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第三十二話「聖女の秘密と、消えない傷跡」

 暗い。


 寒い。


 そこは、色を失った石造りの回廊だった。


『…また失敗したのか、役立たず』


 頭上から降ってくるのは、氷のような神父の声。


 視界の端には、昨日まで隣のベッドで寝ていた少女の姿はない。


 彼女は今朝の「選別」で連れて行かれた。


 どこへ?と聞くことは許されない。


 聞けば、私も「あっち側」へ廃棄されるから。


『ルミナ。お前には期待している』


『聖女の力が発現したそうだな。素晴らしい』


『だが忘れるな。価値のない者は、神の庭には要らぬ』


 完璧であれ。


 清廉であれ。


 有用であれ。


 そうでなければ――捨てられる。


 暗闇の向こうで、巨大な口を開けた「焼却炉」がごうごうと音を立てていた。


 あの子も、その前の子も、あそこで燃やされたの?


 嫌。


 熱いのは嫌。


 待って。


 私は使えるわ。


 捨てないで。


 掃除も洗濯も、治癒魔法だってこんなに練習したの。


 だから、お願い。


 私を、ゴミのように捨てないで――ッ!!


 ガバッ!


 ルミナは、喉の奥から引き絞るような呼吸と共に跳ね起きた。


 視界がぐらぐらと揺れる。


 背中を冷たい汗が伝い、心臓が早鐘を打って肋骨をきしませていた。


「はぁ…はぁ…ッ!」


 自分の部屋だ。


 バベル・ガーデン七五〇層、総務部長執務室兼、個室。


 孤児院の冷たい石床でも、教会の規律に縛られた独房でもない。


 賢者様が用意してくれた、最高級の羽毛布団の上だ。


「…夢、か」


 ルミナは震える手で額をぬぐった。


 指先が氷のように冷え切っている。


 最近、仕事が順調すぎるせいかもしれない。


 完璧な管理、向上する生産性、部下たちの信頼。


 積み上げれば積み上げるほど、足元の梯子を外される恐怖が、悪夢となって顔を出したのだ。


(落ち着きなさい、ルミナ。今の貴女は総務部長。誰にも捨てられたりしない)


 自分に言い聞かせ、乱れた呼吸を整えようと深く息を吸い込んだ、その時。


「…うるさい」


 暗闇の中から、不機嫌そうな声がした。


「ひいぃっ!?」


 ルミナは素っ頓狂な悲鳴を上げ、反射的に枕元の照明魔道具を叩いた。


 パッ、と柔らかな光が部屋を照らす。


 そこにいたのは――ベッドの端にちょこんと腰掛けた、熊耳の少女だった。


「…お、大家様!?」


 真音だった。


 いつものエプロンドレスではなく、モコモコした熊柄のパジャマを着ている。


 眠いのか、その黒曜石の瞳はとろんとしており、頭の上の丸い獣耳が、ピクリと不満げに動いた。


「な、なぜここに…!?セキュリティは!?結界は!?」


「私の家の部屋に入るのに、なんで鍵が必要なのよ」


 真音はあくびを噛み殺しながら、気だるげに言った。


 理屈は通っている。


 いや、通っていないが、この大家(絶対権力者)の前では、賢者メルキオラスが構築したセキュリティも紙切れ同然だ。


「そ、それで、何か御用でしょうか!?緊急事態ですか!?世界樹がまた暴れたとか、魔王ガルシスがボイラーを爆発させたとか!」


 ルミナは慌ててベッドから降り、直立不動の姿勢を取ろうとした。


 だが、パジャマ姿で髪も乱れ、冷や汗まみれの姿では、いつもの威厳など欠片もない。


「違うわよ」


 真音はジト目でルミナを見上げた。


「ルミナが、うるさかったの」


「えっ…私、寝言を…?」


「ううん。なんかこう、胸の奥がザワザワして…『怖い』とか『助けて』みたいな嫌な言葉が飛んできて、私の安眠を妨害したのよ」


 真音は自分の胸元をトントンと叩いた。


 契約によるパスのせいだろうか。


 それとも、ここ数ヶ月で培われた奇妙な縁(絆)のせいか。


「す、申し訳ございません!管理不足です!直ちに精神統一を行い、ノイズを遮断いたしますので…!」


「はぁ…」


 真音は深いため息をつくと、虚空に手を突っ込んだ。


 空間収納アイテムボックスから取り出したのは、湯気を立てる二つのマグカップだ。


「ほら」


「は、はい?」


「いいから飲みなさいよ。くまちゃんに作らせたホットミルク。…ハチミツたっぷりよ」


 有無を言わせぬ圧力で、マグカップを押し付けられる。


 ルミナは戸惑いながらも、それを両手で包み込んだ。


 温かい。


 陶器を通じて伝わる熱が、冷え切った指先をじんわりと解かしていく。


 一口、口をつける。


 濃厚なミルクのコクと、脳が溶けそうなほどのハチミツの甘さが広がった。


「…甘い」


「疲れてる時は甘いものに限るわ。常識でしょ」


 真音も自分のカップに口をつけ、満足げにほうっと息を吐いた。


 静寂が部屋を支配する。


 だが、それは先程までの孤独で冷たい静寂とは違い、甘い香りのする穏やかな時間だった。


 真音は何も聞かなかった。


 ただ、隣でミルクを飲み、時折つま先をブラブラさせているだけ。


 その無防備な横顔を見ていると、ルミナの中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる音がした。


「…夢を、見ていました」


 ぽつりと、ルミナが呟く。


「ふーん」


「昔の夢です。私がまだ、教会の聖女になる前…孤児院にいた頃の」


 一度口を開くと、言葉は堰を切ったように溢れ出した。


 誰にも話したことのない、話してはいけないと思っていた過去。


 最強の管理者として振る舞うために、心の奥底に封印していた傷跡。


「そこは、効率が全ての場所でした。魔力のない子、賢くない子、器量のない子…『使えない子』は、次々と間引かれていきました」


「…」


「私は必死でした。掃除も、勉強も、祈りも、誰よりも完璧にこなしました。そうしなければ、明日は自分の番かもしれないという恐怖が、常に背中に張り付いていたからです」


 ルミナはカップを強く握りしめた。


「聖女に選ばれてからも、それは変わりませんでした。奇跡を起こせなければ価値がない。民を癒やせなければ存在意義がない。…一度でも失敗すれば、全てを失って、あの冷たい路地裏に戻される」


 ルミナの声が震え始める。


「だから、私は完璧でなければならないんです。総務部長として、誰よりも有能で、誰よりも成果を出さなければ…いつか、大家様にも捨てられてしまう」


 言ってしまった。


 最強の管理者の仮面の下にある、怯えた少女の本音。


 こんな弱音を吐けば、呆れられるだろうか。


 『面倒くさい』と言って、切り捨てられるだろうか。


 ルミナは俯き、審判を待つ囚人のように体を強張らせた。


 カチャ。


 マグカップがサイドテーブルに置かれる音がした。


「…バカみたい」


 真音の声は、呆れ果てていた。


(ああ、やっぱり…)


 ルミナの視界が涙で滲む。


 そうだ。


 この人は、強者だ。


 弱者のトラウマなど、理解できるはずも――。


「誰がルミナを捨てるもんですか。もったいない」


「…え?」


 ルミナが顔を上げる。


 真音は不満そうに頬を膨らませていた。


「ルミナ、自分がどれだけ働いてると思ってんのよ。あのごちゃごちゃした在庫の管理、あと、あのうるさい連中のシフト組みにメンタルケア…あれ、誰がやってんの?」


「は、はい。それは…私が」


「でしょでしょ?ルミナがいなくなったら、誰があれやるのよ。くまちゃんは研究で忙しいし、ラズリはやるわけないし…まさか、私にやれって言うんじゃないでしょうね?」


 真音は心底嫌そうに顔をしかめた。


 彼女にとって「面倒なこと」は「死」に等しい。


 だが、その言葉は同時に、「貴女の代わりはいない」という何よりの証明でもあった。


「そんな有能な総務部長を、ちょっと泣き言言ったくらいでドブに捨てるわけないでしょ。私が楽できなくなるじゃない」


 極めて自己中心的で、我儘な理屈。


 けれど、真音はルミナを「道具」として見ているのではない。


 自分の生活を支える、なくてはならない「一部」として認識している。


「それにね」


 真音はベッドの上で体勢を変え、ルミナの方を向いた。


 その黒曜石のような瞳が、ルミナを真っ直ぐに射抜く。


「失敗したら捨てられる?何それ。私のここのルールを勝手に決めないでくれる?」


「ル、ルール…?」


「ここのルールは一つだけ。『家賃(借金)分は働け』。それだけよ」


 真音はニカっと笑った。


 それは、太陽のように明るく、そして絶対的な強者の笑みだった。


「失敗したなら、その分働いて取り返せばいいのよ。皿を割ったら、皿代の分だけ残業すればいい。計算間違えたら、徹夜して直せばいい。…『失敗したら終わり』なんて、そんなつまんないこと、私は言わないわよ」


 ルミナは呆気にとられた。


 失敗しても、終わりじゃない。


 ただ、ペナルティとして働いて、また続ければいい。


 それは、終わりのない搾取のようにも聞こえるが――ルミナにとっては、これ以上ない「許し」だった。


「ここにいていいんですか…?もし私が、とんでもないミスをして、ご迷惑をおかけしても…」


「んー、その時はデコピン一発くらいはするかもね」


 真音はケラケラと笑い、そしてふと真面目な顔になった。


 彼女の手が伸びてくる。


 ビクリと身構えるルミナの頭に、その小さな掌がポンと置かれた。


「でも、追い出したりはしないわよ」


 くしゃくしゃ、と乱雑に髪を撫でられる。


 子供扱いだ。


 部下への労いというより、ペットを愛でるような手つき。


 だが、その掌の温度は、ホットミルクよりも温かかった。


「ルミナは私の部下で、私の借金奴隷で、私の『家族』みたいなもんなんだから」


「――――ッ」


 ルミナの喉奥から、嗚咽が漏れた。


 家族。


 孤児院でも、教会でも、決して得られなかった言葉。


 役に立つか立たないかではない。ただ、そこにいていいという承認。


「…う、ぐぅ…ッ!」


 一度決壊した涙腺は、もう止まらなかった。


 ルミナは両手で顔を覆い、子供のように泣きじゃくった。


 完璧な総務部長の仮面が砕け散り、ただの泣き虫な少女に戻る。


 真音は何も言わなかった。


 ただ、ルミナの気が済むまで、その背中をぎこちなく、トントンと叩き続けていた。


「よしよし。…あーあ、鼻水でパジャマ汚したら、洗ってもらうからね」


「ううぅ…はいぃぃ…わかりましたー…!」


 そのいつもの脅し文句さえも、今のルミナには優しく響いた。



◆◇◆◇◆



 翌朝。


 バベル・ガーデン総務室は、いつもの喧騒に包まれていた。


「A班、資材搬入遅れてます!ルート再計算!」


「ヴォルグ料理長から、ランチメニューの承認要請です!」


「牧場より報告!スライムが増えすぎて柵を越えました!」


 怒号と報告が飛び交う戦場の中央。


 ルミナは書類の山に囲まれながら、羽ペンを走らせていた。


「資材搬入は西ゲートを開放して!料理長のメニューは『野菜増量』なら承認!牧場は…アレクセイに『体で止めろ』と伝えなさい!」


 的確で迅速な指示。


 その姿は、いつもの冷徹な「鉄の女」そのものだ。


 だが、書類を受け取りに来た部下の一人が、不思議そうに首を傾げた。


「あの、部長?」


「何かしら」


「いえ、その…なんか今日、雰囲気が柔らかいというか…お化粧変えました?」


 部下の言葉に、ルミナはペンの手を止めた。


 そして、窓の外を見上げる。


 遥か上空、世界樹の梢の向こうに、あの我儘で、自分勝手で、けれど誰よりも頼もしい大家がいるはずだ。


 ルミナは、ふわりと微笑んだ。


 それは営業スマイルではない、心からの自然な笑みだった。


「いいえ。ただ…『いい夢』を見ただけよ」


「は、はぁ…?」


 部下が呆気に取られる中、ルミナはパンと手を叩いた。


「さあ、無駄口叩いてないで仕事に戻る!今日のノルマは昨日の一・二倍よ!私たちが働かないで、誰がこの塔を支えるの!」


「「「イエスマム!!」」」


 総務室に、悲鳴混じりの気合が入った返事が響き渡る。


 消えない傷跡は、まだそこにあるかもしれない。


 けれど、その上には今、温かな包帯が巻かれていた。


 最強の社畜聖女は、今日もバベル・ガーデンを完璧に回していく。


 大好きな「家族」の居場所を守るために。

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