第5章 「紅蓮亭、初めてのお客様 ― そして帝都の壁」
再建から三ヶ月。
ついに、《紅蓮亭》の扉が再び開かれた。
だが、その朝、お客様の姿はなかった。
「……今日が初日だってのに、静かだねぇ」
カミーユが湯気立つ茶をすすりながら呟く。
外の通りでは、向かいにそびえる《グランドロイヤル帝都本館》の開業式典が行われていた。
絹の旗、銀の門、楽隊のファンファーレ。
まるで王城の宴だ。
その中心に立つのは、かつての宿敵であり転生者トランプ・ラッシュ。
黄金のコートに真紅のタイ。
背後の巨大スクリーンには、「帝都の未来を泊まる体験へ」という華々しいスローガン。
群衆が拍手する中、彼の視線が一瞬こちらを捉えた。
「……タクミじゃないか」
式典後、ラッシュは軽やかに紅蓮亭の前へ歩み寄ってきた。
久々に見るその笑みは、相変わらず完璧で、どこか人を見下す光を湛えていた。
「まさか本当にやってたとはな。
紅蓮亭の再建なんて、てっきり冗談かと思ったぜ」
「冗談じゃない。ここが俺の“本気”だ」
「ははっ、本気ねぇ……」
ラッシュは金の杖を床にコツンと突いた。
「見ろよ、向かいの《グランドロイヤル》。
客室は四百、魔法温泉付きのスイートに自動給仕メイド百体。
今日だけで予約が八割埋まってる。
お前の宿はどうだ? ガラガラか?」
「……そうだな、今のところゼロだ」
「ハハハ! 楽でいいな。客が来なけりゃ、苦情もない!」
ラッシュは肩をすくめると、従者を連れて去っていった。
その背中を見送りながら、タクミはただ静かに息を吐いた。
悔しさではなく闘志が胸に燃える。
「いいさ……“一人目”を迎えれば、ここから変わる」
夕方。
日が傾く頃、ひとりの旅商人がふらりと門をくぐった。
「すまない、一泊頼みたいんだが……」
「ようこそ《紅蓮亭》へ!」
カミーユの声が少し震える。
スタッフ一同、慣れない手つきで案内を始めた。
だが初日からトラブル続出。
厨房ではスープが焦げ、風呂はぬるく、照明は点いたり消えたり。
「もういい、別の宿に行く!」
旅商人が怒鳴り、荷物をまとめかけたそのとき
「待ってください!」
タクミは土下座に近い姿勢で靴を取った。
「この靴、泥で汚れていますね。
せめて磨かせてください。それが、宿の務めです」
旅商人は呆れたように見つめたが、やがて腰を下ろした。
タクミは丁寧に布を動かし、光沢を戻していく。
「お茶をどうぞ」
カミーユが温かい茶を差し出す。
リタが焦げたスープの代わりに作り直した一皿を出す。
その空気に、次第に笑顔が戻っていった。
「……悪くない宿だな。久々に人の温もりを感じたよ」
翌朝、旅商人は静かに去っていった。
数日後、《帝都商人連盟》の掲示板に、一つの書き込みがあった。
「向かいの豪華ホテルよりも、心が落ち着く宿があった。
料理は素朴だが、笑顔が本物だった。
名前は《紅蓮亭》。おすすめだ。」
その書き込みが、帝都の風向きを少しだけ変えた。
口コミが、火のように広がり始める。
だが同時に、帝都の“壁”はさらに厚くなる。
《グランドロイヤル》は宣伝攻勢を仕掛け、宿ギルドは再び圧力をかけてきた。
それでもタクミは言った。
「俺は金じゃなく、“心”で勝つ。」
そう宣言したその夜、
《紅蓮亭》のランプが、確かに一段と明るく灯った。
ワンポイント解説
■最初の一人の力
事業再生の現場では、最初の顧客体験こそがブランドの根幹を作る。
派手な宣伝より、“心に残る接客”が口コミを生み、
やがて帝都全体に広がる「信頼」という無形資産を育てていく。
紅蓮亭の再生は、まさに“人の心を資本に変える”挑戦の始まりである。




