7.魔人と聖者
私がこの力を自覚した日のことは今でも明確に覚えている。
いつだって私の頭に残るのは、力なく横たわる小鳥の姿とお父様の厳しい視線。
聞けば、ひそかに使用人達の間では噂になっていたのだそうだ。
私の生家は、よく動物達が行き倒れているのだと。
私が庭にいた後はなおのこと。
庭師たちの間では有名な話で、誰もが不気味がって近寄りたがらない。
決定的な出来事は、私が10歳の頃に起きた。
ポトリと私の目の前に落ちてきた熟れたりんご。
それを啄んだ小鳥がほどなくして、パタリと倒れたのだ。
家族全員が揃った、そのタイミングで。
『一家の恥さらしが』
今までになく怖い顔をしたお父様の声を覚えている。
この身一つで投げ出されたあの時の悲しみを、覚えている。
私に同情し、気持ち程度の荷物をそっと差し出してくれたお母様のあの悲痛な顔も、何もかも。
私は、生命を奪い取る毒りんごの魔女。
事実を知り、震える手足で這うようにして森の奥深くに逃げ込んだ。
その時の感覚を、一度だって忘れはしない。
「っ、ご、ごめんなさ……っ」
手の中で崩れていく小鳥の感覚を思い出して、私はバッと身を起こした。
ゼイゼイと荒く息を吐き出しながら、朝陽を受けてようやく夢だったのだと悟る。
「……忘れてなんて、いない」
悲しく笑って、息を整えた。
最近、あまりに多くの人が優しさを与えてくれたからなのだろう。
もしかすると、これは天からの忠告なのかもしれない。
身の程をわきまえろと言われているように思えて、ツキンと胸が痛んだ。
「準備、しなきゃ」
切り替えるように頬を叩いて目を覚ます。
いつもと同じように給仕服に着替えて、リボンを結んだ。
……真っ白な髪飾りは、なんだか手が出しにくい。
「ごめんなさい」
一瞬、宰相様の顔が頭によぎり意味も無く謝る。
髪飾りを手に取る勇気は、今日は湧かなかった。
「見て、またいるわよ。あの魔女」
「本当、朝早くから何をするのかしら」
……こんな日は、なおのこと人々の声が心に刺さる。
いけない、切り替えなきゃ。
女王様にこんな顔見せられない。
そう思いながらも、顔がどうしても曇ってしまう。
「……しまった」
さらに運の無いことに、昨日干したはずの布巾を回収し忘れてしまっていた。
目の前にあるのは、畳んでおいてあったはずの布の残骸だ。
足跡が大量に付いて、汚れきったそれらが散乱している。
私に対する不信の表れなのだろう。
くすくすと、遠くで笑い声が聞こえる。
どこまでも人を不快にさせてしまう自分が情けなくて、笑うしかない。
乾ききった、虚しい笑いだ。
そうするとバサバサと音が鳴る。
いつものようにどこからともなく現れて、黒カラスが肩に止まった。
「何を笑っているの。怒っても良いんじゃないの?」
小声で憤慨したように囁くものだから、肩の力が抜ける。
ふっと息を吐き出すと、それも気に入らなかったのかカラスは責めるようにクチバシで優しく私を小突いた。
「情けないところばかり見せていますね」
「別にそれは良いけれど。どちらかと言えば怒っているかな」
「やっぱり、貴方は少し私に優しすぎます」
「貴女には言われたく無いよ」
私の心を拭うように怒ってくれる彼に、自分勝手に救われる。
思わず笑みが零れるほどに。
「殿下は、女王様と似ていますね」
温かくて、優しくて、引っ張り上げてくれる。
私自身でさえ嫌になる私を、それでも大事にしてくれる。
私なりの最上級の感謝の気持ちを伝えれば、何故だかルイ殿下はそれまで以上に憤慨したようにそっぽを向いて低い声を出した。
「貴女は時々とても意地悪だよね。私は陛下の模倣品では無いんだけど?」
「そ、そのようになど思っていません。申し訳ありません、他に思いつく言葉が無くて」
「うん、貴女のその陛下至上主義が本当に気に入らない」
「それは、その」
「拗ねてるんだけど。伝わってないね、どうにも」
バサバサと羽を広げて、殿下は肩から腕の方に降りてくる。
慌てて両手を添えて抱き込めば、胸元に頬ずりするように丸まった。
そういうところが、やっぱり可愛い。
口には絶対、出せないけれど。
「申し訳ありません。もっと真っすぐな言葉を選ぶべきでした」
「良いよ、もう。悔しいけど、陛下に少しでも並び立てているのなら嬉しいのも事実だし」
再度謝れば、苦笑交じりに声が返される。
黒カラスの姿だから表情は私には分からない。
けれど、どことなく表情が見えるような、そんな声色と口調にほっと安堵した。
ルイ殿下は、その後胸元から飛び立って、人の姿へと変容する。
散乱していた布を一緒に拾い上げて、籠に詰めてくれた。
「さて、さっさと片付けようか」
「え……、だ、駄目です。ルイ殿下にそのようなことさせられません」
「心配無用。これでも騎士訓練受けているし、野宿とか自炊とかも経験済みだよ。ほら」
「殿下! こ、困りますから!」
「今すぐ私をルイと呼び捨てて敬語を無くしてくれるなら、見守ってあげるけど?」
必死に止めようとする私をひらりとかわして、殿下がジャブジャブと布を洗っていく。
強引なところがあると、そういえばウィリス殿下も仰っていた。
けれどこのまま殿下に洗い物をさせるのは流石に良くない。
「殿下、私が洗いますから!」
殿下からひったくるように籠を取り上げて座りこんだ。
譲らないぞと、強い視線を向ければ、そこでようやく満足したようにルイ殿下がにこりと笑う。
「貴女のそういう顔は初めてだ」
そうしてようやく手を離して、カラスの姿に戻った。
定位置である私の肩へと戻る。
「仕方ない。見守るとしようか」
「そうしてください……心臓が持ちません」
「あはは、それは何より」
笑い声をあげて、それ以上は沈黙が続く。
けれどそれは決して嫌な空気感では無かった。
「殿下は、不思議な方です」
ぽそりと呟く。
温かくて、可愛くて、強引で、傍にいると忙しい。
殿下からの返事は無くて、代わりにいつものようにクチバシで頬ずりされる。
熱くなる頬を、抑えることは出来なかった。
「さすが、女王陛下唯一の侍女殿は仕事が早いね」
「そのようなことは」
「今度はいらない邪魔が入らないように」
真っ白とまではいかずとも、ある程度汚れの落ちた布巾を再び干そうとした頃。
感心したような声を上げたルイ殿下が、布巾の入った籠に足をかけた。
カラスの姿でジッと中の布巾を眺めているかと思えば、どこからともなく風が吹く。
ふわふわと操られたように付近が籠の中で舞うのは程なくしてだ。
驚いて私は固まる他ない。
水を吸い込んで重くなっていた籠が一気に軽くなっていく。
普通ではあり得ない速度で布が乾いていくのが分かった。
「こんなところかな」
「で、殿下。これは」
「貴女達の言うところの魔の力かな? 実は私、風を操るのも得意でね」
さらりと言うものだから絶句して言葉が出てこなかった。
カラスに変容する力に、風の力、そういえば以前謁見の間では空間転移も出来ると言っていた。
もしかすると、この方は女王様と同じくらい、いや、下手をするとそれ以上に強い力を持っているのかもしれない。
「怖いかい? 私の魔の力が」
ふと殿下はそんなことを言う。
きょとんと殿下の姿を見下ろし、私は苦笑した。
迷いなく首を振る。
怖いだなどと、考える暇もなかった。
思えば、ルイ殿下はいつだってカラスに変わったり人になったり、私の前では力を使っているのに、一度だって頭にすら浮かばなかったのだ。
「きっと、ルイ殿下は皆の前で力を使っても、魔だとは言われないのでしょう」
「そう? そんなことは無かったけど」
「殿下の力は、優しい力です。誰かを傷つけるための力ではない」
殿下自身の気性が力にも反映されているのだろうか。
ふんわりと香る石鹸が、なおさらそう思わせるのかもしれない。
殿下が乾かしてくれた布を丁寧に畳んで整える。
その間、カラスの姿のまま殿下はきょとんと目を丸めて首を傾げているように見えた。
その様があまりに可愛らしくて、笑うのを思わずこらえる。
ああ、殿下の前では不思議と笑顔が増えるな。
その理由に気付き始めているけれど、そっと蓋をする。
あまりに分不相応な気持ちに思えて、それこそ怖かったのだ。
「宰相様が仰っていました。ルイ殿下は覚悟と努力の方だと。私もそう思います」
「ええ……宰相様が言っていたから?」
「宰相様がきっちり言語化してくださったと言った方が良いのでしょうか?」
「何か面白くない」
「ふふ。けれどルイ殿下の在り方は、私にとってはとても眩しく、憧れです」
「っ、それも誰かからの受け売り?」
「いいえ、私の正直な気持ちです」
「……やっぱり、貴女は狡いよ」
照れているのか、ぷつりとそのまま言葉を閉ざす殿下がやっぱり可愛い。
ふっと笑いながら、殿下ごと籠を大事に抱え込む。
今日見た夢の悲しみは、どうやらルイ殿下のおかげで柔く溶けたようだ。
少し私も前向きな気持ちになって、足取りが軽くなる。
「あ……姫様」
そうして中庭の脇を通りかかれば、そこにはいつものように姫様がいた。
透き通った声で、天を仰いで歌を歌っている。
呼び寄せられるかのように、多くの鳥たちが集まっていた。
傍にはウィリス殿下も椅子に腰かけ、目を閉ざして微笑んでいる。
何とも絵になる風景だ。
多くを惹きつけ癒す、姫様の声。
人とも動物とも縁を結ぶ、強い力。
歌声を聴いていると、私自身もふわふわと心が浮くように感じる。
心地よくて、キラキラとして、姫様はやはり紛うことなく聖者なのだ。
「あら、ルル! 最近はよく会えて嬉しいわ」
こちらに気付いた姫様が顔色を明るくさせて駆けてくる。
頭を下げて挨拶すれば、姫様はきょとんと私の肩に乗るルイ殿下に視線を向けた。
カラス姿のルイ殿下をじっと見つめて、ふふっと笑う。
「ルル嬢、いつも世話になっているね」
気付けば近くにウィリス殿下もいて、ウィリス殿下は苦笑していた。
視線はやっぱりルイ殿下の方。
お2人の視線を受けても、ルイ殿下は「カア」としか鳴かない。
思い返せば、ルイ殿下は私や女王様の前以外ではカラス姿で言葉を発することがないのだ。
どうしてだろうかと疑問に思うけれど、頑なに喋らないルイ殿下の様子を見れば何か事情があるのだろう。
何かを伝えることは無く、再び頭を下げた。
「邪魔をしてしまい、申し訳ございません。すぐに去りますので」
いつものように言葉を紡げば、何故だかルイ殿下から小突かれる。
意図が分からず戸惑えば、助け船を出すようにウィリス殿下が声を上げた。
「ルル嬢。邪魔になどなっていないから、そう恐縮しないでくれると嬉しい。君からは女王陛下の話も是非聞きたいんだ。深く信頼されているようだからね」
「私もよ。お義母様のこと、私にもぜひ教えて頂戴」
ああ、とても眩しい。
思わず目を細めてしまう。
未来は明るい。
このお2人が率いるこの国はきっと良い国になるだろう。
女王様のことも、きっと大事にしてくれる。
その時、女王様の心はようやく落ち着くだろうか。
先王のことだけを想い、穏やかな気持ちでご夫君を思い出せるようになっていれば良い。
鏡よ、鏡よ、鏡さん。
そうして絶望に染まった女王様のあの表情は、もう見たくない。
「私に出来ることならば、何でも。どうか女王陛下のことを今後もよろしくお願いいたします」
初めて託すような言葉が、口から零れた。
驚いたように目を丸めたのはウィリス殿下と姫様の方だ。
ふっと笑んで、頭を下げる。
「陛下がお待ちですので、失礼いたします」
言葉を一度切って、足を引く。
今度は引き留められることなく、そのまま去った。
「使い方次第だよ、何事も」
いつもの女王様の部屋への道中、2人きりになってルイ殿下が呟く。
「え?」と聞き返せば、ルイ殿下は続けた。
「白雪姫の力も、女王陛下の力も、私の力も、貴女の力も。使い方、見え方で、全てが違ってくるものだ」
耳に届いた言葉に、思わず足を止める。
魔と呼ばれる力を持ちながらも、人の為になる力の使い方をしているルイ殿下。
人々から理解を得らえるよう、きっと裏では相当な努力をしたのだろう。
だからその言葉を否定できる術は私には無い。
けれど、一緒にして良いのだろうか?
皆の力と私の力は、きっと本質的に違う。
どう頑張っても、越えられない一線がそこにはあるように思えてならない。
「……私でも、力を制御できるでしょうか? 傷つけない力に変えられるのならば」
願っても願っても叶わなかった思いを口にする。
言葉になったことを私自身が驚いた。
言っても仕方ないと、ずっと口にすらできなかったことだ。
「一緒に考えよう、ルル。貴女がそれを望むのならば」
否定することなく寄り添う言葉に、思わずホロッと涙が零れる。
驚いたように腕の中に飛んできて伺う様子のカラスを抱き込んで、こぼれそうになる嗚咽を押し込んだ。
今ほど、自分を変えたいと強く思った瞬間はなかった。
頷いて泣き続ける私を、ルイ殿下は静かに見守り続けてくれる。
誰よりも一歩遅れてようやく訪れた、私の決意だった。