6.ルイ殿下を取り巻く世界
女王様は笑うことこそ滅多に無いけれど、そう簡単に機嫌が悪くなることもない。
いつだって難しい顔をしてはいるけれど、感情を抑え込むことがとても上手な方だ。
だから、私はどうにも落ち着かず見つめてしまう。
先ほどからひどく不快そうに眉を歪ませ押し黙る、私の主を。
「ルル、お茶を頂戴。とびきり苦いのが良いね」
「はい、すぐに。あの、女王様」
「心配いらないから、さっさと動く」
「は、はい」
ここまで苛立っているのは中々珍しい。
女王様が好きなあの茶葉をとびきり濃くするのは、女王様が精神を落ちつけたい時限定だ。
「ああ、苦いね。全く、よくこんな苦い茶を作れるもんだよ」
はたから聞けば悪口にしか聞こえない言葉を、心底顔を歪めて女王様が呟く。
素直じゃない女王様が、こういう時は少し可愛く見えると思うのは不敬だろうか。
悪態をつきながらも、丁寧に飲んでゆるく息を吐き出すのだ。
いつだって残すことはない。最後まで大事に飲むのを知っている。
「何か、ありました?」
声を上げれば、決まって女王様は「何でもないよ」とつっけんどんに返す。
こういう時に力になれないのが、歯がゆい。
何か力になれれば良いのに。
やっぱり私ももう少し学を身に着けるべきだろうか。
せめて話相手にでもなれれば、少しは楽になるかもしれない。
まあ、一介の侍女に過ぎない私に話せる内容は限られているだろうけれど。
「ところで」
と、そこで私を責めるように声が返った。
女王様がじっとりと私を見つめている。
正確にいうならば、私の肩だ。
「どうして当たり前のようにいるんだい、黒カラス」
「カア」
「馬鹿にしてんのかい!」
「嫌だなあ、軽い冗談ですよ陛下」
ようやく私は、ルイ殿下の存在を思い出した。
そういえば、お茶を淹れ始めたあたりからやって来ていたのだ。
長く黒カラスとして私の肩に止まるのが当たり前になっていたから、なかなか認識が追いつかない。
「あの、殿下」
「殿下は止めて欲しいかな、貴女には名前で呼ばれたい」
「いえ、ですが」
「貴女が委縮しないようにと努めてこの姿で側にいるのですよ。褒めてほしいかな」
「それは、その、ありがとうございます」
「流されてるんじゃないよ、ルル」
呆れたように女王様が私を窘める。
肩に止まるルイ殿下は、やっぱりあははと笑い声をあげたまま。
少しだけ賑やかになった女王様のお部屋は、変わらず温かい。
「はあ、どっと疲れたよ。馬鹿馬鹿しい」
「良いではないですか、陛下。私とて、貴女の身を案じる者。少しは頼っていただきたいものですが」
「死んでもごめんだね」
「相変わらず手厳しい」
そうしてパッと飛び立つと、その身を変えてルイ殿下の姿へと変貌する。
先ほどまで私の肩に止まっていたとは思えない、背高の美男子だ。
「冗談はこの辺にしておいて。本来の役割も果たしましょう」
「……ルル、仕事の話だ。席を外しなさい」
「はい、かしこまりました」
声色の変わった女王陛下の声に、私はそれ以上何かを問うこともなく頭を下げる。
いかに女王様の側にいる者とは言えど、こういった線引きは必要だ。
申し訳なさそうに眉を下げるルイ殿下にも軽く頷いてから、部屋を後にした。
「洗い物を、済ませてしまおうかな」
思いがけず出来た時間に、そう思い立って給仕室へと向かう。
中々追いついていなかった汚れの目立つ布たちを、籠に詰めて水場へ。
幸い人の気配が無くて、今日はゆっくり洗うことが出来そうだ。
”救われたと思うよ、きっと”
作業に没頭していると、不意にルイ殿下がかけてくれた優しい言葉を思い出す。
私の気持ちを否定することなく拾い上げてくれた優しい方。
ふっと笑みが浮かぶ。
あの夜、一緒に過ごした時間は少しだけ私の中でも特別だ。
特別、優しい時間だった。
「また、会えるかな」
分不相応な願いに、ハッと我に返り顔を赤らめる。
思わず声になっていたことに気付いて、慌てて周りを見渡した。
人の気配は相変わらず無い。
ホッとして気を引き締める。
「あら、やっぱり……ルル!」
「君が噂の。こうして話すのは初めてかな、ルル嬢」
籠を抱えて戻る道中、姫様とウィリス殿下に出会った。
どうしてここに……とは口に出さず、頭を下げる。
私はいつも通り人の少ない道を歩いていたから。
お2人がよくいる場所とは、少し離れているはずだ。
「大きな籠を抱えてどうしたの? あら、中身は空なのね」
「はい、今しがた洗い物を終えて干してきた所です」
「そうなの。貴女は本当に働き者ね、いつもありがとう」
「いえ、とんでもございません」
いつもと変わらず明るく優しい姫様。
その横でウィリス殿下が興味深そうに私を見つめている。
キラキラと輝くような笑顔はとても眩しくて、姫様ととてもお似合いだ。
「弟から話は聞いているよ、いつも世話になっているようだね」
そうして何気なく言われるものだから、私はビクリと体を震わせた。
この方はルイ殿下のことを、どこまでご存知なのだろうか。私のことをどう思っているのだろう。
カラスとして共にあったルイ殿下のことは知っているけれど、王子様としてのルイ殿下のことは何も知らないのだ。
「えっと、その」
「我が弟ながら奔放な性格でね、君のことを随分と振り回してはいないか?」
「いえ、そのようなことは」
「ならば良いが。強引な所があるだろう、ルイは」
親しげにルイ殿下のことを語るウィリス殿下。
少し呆れたように笑うその目尻がルイ殿下とよく似ている。
本当に、仲の良いご兄弟なのだろう。
少しだけ、緊張が解れた。
「ルイ殿下は、優しい方です。私と同じで、けれど違う。あの方も眩しい方です、ウィリス殿下や姫様と同じく」
ルイ殿下と、黒カラス。
少しずつ結び付いてきた2つの思い出を頭に浮かべて、返す。
お2人揃ってきょとんと目を丸めるのが何だかおかしい。
どうやら自覚はそこまで無いようだ。
何とも微笑ましく思えて、フッと肩の力が抜けた。
再び頭を下げて、その場を去る。
今までで一番自然に姫様達と会話が出来たような気がする。
その事実に内心安心しながら、歩を進めた。
程なくして、バサバサと大げさに音がする。
どこからともなく現れた黒カラスが、変容した。
「少し、狡くないかい?」
「る、ルイ殿下。またいきなり」
「私への賛辞を、私よりも兄上に先に告げるの?」
「っ、ま、また会話を聞いて……!」
「狭量な男だと詰ってくれても良いけれど」
拗ねたように声を上げるルイ殿下は、本当に表情が豊かだ。
妙に感心してしまい反応を見せない私。
殿下はなおのこと顔を歪める。
「ルイ! ようやく見つけた」
バタバタと足音が響いたのは次の瞬間だ。
振り返れば、先ほど別れたはずのウィリス殿下と姫様がいる。
途端にルイ殿下の表情が貴公子然とするのだから、この方はとても器用なのだろう。
「兄上、どうされました? 白雪姫まで」
「どうもこうも、お前は本当にすぐ居なくなるからな。相談するにも気軽に出来ないではないか」
「呼び鈴お渡ししているはずですよ、お呼び下さればすぐ伺います」
「全く」
「まあまあ、ウィリス様。こうしてルイ様も見つかったことですし」
「しかしソフィア」
「ありがとうございます、白雪姫。兄上のもとに貴女が居てくれると私も安心しますよ」
そうしてよく見る光景に早変わりだ。
3人ともよく笑い、よく話す。
そこに陰は見当たらなくて、私も安心した。
これ以上ここに私がいるのも邪魔になるだろう。
そっと去ろうと足を引く。
すぐに気付いたのは、ルイ殿下だ。
「ルル嬢、女王陛下が心配していたよ。このまま真っ直ぐ戻ると良い」
どのような状況であっても気遣いを忘れないのがルイ殿下らしい。
苦笑しながら、頷く。
「ありがとうございます、すぐに向かいます」
頭を下げて、お3方を見上げれば、なぜだか全員苦笑していた。
それぞれ、何か言いたげに眉を寄せて。
「ルイを探そうと思った時には、まず君を探すことにするよ。詳しくはまた今度、ルル嬢」
唯一、ウィリス殿下だけが言葉にして下さった。
畏れ多い言葉に、反応に迷って、結局再び頭を下げる。
動揺を悟られる前に、その場を去った。
「お前、ずいぶん顔が強張っているのではなくて?」
「え!? そ、そうですか?」
「……あの黒カラス」
「い、いえ、そうでは無くて」
「はあ、もう良い。お茶を頂戴、普段通りの濃さで良いから」
「は、はい!」
女王様には随分と怪訝な顔をされてしまった。
顔が強張ってしまうのも仕方がない。
こんな感情初めてで、どう捌けば良いのか分からない。
時間差で、動揺が表に顔を出した。
拗ねたあの顔が頭に焼き付いて離れない。
「いくら何でも失礼すぎるよね、可愛いだなんて」
初めて黒カラスの正体を知った時にも見た顔。
他の人の前では決して見せないような、ルイ殿下の意外な一面。
成人男性に使うには、きっと不相応な感想を押し込めて、緩みかける表情を隠すのが難しい。
人の感情の幅を、ここまで多く感じ取る機会だなんて無かったから、なおさら膨れた気持ちを処理出来なかったのだ。
隠すように手で顔を覆って深呼吸。
そうして何とか気持ちを整えて、茶葉を手に取る。
「……駄目よ。これ以上は、贅沢」
自分に言い聞かせて、視線を外へ。
窓から大木の葉が目に映って、ようやく冷静になった。
悲しく笑んで、壁にもたれる。
「あの方々に陰をさすようには、なりたくないなあ」
呟いて、自分の手を握った。
外の景色を見つめれば、いつだって思い知る。
至るところに生えている木々が教えてくれる。
「忘れてなんて、いない」
幸せな思い出が増える分だけ、不安も増える。
魔の力を宿してしまった私の力は、いつ暴走してしまうか分からない。
どうしたって考えずにはいられない。
「……せめて制御できたなら」
虚しく響いた言葉に首を振る。
今度こそ深呼吸で気持ちを整えて、ワゴンを押した。