第三十一話「配管工の日常と、迷宮の守護者」
バベル・ガーデンの心臓部たるボイラー室の、さらに下層に位置する、通称「配管迷宮」。
ここが、ドワーフ族のドルフの職場だ。
「班長、三番区画のバルブ、締め直しました」
「…そうか。ご苦労」
ドルフは短い髭を撫で、部下の報告に頷くだけで返す。
余計な言葉は発しない。
仕事は結果が全てだ。
彼の視線は、壁一面を這い回る複雑怪奇なパイプ群に向けられている。
直径数メートルの巨大な主管から、腕ほどの細管までが無秩序に絡み合い、まるで金属の内臓だ。
ドルフは愛用のモンキーレンチを腰のベルトに差し直すと、ヘルメットのライトを点滅させた。
「次は未開拓エリアのB-7ルートを回る。お前たちはここで待機だ」
「えっ、あそこは地図にも載ってないんじゃ…」
「配管が通っているなら、そこは俺の管轄だ」
部下の制止を振り切り、ドルフは迷宮の奥へと進む。
金属製の足場が軋む音だけが、静寂を破る。時折、頭上のパイプから熱湯が滴り落ち、ジュッと音を立てて蒸発する。
ドワーフとしての本能が、微細な違和感を捉えた。
——音が、違う。
普段の、蒸気が流れる規則的な振動音ではない。
もっと澄んだ、流れるような音。
ドルフは足を止め、耳を澄ませた。
聴覚を研ぎ澄ます。
熱気の中で反響する、幾重もの音の層を分離していく。
ボイラーの唸り、歯車の回転音、遠くで響く魔物の咆哮。
それらのノイズの隙間に、確かにそれは存在した。
チョロチョロ…いや、もっと力強い。清冽な水流の音だ。
このエリアの配管は、理論上は全て高温蒸気用のはず。
生の「水」が流れているなど、あり得ない。
「…水漏れか?いや、違うな」
ドルフは眉間の皺を深くし、音源へと慎重に歩を進める。
行き止まりに見えた壁面に、埃にまみれた小さなハッチを見つけた。
把手には、見たこともない古い封印術式が施されている。
だが、経年劣化で魔力は霧散しかけていた。
ドルフは躊躇なくレンチを叩きつけ、錆びついた把手を強引に回した。
ギィィィン!と、悲鳴のような金属音が響き、ハッチが開く。
その瞬間だった。
ドォォォォン!
爆発的な勢いで、ハッチの奥から奔流が噴き出した。
熱湯ではない。
肌を刺すような冷気を含んだ、膨大な量の水だ。
ドルフは咄嗟に身を翻し、近くの太いパイプにしがみつく。
水圧で足場が揺らぎ、ヘルメットが飛ばされそうになる。
「なんだ、この水量は…!」
視界を覆う水飛沫の向こうで、噴出した水が空中で渦を巻き始めた。
水塊は青白く発光し、やがて人の形を成していく。
透き通るような水色の髪、流体で構成されたドレス。
その中心で、冷徹な蒼い瞳がドルフを見下ろしていた。
水の精霊。それも、かなり上位の個体だ。
『…何者ですか。私の眠りを妨げる愚か者は』
精霊の声は、氷のように冷たく、そして美しかった。
彼女の周囲で水が鋭利な刃のように変形し、ドルフに向けられる。明確な敵意。
並の人間なら腰を抜かすだろう。
だが、ドルフはゆっくりと立ち上がり、落ちたヘルメットを拾って被り直した。
「…ドルフだ。このバベル・ガーデンの配管保守班リーダーだ」
『ハイカン、ホシュ…?知りません。ここは私の聖域です。立ち去りなさい』
水刃が唸りを上げ、ドルフの頬をかすめた。
一筋の血が流れるが、ドルフは眉一つ動かさない。
彼は静かに腰のレンチを構えた。
戦うためではない。これが彼の「仕事道具」だからだ。
「断る。ここには塔のインフラに関わる重要な配管が通っている可能性がある。点検もせず引き下がるわけにはいかん」
『…死にたいのですか?』
「死にたくはないな。だが、配管工としての矜持がある。不具合を見過ごすのは、死ぬより気分が悪い」
ドルフの眼光は、精霊のそれに劣らず鋭かった。
職人の頑固な視線に、精霊の方が僅かにたじろいだように見えた。
彼女は水刃を解かないまま、訝しげに首を傾げる。
『矜持…。あなたは、この場所を守っているというのですか?』
「そうだ。この塔の血流を管理するのが俺の仕事だ。お前が何者だろうと、配管に悪さをするなら排除対象だ」
精霊はドルフをじっと見つめた後、ふと視線を周囲の配管へと逸らした。
その表情が、僅かに曇る。
『…水が、泣いています』
「あ?」
『この辺りの配管…を流れる水脈が、苦しんでいます。濁り、淀み、本来の輝きを失っている。あなた、本当に管理しているのですか?』
痛いところを突かれた。ドルフは舌打ちし、精霊が視線を向けた頭上の太いパイプを見上げた。
外見上は問題ない。だが、精霊の言葉が真実なら、内部で何かが起きている。
「…どけ。確認する」
ドルフは精霊の横を通り過ぎ、パイプの接続部によじ登った。
精霊は攻撃してこなかった。
彼は聴診棒をパイプに当て、内部の音を聞く。
ゴポォ…ゴポォ…。
微かだが、確かに異音がある。
堆積物が流れを阻害している音だ。
「チッ…ここか」
ドルフはレンチを振るい、点検口のボルトを緩める。
蓋を開けた瞬間、赤茶色の汚水がドロリと溢れ出した。
「酷い錆だな。こいつがフィルターを詰まらせてたのか」
『…やはり。これでは水が可哀想です』
精霊がドルフの隣に浮かび上がり、悲しげに汚水を見つめた。
「すぐ直す。だが、この規模だと水を止めずに作業するのは骨が折れるな…」
ドルフが工具袋から研磨剤を取り出そうとした時、精霊が前に出た。
『私が、流れを制御します』
「何?」
『この程度の水流操作、造作もありません。あなたが修理する箇所だけ、水を迂回させます』
精霊が両手を広げると、パイプから溢れていた汚水が生き物のように舞い上がり、空中で透明な球体となった。
さらに彼女が指先を動かすと、パイプ内部の水流が、まるで目に見えない壁に遮られたかのように、錆びた箇所を避けて流れ始めた。
「…ほう。大したもんだ」
ドルフは短く感嘆し、すぐさま作業に取り掛かった。
研磨機で錆を削り落とし、防錆剤を塗布する。
その手際の良さは、まさに職人芸だった。
精霊は無言で水流を維持し続け、ドルフの作業を完璧にサポートする。
奇妙な共同作業だった。
無骨なドワーフと、神秘的な水の精霊。
言葉は交わさない。
だが、互いの領域を侵さず、一つの目的に向かって完璧に連携していた。
一時間後。
ドルフが最後のボルトを締め直し、点検口を閉じた。
「よし。…流していいぞ」
精霊が小さく頷き、水流操作を解除する。
パイプの中を、再び水が勢いよく流れ始めた。
先ほどまでの淀んだ音とは違う。サラサラと、心地よい水音が響き渡る。
『…綺麗になりました。水が喜んでいます』
精霊の表情が和らいだ。
それは、初めて見せる微かな微笑みだった。
「ああ。これで上層へ行く湯の質も、少しはマシになるだろう」
『お湯?』
「ああ。この塔の売りだ。俺のボスが、湯の質にはうるさくてな」
ドルフは額の汗を拭い、改めて精霊に向き直った。
「礼を言う。お前のおかげで助かった。…名は?」
『…アクア。それが私の識別名です』
「アクアか。俺はドルフだ。…なあ、お前、行く当てはあるのか?」
アクアは首を振った。
『私はこの場所に封印されていました。使命は、ここの水を守ること。それ以外に、行く場所などありません』
「そうか。…なら、俺のボスに会ってみるか?」
『ボス?』
「ああ。水にうるさい、面倒な男だがな」
◆◇◆◇◆
「――ほう!水の精霊だと!」
ボイラー室の最奥。
灼熱の玉座(いつのまにか作られてた)に座る魔王ガルシスは、ドルフの連れてきたアクアを見て、目を輝かせた。
彼の背後では、かつて聖王国の聖騎士団長が召喚し、今や熱源として酷使されているイフリートが、青白い炎となって炉の中で泣き叫んでいる。
「ドルフよ、貴様は天才か!イフリートの次はウンディーネ(水の精霊)だと!これで我が煉獄サウナは完璧な『熱と水の楽園』となる!」
「はあ。…それで、こいつの処遇ですが」
ドルフの言葉を遮り、ガルシスはアクアの前に立った。
「貴様、名は!」
『アクアと申します。この塔の水を守護することが、私の使命です』
アクアは一寸の乱れもない角度で丁寧にお辞儀をした。
「素晴らしい!その使命感、我が社に相応しい!即採用だ!配管保守班、水質管理担当特別顧問に任命する!」
『…は?サイヨウ?』
「福利厚生は完備だ!衣食住、そしてサウナは入り放題だ!」
『サウナ…?よく分かりませんが、ここの水を守れるのであれば、お受けします』
アクアが再び丁寧にお辞儀をすると、ガルシスは高笑いした。
「フハハハ!これでルミナの奴も文句は言えまい!ドルフ!すぐにあいつの制服を用意しろ!」
◆◇◆◇◆
数日後。
三五〇層の休憩所。
ドルフは缶コーヒーを呷り、向かいに座るアクアを見た。
彼女はブカブカの作業用つなぎを着て、真剣な表情で水質検査キットの数値を睨んでいる。
「…どうだ、調子は」
「はい。第三区画の水質は、昨日に比べて硬度が0.2ポイント改善しました。ですが、第五区画の流速がまだ安定しません。再調整が必要です」
アクアは顔を上げ、淡々と報告する。その真面目すぎる態度に、ドルフは苦笑した。
「お前、少しは休め。精霊でも疲れるだろう」
「いえ、これが私の使命ですので。…それに」
アクアは少し言い淀み、視線を逸らした。
「…ドルフさんと一緒の仕事は、その、効率的で楽しいですすので」
ドルフは少し目を見開き、そして帽子を目深に被り直して、顔を隠した。
「…そうか。まあ、悪くないな。お前がいてよかった」
「え?」
「独り言だ。…行くぞ、次の現場だ」
ドルフは立ち上がり、スタスタと歩き出す。
その背中を見つめ、アクアは小さく、だが嬉しそうに微笑んだ。
「はい。了解しました」
地下迷宮の配管工と、水の精霊。
奇妙なコンビの誕生によって、バベル・ガーデンの温泉は、その質をさらに極上へと昇華させることになるのだが――それはまた、別の話である。




