西糖未千流の死
フェロッソフを格納していた建物が地面に潜り込み、そこに地面がズルズルと引き込まれていく。金属の塀がボロボロになり、フェロドゥワームだった物がその塀を破って外に飛び出していた。それらはその外殻を失いながら体内の酸を噴き出して周りの地面を崩し、空気中には喉を刺激するガスを充満させていた。
よりによって陽大は何だってこんな時に…
陽大も香菜も中心部に近い場所にいるので、急いで離れなければ巻き込まれてしまう。
ミチルは瓦礫に足を取られながら崩れた塀を持ち上げた。陽大の身体に覆い被さる瓦礫を取り除いて、その身体を抱えて飛び上がると、一旦香菜のところへ戻る。そして陽大の身体を右脇に抱え直し、左手を香菜の身体に回して飛び上がった。
自衛軍と救急隊が被害者を集めている広場を確認し、その近くの安全そうな場所に2人の身体を下ろす。
香菜はミチルのフェロモンにあてられ、意識が混濁しているが外傷はそれ程でもない。
陽大の方は顔面蒼白になっており、右腕の傷から酷く出血していて一刻を争う状況であることが見て取れた。
サキュバスは感覚的に相手の生命力を感じ取ることが出来る。対象が獲物であればそれは美味しそうかどうかと言う感覚でそれを感じ取る。ミチルは女性専門なので男性に対して美味しそうかどうかと言う判断はしないが、それでも生命力の大小は一目見て判断できるようになっていた。
陽大の生命力は極限まで下がっている。
ミチルは左腕の槍を延ばすと陽大の腹にそれを差し込み獲物に対するのと同様にエネルギーを注入した。出来る限り多く!
それがどういう効果をもたらすかは解らないが、無意識に取った行動が功を奏したようだ。陽大の顔に赤みが刺してきて、生命力が戻っているのを感じた。
ミチルは左手の槍を戻すと、クラっと眩暈のようなものを感じた。ああ、欠乏症状だ。
香菜ちゃん、ごめんね。
ミチルは小さく呟くとすぐ横にいる香菜の首筋に吸い付いた。
香菜の精魂を吸い取るにつれ、フェロモンの欠乏状態が収まっていく。
ミチルは恍惚とした表情をしている香菜の首筋から唇を放すと、やさしく額の汗を掌で拭った。そして香菜のお腹に左手の槍を差し込んだ。
暫くすると、香菜の泳いでいた視線が定まり、ミチルの顔を不思議そうに見るようになった。
「…未千流姉ちゃんなんだよね。ヨウちゃんは大丈夫なの?」
「陽大なら大丈夫よ、落ち着いたみたいだから。それよりもね、これからしなくちゃいけないことを伝えるからしっかり聞いておいて」
香菜はそれ以上質問することなく、黙って頷いた。よし、いい子だ。
「香菜ちゃんはこれからこの先に居る救助の人のところに行って、陽大がここに倒れているから助けて欲しいって伝えるの、それでその後わたしがまだこの先に居るはずだから見付けて欲しいって言うの」
「未千流姉ちゃんを見付ける?」
「そう、あなた達を助けて、その後別の人を助けに戻ったって事にしてくれればいいわ」
「それだと…」
「そうそれでいいの、わたしはこんな変な恰好していないし翼も生えていない、香菜ちゃんが良く知っている普通の西糖未千流なのよ。いいわね」
ミチルがパンと手を叩くと、香菜の目はもうミチルを見ていなかった。
自分の横に大怪我をした陽大が倒れている、ここに運んでくれた未千流姉ちゃんは事故現場に戻って行っちゃった…。
香菜が足を引きずるように少し歩くと、自衛軍の兵士が駆け寄って支えてくれた。
「君、大丈夫か。怪我をしているね」
香菜は急に何かがこみ上げて来て涙があふれてきた。何だろう…、何か大切なものを失った気がする。そうだ、未千流姉ちゃんだ。未千流姉ちゃんがまだ向こうに…。
香菜は泣きながら陽大の救助を頼み、未千流がまだ事故現場に残っていることを伝えた。
陽大がぼんやりした頭のまま目を開けると、自分が水色のカーテンに囲まれたベッドで横になっていることに気が付いた。左腕には点滴の針が刺さっており、規則正しい心電図の音が聞こえる。どうやら病院のベッドの上にいるらしい。
そうだ、香菜と2人で陽明町の事故現場に行って事故に巻き込まれたのだ。
陽大は身体をガバッと起こすと周りを確認した。
「陽大、気が付いたのかい」
声の方に目をやると、母親がくしゃくしゃになった顔をして陽大を見下ろしていた。そしてゆっくりと陽大の身体を抱きしめる。
その手が小さく震えているのを感じると、陽大は親に心配を掛けてしまった事を実感した。
「香菜ちゃんは大丈夫だったの? 一緒だったはずなんだけど」
「この子は全く、自分のことより香菜ちゃんのことなのかい…。香菜ちゃんなら大丈夫だよ。一応検査を受けたけど問題ないって言われて、その日のうちに帰ったから。まったくアンタは2日も寝ていたんだよ」
母さんは陽大の身体から手を離して、目頭に手を当てた。
「え? 2日?」
「そうだよ、本当に心配ばっかりかけるんだから」
「そういえば、姉ちゃんは…」
陽大の脳裏に姉に助けられた記憶が朧げに浮かんだ。塀の下敷きになってああ、もう駄目だと思った時に、未千流がその塀を取り除いてくれた。
「あんた、どうしてそれを。何か覚えているのかい?」
「なんかあの時姉ちゃんに助け起こされたような気がするんだけど…」
「…、今言うつもりは無かったんだけど、いずれ解ることだからね。お姉ちゃんはまだ行方不明なんだよ。あんたと香菜ちゃんを助け出して、その後何故か戻っていったらしいんだ」
「携帯は…」
「携帯は荷物と一緒に事故現場で見付かったって…。でもまだ遺体が見付かったわけじゃないから…」
母親の目からは大粒の涙がこぼれた。
「…あの子がそんな正義感のある子だったなんて。それでもあんたが、こうして無事でよかったよ」
母親はそう言って立ち上がった。
「あんたが目を覚ましたって、…お医者さんに言ってくるよ」
医者の話によると、救急搬送されてきた時の陽大の状態は異例尽くしだったそうだ。救急隊員によると外見から判断する状態より身体的には安定しており、処置も軽めで搬送されたらしい。
病院の検査で骨折の跡が確認されたが、既に癒合が始まっており今回の事故での骨折ではないと判断された。酷い出血跡もあったがそちらの傷も塞がりつつあり、大きな治療の必要が無かったという。
失血による血液量の不足を補うための輸血と、体力回復や感染症予防などの点滴をして意識が戻るのを待っていたとのことだった。
「それで、これは何なんですか?」
陽大は自分の右腕を持ち上げて医者に見せた。
「何かの後遺症か、今回の事故現場の化学薬品によるものなのか今のところ解らないが、ホルモンの異常が確認されているね。君のその異常な回復力に何か関係があるのかもしれない。怪我をしたところが毛深くなっているようだが、しばらくすれば収まるのではないかと思っているよ」
医者はレントゲンのモニターを確認しながら、納得が行かないという顔をしている。
「そんなものなんですか?」
「しばらく様子を見て戻らないようならその時に相談しよう」
陽大は自分の腕をまじまじと見た。毛深いというレベルではなく動物の毛が生えているようだった。
しかし、そんな毛深い症状も1週間ほどでほぼ無くなり、2週間後には無事に退院することが出来た。
そしてそうこうしているうちに受験していた大学の結果も出たが、残念ながら不合格になっていた。
学費を当てにしていた姉の未千流が行方不明になり、学費の件もはっきりしなくなったので陽大は母親の態度が硬化するかと思っていた。しかし陽大が浪人の件を母親に相談しても強く反対されることは無かった。
「ヨウちゃん浪人出来ることになったんだって」
「そうだね、なぜか1年だけならOKって事になったよ。それでだめなら諦めろって言われてるけどね」
3月になって寒さも緩み、今日の日差しは気持ちがいい。
香菜が陽大の家に見舞いに来たのだが、陽大が外に出たがったので、近くの児童公園まで散歩に出ることにした。
「未千流姉ちゃん、まだ見付からないんだよね」
ブランコが空いていたのでそこに座ると、子供の時と違って足が余る。
「そうなんだけど、なんか死んだっていう実感無いんだよな。なんかどっかで生きているような気がして」
「実はあたしもそうなんだ。何故かそんな気がするのよ」
香菜は冬空の、力ない太陽を見上げた。
「実はさ、俺、あの日姉ちゃんに空を飛んで運んでもらった気がするんだ」
「何それ」
「いや、それが姉ちゃんに羽が生えてて天使みたいになってて…」
「ヨウちゃん何言ってるの」
香菜がプッと噴き出すと、陽大は支えていた足を放して勢いよくブランコを動かした。赤い目の天使が助けてくれた筈なのだ。




