第4章 「黒い査察 ― 星を奪う男バドレス」
ホテルガイド階級審査員、バドレス。
その名を聞けば、誰もが震える。
彼が一度でも「星を奪った」ホテルは、翌日には客足が絶えるという。
だが、彼の目は冷たくはあっても、死んではいなかった。
地底湖ホテル《ルミナグロウ》。
彼は“潰すために”そこへ来た。
報酬も名誉も約束されていた。
それなのにホテルの入り口の扉をくぐった瞬間、どこか懐かしい匂いがした。
「いらっしゃいませ!」
明るい声。
笑顔で迎えるミカの姿。
それは、かつて自分が若き日に信じていた“理想の宿”そのものだった。
「ようこそ《ルミナグロウ》へ。お好きな香りのアロマをお選びください」
温もりのある接客、自然光のような照明、どこか懐かしい土の匂い。
滞在初日。
バドレスは部屋の清掃チェック、スタッフの受け答え、料理の提供時間など、
細部まで冷酷に採点していた。
表面上は優しい客を装いながら、内心ではすべてを数値化していたのだ。
しかし、タクミたちの“日本式おもてなし”は、
AIにもマニュアルにも書かれていない「心の温度」を宿していた。
ミカは客室に飾られた花を見て、ふとこう言う。
「この花、きっとバドレスさんの好みじゃないかも……ちょっと変えてこようか」
その小さな気づきが、彼の心にひびを入れる。
地底ホテル《ルミナグロウ》。
夕暮れ、地底湖のほとりにランプが灯ると、
静かな波紋が光を受け、まるで星空が逆さに浮かぶようだった。
客たちは洞窟レストランへと案内される。
そこには、この地でしか味わえない“地底の饗宴”が用意されていた。
まず最初に出されたのは、
【光苔のスープ】
透明な器の中で、淡い青緑の光がゆらめく。
地底湖の湧水で育てた光苔をゆっくり煮出し、
塩ではなく、ミネラルを多く含む地底岩塩で味を整えてある。
ひと口すすると、まるで身体の奥から澄んでいくような優しい甘みが広がった。
次に運ばれたのは、
【岩魚の香草焼き ~洞窟バターソース添え~】
地底湖に棲む岩魚を、地上から運び込まれたハーブで包み、
溶岩石の余熱でじっくりと焼き上げる。
バターは地底の菌から発酵させた特製。
その香りは深く、岩魚の白身に滑らかに溶けていく。
さらに、温かい皿には、
【地底茸と地根菜のグラタン】
薄いクリームソースの中には、ほのかに光る茸と、
この地でしか採れない甘い根菜。食べるたびに違う香りが立ち上り、まるで“味が呼吸している”ようだった。
そして最後のデザート。
【結晶花の氷菓】
地底湖の表層に一夜で咲く氷の花をそのまま閉じ込めた、儚い一皿。
すくうと一瞬で溶け、花の香りが淡く残る。
食後、タクミは席の端に立ち、静かに一礼した。
「この料理は、地底の命そのものです。どうぞ、五感で感じてください。」
その言葉に、バドレスの胸がわずかに震えた。
査察官としての冷たい目ではなく、
一人の“人間”として、心を動かされたのは久しぶりだった。
その夜。
ホテルの部屋に戻ったバドレスは、
ランプの明かりの下で静かに報告書を開いた。
ページの上に、万年筆の先が触れる。
「清掃レベル:S」
床に一粒の埃もなく、湿度管理も完璧。
洞窟という環境下でここまでの清潔さを維持できるとは驚異。
「接客:S」
スタッフ全員が笑顔で迎える。
AIのような機械的完璧さではなく、“人間の温かさ”がある。
客の心を読むような一歩先の気配り。
「料理:S」
地底の素材を活かした創作料理。
どれも自然と人の調和を感じさせ、芸術の域。
そして最後に、ペン先が一瞬止まり
彼は小さく息を吐いた。
「改善点:なし」
彼の指先が止まる。
「……いや、違う。これは……俺の任務じゃない」
任務文書には明確に記されていた。
“星を与えるのではなく、奪え”。
低評価をつければ帝国に戻れる。
高評価をつければ「裏切り者」として抹消される。
どちらを選ぶかで、彼の人生は終わる。
ミカがノックする。
「お休み前に、ハーブティーをどうぞ。 この香り、疲れた心に効くって、お客様に教えてもらったんです」
その言葉が、心の奥に突き刺さる。
“お客様に教えてもらった”
彼女は“人から学んで”いる。
それこそ、帝国では最も忌み嫌われた思想。
彼は昔を思い出した。
まだ査察官見習いだったころ、
小さな宿の女将が言った。
「点数より、人の気持ちを見なさい」
その宿は後に、彼自身の手で“最低評価”をつけられ、潰された。
あの日から、心を閉ざしたのは自分だ。
◇◇◇
その頃、地上のトランプ ラッシュの《ラッシュイン・ゼロ》ホテルは、連日満員。
表向きは繁盛していたが、内部では社員たちの疲弊が限界に達していた。
秘書兼AI戦略担当 ヴァルキュリアが従業員を監視し、
「ノルマ未達、減給」
「笑顔指数70以下、再教育対象」
冷たい声が館内に響く。
トランプは言い放つ。
「感情はコストだ。心は数字に勝てない」
対するタクミは、スタッフを信じ、育て、
「体験」と「感動」で顧客満足を高めていた。
夜更け。
バドレスは鏡の前で、無表情の自分を見つめる。
「……俺は、何を守ってきた?」
報告書の最後の欄、“総合評価”に手を伸ばす。
“☆1”を記入すれば、命は守られる。
“☆5”を記入すれば、真実は守られる。
指が震える。
ペン先が紙をかすめた瞬間、涙が一滴、落ちた。
「……こんな気持ち、何年ぶりだ……」
バドレスは静かにペンを置く。
窓の外には、地底の灯りが星のように揺れていた。
翌朝。
彼はチェックアウトのカウンターで、タクミに深く頭を下げた。
「あなたのホテルの“接客”は……本物だ。 星を奪うことはできなかった」
そう言い残し、彼は闇へと帰っていった。
だがその背中には、確かに人間の温もりが戻っていた。




