第十二話「泥塗れの帰還と、至高の宝石」
その日の午後。
バベル・ガーデン最上層『樹洞の聖域』は、いつもの静寂に包まれていた。
真音はこたつに入り、メルキオラスは読書をし、ラズリは真音の膝の上で丸くなっている。
ここには、許可なき者は風の音ひとつ入ることは許されない。
ジジジ…。
虚空から呼び出し音が響いた。
「おや、ルミナくんからだ」
メルキオラスが空中に指を走らせ、モニターを展開する。
そこには、総務室にいるルミナの姿が映し出されていた。
『大家様、賢者様。地下牧場よりアレクセイ牧場長が帰還しました。「成果物」の提出を希望しております』
その言葉に、真音の耳がピクリと動いた。
彼女はガバッと身を起こし、モニターに食らいつくように叫んだ。
「通して!今すぐ!」
「了解。…転送ゲート、接続」
メルキオラスが指を鳴らす。
部屋の入り口付近の床に魔法陣が浮かび上がり、光と共に二つの人影が現れた。
一人は、凛とした立ち姿のルミナ。
そしてもう一人は、泥と粘液にまみれ、異臭を放つ男――勇者アレクセイだった。
「し、失礼いたします…ッ!」
アレクセイはその場に膝をつき、深く頭を下げた。
その姿は酷いものだった。
髪は固まり、作業着はボロボロ。
だが、その手には小さな桐の箱が、命よりも大事そうに抱えられていた。
「あら、汚い。…で、持ってきたの?」
真音の視線は、アレクセイ自身ではなく、箱に釘付けになっている。
「は、はい…!」
アレクセイは震える手で箱を差し出した。
「クイーン個体からの初採取…成功いたしました。環境調整に二週間、一睡もせずに見守り続け、マッサージと魔鉱石の投与を行い、ようやく分泌された最高純度、SSランクの『スライム・ドロップ』二箱分です」
ゴクリ。
真音が生唾を飲み込む音が、静かな室内に響いた。
「…見せて」
真音が手招きする。
アレクセイが箱の蓋を、ゆっくりと開けた。
その瞬間。
フワァァァァ…!
部屋の中に、甘美な香りと共に、虹色の光が溢れ出した。
異臭を放つアレクセイの匂いが圧倒された。
いや、浄化された。
「わあ…っ!」
箱の中に整然と並んでいたのは、親指大の半透明な球体。
だが、それはただのグミではない。
内部で高密度の魔力が螺旋を描いて揺らめき、まるで生きているかのように脈動している。
最高級のダイヤモンドすら霞む輝き。
養殖グミとは次元が違う。
これが「クイーン」の力だ。
「くまちゃん!見て!この輝き!」
「うんうん、素晴らしいね。これは市場に出せば、一粒で家が建つレベルだよ」
メルキオラスも感心したように頷く。
真音は震える指で、一粒をつまみ上げた。
ぷにゅん。
指先に伝わる、吸い付くような弾力。
硬すぎず、柔らかすぎず、指紋すら弾き返すような高貴な張り。
真音はうっとりと目を閉じ、それを口へと運んだ。
――プチュッ。
薄氷のような表面の皮が弾ける、繊細な音。
その直後。
「んん〜ッ…!」
真音が身をよじらせ、こたつ布団に顔を埋めた。
口の中で爆発する、濃厚な果実のような甘味と、ねっとりとした食感。
そして何より、体中の細胞が歓喜の歌をあげるような、純粋な魔力の奔流。
脳髄を直撃するような美味。
スライム・ドロップ禁欲生活が、その感動を何倍にも増幅させていた。
「これよ…!私が求めていたのは、これなのよ!」
真音は恍惚の表情で咀嚼を続ける。
その咀嚼音ですら、この部屋では神聖なBGMのように響いた。
彼女の頬は紅潮し、尻尾(見えないが)がブンブンと振られているのが幻視できるほどだ。
「どうですか、大家様…?」
アレクセイが恐る恐る尋ねる。
彼の顔色は蒼白だ。
もし「微妙」と言われれば、彼は今度こそ牧場の土になる覚悟だった。
真音はゆっくりと目を開け、アレクセイを見た。
その瞳は、とろりと潤んでいる。
「…合格よ」
「っ…!!」
アレクセイはその場に崩れ落ち、男泣きした。
「うぁぁぁぁ…よかったぁぁぁ…!」
王都で英雄と称えられた時よりも、今この瞬間が嬉しかった。
自分の命が繋がった安堵と、絶対的な支配者を満足させた達成感で、涙が止まらない。
「よくやったわ、勇者。…褒美に、この一箱はアンタたちにあげる」
真音は気前よく、山積みになった箱の一つを放り投げた。
「えっ?い、いいんですか!?これ一箱で、城一つ二つは買えるのでは!?」
「ええ。みんなにも配ってあげなさい。…これ、すっごく元気が出るから、明日からも馬車馬のように働きなさい」
「あ、ありがとうございます!!一生ついていきます!!」
アレクセイは箱を抱きしめ、何度も礼を言った。
その様子を見て、ルミナも安堵の息をつき、静かに微笑んだ。
彼女にとっても、かつての仲間の成功は喜ばしいことだったのだ。
「では、私たちはこれで失礼いたします。…行くわよ、牧場長。まずは泥を落としてきなさい」
「はいっ!ルミナ部長!」
二人が転送ゲートを通って消える。
部屋には再び、静寂と平和が戻った。
「やれやれ。これでやっと、平和な日常が戻ってくるね」
メルキオラスが茶をすする。
ラズリは真音の膝の上で、おこぼれのグミをもらって喉を鳴らしている。
窓の外には、どこまでも広がる青い空。
地下では魔王がお湯を沸かし、厨房では将軍が肉を焼き、牧場では勇者がスライムを育てる。
そして大家は、こたつで至福の時を過ごす。
それは、バベル・ガーデンに訪れた、かりそめながらも完璧な平和な午後だった。




