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第二十一話「迫りくる脅威と、のんきな日常」

 バベル・ガーデン第七五〇層付近。


 『第3居住区画』の修復現場は、今日も活気に満ちていた。


 世界樹の外壁に組まれた足場の上で、一人のミノタウロスが腰を下ろした。


 彼は作業帽を脱ぎ、額の汗を乱暴に拭う。


「ふぅ…。いい天気だなぁ」


 眼下に広がるのは、見渡す限りの雲海。


 太陽の光が雲に反射し、黄金色に輝いている。


 ここ数日の激務で腰を痛めていた彼にとって、この景色と、ヴォルグ料理長が差し入れてくれた『スタミナ茶』だけが癒やしだった。


「ん?なんだありゃ?」


 彼は茶を啜りながら、雲の切れ間から遥か下界を覗き込んだ。


 普段なら緑豊かな大森林が広がっているだけの場所に、何やらキラキラと光るものが密集している。


 彼は目を凝らした。


 魔族特有の視力が、数千メートル下の光景を見つめる。


「…人?いや、数多くないか?鎧着てるぞ?…軍勢?」


 銀色に輝く鎧の集団。


 隊列を組み、旗を掲げ、蟻の行列のように森を切り裂いて進軍してくる。


 その数、目算で二千以上。


「へー、物好きな連中もいるもんだ」


 ミノタウロスはあくびを噛み殺した。


 慌てる様子はない。


 バベル・ガーデンにおいて、「外敵」などというものは、日々のノルマやルミナ部長の雷に比べれば、そよ風のようなものだからだ。


「…そこで何をしているのですか?」


 背後から、氷のように冷ややかな声がかけられた。


 ミノタウロスが飛び上がるように振り返ると、そこには現場視察に来ていた総務部長、ルミナが立っていた。


 手には分厚い工程表と、チェック用のペンが握られている。


「げっ、部長!サボりじゃねえっす!腰のストレッチを…」


「言い訳は結構。遅れている西側外壁の補強へ戻りなさい。…それとも、追加の『特別メニュー(残業)』をご希望ですか?」


 ルミナが眼鏡をクイッと押し上げる。


 ミノタウロスは青ざめて首を振ったが、ふと下界のことを思い出した。


「あ、そうだ部長。なんか下にお客さん来てますよー。数千人くらい」


「…お客さん?下、というと地上ですか?」


 ルミナは怪訝な顔で、ミノタウロスが指差す方向――雲の切れ間から見える地上を覗き込んだ。


 しかし、人間の視力では、緑の森の中に豆粒のような光の点滅が見える程度だ。


「私の目では確認できませんね。…詳細に報告しなさい」


「えーっとですね…鎧を着た人間がいっぱいっす。二千人くらいかな。なんか派手な旗を持ってますよ」


「旗?紋章の特徴は?」


「えっと、太陽みたいなマークと、剣がクロスしてるやつっす」


 その言葉に、ルミナの眉がピクリと動いた。


 太陽と剣。


 それは、大陸の覇権国家『聖王国』の国章だ。


「…聖王国ですか。厄介なところが来ましたね」


 ルミナの声は事務的だった。


 驚きよりも、面倒な仕事が増えたという徒労感が勝っている。


 彼女は深い深いため息をついた。


「状況から考えればここに来るのでしょうね。つまり、ただの『武装した不法侵入者』です」


 ルミナは懐から『スマホ』を取り出した。


「…ルミナです。賢者様、今よろしいでしょうか」


『やあ、どうしたんだい?』


 メルキオラスののんきな声が返ってくる。


「地上に招かれざる客が来ています。聖王国軍、約二千名」


『おやまあ』


「大家様には報告不要です。この程度の害虫駆除で、あの方の二度寝を妨げるわけにはいきません」


 ルミナは淡々と告げた。


「正面玄関(一階)は開放しておいてください。せっかく来ていただいたのです。まずは『迷宮エリア』で、たっぷりとウォーキングを楽しんでもらいましょう」


『了解。…各部門への通達はどうする?』


「私から牧場長と温泉部長に伝えます。もし持ち場に来たら、各自、持ち場で迎撃をするようにと」


『わかった』


 ルミナはスマホを握りしめ、現場のミノタウロスに向き直った。


「貴方たちは復興作業に専念しなさい。…余所見をしていた分、今日のノルマは一割増しですよ」


「ひえぇぇっ!鬼っ!」


 悲鳴を上げて作業に戻るミノタウロスを尻目に、ルミナは冷徹な管理者の顔で、次の指示を出し始めた。



◆◇◆◇◆



 一方、地上。


 世界樹の圧倒的な威容を見上げる聖王国の陣営は、厳粛な空気に包まれていた。


 総司令官、聖騎士団長ガウェイン。


 歴戦の猛者である彼は、白銀の甲冑を纏い、全軍に向けて剣を掲げた。


「聞け、勇敢なる聖騎士団諸君!目の前にそびえるは、神話の時代より伝わる聖なる巨木『世界樹』である!」


 兵士たちがどよめく。


 雲を突き抜けるその姿は、あまりに神々しく、圧倒的な存在感を放っていた。


「だが、見よ!その神聖な幹に、忌まわしき『人工の寄生種』がへばりついているのを!」


 ガウェインが剣先を向けた先――世界樹の表皮を覆うように、無数の回廊と石造りの構造物が複雑怪奇に絡みついていた。


「観測班の報告によれば、あの『遺跡』は長らく無人であり、今は魔物の巣窟となっている!我らの使命は、世界樹を蝕むこの『異教の廃墟』を浄化し、そこに眠る古代の叡智を王国の礎とすることにある!」


 ガウェインの声が響き渡る。


「我ら聖騎士団に敗北の二文字はない!全軍、突入せよ!最上層まで一気に駆け上がるぞ!!」


「「「オオオオオッ!!」」」


 二千の兵士がときの声を上げ、バベル・ガーデンの正面入り口へと殺到した。


 巨大な石造りの扉は、経年劣化のためか、半開きになっていた。


「ふん、扉も閉まらぬほどの廃墟か。造作もない」


 ガウェインは鼻を鳴らし、先陣を切って塔内へと足を踏み入れた。


 彼らは知らなかった。


 ここが廃墟などではなく、徹底的に管理された「私有地」であることを。


 そして、ここから始まるのが、終わりのない地獄の遠足(ダンジョン攻略)であることを。


◆◇◆◇◆


 聖王国軍の侵入から、既に数時間が経過していた。


 彼らが歩いているのは、塔の基部にあたる下層エリア。


 そこは、巨大な世界樹の幹に巻き付くように存在する、果てしなく続く回廊だった。


 カツーン、カツーン…。


 石畳を叩く軍靴の音が、重苦しく響く。


 一本道ではない。


 道は複雑に枝分かれし、時には行き止まり、時には下り坂になり、三次元的な迷路となって侵入者の感覚を狂わせる。


 窓から差し込む日光だけが頼りの薄暗い空間を、聖騎士たちは松明を掲げて進んでいた。


「…はぁ、はぁ…団長。我々は今、どのあたりに?」


 副官が、兜の隙間から汗を流しながら尋ねる。


 体感では数キロメートルは歩いたはずだ。だが、窓の外に見える景色は、まだ地上の森が近くに見える。


 高度が、絶望的に稼げていない。


「…狼狽えるな。まだ入り口を過ぎたばかりだ」


 ガウェインは強気に言い放ったが、その眉間には深い皺が刻まれていた。


 敵が出てこない。


 魔物一匹、ネズミ一匹いない。


 ただひたすらに、自身の体重と鎧の重さが、太ももと腰を痛めつけてくるだけだ。


「この塔…いや、この山は、我々の体力を削ぐために造られたのか…?」


 兵士たちの足取りが目に見えて重くなる。


 四十キロを超えるフルプレートアーマーを着て、延々と続く緩やかな勾配を登る。


 それは軍事作戦というより、終わりのない拷問に近かった。


「水だ…水をくれ…」


「まだだ!休憩には早い!列を乱すな!」


 怒号が飛ぶが、士気は確実に低下していた。


 戦う相手がいないという事実は、緊張感を削ぎ、ただ疲労感だけを増幅させる。


 目指すべき頂上は、雲の彼方で霞んですら見えない。



◆◇◆◇◆



 その頃。


 遥か天空、世界樹内部『樹洞の聖域』。


「…むにゃ。今日は平和ね…」


 真音はこたつの中で、ラズリのお腹を枕にして、幸せそうな寝息を立てていた。


 下界で数千人の男たちが、重力という名の敵と戦っていることなど、知る由もない。


「おや、意外と苦戦しているようだね」


 傍らで読書をしていたメルキオラスだけが、懐のスマホを取り出し、画面に流れる情報を眺めてクスクスと笑っていた。


 そこには、ルミナから送られてきた、簡潔な業務連絡が表示されていた。


『侵入から四時間経過。お客様方の現在地、高度百五十メートル地点。…進行ペース、想定より大幅に遅延』


 水晶板から、ルミナの呆れたようなため息が聞こえてくる気がした。


『迎撃は無用。勇者軍が侵入した時よりも聖王国は準備不足であると推測』


 メルキオラスは真音の寝顔を一瞥し、そっと防音結界の強度を上げた。


「ゆっくりお休み、真音ちゃん」


 対照的に、聖騎士たちの長い長い一日は、まだ始まったばかりであった。


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