェぞ」
「はいっ!いただきます!」
山盛りのサラダをゴーグの皿に取り分けるマルコ。
それを嬉しそうに頬張るゴーグ。
「マルコさん、明日のB区画の補修計画ですが、僕にアイデアがあるんです」
「あん?言ってみろ」
「あの配管の取り回しを、魔族の『粘着粘液』で補強すれば、強度が倍になるんじゃないかと」
「…ほう。悪くねェな。人間のモルタルと組み合わせれば、乾燥時間も短縮できるか」
二人は食事の手を動かしながら、熱心に明日の仕事の話をしていた。
そこに、種族の壁も、ベテランと新人の壁もない。
あるのは、同じ現場で汗を流す「職人」としての信頼関係だけだった。
「…ふん。悪くない光景だな」
厨房の奥から、料理長ヴォルグがその様子を見て、ニヤリと笑った。
彼が焼き上げた極厚のハムからは、今日も極上の香りが立ち上り、種族を超えた絆を胃袋から支えている。
バベル・ガーデン。
そこは、世界で最も過酷な労働環境でありながら、世界で最も温かい食卓がある場所。
ゴーグは、今日、本当の意味でこの塔の一員となったのである。




