夜の海、流れ者の剣士
夜の潮の香りが鼻を刺し、湿った風が甲板に座る男の頬を撫でる。甲板に座り込んだ彼は、ぼんやりと夜の海を眺めていた。
男の名は銀次。
白鞘の刀を携え、長い髪を適当にまとめあげ、
いかにも適当な男ーーー
空はどんよりと曇り、黒い雲の向こうで雷が蠢いている。
「ずいぶん落ち着いてるな、異国の剣士さんよ」
低く渋い声がかかった。話しかけてきたのは、この船の船守――がっしりした体つきに、腰には長い大刀を佩いている。
銀次は、ちらりと視線を向けた。
「別に、騒ぐほどのことでもねぇだろ?」
気の抜けた声でそう返し、月を眺める。
船守は苦笑しながら、銀次の横に腰を下ろした。
「お前、この船がどこを通ってるか知ってるのか?」
「さあな。ただ乗せてもらっただけだ」
「……嵐海だ」
銀次は興味なさげに酒を飲む。
「……聞いたことねぇな」
「だろうな。ここは旅慣れた連中ですら避ける場所だ。昔、ここには黒耀艦っていう戦船が沈んだんだ。そこに乗ってたのは、名だたる剣士どもよ」
「へぇ、そいつはァ物騒な話だな」
銀次は肩をすくめる。船守は腕を組み、どこか言いにくそうに言葉を継いだ。
「……そいつらはな、まだこの海を彷徨ってるって話だ」
「亡霊ってやつかい」
銀次は呆れたように鼻を鳴らした。
「そんなのが出たら、拝んでから寝ることにするぜ」
「……まあ、そう言ってられるのも今のうちだ」
船守は遠くを睨む。銀次もつられて海の向こうを見やった。
すると、暗い海の上に――奇妙な影が浮かび上がっていた。
それは人の形をしていた。だが、どうにも違和感がある。雷が光り、一瞬だけ姿がはっきりと見えた。
「おーおー、ここァ死んでも極楽浄土にァ行けねぇ場所かい...」
銀次はため息をつくと、腰の刀に手をやる。
「……まァ。月を眺めて酒を喰らおうかと考えてたが悪酔いしそうだと思ってたんだ、ちったァ暇潰しになるか」
その言葉が、嵐の幕開けだった。