1.もしかしたらの物語
鏡よ鏡よ、鏡さん。
世界で一番美しいのは誰?
返ってきた答えに、その人は絶望したように笑った。
音もたてずに、涙を流し笑っている。
「女王、陛下……」
言葉にならない絶叫が聞こえた気がして、思わず駆け寄った。
大層な不敬だと分かっていながら、手を伸ばさずにはいられない。
それほどに、女王様は苦しんでいるように見えたから。
「精霊。私の、精霊」
ぎゅうっと、骨が軋むほどに強く強く抱きしめられる。
縋るように抱きしめられたのは初めてのことで、嬉しかったのと同時に悲しかった。
この優しい人をここまで苦しめてしまうこの世界が、悲しい。
「お前は離れていかないわね、ルル」
「……はい、ずっとお傍にいます。ローザ様」
ぎゅっと、抱きしめ返して私は願う。
少しでも、この人の心が穏やかになってくれるようにと。
私に出来るのは、願うことだけだから。
バサバサといつものカラスがどこからともなくやってくる。
女王陛下を心配するかのように、くるくると飛び回り、近くの足場に着地した。
「ありがとう。貴方も一緒にいてくれるのね」
漆黒の鳥は私の言葉に呼応するように、カァと一声あげた。
ふっと、こんな状況でも笑んでしまう。
「大好きですよ、女王様。世界で一番」
「……ふん、当たり前のことよ」
少しだけ落ち着いたのか、いつもの調子を取り戻した女王様が涙を隠すように顔を背ける。
ほどなくして離れていく優しい香りに、静かに頭を下げた。
顔を上げれば、そこにはもう弱った姿の主はいない。
凛と背筋を伸ばして立っている。
ほのかな灯りしか存在しない部屋の中、それでも彼女は私にはとても眩しい。
近くのテーブルの上には、丁寧に籠に敷き詰められた毒りんごがあった。
私が生んでしまった、私がこの世界で何よりも嫌いな、毒りんご。
今日も丁寧に拾い上げ、こうしてここに置いてある。
くすぐったくて、温かくて、むず痒い。
そういう優しさを私に与えてくれた人。
悪なる力に目覚めた私の心を決して捨て置きはしなかった。
拾い上げ、守り、邪悪な力を持つ私のことを、女王様は「精霊」と呼んでくれた。
「……みんなにも伝われば良いのに」
ぼそりと呟く私を、女王様は呆れたため息で諫める。
今度こそ口を噤んで、空を見上げた。
肩にずしりと重みを感じる。
カラスが移ってきたのだと分かったから、そのまま視線は変えない。
窓から見える淡い光をただただ眺めた。
鏡よ、鏡よ、鏡さん。
世界で一番美しい人は、だあれ?
女王様が作った最高傑作は、女王様ではない姫の名前を口にした。
透き通った真っ白な雪のように美しい髪目を持つ、お姫様の名前。
その心も澄んでいて、澄みすぎていて、私にしてみれば少し心配だ。
あまりに一点の汚れもないものだから、折れてしまわないかと時々怖くなる。
汚れ切った私では、近づくことも許されない。
けれど、それでも、私にとって世界で一番美しいと思う人は、姫様ではなくこの人だった。
私にとっての女神様は、いつだって真っ黒な衣装に身を包む、とても優しくて不器用で、天才的な女王様。
……伝わってくれたら良いのに。
女王様が固執する美しさは、もうすでに女王様が持っているのだと。
私だけではなく、皆にも伝わってくれたなら。
近く、姫様は隣国の王子様を迎え入れる。
王太子のいないこの国の、次代を担う王子様がやってくる。
世界一美しいお姫様と、大国からやってくる聡明で美麗と噂の王子様。
曇りなく輝かしい未来が、やってくる。
その時、女王様と私達の向かう先はどうなるだろうか。
望むものはそう多くはない。
絶えることなく、この国の命が繋がっていくこと。
穏やかに、静かに、生きていくこと。
それだけだ。
カァと、私の心情を知ってか知らずか、肩のカラスが再び鳴いて今度は腕に止まった。
足場としては不安定であろう自分の腕を慌てて水平に保てば、真っ黒で吸い込まれそうな瞳と自分の目がかち合う。
真っすぐに覗き込んでくるこの子が私に何を伝えたいのか、分からない。
けれど。
「ありがとう、心配してくれているのね」
表情を緩めれば、慰めるようにクチバシで頬を優しく撫でられた。
静かに震える私を労わる様に。
とても賢く優しい、大事な相棒だ。
「少しは警戒したらどうだい、ルル。そいつを見ておかしいとは思わないのかい」
「私を害する存在ならば、とっくに仕留められています。この子は優しい子ですよ」
「ふん、危なっかしいったらないね」
「ふふ、女王様もご心配くださりありがとうございます」
「べ、別にアンタを心配してなんかいないよ」
女王様と相棒のおかげで、少しだけ世界は優しいものになる。
そうやって何とか生きていた。
類まれなる力を有した美しい女王様。
毒りんごを生み出してしまう、臆病者の私。
人の気持ちを理解する少し不思議なカラス。
これは、もしかしたらのお話。
皆が想像する物語とは少しだけ違う、魔女の物語だ。