第二十六話「果実の錬金術と、先見の明」
聖王国軍が敗走し、王都が阿鼻叫喚の渦にあった頃。
バベル・ガーデンでは、これからの未来を左右する、少しばかり平和な「会議」が行われていた。
総務室の奥にある応接スペース。
ふかふかのソファにちょこんと座った、ふかふかのメルキオラスの対面に、ルミナが書類を抱えて立っていた。
「――以上が、先日の行商人リッカとの接触報告です」
ルミナは淡々と報告を終えた。
「ふむふむ。例の騎士団を目撃して、気味が悪いからルートを変えたら、偶然ここに辿り着いた、か」
メルキオラスは可笑しそうに、短い手足で顎を撫でる仕草をした。
「あはは、それは災難だったねぇ。でも、あの何もない第一層に入ってきて、いきなり挨拶してくるなんて、随分と肝が据わったお嬢さんだね」
「はい。本人曰く、『建物っぽかったから、誰かいるかと思って声をかけた』とのことです。ここが何であるかといった認識は皆無のようでした」
ルミナは眼鏡の位置を直した。
「スパイや敵対勢力の可能性は低いと判断します。ただの、運良く(あるいは運悪く)迷い込んだ行商人でしょう。…ですが」
ルミナの瞳に、計算高い光が宿る。
「彼女が持ち込んだ『ドライフルーツ』は本物でした。現在、バベル・ガーデンは衣食住の自給自足こそ達成していますが、嗜好品や果実、一部の道具類などは慢性的に不足しています」
「うんうん。真音ちゃんも気に入ってるみたいだしね」
「はい。そこで提案なのですが、彼女との縁を維持し、不足物資の『調達係』として利用してはいかがでしょうか?彼女は十日後にまた来ると言っています」
「いいよ、賛成だ。真音ちゃんが喜ぶなら、僕としても文句はないよ」
メルキオラスは軽く手を振って許可を出した。
「ただし、まだ信用しきるのは早いからね。当面の間は塔内への立ち入りはさせず、取引は今まで通り『第一層の入口付近』で行うこと。いいね?」
「承知いたしました」
ルミナは一礼し、そして少しだけ言い淀んでから、もう一つの提案を口にした。
「それに関連して…賢者様。私に『専属の護衛』をつけていただけないでしょうか?」
「おや、護衛かい?」
「はい。彼女は無害そうですが、今後、彼女を通して別の人間が接触してこないとも限りません。私が対外窓口となりますが、丸腰では心許ありませんので」
それは彼女自身の保身というより、業務を円滑に進めるためのリスク管理だった。
「確かにそうだね。君にもしものことがあったら、僕が全部の書類仕事をしなきゃいけなくなる。それは困るなあ」
メルキオラスは心底嫌そうに首を振った。
「わかった。護衛をつけよう。…人選は、そうだね。ガルシスくんに頼んでみよう」
「…なるほど」
「彼は魔王だ。部下たちの能力も性格も熟知しているはずだよ。腕が立って、かつ君の邪魔をしない『気の利くヤツ』を選んでくれるはずさ」
「わかりました。後ほど相談してみます」
ルミナは深く頭を下げた。
◆◇◆◇◆
スライム牧場に隣接された、食品加工室。
そこは今、甘酸っぱい香りと、職人たちの熱気で充満していた。
「よし…戻ってきたぞ。今だ、引き上げろ!」
ヴォルグの声が響く。
彼の目の前には、リッカが置いていった「ドライ・ストロベリー」が、世界樹の湧水を満たしたボウルに浸されていた。
ヴォルグは微弱な熱魔法で水分子を活性化させ、短時間で完璧に果実を「戻して」いたのだ。
ザバァッ!
引き上げられたイチゴは、ドライフルーツだったとは思えないほどふっくらとし、ルビーのような輝きを取り戻している。
水分が抜け、再び極上の水を吸ったことで、生の状態よりも遥かに濃厚な香りを放っていた。
「ここからが勝負だ。…繊維を一切感じさせず、かつ果肉感を残す」
ヴォルグは二本のオリハルコンナイフを構えた。
タタタタタタタッ!!
目にも止まらぬ高速微塵切り。
イチゴは瞬く間に、滑らかなペースト状へと姿を変えていく。
「よし、アレクセイ!ペーストの準備はできた!そっちはどうだ!」
「いつでもいける!クイーン様、お願いします!」
隣の台では、牧場長アレクセイが、巨大なクリスタル・スライムの核をマッサージしていた。
「イメージしてください、クイーン様!初恋のような甘酸っぱさ!刺激と甘さの両立!」
意味不明な指示だが、クイーンには通じているらしい。
彼女の体がピンク色に染まり、そこからポタリ、ポタリと、最高純度の粘液が滴り落ちる。
「今です!融合!!」
ヴォルグのイチゴペーストと、アレクセイの採取した粘液が混ざり合う。
部屋中に広がる、脳髄を痺れさせるような甘い香り。
そして――。
「…できた」
◆◇◆◇◆
加工室の試食テーブル。
そこに座っていた真音の目の前に、うやうやしく皿が置かれた。
皿の上には、一口サイズの赤い宝石が転がっている。
『フルーツ・スライム・ドロップ(イチゴ味)』。
「どうぞ、大家殿。我らの魂の結晶です」
ヴォルグとアレクセイが、固唾を呑んで見守る。
真音は無言で、その一粒を指先でつまみ上げた。
ぷにゅん。
指先に吸い付くような弾力。
表面は薄氷のように繊細だが、中には爆発寸前のエネルギーが詰まっているのがわかる。
「…いただきます」
真音はそれを口に放り込んだ。
――プチュッ
皮が弾ける音。
その瞬間、真音の口内に、イチゴ畑が広がった。
いや、ただのイチゴではない。
凝縮された果実の旨味と、スライム粘液による不思議な清涼感。
そして何より、暴力的なまでの「甘酸っぱさ」が、唾液腺を激しく刺激する。
「んんっ…!!」
真音の肩が震えた。
酸っぱい。
でも、噛めば噛むほど甘味が染み出してくる。
いつものプレーン味にはない、鮮烈な「刺激」。
ピーン!
真音の頭頂部にある茶色くて丸い熊耳が、垂直に立ち上がった。
そして、パタパタパタッ!と、まるで翼のように高速で羽ばたき始めた。
真音は頬を押さえ、とろけそうな顔になった。
「これ、すっごく美味しい!酸っぱいのに甘くて…最高!」
「よ、喜んでいただけましたか…!?」
「うん!ヴォルグ、アレクセイ、凄いよこれ!」
真音は身を乗り出して、キラキラした目で二人を見た。
さっきまでの気だるげな様子はどこへやら、美味しいおやつを前にした普通の少女の顔だ。
「これがない生活なんてもう考えられないかも。ねえねえ、二人も食べてみてよ!」
真音は皿を二人に差し出した。
「えっ?わ、我々ごときが、大家様のおやつを…?」
「いいから!自信作なんでしょ?一緒に食べようよ!」
ヴォルグとアレクセイは顔を見合わせ、恐る恐る一粒ずつ口に入れた。
そして――。
「「う、美味い…ッ!!」」
二人の目から涙が溢れた。
それは自分たちの仕事への感動であり、何より、あの真音がこんなに無邪気に喜んでくれたことへの感涙だった。
「でしょでしょ?あー、幸せ…」
真音はもう一粒口に放り込み、熊耳をゆらゆらと揺らした。
今日この日、バベル・ガーデンの食卓は、甘酸っぱい幸福感に包まれたのだった。
◆◇◆◇◆
一方その頃。
バベル・ガーデンから離れた、聖王国国境付近の商業都市『クロスロード』。
活気あふれる市場を、小柄な赤髪の女性が疾走していた。
リッカである。
彼女の懐には、ルミナから受け取った革袋が入っている。
普通の商人なら、これを元手に店を構えるか、貯蓄に回すだろう。
だが、彼女は違った。
カンッ、カンッ、カンッ!
路地裏にある、頑固一徹で知られるドワーフの鍛冶屋。
リッカはカウンターに図面を叩きつけた。
「親父さん!この図面のボウルとザル、あと卸し金とレードルを作って!」
「あん?またお前か。…なんだこの奇妙な道具は」
ドワーフの親父が眉をひそめる。
「金は弾むわ。…素材は、店で一番いい鋼を使って」
「はぁ?たかが調理器具に最高級鋼だと?正気か?ミスリルでも混ぜろって言うのか?」
「ええ、できるならそうして!相手は『本物のプロ』なのよ。半端な道具じゃ満足させられないわ」
リッカは革袋から硬貨を鷲掴みにして並べた。
親父の目の色が変わり、「…面白ぇ」と槌を手に取る。
注文を終えたリッカは、休むことなく次の店へ向かった。
高級雑貨店で、最高級の「アロマオイル」と、肌触りの良い「シルクの寝具」を購入する。
(ルミナさん、よっぽど忙しいんだろうなぁ。目の下の隈が…ね。これで少しでも癒やされてくれれば、交渉もスムーズになるはず!)
さらに、輸入食材店へ飛び込み、まだこの大陸では珍しい「カカオ豆」と、シュワシュワする「天然炭酸水」を買い占める。
(あのお嬢様…は、新しい刺激に飢えていた。ドライフルーツもいいけど、チョコや炭酸の刺激も絶対気に入るはず!)
買い物を終えたリッカの荷車は、山のような荷物で埋め尽くされていた。
代わりに、懐の革袋はぺしゃんこになっていた。
「…ふふっ」
リッカは軽くなった革袋を握りしめ、不敵に笑った。
「これで文無しだけど、安いもんね」
彼女には見えていた。
あの塔に眠る、無限の可能性と商機が。
たまたま迷い込んで手に入れた幸運だが、これを逃す手はない。
わずかな小金を貯め込むより、彼らの信頼を勝ち取り、あそことのパイプを太くすることのほうが、遥かに価値がある。
「待っててね、お得意様たち。…次はもっと驚かせてあげるから!」
リッカは足取りも軽く、重く巨大なリュックを背負って、あの不思議な場所へ向かい始めた。




