第十四話「魔王の発明と、蒸気の革命」
バベル・ガーデン、ボイラー室。
そこは、配管が唸りを上げ、熱気と湿気が渦巻く孤独な場所だった。
頭上を走る無数の配管からは、上層の楽しげな宴の声が、皮肉なほどよく響いてきていた。
『アレクセイ様、牧場長就任おめでとうございます!』
『ヴォルグ料理長の新作、最高だぜ!』
『ルミナ部長、また新しいシステムを導入したらしいぞ!』
かつての宿敵、部下、そして自分を出し抜いた小娘。
彼らは皆、この塔で確固たる地位を築き、輝いている。
それに引き換え、自分はどうだ。毎日毎日、来る日も来る日も、ただお湯を沸かすだけ。
「…私は、魔王だぞ」
ガルシスの拳が震える。
このまま終わってたまるか。
ただの湯沸かし器として朽ち果てるなど、魔界の盟主のプライドが許さない。
ふと、彼は自分の手を見た。
毎日、灼熱の釜の前で魔力操作を行い、重いバルブを回している手だ。
本来ならば、火傷やアカギレでボロボロになり、肩や腰は疲労で悲鳴を上げているはずだった。
「…む?」
ガルシスは首を傾げた。
痛くない。
それどころか、肌は赤子のようにつやつやとしており、関節の動きも滑らかだ。
連日徹夜で温度管理をしているにも関わらず、体の芯から力が漲っている。
「なぜだ…?これほどの激務で、なぜ疲労が蓄積しない?」
彼は周囲を見渡した。
充満する白濁した蒸気。
釜の継ぎ目からシューシューと漏れ出る、自分の魔力が混じった高温の霧。
ガルシスは無意識のうちに、その蒸気を全身に浴び続けていた。
「まさか…」
ガルシスは立ち上がり、あえて漏れ出る蒸気に患部(肩)を当ててみた。
熱い。
だが、その熱さと共に、肩に溜まっていた重い鉛のような感覚が、瞬時に溶けて消えていくのを感じた。
「そうか…!私の『黒炎』か!」
彼の操る黒炎は、あらゆる不純物を焼き尽くし、無に帰す破壊の力。
その魔力が蒸気という媒体に溶け込んだことで、性質が変化し――「体内の疲労物質や老廃物だけを焼き尽くす(デトックスする)」という、奇跡の治癒効果を生み出していたのだ。
「ククク…なんてことだ。私は破壊の力で、自分自身を癒やしていたというのか」
ガルシスは震える手で顔を覆い、そして――猛然と顔を上げた。
その瞳には、起死回生の野望の火が灯っていた。
「そうだ…。破壊のためではなく、『癒やし』のためにこの力を使えば…!」
閃きが、魔王の脳髄を貫いた。
彼はすぐさま、壁の伝声管に飛びついた。
繋ぐ先は、かつての腹心であり、今は厨房の王となった男だ。
「おい、ヴォルグ!私だ!聞こえるか!」
『…魔王様?いかがなされました?今、ディナーの仕込みで忙しいのですが』
「料理の話だ!貴様、私の『魔力蒸気』を使って、料理を作ってみる気はないか?」
『…蒸気、ですか?』
ヴォルグの声色が、興味深げなものに変わる。
「そうだ。私の黒炎で極限まで圧縮した高温高圧の蒸気だ。これを使えば、素材の旨味を一瞬で閉じ込め、かつてないほどジューシーに仕上げることができるはずだ!」
『ほう…。なるほど。焼く(ウェルダン)だけでなく、蒸す(スチーム)というアプローチ…。それは盲点でした』
「協力しろ、ヴォルグ!私とお前で、あの大家を…いや、このバベル・ガーデンの食と癒やしを支配するのだ!」
『面白い!やりましょう!』
こうして、地下の片隅で、かつて世界を震わせた魔王と将軍による、起死回生の極秘プロジェクトが始動した。
◆◇◆◇◆
数日後。
真音はメルキオラスとルミナに連れられ、塔の中層にある「大浴場エリア」を訪れていた。
「ねえくまちゃん、何の用?私、今からグミ食べながら二度寝しようと思ってたんだけど」
「まあまあ。面白いものができたって、魔王くんから招待状が届いたんだよ」
大浴場の扉が開く。
そこには、信じがたい光景が広がっていた。
「いらっしゃいませ、大家殿!」
真っ白な湯気が立ち込める中、腰にタオルを巻いた魔王ガルシスが、仁王立ちで出迎えたのだ。
「…なんで、ツノの人がここにいられるのよ」
「僕が許可した。まあまあ、見てみてよ」
その背後には、檜に似た香りのする木材で組まれた、巨大なサウナ小屋が鎮座している。
「なによこれ」
「我が魔力の粋を集めた新施設、『煉獄サウナ・リラクゼーション』でございます!」
ガルシスは自信満々に胸を張った。
「私の黒炎で生成した『魔力蒸気』を充満させております。この蒸気は、通常のサウナの十倍の発汗作用があり、同時に魔力浸透圧によって疲労物質を強制的に排出させます!」
「へえ…」
真音は少しだけ興味を惹かれたようだ。
だが、すぐにジト目でガルシスを睨んだ。
「で?まさか、アンタたち男がいる中で入れって言うんじゃないでしょうね?」
その言葉に、ガルシスが凍りついた。
そうだ。ここは混浴ではない。ましてや相手はこの塔の絶対的支配者だ。
「あ、いや、その…私は使い方の説明を…」
「必要ありません」
一歩前に出たのは、総務部長のルミナだった。
彼女は手際よくガルシスとメルキオラスを浴室の外へと追いやり、仁王立ちした。
「ここから先は『貸切』とさせていただきます。男性陣は退室を。温度管理と大家様のお世話は、私が担当します」
「うむ。頼んだわ、ルミナ」
男たちが追い出され、浴室には真音とルミナ、そしてラズリ(ペット枠)だけが残された。
真音はバスタオルを巻き、サウナ小屋へと足を踏み入れる。
「…んッ!」
瞬間、熱波が全身を包み込む。
だが、息苦しくない。
ガルシスの魔力制御によって、熱さの中に心地よい湿度が保たれているのだ。
「いい蒸気ね…。肌に吸い付くみたい」
「ええ。魔力濃度も最適です。…悔しいですが、あの魔王、いい仕事をしています」
ルミナが熱した石にアロマ水をかけると、ジュワァァという音と共に、森の香りが広がった。
真音は目を閉じ、深く息を吸い込む。
日頃の(主に退屈による)ストレスが、汗と共に溶け出していくようだ。
十分ほど蒸された後、二人はサウナを出た。
そこには、ラズリが氷のブレスでキンキンに冷やした水風呂が用意されている。
ザブンッ!
「ぷはぁぁぁっ…!」
熱った体が急冷され、血管が収縮と拡張を繰り返す。
いわゆる「ととのう」という感覚が、真音を襲った。
◆◇◆◇◆
入浴後。
真音は、大浴場に隣接された『貴賓用休憩室(VIPラウンジ)』のソファに深く沈み込んでいた。
ふかふかのバスローブに身を包み、肌はほんのりと桜色に染まっている。
体は羽のように軽く、頭の中は空っぽで、ただただ心地よい浮遊感だけがある。
「失礼いたします」
ノックと共に、ヴォルグが静かにワゴンを押して入ってきた。
彼もまた、場の空気を読み、恭しい態度を崩さない。
「湯上がりの軽食をご用意いたしました」
テーブルに置かれたのは、湯気を立てるセイロだ。
「魔王様の『魔力蒸気』を使用し、超短時間で蒸し上げた『地獄蒸しカスタードプリン』と『彩り温野菜のバーニャカウダ』でございます」
「蒸し料理…?」
真音はまだ火照っている体を起こし、スプーンを手に取った。
まずはプリンをひと掬い。
スプーンが吸い込まれるような柔らかさ。
パクッ。
「…んぅっ」
口に入れた瞬間、真音の目が丸くなった。
温かい。
冷たいデザートではない。蒸したての、温かいプリンだ。
だが、それがサウナ上がりの体に優しく染み渡る。
卵の濃厚なコクと、カラメルのほろ苦さが、湯気と共に鼻に抜けていく。
「なめらか…。噛まなくても消えていくわ」
「野菜もどうぞ。こちらは世界樹の湧水で冷やしております」
温かいプリンの後は、冷たく冷やされた蒸し野菜。
高温で一気に蒸されたアスパラガスは、鮮やかな緑色を保ったまま、シャキッとした食感を残している。
濃厚なアンチョビソースにつけて頬張れば、野菜本来の甘みが爆発した。
「…完璧ね」
真音はほうっと息をついた。
サウナによる「整い」と、計算し尽くされた「食」の癒やし。
このコンボは、彼女の長い人生の中でもトップクラスの体験だった。
「呼びなさい。魔王を」
◆◇◆◇◆
数分後。
休憩室に呼び出されたガルシスは、床に額を擦り付ける勢いで平伏していた。
「面を上げなさい」
真音はソファに足を組み、上機嫌で告げた。
「あのサウナ、気に入ったわ。特にあの蒸気、私の肌に合うみたい」
「は、ハッ!!光栄の極みでございます!!」
ガルシスは震えた。
恐怖ではない。
歓喜でだ。
「本日をもって、アンタを『温泉管理部長(湯守の王)』に任命するわ。このサウナ、もっともっと拡張して、みんなにも開放してあげなさい。あ、専用の執務室も作っていいわよ。…ただし、私の入浴時間は貸切にすること。わかった?」
「承知いたしましたァァァッ!!このガルシス、命に代えても最高の癒やしを提供し続けます!!」
魔王の絶叫が、ラウンジにこだまする。
認められた。ついに、自分の力が、この絶対的な支配者に必要とされたのだ。
こうして、ボイラー室の孤独な王は、塔のみんなを癒やす「裸の付き合いの王」へと華麗なる転身を遂げた。
総務のルミナ、厨房のヴォルグ、牧場のアレクセイ、そして温泉のガルシス。
最強の大家の下に集った四人の幹部たち。
彼らが作り出す「衣食住+癒やし」の完璧なサイクルにより、バベル・ガーデンは難攻不落の要塞にして、至高の楽園(ブラック企業)として完成したのだった。




