第十七話「神のメスと、悪魔のオペ」
世界樹の心臓部。
そこは今、一触即発の緊張感に包まれていた。
キシャアアアアッ!!
寄生生物『パラサイト・イーター』が、鼓膜をつんざく悲鳴を上げる。
真音によって背中の神経束を一本切断された痛み。
だが、それ以上に怪物を恐慌状態に陥らせたのは、背中に乗っている小さな少女から放たれる、底知れぬ「捕食者」の気配だった。
「暴れないでって言ったでしょ」
真音はロデオのように怪物の背中に張り付きながら、冷静にナイフを振るう。
だが、相手も太古の生存競争を生き抜いた怪物だ。ただでは死なない。
ズズズズッ…!
怪物の無数の触手が、世界樹の壁(内壁)に深く突き刺さった。
さらに、自らの体を液状化させ、樹の繊維の隙間へと染み込み始めたのだ。
「真音ちゃん、まずい!」
肩の上のメルキオラスが叫ぶ。
「こいつ、世界樹の『魔力循環パルス』と同化しようとしてる!自分と樹を一体化させて、無理に引き剥がせば世界樹ごと枯れるように仕向けてるんだ!」
人質作戦。
いや、「世界樹質」作戦か。
怪物はドロドロに溶けながら、真音をあざ笑うかのように樹の深部へと潜っていく。
「…なるほどね。私に『家』を壊させようって魂胆か」
真音の手が止まる。
物理攻撃は封じられた。
ナイフで切れば、樹の神経まで切断してしまう。
上層からは、世界樹の軋む音と、ラズリの限界に近い唸り声が聞こえてくる。
完全な詰み(チェックメイト)。
だが、真音は――ニヤリと笑った。
「甘いわよ、害虫」
真音はナイフを捨てた。
代わりに、右手の指先に極小の「青い炎」を灯した。
それはいつもの荒れ狂う業火ではない。針の先よりも鋭く、青白く澄み切った、極限まで圧縮された細長く強靭な刃。
「くまちゃん、解析情報を視界に共有して」
「了解!世界樹の神経パルスと、寄生虫の生体信号を色分けして表示するよ!」
真音の視界に、幾何学的な魔法陣が展開される。
緑色が世界樹の細胞。
赤色が寄生虫の細胞。
二つは複雑に絡み合い、もはや分離不可能に見えた。
「分離できないなら、『焼却』すればいい」
真音の指が動いた。
ヒュンッ。
目にも止まらぬ速さ。
だが、その軌跡はマイクロメートル単位で制御されている。
青い閃光が、細胞と細胞の隙間を走り抜ける。
――ジュッ。
世界樹の細胞を傷一つつけず、絡みついた赤色の細胞だけを、原子レベルで消滅させていく。
それは戦闘ではない。神の領域に達した「超精密外科手術」だった。
「ギ、ギギ…!?」
怪物が困惑する。
痛くはない。
熱くもない。
だが、確実に自分の体が「削り取られて」いく。
逃げようとしても逃げられない。
浸食しようとした先から、青い光が先回りして自分を消し去っていく。
「あと半分」
真音の額に汗が滲む。
世界樹の痙攣が激しくなる。
頭上から樹洞の破片が落ちてくるが、真音は一歩も動かない。
動けば手元が狂う。
木片が彼女の頭上を直撃する――寸前、メルキオラスが展開した障壁がそれを弾き飛ばした。
「信じてるよ、真音ちゃん!」
「…ありがと」
真音の集中力は極限に達した。
世界樹の鼓動と、自分の呼吸を同調させる。
そして、最後の一太刀。
怪物の「核」が、世界樹の心臓部に食らいついている一点。
「…そこっ!!」
一閃。
青い光が闇を切り裂いた。
ギャアアアアアアアアアッ!!
断末魔の叫びと共に、パラサイト・イーターの核が両断される。
怪物の体は瞬時に崩壊し、黒い灰となって樹洞の底へと崩れ落ちた。
直後、世界樹の脈動が正常に戻る。
エメラルド色の光が溢れ出し、傷ついた内壁を急速に再生させていく。
「…ふぅ」
真音は青い炎を消し、その場にへたり込んだ。
「手術、完了よ」
◆◇◆◇◆
数時間後。最上層『樹洞の聖域』。
朝日が差し込む部屋には、疲れ切ってこたつで眠る真音と、ラズリの姿があった。
真音が開けた穴は、この部屋に戻った直後に修復された。
世界樹が、真音たちがここに戻るのを待ってくれていたのだ。
ジジジ…。
虚空から呼び出し音が響いた。
「おや、ルミナくんからだ」
メルキオラスが空中に指を走らせ、モニターを展開する。
そこには、騒動で汚れながらも、毅然と佇むルミナの姿が映し出されていた。
『賢者様。入室許可を願います。事後処理の報告に参りました』
「了解。…転送ゲート、接続」
メルキオラスが指を鳴らす。
部屋の入り口付近の床に魔法陣が浮かび上がり、光と共にルミナの姿が現れた。
「失礼いたします」
ルミナは静かに一礼した。
その顔には疲労の色が濃いが、同時に大きな仕事をやり遂げた達成感があった。
「状況はどうだい?」
メルキオラスが小声で尋ねる。
「…一時はどうなるかと思いましたが、今は安定しています」
ルミナは報告書を開いた。
「第3居住区画は基部が完全に破断していましたが、振動停止直後に、賢者様が遠隔で発動された『構造固定魔法』のおかげで崩落を免れました。現在は、ヴォルグ料理長率いる補修班が物理的な補強を行っています。…住民の避難も完了しており、怪我人は数名のみ。死者はゼロです」
「それはよかった。僕らも、君の迅速な避難誘導に感謝するよ」
「いえ…」
ルミナの視線が、こたつで泥のように眠る真音へと向けられた。
いつもなら「またトラブルですか!」と文句の一つも言いたくなる状況だ。
だが、今の彼女の瞳にあるのは、深い安堵と敬意だけだった。
「これだけの規模の異変を、世界樹を傷つけずに収束させるなんて…。大家様は、どれだけ神経をすり減らして戦われたのでしょう」
ルミナは察していた。
破壊することよりも、守りながら戦うことの方が、何倍も困難であることを。
「今回は、お説教なしですね」
ルミナは小さく微笑むと、メルキオラスに向かって静かに一礼した。
「では、私は現場に戻ります。…ゆっくりお休みくださいとお伝えください、私たちの大家様に」
光と共に、聖女の姿がかき消える。
部屋には再び、穏やかな寝息だけが残された。




