第十九話「遅起きの朝と、気まぐれな視察」
『樹洞の聖域』。
世界樹の幹の内部に存在するこの空間は、外界から隔絶された静寂に満ちていた。
ここは音を一切通さない。
下界でどれほどの喧騒があろうとも、聖域の主の耳には届かない仕様になっている。
だが、振動は別だ。
ズン、ズン、ズン…
床――すなわち世界樹の幹を通して、一定のリズムを刻む重低音が響いてくる。
それは巨大な金槌で大地を叩くような、腹に響く震動だった。
「…んぅ」
部屋の中央に鎮座するこたつ。その布団がもぞもぞと動き、中から寝癖だらけの真音が顔を出した。
大きなあくびと共に、けだるげな黒曜石の瞳がゆっくりと開かれる。
「…揺れる」
不機嫌そうに呟く。
向かい側で、分厚い魔導書を読んでいた黒いくまのぬいぐるみ――メルキオラスが、カップを片手に穏やかに微笑んだ。
「お早う、真音ちゃん。よく寝てたね」
「…今、何時?」
「午後二時だよ。『二日後』のね」
真音の動きが止まった。
「…は?」
「君がパラサイト・イーターの除去手術を終えてから、丸二日間眠り続けていたんだよ。世界樹と同調するなんて無茶をした反動だね」
言われてみれば、体の節々が鉛のように重い。
だが、その芯には泥のような疲労感はなく、むしろ魔力が満ち足りていくような爽快感があった。
世界樹から供給されたマナが、彼女の体を癒やしていたのだ。
「…で、この揺れは何?」
「復興工事だよ。君が守ったバベル・ガーデンを、ルミナくんたちが必死に直してる音さ。…音は聞こえないけど、熱気までは防げないみたいだね」
メルキオラスの言葉通り、床から伝わる震動には、どこか力強い熱量が含まれているように感じられた。
「…お腹、空いた」
「ヴォルグ料理長が、いつでも出せるようにスープを保温して待機してるよ。呼ぼうか?」
真音は少し考え、首を横に振った。
「いい。…私が下りる」
真音はのっそりとこたつから抜け出した。
部屋着のパーカーにショートパンツというラフな格好のまま、素足でふかふかの絨毯を踏みしめる。
「外の様子、見てくるわ」
◆◇◆◇◆
真音は部屋の隅にある『転移ゲート』に乗った。
お供は、肩に乗ったメルキオラスと、足元をついて歩く猫サイズのラズリだけ。
行き先を『第3居住区画』に設定し、魔力を流す。
景色が一瞬で歪み、次の瞬間――。
カン!カン!ドォォォォン!!
静寂は、暴力的なまでの喧騒にかき消された。
鼻を突くのは、石材の粉塵と、切断された木材の青臭い香り。そして、男たちの熱気と汗の匂い。
「どけえぇぇ!補強用のミスリル鋼材が通るぞ!」
「回復班!こっちのヤツが腰をやった!ヒール頼む!」
「休憩なしだ!日没までに北側の壁を塞ぐぞ!」
そこは戦場だった。
世界樹の痙攣によって半壊した、バベル・ガーデンの居住区画。その修復のため、魔族と人間が入り乱れ、蟻の巣のように働いている。
その喧騒の中を、真音は誰にも気づかれないように――『認識阻害』を薄く纏って――歩いた。
「へえ…」
真音は感心したように呟く。
二日前、無惨に砕け散っていた石造りの外壁は、既に仮組みが終わり、元の形を取り戻しつつあった。
その中心で、枯れた声で指示を飛ばしている金髪の女性がいた。
ルミナだ。
「そこ!石材の噛み合わせが三ミリずれてるわよ!やり直し!」
「部長、予備の資材在庫が尽きそうです!ダンジョンからの調達が追いつきません!」
「倉庫の備蓄をすべて吐き出しなさい!足りなければ、廃材でも何でも再利用して!今は強度が最優先よ!」
彼女の顔色は紙のように白く、整えられていた髪も乱れている。
立っているのが不思議なほど消耗しているが、その瞳だけはギラギラと燃えていた。
完璧主義者の彼女にとって、自分の管理下で「住処」が壊れたまま放置されることは、死ぬよりも屈辱なのだろう。
(…あの子、いつから寝てないのかしら)
真音はふと、足元に転がっていたひしゃげた鉄骨を拾い上げた。
そして、指先でピンと弾く。
ヒュンッ!
鉄骨は弾丸のような速度で飛び――崩れかけていた足場の留め具に直撃し、ガキンッ!と深々と嵌まり込んだ。
それは本来、数人がかりで固定しなければならない箇所だった。
「えっ?あ、危ねえ!足場が崩れるところだった!」
「な、何だ今のは?勝手に直ったぞ?」
作業員たちがざわつく中、ルミナだけがハッとして周囲を見渡した。
その視線が、一瞬だけ真音のいる空間を掠める。
だが、真音たちは既にその場を後にしていた。
◆◇◆◇◆
続いて訪れたのは、瓦礫の横に設置された仮設キッチンエリア。
そこには、暴力的なまでに食欲をそそる香りと共に、もう一つの戦場が広がっていた。
「スープ追加だ!肉を焼け!手が止まってるぞ!」
ヴォルグが鬼の形相で、五つの巨大なフライパンを同時に操っている。
その横では、ボイラー室から出てきた魔王ガルシスが、即席の竈で巨大な蒸し器を管理していた。
「蒸気圧安定!ヴォルグよ、蒸し野菜の準備はいいか!」
「いつでもいけます!魔王様、火力を上げてください!」
かつての魔王と将軍。
主従だった二人が、今は背中を預け合い、阿吽の呼吸で大量の食事を作り上げている。
ヴォルグの言葉遣いには、かつての主への敬意と、厨房という戦場における対等なパートナーとしての信頼が滲んでいた。
「おう、任せておけ!我が黒炎で、最高の蒸気を送ってやる!」
ガルシスが掌から黒い炎を放ち、釜を加熱する。
その熱で蒸し上げられた野菜と肉を受け取った作業員たちが、「うめぇ!」「力が湧いてくる!」と涙を流して貪り食う。
そこには、種族の壁も、かつての敵味方もない。
ただ「美味いものを食って働く」という、原始的で力強い営みだけがあった。
「…ふふっ」
真音の口元が緩む。
自分のいないところで、勝手に結束し、勝手に強くなっている。
それは大家として、少し寂しく、そして何より誇らしい光景だった。
「真音ちゃん、どうする?ご飯、もらっていく?」
「ううん。邪魔しちゃ悪いわ」
真音は踵を返した。
空腹よりも、胸がいっぱいだった。
◆◇◆◇◆
その日の夕方。
作業が一段落し、泥のように疲れ果てたルミナたちが仮設食堂に集まると、そこには異様なものが置かれていた。
テーブルの上に山積みになった、桐の箱。
そして、一枚の張り紙。
『差し入れよ。全員で分けなさい。大家』
「こ、これは…ッ!?」
ヴォルグが箱を開ける。
中には、宝石のように輝く『スライム・ドロップ』がぎっしりと詰まっていた。
市場価格にすれば国家予算並みの量だ。
だが、この塔においてそれは通貨ではなく、純粋な「労い」の塊だった。
「大家様…見ておられたのですか…」
ルミナが震える手で一粒を口に含んだ。
強烈な甘味と魔力が、枯渇した体に染み渡る。
鉛のように重かった四肢から疲労が一瞬で吹き飛び、視界がクリアになる。
「うおおおおおおっ!!力が!力が漲るぞおおおッ!!」
「大家様バンザイ!!一生ついていきます!!」
食堂が歓喜の渦に包まれた。
最上層のテラスで、風に乗って聞こえてくるその騒ぎを聞いていた真音は、満足げにラズリの喉を撫でた。
「さて。明日からはもっと働いてもらわないとね。…私の安眠を妨げた分くらいは」
最強の大家と、最強の社畜(部下)たち。
バベル・ガーデンの絆は、この災害を経て、盤石(?)なものとなったのである。




