第二十話「賢者の悪だくみと、管理者の決意」
『樹洞の聖域』の一角にある『大書庫』で、メルキオラスは、独り静かにページをめくっていた。
ブブブ…
懐に入れていた水晶板が、小刻みに震えた。
メルキオラスは本を閉じ、それを取り出す。
大きさは五センチ四方ほど。
厚みのある透明なクリスタル製だが、表面には魔法文字が発光している。
これは、メルキオラスが『遠話』の魔法を改良し、アイテムとして固定化した魔導具――通称『スマホ』だ。
現在、これを所持しているのは、開発者であるメルキオラスとラズリ、そして先日彼が直々に手渡した四人の幹部級(ルミナ、ヴォルグ、アレクセイ、ガルシス)のみ。
真音の安眠を妨げないよう、彼女への直通回線は意図的に排除されており、用事がある時は必ずメルキオラスを経由して許可を得るシステムになっている。
画面に浮かぶ名前を見て、メルキオラスは口元をほころばせた。
「はい、メルキオラスだよ」
『お忙しいところ申し訳ありません、賢者様。総務のルミナです』
水晶板から聞こえる声は、疲労の色を帯びつつも、芯の通った理知的な響きを持っていた。
『現在進行中の修復計画について、判断を仰ぎたい案件がございます。…入室の許可をいただけますでしょうか』
「もちろん。転送ゲートを開けるよ」
メルキオラスが指を鳴らすと、書庫の中央に幾何学模様の魔法陣が展開された。
淡い光の粒子が収束し、一人の女性の姿を形作る。
亜麻色の髪をきっちりと纏め、実務的なパンツスーツ(元・聖女の法衣を改造したもの)に身を包んだ、この塔の最強の管理者。
「失礼いたします」
ルミナは深々と一礼した。
その手には分厚い羊皮紙の束が抱えられている。
「やあ、ルミナくん。顔色が少し良くなったね」
「ヴォルグ料理長の特製スープと、魔王…いえ、温泉部長のサウナのおかげです。あれらがなければ、今頃過労死していたかもしれません」
ルミナは苦笑交じりに言い、机の上に資料を広げた。
そこに描かれているのは、先日世界樹の暴走によって、更に損壊した第七五六層周辺の詳細図面だ。
「本題に入ります。…第七五六層周辺の『完全復旧』についてです」
ルミナの表情が曇る。
「賢者様にお手伝いいただき、被害の拡大は止まりました。しかし、本当の意味での『原状回復』には、現在の約三千人体制でも、あと数年はかかると試算が出ました」
「数年、か。…まあ、妥当な線だね」
「はい。…ですが、解せません」
ルミナは図面の一点を指差した。
そこは、今回最も被害が甚大だったエリア――かつて魔王軍が拠点を築き、勇者軍と激突した古戦場だ。
「調査の結果、この階層の地盤が異常に脆くなっていたことが判明しました。原因は、過去に行われた無計画かつ大規模な『違法建築』です。…あの方たち(魔王軍)は、なぜあんな高層階に、あれほど巨大な石造りの城を建てようとしたのですか?構造力学的にも自殺行為です」
ルミナの問いに、メルキオラスは「ああ」と懐かしそうに目を細めた。
「それについては、僕から説明が必要だね。…そもそも、彼らがなぜこのバベル・ガーデンに侵攻してきたか、知っているかい?」
「伝説にある『世界樹を制する者は世界を制す』という伝承を信じたから、ですよね?」
「半分正解で、半分間違いだ」
メルキオラスは椅子から飛び降り、空中に手をあてがった。
フォン
空間に立体映像が浮かび上がる。
映し出されたのは、約一年前の第七五六層の光景だ。
そこには、眼下に広がる雲海と、どこまでも続く青空、そして世界樹の緑が織りなす絶景があった。
「当時の魔王ガルシスくんは、確かに世界征服の拠点としてここを目指した。だけど、この七五六層に到達した時、彼はその『絶景』に心を奪われてしまったんだ」
映像の中の魔王が、夕日に染まる雲海を見て、高らかに笑っている。
『ここだ!この地こそ、我が覇道の玉座に相応しい!』と。
「…え?」
ルミナが目を丸くする。
「戦略的価値?魔力的な優位性?違うよ。彼は単に、『一番見晴らしの良い場所に、一番カッコイイ城を建てたかった』だけなんだ。男のロマン、ってやつかな」
「…」
ルミナは絶句した。
世界を恐怖させた魔王軍の動機が、そんな子供じみた「見栄」だったとは。
「その結果がこれさ」
映像が切り替わる。
魔王城の建設資材を捻出するために、周辺の第七〇〇層から七七〇層にかけて存在した古代の遺跡群が、魔族たちによって無慈悲に破壊され、引っぺがされていく様子が映し出された。
さらに、そこへ勇者アレクセイ率いる軍勢が突入し、派手な魔法と剣技で、作りかけの城ごと階層を粉砕していく。
「あそこは元々、真音ちゃんがお気に入りの散歩コースだったんだ。『開放区画』といって、壁のない風通しの良い場所でね。…それを勝手に掘り返して城を作り、そこで喧嘩を始めた子供たち。それが君たちさ」
「…頭が痛くなってきました」
ルミナはこめかみを押さえた。
自分が必死に直している場所が、そんなくだらない理由で壊されたものだったとは。
だが、同時に納得もした。
だからこそ、今の彼ら――ガルシスもアレクセイも、ヴォルグも――あれほど必死に、贖罪のように働いているのだと。
「過去は変えられないよ、ルミナくん。重要なのは、これからどう管理するかだ」
メルキオラスはパチンと指を鳴らした。
ホログラムが縮小し、今度はバベル・ガーデンの「全貌」が映し出された。
雲を突き抜ける超巨大な『世界樹』。
その幹に、蔦のように複雑怪奇に絡みつく、無数の回廊と建造物群。
「…バベル・ガーデン…」
改めて俯瞰で見ると、その異様さと巨大さに圧倒される。
一本の塔ではない。これは、世界樹という大黒柱に寄生した、巨大な立体都市だ。
「ルミナくん。君が現在把握しているのは、このほんの一部に過ぎない」
メルキオラスが指示棒を取り出し、解説を始めた。
「まず、最上層のここ。世界樹の幹の内部にある空洞、ここが我々のいる『樹洞の聖域』だ。言った通り、ここはバベル・ガーデンの一部ではない。それより遥か上にある、独立した空間さ」
赤い光点が最上部を指す。
「次に、ここが『地上〜一〇〇層』。四方に入り口があり、誰でも入れる迷路のような区画だね。その上が一〇一層〜三〇〇層の『無秩序階層』。窓のない洞窟エリアだ」
光点が下へと滑る。
「三〇一〜三五〇層が『下層・動力区画』。ボイラー室などがあるインフラの中枢だね。その上が三五一〜六〇〇層の『放置区画』。古代の住居跡が無数にある。そして六〇一〜七〇〇層が『農業区画』。七〇一〜七七〇層が今回の修復現場…。まぁ、ここまでは君も自分の足で歩いてきたところだ。ある程度はわかるでしょ?」
「…はい」
「そしてね、問題はここからだよ」
ホログラムが地下部分を拡大する。
ルミナは息を呑んだ。
そこには、地上よりも遥かに巨大で、深淵へと続く広大な暗黒空間が広がっていたからだ。
「地下第一層〜一〇〇層が『資源採掘・牧場エリア』。アレクセイくんの牧場はここの五層分ぶち抜きの広大な区画だ。…だが、残りの九五層分は、手つかずの未開拓領域だ」
「一〇〇層…!?」
「そして、そのさらに下。ずーっと下にあるのが『深層・封印区画』。先日、真音ちゃんが『掃除』に行った場所だね。古代の遺物や、ティタノマキアのような兵器など、正直、なにがそこにいるかは全然わかっていないのが現状だね」
メルキオラスは淡々と告げた。
「つまり、君が管理できているのは、この巨大な施設のほんの一割にも満たないんだよ」
ルミナは呆然と立ち尽くした。
自分が総務部長として取り仕切っていると思っていた世界は、巨大な氷山の一角に過ぎなかった。
管理すべき領域のあまりの広大さ。未知の脅威の多さ。
普通の人間なら、絶望して逃げ出したくなるような事実だ。
「…これら全てを、管理しろと?」
「無理強いはしないよ。ここを出ていくのも自由だ。許可を出すのは僕だからね。かまわないさ」
メルキオラスは試すような目をした。
「でも、これだけの資源と、未知の技術、そして広大な土地があれば…国の一つや二つ、簡単に買えると思わないかい?真音ちゃんはね、そういうことには興味がないんだ。でも、僕はたまにそういうことを考えることもある。使うかもわからない広大な遊び場を、あらかじめ準備しておくのも悪くないなって…ね」
悪魔の囁き。
だが、ルミナの反応は劇的だった。
彼女の瞳から、疲労の色が消えた。
代わりに宿ったのは、かつて聖女として戦場に立った時以上の、野心と情熱の炎だった。
「…面白い」
ルミナの口元が、三日月のように歪む。
「上等じゃないですか。一割しか管理できていない?いいえ、あと九割も『伸びしろ』があるということです」
彼女は羊皮紙を強く握りしめた。
「全階層を制覇し、資源を掘り尽くし、この塔を世界最強の経済圏…いえ、『楽園(管理社会)』にしてみせましょう。数年かかる修復も、終わらない借金も、望むところです」
「あはは、頼もしいねえ。君ならそう言うと思ったよ。あ、君が見込んだ人ならいくら部下を増やしてもいいからね。有能な人はいくらいても困らない」
メルキオラスは、人の悪い声色で満足げに頷いた。
バベル・ガーデンに必要なのは、真音とラズリという絶対的な「暴力」、メルキオラスという「叡智」。
そして、それらを運用し、泥臭く維持管理してくれるルミナのような「実務家」なのだ。
その時。
書庫の外から、気だるげな声が響いた。
「話は終わった?」
こたつから這い出した真音だった。
彼女は口にスライム・ドロップを放り込みながら、ペラリと一枚の羊皮紙をルミナに差し出した。
「なら、仕事の時間よ」
「これは…?」
ルミナが受け取った紙には、大家のサインと共に、無慈悲な通達が記されていた。
『通達:福利厚生施設(サウナ等)の充実による労働環境の改善に伴い、今月分より全部署の「上納品ノルマ(成果物)」を2割引き上げとする。以上』
ルミナは絶句した。
普通なら、復興を頑張っている人々に慰労の意味で「報奨」や「休暇」を与える場面だ。
それを、逆に「環境が良くなったんだから、もっと働けるでしょ?」と更なる成果を求めるとは。
(…ああ、やっぱりこの方は)
ルミナの中にあった僅かな感傷――「大家様も少しはデレてくれるかも」という甘い期待――は、粉々に砕け散った。
ここには、金銭による契約も、偽善的な馴れ合いもない。
あるのは、「住まわせてやる代価として、成果を搾り取る」という、極めてシンプルで冷徹な搾取構造だけ。
だが、不思議と不快ではなかった。
そのブレない姿勢こそが、この混沌とした巨塔を束ねる芯なのだと理解できたから。
「…ふふ。了解いたしました、大家様」
ルミナは不敵に笑い、深く頭を下げた。
「効率が上がった分、生産性を上げろということですね。仰せのままに。…総務部長の名にかけて、必ずや達成してみせます」
「期待してるわよ。…せいぜい、私を退屈させないでね」
真音はニヤリと笑い、再びこたつへと潜り込んだ。
広大なフロンティアと、終わらないノルマ。
そして、最強の大家と、それに適応してしまった最強の社畜たち。
バベル・ガーデンの日常は、これからも騒がしく、そして逞しく続いていく。
◆◇◆◇◆
――そして、視点は塔の外へ。
バベル・ガーデンから遥か遠方。
大陸の覇権を握る人間の大国、『聖王国』の王都にて。
豪奢な装飾が施された魔術省の最奥部で、巨大な水晶玉を覗き込む老魔術師の姿があった。
「…見つけたぞ」
水晶玉の中には、雲を突く巨木から放たれた、異様な魔力の波紋が記録されていた。
先日、真音が世界樹を治療した際に放った、S級を超える魔力反応だ。
「大陸の果ての世界樹にて、神話級の反応を確認。…やはり、あそこには『ナニカ』がある」
老魔術師は、背後に控えていた騎士に振り返った。
その目は、獲物を見つけた猛禽類のようにギラついていた。
「直ちに軍を編成せよ。精鋭の『聖騎士団』と『宮廷魔導師団』を派遣するのだ」
「はっ!目的は?」
「決まっているだろう。そこに眠っているであろう『古代の叡智』を、全て我が国のものとするのだ。…邪魔する者は排除だ」
老人は冷ややかな笑みを浮かべ、地図上のバベル・ガーデンを指差した。
「世界樹にまとわりつく廃墟に巣食う害虫どもを駆除し、我らの礎とするのだ」
深淵からの招待状ならぬ、侵略の狼煙。
新たな波乱の予感を残し、物語は加速していく。




