第二十七話「商人の再訪と、新たな刺激」
世界樹の麓に広がる、広大な未踏の緑地帯。
樹齢数百年を超える巨木が立ち並び、太古の生態系を今に残すこの大森林を、一陣の風が疾走していた。
「ふぅ…ッ!ふぅ…ッ!」
荒い、しかし乱れることのないリズミカルな呼吸音。
苔むした根を飛び越え、泥濘を的確に蹴って進むのは、小柄な赤髪の行商人――リッカだ。
彼女の背中には、自身の体躯の倍はあろうかという、超巨大なリュックサックが背負われている。
そのリュックの重量は、優に数百キロを超えているだろう。
だが、リッカの足取りは驚くほど軽い。
荷車など使わない。
道なき道を行くこの森では、己の二本の足こそが、最も確実で速い運搬手段だと知っているからだ。
「みんな喜んでくれるかなぁ」
茂みの奥から、縄張りを荒らされた魔獣たちの殺気が突き刺さる。
だが、リッカは止まらない。
むしろ速度を上げ、魔物を置き去りにしていく。
やがて、鬱蒼とした木々の隙間から、天を穿つ巨大な世界樹の姿が見えてきた。
「着いた…!」
リッカは額の汗を拭い、最後の力を振り絞って、開口部――入口へと飛び込んだ。
◆◇◆◇◆
バベル・ガーデン第一層、西側エリア。
壁に囲まれているとはいえ、そこは世界樹の根が侵食する、静謐な半屋外の空間だ。
「こんにちはー!行商人のリッカです!約束のお品をお持ちしましたー!」
リッカは入口に立ち、塔の内部に向かってよく通る声を張り上げた。
自分の声が、高い天井に吸い込まれていく。
しばしの静寂。
やがて、二つの人影が現れた。
「お待ちしておりましたよ、リッカさん」
現れたのは、いつもの実務的なスーツに身を包んだ知的美女、ルミナだ。
彼女は手元のバインダー(業務日誌)を閉じ、労うように微笑んだ。
「ようこそ、『バベル・ガーデン』へ」
「バベル・ガーデン…?へぇ、ここって、そういう名前だったんですか」
リッカは改めて、天井をきょろきょろと見まわした。
世界樹の幹に、石造りの建築物が寄生するように、あるいは共生するように融合している。
何度見ても、常識では理解できない構造だ。
「改めて見ると、やっぱり凄い建物ですね。木と石が一体化してるなんて。…どっかの古代遺跡か何かですか?」
彼女にとってここは「伝説の魔境」などではない。
森の奥にある、ちょっと変わった立地の「お得意様のお宅」だ。
「ええ、まあ。古い建物であることは間違いありませんね」
ルミナは曖昧に微笑んだ。
リッカの視線が、ルミナの背後に控える巨漢に向けられる。
全身を黒塗りのフルプレートアーマーで覆った、身長二メートルを超える大男だ。
微動だにしないその姿からは、呼吸音はおろか、生き物の気配が全く感じられない。
「あの…ルミナさん。その後ろの方は?」
「ああ、彼は気にしないでください。私の護衛のガルドです」
ルミナが紹介すると、ガルドと呼ばれた騎士は、無言のままガシャンと重厚な金属音を立てて一礼した。
「こ、こんにちは…」
リッカは引きつった笑みを浮かべた。
(ひえぇ…中身の気配がない?兜の奥、空洞じゃない?…まあ、変なことしなきゃ無害そうね)
彼女は意識を切り替え、背中のリュックをドスンと下ろした。
地面が揺れるほどの重量音。
「ご注文の品と他にもいろいろです!確認をお願いします!」
◆◇◆◇◆
直後、白いコックコートを着たオーク――ヴォルグが現れた。
「待っていたぞ、商人!」
ヴォルグは鼻息荒く、リッカが取り出した包みを開封した。
現れたのは、鈍い銀色の輝きを放つ調理器具たち。
ボウル、ザル、卸し金、そしてレードル。
ヴォルグは無言でボウルを手に取った。
その沈黙が、リッカの心臓を締め付ける。
(ど、どうだろ…?親父さんは自信満々だったけど、相手は、たぶん凄腕の料理人…)
ヴォルグはボウルの縁を指で弾いた。
キィィィン…
澄み渡る鐘のような音が、静寂に長く、美しく響き渡る。
「…ほう」
ヴォルグが目を細めた。
彼はレードルを握り、空を切るように振るってみせる。
ヒュンッ!
風を切る音。重心のブレが一切ない。
「…素晴らしい」
重々しい吐息と共に、賛辞が漏れた。
「手に吸い付くような重心。それに、この素材…最高級の鋼に、ミスリルをごく微量混ぜているな?熱伝導と耐久性を極限まで高める配合だ」
「あはは、バレました?鍛冶屋の親父さんに無理言って、特別に打ってもらったんです。『本物のプロが使うんだから、半端なものは出せない』ってね!」
リッカが安堵と共に胸を張る。
ヴォルグの厳めしい顔が、職人の笑みへと崩れた。
「いい仕事だ。人間の職人も侮れんな。…礼を言うぞ、リッカ。これで私の料理は、もう一段階進化できる」
大賛辞に、リッカは心の中でガッツポーズをした。
「できればでいいのだが、その鍛冶師に、こちらもお願いしてもらえるだろうか」
ヴォルグがリッカに渡したのは五枚の設計図だ。
かなり細かく指定が入っているのがわかる。
「承りました!本人に見てもらわないとわかりませんが、ご期待に沿えるよう頑張ります!」
「助かる。頼んだぞ」
ヴォルグは、その大きな体でボウルなどを一抱えにして満面の笑みを浮かべた。
第一関門、クリアだ。
「それじゃあ次は、お嬢様の分ですね!」
リッカが声を弾ませた瞬間。
ドォン!
空気の震える音と共に、その場にいつものエプロンドレスを着た少女――真音と、彼女の肩に乗った黒いクマのぬいぐるみ――メルキオラスが転移してきた。
「あ!ドライフルーツの人!」
真音はリッカの姿を見つけるなり、パァッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
その目は、大好きなおやつを待っていた子供のようにキラキラしている。
「ねえねえ、今日は何があるの?美味しいもの、いっぱい持ってきた?」
真音はワクワクした様子で、リッカのリュックを覗き込む。
「もちろんです!こちら、約束の『宝石果実』です!」
リッカは、リュックからずっしりと重い木箱を次々と取り出し、積み上げていった。
「全部で二十七箱。私の店にある在庫、すべて持ってきました」
「おぉ…!すごい!」
真音から歓声が漏れる。
彼女は一番上の箱を開け、中身を確認した。
ぎっしりと詰まった色とりどりの果実。
甘酸っぱい香りがふわりと漂う。
「これよ、これ…」
真音は嬉しそうにイチゴを一つ摘み、口に放り込んだ。
ムギュッとした食感と、凝縮された酸味。
「んんっ…美味しい!やっぱり最高ね!」
彼女の頭の熊耳が、嬉しそうにパタパタと揺れる。
「喜んでいただけて何よりです。ただ、在庫はこれで全部なので、次の入荷は新しいものが出来てからになります」
「えー、そっか。じゃあ大事に食べなきゃね」
真音は少し残念そうにしつつも、次々と果実を口に運んでいる。
その横で、肩に乗ったメルキオラスが、興味深そうにリッカを見下ろした。
「やあ、初めまして。僕はメルキオラス。ここの管理人みたいなものだよ」
「あ、どうも!初めまして、リッカです!」
喋るぬいぐるみに一瞬ギョッとしたものの、リッカはすぐに営業スマイルで対応する。
ここには喋るオークも動く鎧もいるのだ、ぬいぐるみが喋るくらいどうということはない…はず。
そんな会話をしている間に、真音の手が止まった。
口の中が甘酸っぱさで満たされ、少し味変を欲しがっているタイミングだ。
リッカは見逃さなかった。
「お嬢様。よろしければ、こちらも試してみませんか?」
リッカはリュックのポケットから、二つの新しいアイテムを取り出した。
黒に近い茶色の板状の物体と、ガラス瓶に入った透明な液体だ。
「これは?」
真音が興味津々で首を傾げる。
「まずはこれ、板チョコレート。カカオという豆から作ったお菓子で…」
説明が終わる前に、真音はひょいとチョコを手に取り、端を齧った。
カリッ。
「…ん?」
真音の眉がピクリと動く。
最初はカカオ特有のほろ苦さが広がる。
だが、口の中で溶けるにつれて、濃厚でまったりとした甘味と香りが鼻腔を抜けていく。
「苦い…けど、甘い。グミとは違う、重厚な甘さね。…うん、これ好きかも!」
真音の熊耳がピコピコと動く。
「でしょでしょ!そして、口の中が甘くなったら、こちらをどうぞ!」
リッカはガラス瓶の栓を抜き、持参したコップに注いだ。
シュワシュワシュワ…と、液体から無数の泡が立ち上り、弾ける音が耳をくすぐる。
「炭酸水です。湧き水にガスを溶かし込んだもので…」
真音は恐る恐るコップを受け取り、そのパチパチと弾ける水面を見つめた。
そして、意を決して一口含む。
――バチバチバチッ!!
「んぐっ!?」
真音の目がカッと見開かれた。
口の中で何かが暴れている。
無数の小人が剣で舌を刺しているような、痛いほどの刺激。
喉を駆け下りる衝撃が、脳髄を揺らす。
「い、痛い!なにこれ!?」
「ああっ、お気に召しませんでしたか!?」
リッカが慌てる。
だが、真音はコップを離さなかった。
痛みが引いた後に残る、突き抜けるような爽快感。
口の中に残る余韻が、次の一口を強烈に求めてくる。
「…痛い。でも、シュワシュワして…面白い!」
真音はニカッと笑った。
その瞳は、新しい玩具を見つけた子供のように輝いている。
「…ヴォルグ、これ冷やして!お風呂上がりに飲む!」
「はっ!承知いたしました!」
「あ、何本あるの?」
「炭酸水は四十本お持ちしました!チョコレートは二十枚です!」
「おお!…そういえば名前聞いてない!」
「あ、そっか!そうですね!失礼しました!商人のリッカと言います!」
「リッカね!私は真音!次も楽しみにしてるね!ありがとう!」
真音は大喜びでドライフルーツの箱とチョコ、炭酸水を抱え、転移していった。
第二関門、クリア。
リッカはほっと息をつき、最後に小さな包みをルミナに差し出した。
「これは、ルミナさんに」
「え?私に?注文はしていませんが…」
「サービスです。…いつも忙しそうだから」
ルミナが包みを開ける。
中に入っていたのは、小瓶に入った「最高級アロマオイル」と、艶やかな「シルクの枕カバー」だった。
「これ…」
「窓口の人が倒れたら、私が困りますからね!ちゃんと寝てくださいよ?」
リッカは悪戯っぽくウインクした。
ルミナは驚きに目を見開き、それから少しだけ頬を染めて、柔らかく微笑んだ。
それは、管理職の顔ではなく、年相応の女性の顔だった。
「…商売上手ですね、貴女は。…ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
「君、すごいね」
ルミナへのお礼が済んだタイミングを見計らって、それまで静観していたメルキオラスが声をかけた。




