お城はすでになくなっている
吉法師様が廓をぐるり取り囲むだけの攻城兵器を携えて5万の軍勢で攻めてこられたのは、その日のうちだった。
夕餉の飯炊きの時分であるのに、本来の居場所にいるはずの箭吹が裁っ着け袴を下に履き込んだ格好でわたしの部屋に入り込み、それを告げた。
「猶予はありませぬ。お城より持ち出せるのは姫様の身一つのみです。さっ、わたしの背中におぶさって」
野良着に着かえさせられたら、「あっ」というまにおぶい紐で背中に縛られ、抜け穴の掘られた厨房まで駆け抜けていく。ここ数日の不穏をしって家臣たちはいつ下知が降ってきてもと皆な甲冑姿であったが、誰の顔もこのあと一夜にしてこの城が灰燼になることなど知る由もなく、どの顔も今夜の夕餉に酒がつくかつかぬかそれを干物でもよいから魚の身をほぐしながらを思案していた。女子ふたりの異常の姿を見ても、尋常の内から外に這い出すものは一人としていなかった。
地下の横道をどれだけ進んだろう。
箭吹は振り返らない。当たり前にわたしが付いてくるものと決めてずんずん先を進む。暗闇に慣れても一間も離れると箭吹のあの大きな尻さえ消えてしまう闇だ。闇に萎みそそうなると、それが今生との別れになるようで、わたしは袂を拭い、駆けた。
城下の外れの里山の中腹にあるお社に繋がる竪穴を登り切った。
上がった息を解いて外を見ると、お城のあったあたりは紅蓮の炎に包まれていた。一刻前までそこに居たものはすべてからく壊され死んだか逃げたかに分かれていった。己れの命よりも大切とされた平蜘蛛との心中を決められたお父上様の決心が変わるはずもなく、4人の兄様方ともに紅蓮の内にお御座はずである。
今夕に焚いた竃の飯を口にしたものは、きっと、誰もいなかったろう。
外の紅蓮を見たら、それがまず初めにやってきた。今夕も 10の竃には10升焚きの羽釜が10並んで湯気を立ててたはずだ。それが全部黒焦げとなって姿がありありと見える。殺伐よりもそうした日常の消失が、失われた目方を伝えてくれる。
抜け出てから一刻も経ってはいなかった。が、わたしの周りの天地はひっくり返った。
「猶予はありませぬが、これが海堂家がおわしましたお姿を眼に写す最後にございます。この後は胸の内に念じたものよりほか寄すがはございませんから、しっかりと眼に焼き付かれるがよろしかろう」
なぜだろうか、寂しさ哀しさが湧いて来ない。
いま、わたしの前に変わり果てた姿を見せてるのは、黒焦げになった羽釜だけ。お父上様も4人の兄上様も遠くへがいかず陽炎のような薄さも見せずに紅蓮の中に留まっている。きっと、これからも若返ったりせず、わたしと一緒に年老いていって呉れそうな気がする。
お城を焼きつくす紅蓮は美しい。それが、余所でなく、己れの身の上であっても美しさに変わりはない。それよりももっと美しいのは、此方にわずかに届く光の陰でかたち造られた箭吹の横顔。
胡坐をかいた鼻
後生も瞬きせぬ眼
食むよりほかは真実しか言わぬ口
現を流るる現身とば別の対岸にある大岩のように欠けぬ崩れぬ確かさな形が、箭吹の醜女の中から立ち上がってきます。そして、それを、感じとれます。一度としてお目にかかったことのない姉上様の宿りを箭吹の横顔に感じとれるのです。
きっと、箭吹を見初めているわたしの顔は美しいことでしょう。
確信できました。そうした顔がどんな顔かも分かりました。
つくもなすを吉法師様に献上すると決めたときのお父上様のお顔
吉法師様が所望されたひらぐもを断ると決めたときのお父上様のお顔
きっと、吉法師様も同じお顔をなさっていたことでしょう。
九十九茄子を我が物とすると決められたとき
平蜘蛛は我が物とならないと決められたとき
おふたりとも戦と恋に身を焦がすことを己れの寄すがと決められたお方たち、同衾できぬ身の上は茶の湯をとおして逢うたときより知れたはず。宗匠様に聞かずとも、女子のことわりならよく分かります。
男とは違い女子は掌に載った目方は正しく測れるものなのです。
箭吹を見ていると、それがすらすら分かってきます。顔に書かれた短い経文のように身体に沁みてきます。
それをしている男には、もののふには、お父上様や吉法師様には、読みたくないことわりでしょう。珠を求めるお方たちは、己れを語る理由など読みたくもないでしょうから。