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アジアンパンク・ジェネレーション

サタスペというアジアンパンクTRPGの舞台やシナリオを借用しています。

序章「前門の虎、後門の医者」


雲一つ無く晴れ渡った空と,暖かな太陽が心地いい、のどかな昼下がり。

オオサカでは数少ない緑が目に穏やかだ。

だが、天気がいいとはいえ、平日の動物園には殆ど人がいない。

無人の園内を歩き回った三人の男は、休憩所まで来て漸く他の人間に出会った。

彼らはそれぞれ、残る二人と同じようにしてベンチに腰をおろした。

特に目的もなくぼんやりしている男達の耳に、壊れかけのものらしい場内スピーカーが立てる雑音が響いている。


奇妙な面子だ、と武者小路隆一は一人ごちた。

寂れた休憩所の軒下で怠けた格好をしているアフリカンは、おそらく二世か移民なのだろう。

よれたパーカーの上からでもわかる屈強な肉体と、時折周囲を伺う鋭い視線はカタギの人間のものとも思われない。

もう一人、ぼうっと煙草をふかしてる草臥れた白人は、ミュージシャンだろうか。

一丁前に大げさなハードケースを携えてはいるが、大方その容姿に釣られた馬鹿な女の他は、彼の音楽を有難がるものは多くあるまい。

実際のところ、武者小路が手前勝手な人間観察に勤しんでいる間、当の二人も各々自分以外の奇妙な男を値踏みしていたのだった。

しかし、そんな気怠い時間も長くは続かなかった。

「繰り返します。園内に残っているお客様はおられませんでしょうか」

ぷつっと音を立てて、場内スピーカーがなんとか聞き取れる声を発した。

そのアナウンスには、妙な切迫感が籠っている。

そして次の瞬間、休憩所に通じる道の片一方から虎が姿を現した。

その白い毛皮には鮮血が飛び散っており、喉笛を噛み千切られた男の死体を引き摺っている。

「現在、園内には檻より逃げ出した虎がうろついております。園内に残っているお客様は……」

場内スピーカーが告げる内容は、今さらだった。


不思議なことに、男たちが取った行動は一様だった。

皆一斉にベンチから飛び退くと、それぞれの獲物を懐から引き抜いたのである。

尤も白人は銃を持っていないらしく、彼は傍らのハードケースを身を守る盾のようにして構えたのみだった。

そして彼にとっては良くないことに、野生に培われた鋭敏な感覚が彼我の明確な戦力差を見逃す筈もない。

「くっ」

急所めがけて飛びかかってきた鋭い爪を間一髪で躱すと、白人は鋭い声で叫んだ。

「ちょっとそこのアンタ! ハジキ!」

呼びかけられた二人は硬直して互いに顔を見合わせたが、アフリカンが直ぐに銃を放り投げた。

「あんちゃん、ええ度胸しとるやんけ。ほんなら俺はこいつをもらうで」

「もちろん。やっちゃって」

白人の引き攣った笑みに対して、大男は口の端を歪めながら頷いた。

男は大柄な肉体に反して素早かった。その手には無骨なハードケースが握られている。

確かにあの体躯を持ってすれば、あんなものでも即席の武器くらいにはなるだろう。

「だあらっしゃあ!」

二人が固唾をのんで見守る中、大男が振りかざしたハードケースが凄まじい勢いで虎を薙いだ。

しかし所詮は人間の成せる業、虎の肉体には掠りもせず、必死の攻撃も虚しく空を切って終わった。

もっとも、その隙を逃すほど武者小路は甘くなかった。狙いすましたモスバーグM500の散弾が間髪入れず野獣の体を引き裂く。

「チィッ」

それでもなお、かほどの手傷を負わせる程度で精一杯である。

まともに食らえば一溜りもないだろうが、ネコ科大型肉食獣の運動能力は男達の銃撃の経験を遥かに凌駕していた。

二人が弾を込めなおしている間に、ハードケースしか持たないアフリカンがじりじりと隅に追い詰められていく。

「ぐおっ」

虎の無慈悲な牙が、男の肉体を易々と引き裂いた。男は胸から鮮血を吹き出しながら、重たい音を立ててドサリと倒れた。

三人の中で最も屈強な男が、こうもあっさりと殺されたことに残された二人は戦慄していた。

自分にも多少覚えがあるからわかる。身の熟しから言っても三人の中で最も荒事に慣れ親しんできたであろう大男が、赤子の手を捻るように殺されたのである。

先に動揺から立ち直ったのは、まだ青褪めた顔をしたままの白人だった。彼が目を付けたのは虎が咥えてきた誰かの死体だ。

「これ!」

慣れた手つきで死体を漁る彼の手からは、凡そ動物園という場所にに似つかわしくもない物騒な代物が握られていた。

武者小路は兎に角モスバーグM500を撃ち続けているが、虎に当たる気配は全くない。

鬱陶しい銃撃に痺れを切らしたのか、虎は白人目がけて一直線に駆けて行き、その白い喉笛に噛み付こうと躍り掛かった。

予期していたのであろう。全身全霊を込めて虎の牙を躱した白人の瞳は、最早これ以上持たないことを切実に訴えていた。

「これで終わりにして!」

悲痛な叫びとともに黒光りする手榴弾が彼の手を離れる。その放物線が向かう先は、武者小路だった。

「無茶しやがる」

どうも自分が虎と心中する気は毛頭ないらしい。そして虎は急に動く物体があれば、逃れられない野生の本能で追い掛けてしまう。

武者小路には、ピンを引き抜き、虎に向かって手榴弾を放り投げるまでが、全てスローモーションのように感じられた。

一拍して辺りに響き渡った凄まじい爆音の後、濛々とした煙が立ち込める。

「ウソ、でしょ」

煙が晴れた先に二人を待ち受けていたのは、到底信じられない、異様な光景だった。

流石に無傷ではなかったが、虎は先刻と殆ど相違なく、但し一層の殺意を爛々と光る黒瞳に宿して低く唸っていた。

不発弾。絶望に白く染まる二人の脳裏に、全く同じ単語が走馬灯のように浮かんでは消えた。

よくよく考えれば、偶然死体から探り当てた得体も知れない獲物に己の命運を託すなど、どう考えても馬鹿げていたのだ。

武者小路は自嘲気味に笑いながら、自棄になってモスバーグM500を連射した。確かに虎も負傷しているが、此方はとうに限界を超えている。

次に奴の牙が翻る時が、自分の最後だろう。

「こっちよ!」

武者小路が捨て鉢な覚悟を決めた、その時だった。緊迫した空気を切り裂くように、白人が吠えた。

その手には、殺された大男から渡された粗悪な改造銃が握られている。

無理だ。戦闘経験豊富なアフリカンでも、武者小路の手に握られたモスバーグでも、奴には手も足も出なかった。

今さら、そんなもので何ができるというのか。

虎は俄かに踵を返すと、今度は再び白人に狙いを定めた。幸か不幸か、虎を後ろから撃ち抜ける弾丸は既に手元にない。

もし生きてこの状況を脱することが出来たなら、もう一度まともに生きてみるのもありかもしれない。

サタデーナイトスペシャルから放たれた弾丸が、虎の脳髄を釣らぬく瞬間、二人は奇しくも似たようなことを考えていた。


「ちょっと! 死なないでよ」

「全くだ!」

あれから数刻、二人は負傷した大男を抱え、必死に乃木クリニックへと向かっていた。

何と彼は、あれほどの傷を負いながらも虫の息で何とか生き長らえていたのだ。

よく考えなくてもわかる。この男がいなければ今頃二人とも虎のご馳走になっていたに違いない。

そんな男の命を見捨てるわけにはいかなかった。

白人は自分のことを、ウイスキー・雲雀と名乗った。なんでもロシア出身らしい。

武者小路がアフリカンを救急病院に連れて行こうとすると、雲雀は首を横に振った。

「たぶんこの人、カタギじゃない。だったら乃木クリニックよ。それにあそこだったら……」

乃木クリニックは腕の良い獣医で有名だが、同時に院内から不振な叫び声が絶えないという、オオサカらしい珍妙な場所だ。

四苦八苦しながらも、二人が病院に辿り着くまで左程の時間は用しなかった。

「こんにちは、乃木先生」

「おっと、誰かと思えば雲雀君じゃないか。最近滅多に顔を見ないから、てっきり嫌われたのだと思っていたよ」

噂に聞く乃木太郎丸は、眼鏡をかけた年若いエリート風の男性だった。

ただ、どことなく雰囲気が胡散臭い。単刀直入に言えば、此方に対する距離が妙に近い。

「そっちの君は知らないなが、まあいい。俺、年上には興味ないしな」

怪訝な表情を浮かべる武者小路を前にしても、乃木は微塵も気後れすることがなかった。

「それで、乃木先生、あの……」

「わかってる、わかってるよ治療だろ? だが、それならそれで……ねえ?」

「わかってるわ。ただそれは彼の治療が終わってからにして頂戴」

「もちろんだよ」

武者小路には二人のやり取りの内容がさっぱりわからなかったが、どうやらアフリカンが助かるらしいということだけはわかった。

そうだとすれば、彼も随分悪運が強い。無論、我々も。

乃木が負傷した大男の治療のため手術室に籠っている間、初めて二人の間に気まずい沈黙が訪れた。

だが、どことなく居心地が良く、ふとすれば手を取り合って馬鹿騒ぎしたくなるようなそんなひと時。

「これ」

差し出された紙切れを、武者小路は躊躇うことなく受け取った。

「アタシの電話番号」

「どうも。じゃあこれ」

武者小路が名刺を渡すと、雲雀は思わず噴き出した。それもそうだろう。

「ニュースキャスターって本当? どおりで……ねえ?」

好奇心も露わに此方を見つめる視線を左手で遮ると、武者小路は言い訳がましく嘯いた。

「言っても、今は局から干されてんだ。デモに参加してたのがバレてね」

「だからあんな物騒なもの持ち歩いてたのね」

「そういうこと。今日も無意味な武力闘争の帰りさ」

二人は同時に、あまりの可笑しさに吹き出した。

「アタシもね、売れないミュージシャンって言うのは本当は嘘なんだ」

武者小路が頷くと、雲雀は先を続けた。

「それでまあ、この体を売って暮らしてるって訳。家もないし、ね。物騒な技は生きていく過程で勝手に身についていたわ」

武者小路は内心驚いていたが、その様子をおくびにも出すことはなかった。

「それで、もしよかったら」

雲雀が何か重要なことを切り出そうとした瞬間、手術室の扉が勢い良く開いた。

中から出てきたのは乃木ではなく、例のアフリカンだ。

「話は聞かせてもろたで。俺は光男。バプヌ・光男だ」

呆気にとられている二人を前に、光男はぺらぺらと喋り続けた。

「兄ちゃん達、そないなひ弱な体でよう頑張ったなあ。お前らがおらんかったら俺は今頃死んでるはずや」

光男は深々と頭を下げた。

「ほんま感謝しとる。漸く全うな世界で生きていける気がしてたんや。こないなとこで死んでも死に切れんわ」

「結局アンタは誰なんだ? 何をしている?」

半ば反射的に武者小路が聞くと、光男はにやりと笑い、それから幾分誇らしげにスポーツ選手だと答えた。

二人が同時に突っ込もうとしたところに、乃木が遅れて手術室から姿を現した。

「いやはや、けったいな外面の割には随分と美しい内臓をしていたよ。はい、これ」

そう言って乃木は黒いアタッシュケースを光男に向かって放り投げた。

「なんだよ、それ」

武者小路が問いかけると光男は気まずそうに二人から眼を逸らした。

「何も恥ずかしがる話でもなかろうに。臓器売買の一回や二回、この町の人間なら誰でも経験したことがあるだろう?」

「はあ? でアンタ売ったわけ?」

呆れたとばかりに雲雀が口を挟むと、光男は顔を顰めた。

「勘違いしてもらいとうないな。俺は別に金に困ってるわけちゃうんや。これはほら、あれや」

そう言うと光男は手に持ったアタッシュケースを二人に向かって、ぶっきらぼうに突き出した。

「礼や。命の」

二人がきょとんとしていると、光男は強引にアタッシュケースを此方に押し付けると、決まりが悪いのか明後日の方を向いてしまった。

「いやいやいや、ちょっと待て。いきなりこんな大金を渡されてもだな」

「そうよ。それに助けられたのは寧ろアタシ達の方なんだし」

二人が一斉に食って掛かろうとすると、胡散臭い微笑を浮かべた乃木が半身を乗り出して話を遮った。

「いやはや、盛り上がってるところ悪いんだけどね。そろそろちょっと付き合ってもらおうかな、雲雀クン?」

途端に空気がしんと静まり返った。さっきまでの騒がしさが嘘のようだ。

「ああ、それ。わかってるわ。心配しなくても忘れたりしないわよ」

武者小路は遅まきながら、事ここに至って漸く事態を察した。厳密にいえば、光男の微妙な表情を見て、はたと気が付いたのである。

そうだ。この乃木太郎丸という男、美形の年下好きというだけではなく、生粋の同性愛者だったのだ。

そして幸か不幸か、かの斜陽の大国の血が流れる雲雀は、翳りを帯びた青い瞳を持つ美青年だった。

二人が慌てて止めに入ろうとするのを、雲雀は片手で制した。乃木はと言えば、上機嫌に鼻歌を歌いながら階下に消えつつある。

「任せといて」

意味深なウインクを残して階段を下りていく雲雀の後姿を、二人はただ黙って見送る他なかった。

やがて院内が静まり返った頃、どちらともなく口を開こうとすると、階下から物凄い騒音と乃木のものと思しき怒声が聞こえてきた。

騒音の主は言うまでもない。雲雀だ。

「逃げるわよ!」

階下から駆けあがってくる雲雀を目にした瞬間、二人は弾かれたように立ち上がった。

これだ。この感覚。今までの人生に足りなかったもの。

病院の窓をぶち破って路地裏に転がり落ちた時、三人は奇妙な程の高揚に包まれていた。

道端の空き缶、湿った雑居ビル、後ろから聞こえてくる乃木の怒鳴り声まで、全てが愛おしいような不思議な感覚。

抜けるような青空の下、この腐りきったオオサカの路地を蹴散らす三人は、今この瞬間に亜興として生まれ変わったのだ。


第一章「偉大なる門出」


その日の夜。今日の出会いを祝して三人は小さな居酒屋で酒を酌み交わしていた。

壁にかかった液晶テレビではニュースを流している。

「本日、午後3時頃、天王寺で現金輸送車が襲われるという事件がありました。

また、同時刻、天王寺動物園で虎1頭が檻から逃げ出し殺されるという騒ぎが起こっています。

警察は二つの事件に関連ありとみて、虎を殺した人間を重要参考人として手配しました。虎を殺した人間は複数いる模様で……」

光男は思わず口に含んでいた天王寺ウイスキーを吹き出してしまった。

ニュースをかき消すようにして、居酒屋の外、遠方からパトカーのサイレンが聞こえてくる。

「おいおい、嘘やろ?」

「そう思いたけど、オオサカ市警の無能っぷりは救いがたいレベルだし」

雲雀は全く落ち着いたものだが、パトカーの音は遠ざかるどころか、少しづつ此方に近づいてきているらしい。

「出るか?」

「そうね。だけど情報の出所がわからないのが気に食わない。それに、市警にしては動きが早すぎる」

「そんなん雲雀、大方あいつに決まってるやろ。あの眼鏡のいけ好かん」

「乃木のタレコミか」

武者小路が告げると、二人は揃って渋面を浮かべた。三人とも、あの男ならやりかねないと確信したのだ。職業柄、おそらく警察にも顔が効くのだろう。

「兎に角、あまりモタモタはしてられないな」

三人は残った酒を一息で飲み干すと、上着を羽織る間も惜しみながら、急ぎ外へと出た。

辺り一帯では、静寂な夜を切り裂くように赤い光が明滅し、けたたましいサイレンの音が鳴り響いている。

この奇妙な取り合わせの三人組が目を付けられるのも時間の問題だろう。

三人は徐に人気の少ない沙京方面へと足を向けたが、矢張りというか、すぐに怪しまれ、本日二度目の全力疾走を余儀なくされる始末となった。

亜興への第一歩を踏み出した矢先、身に覚えのない犯罪の犯人として指名手配されてしまうとは皮肉な話である。

「止まれ!」

「撃つぞ!」

後ろから追い掛けてくる警官の人数と言ったら、ぱっと見でも30人は下らない。

だが、沙京には協定により警察が侵入することは出来ない。沙京にさえ辿り着ければ。

ミナミから沙京へと至る、ただ一つの道筋はカモメ大橋のみ。漸く辿り着いたT字路には、悪名高き大阪市警の契約刑事が立ち塞がっていた。

彼女はショットガンを三人の眼前に突き付けながら、シニカルに笑っていた。

「あんたたち、ホントはあの事件の犯人じゃないんだろ?」

一瞬の静寂。

「話が早くて助かる。分かってるなら、さっさとその物騒なモンを降ろしてくれないか?」

咄嗟に口を開いたのは武者小路だった。返答を受けて、女刑事は細すぎる眉を僅かに顰めた。

「ほう。随分と生意気な口をきくじゃないか。勿論、そんな戯言を聞き入れる気は毛頭ないが」

契約刑事、マリア・ヴィスコンティ。彼女の名を知らぬものは少ない。フリーの亜興に顔の広い、汚れ社会の有名人だ。

マリアの構えたショットガンの銃口が武者小路に向いた。

「あんたがリーダーかい? 小汚い亜狭諸君」

「ああ? なんやと……」

途中まで言いかけて光男は口を噤んだ。

背後には30人からなる警官隊が控えており、その全員が今すぐ引金を引きたくて堪らない連中なのだ。

「お利口さんだな。まあ私としては、今すぐハチの巣三つを拵えたところで、別に構いやしないんだが」

「でも、すぐにそうしないってことは何か理由があるんでしょ?」

雲雀が口を開くとマリアの目つきが変わった。

「アタシがいつアンタに喋っていいって言ったか? それとも、今どちらに主導権があるのか分らないほど間抜けなのか?」

雲雀は何か言いたそうに口を開きかけたが、やがて思い直したように俯いた。

「そう、それでいい。褒美に私が嫌いなものを三つ教えてやろう」

唇から紫煙を吐き出しながらマリアが告げた。

「その一、半端者の屑亜狭。その二、下卑た薄汚い男とかいう生き物。その三、私の同類……つまり同性愛者ってやつだ。そしてお前は、スリーアウトでデッドエンドってね!」

言い終わると同時に、やたらと大きいショットガンの音が辺り一帯に響き渡った。

「ハッ、珍しいな。この私が外すなんて」

マリアは大阪一ショットガンの引金が軽い女としても悪名高い。これ以上、彼女の戯れに付き合うのは非常に危険だった。

「人をからかうのは、もう十分だろう」

武者小路が静かに問いかけると、漸くマリアは狂気の笑みを消して真顔に戻った。

「つまらん男だな。だがまあ、もっともだ。こんな身だが、生憎私も暇じゃない」

マリアの赤い唇から紫煙が立ち上る。

「単刀直入に言う。自分達で真犯人を挙げろ。当然、金と一緒だ。そうしたらお前たちの指名手配は解除してやるよ」

「何か情報は?」

「ないよそんなのもの。アンタ馬鹿なのか」

呆れた様子は演技にも見えない。武者小路は慎重に言葉を選んだ。

「そんなことをしてお前に何の得がある」

「言ったろ、暇じゃないって。それに、こんな下らないコソ泥のケツを追い回すなんて趣味じゃない。丁度、あんたらみたいなドブネズミに似合いの仕事さ」

「それで?」

「それでもクソもない。あんたらが真犯人を見つけて金を取り戻せば、めでたしめでたし。見つからなければ後ろに手が回る羽目になる。それだけさ」

マリアは吐き捨てると、再びショットガンを構えなおした。

「さあ決めな。私は気が短い」

「受けよう。どのみち選択の余地はないみたいだしな」

「物わかりが良くて助かる。期限は明後日の夜、きっかり48時間後だ。それだけあれば充分だろ」

48時間。長いようで短い絶妙な時間だった。当然、交渉の余地などないことはマリアの鋭い目付きが雄弁に物語っていた。

「ああそれと、このままトンズラかまそうなんて考えるなよ? 沙京から指一本、いや髪の毛一本でもはみ出してみろ。仲良く三人とも御陀仏だからな」

言い捨てて立ち去ろうとするマリアに向かって、武者小路は慌てて問いかけた。

「おいちょっと待て、じゃあどうやって真犯人を探せって言うんだ? 沙京から出られないんじゃ……」

「ああ、言ってなかったか?」

マリアは咥え煙草を吐き捨てると、左足で丁寧に磨り潰した。

「アンタ達の今回のターゲットは沙京の何処かに潜んでやがる、クソみたいにダサい腐れ亜狭共だ。確か、ラピッドラビットって名前だったか」

正確には覚えていないが、と付け加える辺りが如何にも契約刑事らしい。三人は揃って顔を顰めた。

「安心しなよ。今からきっかり48時間は市警の包囲網が解かれやしない。精々、無い知恵を絞って頑張ることだな」

どうやら話は終わったらしい。彼女は踵を返すと悠然とオオサカの夜闇に消えていった。

気が付けば、背後にいたはずの30人の警官の姿も見えない。

後に残ったのは仄かに香る硝煙の匂いと、どこか遠くから聞こえてくる潮騒だけだった。

「すまんな。こんなことに巻き込んでしまって」

「なに言ってんのよ。アタシこそ力になれなくて悪かったわね」

「ほんまやで。俺はアンタみたいに落ち着いて話せる気がせえへん」

「いや、慰めは結構」

武者小路は暫く考え事をするように俯いていたが、やがて顔を上げ、目の前の巨大な橋の先を見据えた。

大阪湾沿岸部のガス抜き穴からは絶え間なくメタンが放出されており、緑色に燃ゆる炎に彩られた夜景は沙京ネオンとも呼ばれている。

とは言え、幾多の水路と崩れかけのバラックからなる沙京はオオサカでも最も治安が悪く、とてもじゃないがデートには向かない場所だ。

「いいんじゃない? まあ望んだ仕事って訳じゃないけど、初仕事としては丁度いいわ」

「おっしゃ。俺にとっても久々の荒事やな。俄然やる気が湧いてくるで……とても内臓が一個なくなってるとは思われへんくらいや」

武者小路の心配を他所に、当の二人は当に覚悟を決めていたものらしい。

実は三人とも、この時になって初めて、自分たちが今日より世に遍く亜興の一人となったことを実感したのだ

「それじゃあ、行くか」

虎に医者に契約刑事、それに沙京。およそロクな一日ではなかったが、当分気を抜くことも出来そうにない。

三人は意を決して、大阪一の貧民街、沙京へと足を踏み入れた。


何はともあれ、情報が必要だということで三人は別行動を取ることになった。

48時間という時間は何もしなければ途方もなく長く感ぜられるが、何せ目的達成のためには余りにも短い。

結局、雲雀は嘗てのバンド仲間が住むという黒人街へと向かい、肌の色が近いと言う随分いい加減な理由で光男が同行した。

残された武者小路はと言えば、道中の小汚い酒蔵へと立ち寄り、怪しげな店主たちと不器用な交渉のテーブルに着く羽目になった。

「天王寺ウィイスキーか?それとも爆弾焼酎?」

僅かな照明と解れた暖簾から辛うじて営業していると思しき店の敷居を跨ぐと、歯抜けに禿頭、おまけに黒い眼帯を付けた悪党面の店主が欠伸と共に問いかけてきた。

「いや、今はどちらも結構だ。人を探していてね」

武者小路が答えると、店主は途端に胡乱気な瞳で彼を睨み付けた。

「バタビヤ小道で売ってんのは密造酒だけだ。人探しなら他所でやってくれ」

愛想の欠片すらない、凡そ客商売の人間とは思えぬ物言いである。

尤も、最初から沙京の薄汚い酒造に求めるべきは隣人愛などではなく、もっと実際的な何かだった。

「マリア・ヴィスコンティ」

その名前を出すと、店主の眉間が僅かだが跳ね上がった。無論、その変化を見逃すはず武者小路ではない。

マリアと三人が対峙していたのは二時間程前の話だが、噂早いオオサカの街でなら聞き及んでいても不思議ではないと踏んだのだ。

「丁度さっき、彼女と話をしていてね。そろそろ密造酒の取締を強化しなくちゃならないな、なんて」

「ああ? 手前、脅しのつもりか?」

予想通りの反応に武者小路は胸中でほくそ笑んだ。

「いやまさか。その逆だよ。質のいい店には誰だって潰れて欲しくはない。俺がしたいのは捕まえるって話じゃない、見逃すって話さ」

店主の二択が武者小路には手に取るようにわかった。これ即ち、暴力か協力か、である。

故に、武者小路は最後の揺さぶりを掛けた。

「職業柄、時事ネタには詳しくてね。都市政府が沙京の再開発計画に判を捺したのは先月の話だ」

勿体ぶって告げると、店主の顔色が微妙に変わった。よもや知らなかったというわけでもあるまい。

「大阪五輪開催に向けて、密造酒の取締強化が偉大なる第一歩目なんだと」

あくまで淡々と真実のみを告げる、ニュースキャスターとしての在り方。

真実は伝えるが人は騙す。やり方はマスメディアも詐欺師も何ら変わりないのだ。

店主は暫し悩んだ挙句に小さく舌打ちをした後、急に愛想よく微笑んだ。

「ラピッドラビットか。確かに聞いたことある名前だぜ」

愚かな店主は完全に彼を都市政府か市警の関係者だと思い込み、自分可愛さから情報を売り渡す小市民に成り下がっていた。

「メンバーは?」

打って変わって妙に機嫌の良い店主に振舞われたバーボンを弄びながら、武者小路が問いかけた。

「さあ、そこまではわからねえ。何せ入れ代わり立ち代わりが激しいからな。誰がそうで誰がそうじゃないんだか」

「そうか」

期待外れの答えに内心で肩を落としたが、店主の言葉は終わっていなかった。

「ああ、だがリーダーの名前はわかるぜ。デビット、確かデビット菅原だったかな。頭のイカれた暴走野郎よ」

「なるほど、だいたいわかったよ。マスター、恩に着る」

武者小路は手短に礼を告げると、一端は店の外へと出ようとする素振りを見せたが、再度すぐに立ち止った。

「マリアには何とか言っておくよ。融通してくれるように」

後ろで店主が何か言っていたが、聞いていやる義理もなかった。

代わりに懐の携帯電話へと手を伸ばし、最近入手した電話番号を不慣れな手付きでダイヤルする。

電話に出たのは二番目にコールした光男だった。

「武者小路だ。どうだ、そっちの様子は?」

「あ、ああアンタか。それが何と言ったらええんか」

「どうした? 歯切れが悪いな」

「いや、まあ別に何がどうってわけちゃうんやけど」

「はっきり言え」

「雲雀が男と消えた」

あまりにもはっきり言われたことで、かえって武者小路は冷静さを失わなかった。

「無事なのか?」

「そりゃあ無事に決まってるやろ。何せ手出したのは雲雀なんやから」

武者小路は思わず溜息を吐いた。

「なあ、あいつって……」

「情報収集のために決まっているだろう。他に理由があるか?」

半ば自分に言い着せるように問いかけると、電話越しに光男の笑声が伝わってきた。

「勿論そうやんな。やっぱりアンタは落ち着いとる」

「世事は止せ。で、何かわかったことは」

「すまんな、大したことはわかっとらん。何や、専らセコい強盗ばっかしとったチームらしいってことくらいや。アンタは?」

「デビット。デビット菅原。ラピッドラビットのリーダーだ」

次に電話越しに聞こえてきたのは、やや調子外れの口笛だった。

「ようやるわ隆一。本当に裏社会の経験があるわけちゃうんやろ?」

「これでも全うな人生を送ってきたつもりだ。それに、だからこそ出来るやり方ってのもある」

光男が妙に感心しているのが、武者小路には可笑しかった。この陽気なハーフアフリカンは年の割に純粋らしい。

「兎に角、一度合流しよう。場所はリトルカルカッタでいいな?」

「そうやな。にしても、また黒人街か」

「お前達のいるネオ・ギネーとリトルカルカッタとじゃ雲泥の差だ。そっちは上下水道は愚か、電気すら通っていないだろう?」

「インド人様々やな、ほんまに」

「なら一時間後に落ち合おう」

目的地のリトルカルカッタはインド人が多く住む沙京で唯一の高級住宅街だ。

小奇麗な町並みの中には、誰もが知るブティックや煌びやかな宝石店が軒を連ねている。

当然その分だけ警備も厳重な為、沙京の玄関口にして無知な観光客に命の保証が出来る、最初で最後のエリアだ。

光男と合流したのは、それから約一時間後だった。隣に雲雀の姿はなく、双方一人だ。

「雲雀は?」

「さっき電話があったで。何でも手間取っているから少し遅れるんやと。いったい何に手間取っているのやら」

「さあな。しかし、あまり心配する必要もなさそうだ」

二人は適当に見繕ったホテルにチェックインすると、手短に情報交換を済ませた。

雲雀が戻ったのは間もなくのことだった。

「ごめんなさい二人とも。心配かけたわね」

二人は内心の動揺を悟られまいとの努力は怠らなかったが、それでも視線は雲雀の身体に釘付けだった。

つまり、例えば乱れた髪が額に張り付いてやしないか、首筋に赤い跡が残ってやしないか、ということである。

しかし幾ら仔細に検分しようが、当の本人は涼しい顔をして、事実何の変化も認められなかったので、ついに武者小路が先に音を上げた。

「降参だ、雲雀。いったいアンタはどこで何をしていたんだ?」

真剣な顔をして身を乗り出す二人を前にして、雲雀は思わず噴き出した。

「いやね、アンタ達。中学生じゃないんだから」

「おっと、今度という今度は誤魔化されへんで。乃木の件と言い、今回と言い、俺はアンタの事がようわからんくなってきてもうた」

本気で悩んでいる様子の光男を前にして、流石の雲雀も笑うのを止め、今度は溜息を吐いた。

「最初に言ったと思うけどね、私は男娼なの。お金さえ払ってくれるなら誰だって相手をしてきたし、これからもするわ。性別なんて関係ない」

武者小路が光男を少年のようだと称したように、雲雀にとって、矢張りセクシャリティや恋愛に関する領域では二人は言葉通り中学生も同様だった。

「嘗ては普通に女性を愛していたわ。でも、こんな生活をしてきた代償として、男だとか女だとかという区切りは私の中でなくなってしまったの」

ここから先は誰にも語ったことがない内容だった。話す必要もなければ、話す相手もいなかったからだ。

「今は何方も等しく、好きでも嫌いでもない。恋愛は私に取ってのビジネスであり、最大の武器よ。使えるときは何時でも使うわ」

雲雀は一息で言い切ると、両手の僅かな震えを少しでも誤魔化そうとして懐の煙草に手を伸ばした。

幸いにして鈍感な二人には、雲雀の繊細な感情の機微を完全に捉えることは出来なかったようだ。

「格好いいじゃないか」

「男前やな」

雲雀の告白を聞いて、二人の口から出てきた言葉は拍子抜けするような内容だった。

これは彼に取っても予想外のことだったが、武者小路も光男も恋愛に関しては本当に初心だったのだ。

今まで散々、形だけの理解や上滑りする同情を示した相手には心底の軽蔑を送ってきた雲雀だが、こうした反応は初めてだった。

「あんた達って、本当に馬鹿なのね」

「はあ? なんやと? 人が誉めてるってのに何ちゅう言い草や」

「馬鹿は聞き捨てならんな。これでも色々と心得ているつもりなのだが」

気が付けば両手の震えは止まっていたが、矢張り二人は雲雀の変化に気づいた様子もなく、それがまた彼に取っては堪らなく心地よかった。

「ねえ、そんなことより」

「いやいや、今は大事な話をしているんだが」

「高跳びするかもってよ、菅原」

標的の名前を出した途端、煩かった光男も武者小路も揃って表情を引き締めた。

分かってはいるが、時間がないのだ。茶番も一興だが、そろそろ本気にならねば。

「そうなると矢張り、48時間が本当の意味でタイムリミットか」

「そうね。包囲網が解かれてしまえば、私達が彼を追う方法はないわ」

「ほんでもって、三人仲良くムショ暮らしか。そんなんは勘弁やな」

雲雀に釣られて、二人も煙草に手を伸ばしかけたが、すぐに思い直した。彼らは各々の理由で禁煙中なのだ。

「明日も朝から情報収集、だな」

「調べるべきは菅原の居場所。出来ればラピッドラビットについても、もう少し情報が欲しいわね」

「ほんなら俺と雲雀は、もう一発ネオ・ギネーやな。隆一はどうするんや?」

「俺は市場だな。現地の生活に根差したマーケットなら、何か新しいことが分かるかもしれん」

「決まりね」

話が纏まると、三人は示し合わせたわけでもなく、すぐに床に就いた。

三人とも疲れ切っており、泥のような眠りにつくまで、そう時間は掛からなかった。


翌朝。一番に目覚めたのは武者小路だった。

高級ホテルのアメニティは必要以上に充実しており、雲雀ならこんなことにも喜びを感じるのだろうか、という平和な疑問が一瞬頭を過る。

髭を剃ってシャツとジーンズに着替え、表通りへと出ると、夏らしい陽気が武者小路を温かく照らした。

ちょうど良いことに、今の武者小路は、パッと見では小金持ちの観光客にしか見えない。

この格好でリトルカルカッタから市場の方へと向かえば、誰にも不審がられることはないはずだった。

向かう先は沙京でも有数の大市であるパウパウマーケット。誰が付けたのかも分からない、ふざけた名前ではあるが、食べ物から家電まで何でも揃うと評判らしい。

ブランド品も多いらしいが、その多くは粗悪なコピー品で都市政府からは専ら問題視されている。

もっとも、何れもがマスメディアの受け売りだ。本当にそうであるかの判断は現地に着くまで保留といったところだった。

程なくして市場へ到着すると、武者小路の予想通り、早朝のマーケットは相当の賑わいを見せていた。

何やら細々した日用品の類から、何の用途に使うのか判別しがたい民芸品、食べ物から家電に至るまで、全てが胡散臭く、同時に活気に満ちている。

特に現地の人々が見せいていると盛況具合というのも中々なもので、この薄汚い沙京であっても人間は強く逞しく生きているのだと感心せざるを得ない有様でもあった。

当然、武者小路は只の物見遊山で此処まで来たわけではない。立ち並ぶ露店を物色する振りをしながら、彼は興味深いワードが聞こえてくるのを待っていた。

「見たか? あの格好」

「ああ、見た見た。一瞬だったけどな。だがしかし、あんな珍妙な格好を見間違えるはずもねえ」

そんな言葉が武者小路の耳に飛び込んできたのは、マーケットに足を踏み入れてから暫く経った頃だった。

一瞬、武者小路は自分たちのことが噂されているのかと思って身を固くしたが、よくよく耳を澄ませてみると、どうもそうではないらしい。

「俺も噂には聞いたことがあったが、まさか実在するとはな」

「実在するっていうか、ありゃどう見ても悪目立ちだろ。しかし奴らってのは、十三辺りにしかいねえもんだと思ってたぜ」

「時代村か? やれやれ、正当なる日本ってか。虫唾が走るぜ」

気になる情報を得た武者小路は足早にホテルへと戻り、備え付けのノートパソコンを起動した。二人の姿は既にない。

「時代村、正当なるニッポンと」

検索結果に表れた情報を精査し、先程の会話と照らし合わせて必要なものだけをサルベージしていく。現代社会ならではの業だ。

「まさか、このニンジャってやつか?」

武者小路が独り言ちたのも無理はない。ニンジャというのはそれほどまでに突拍子もない連中なのだ。

その存在は曖昧だが、都市伝説というほどではない。見たことある奴は見たことがあり、ない奴はない。

事実として存在しているのは間違いないが、実際に会ったことがある奴は多くない。そう言うレベルだ。

つまるところ彼らは、日本の伝統と誇りを盛大に勘違いした、ハッピー外人野郎からなる傭兵部隊なのだ。

しかし、だからと言って、その実力までもが単なる遊びだと食って掛かるほど武者小路は甘くなかった。

敵対するとしたら、厄介な相手だ。

武者小路が未だ見ぬ敵に思いを馳せている頃、光男は直近にして三度目の困惑に陥っていた。

前二回と殆ど同じような状況である。つまり、またしても雲雀が消えたのだ。

それも今度は、女子高生と一緒に。

光男は溜息を吐きながらも努めて悲観的にならぬよう、一人でネオ・ギネーへと向かい、情報収集を開始した。

結局のところ、肌の色が近いから、という直観的な理由で選出された光男だったが、これが案外功を奏したようだ。

ネオギネーの陽気なラッパー達は、余所者には極度に排他的だったが、同じ見た目をした黒人には思いの外に優しかったのだ。

光男は誰彼構わずブラザーを連呼して親しげに絡んでくる同胞達に若干辟易してはいたが、情報次第は左程労せず手に入れることが出来た。

然も、その情報というのが相当に大きい。彼は今度は自分から武者小路に電話を掛けた。

「ようブラザー。元気してる?」

「ふざけるのはやめろ。ネオ・ギネーに悪い影響でも受けたか?」

「相変わらず固い奴やな」

光男は笑ったが、その生真面目さが気に入っているのだと、わざわざ口に出しはしなかった。

「元メンバーの居所がわかったで」

「本当か! よくやった!」

今度は武者小路が感心する番だった。この男、矢張り只の筋肉馬鹿という訳でもないらしい。

「せやけどな、悪い話もあるんや」

「奇遇だな。俺もだ」

「ここは一つ年の甲いうことで、隆一から」

「大して変わらんだろうに……。まあいい、こっちの情報はニンジャだ」

「ニンジャ? おいおい、まさか十三の奴等ちゃうやろうな?」

珍しく光男が動揺しているのを感じ取り、武者小路も自らの嫌な予感が的中しないことを強く願った。

「ほんまかいな。あいつ等は少し、いや相当に厄介な連中やで」

「わからないがな。俺たちのホシに絡んでなければ事を交えることもないだろうが」

「それやったらええけどな。だがしかしなあ」

直観だが光男はニンジャと対峙したことがあるのではないかと、武者小路は考えた。

過去を詮索するような野暮な真似は避けたが、事実としては概ね武者小路の判断は正しかった。

「それで? そっちの悪い話ってのは?」

「ん? ああ、すまん忘れとった。まあしかし大した話でもないんやけど」

「勿体ぶってないで早く話せ……。っておい、まさか」

「たぶん、そのまさかやろうなあ」

武者小路は脱力したが、光男は黙って後頭部を掻いただけだった。

「いやな、それが隆一。今度は微妙にちゃうかってんて。あいつ、今度は女子高生と何処かへ行きよった」

「女子高生!? なんだそりゃ」

「俺に聞かれても、わからへんて」

「そうか。それもそうだな。取り乱してすまん」

「別に、隆一が謝ることでもないやろ」

二人が混乱するのも無理からぬことであった。

「しかし節操のない奴やな。ほんまに」

「情報収集のためだ、と思いたいがな。何より昨夜の台詞に嘘偽りがあるとも思えん」

「それは俺も同じや」

しかし、客観的事実として捉えれば、雲雀の行動は二人取っては刺激が強すぎて理解し辛いのであった。

「まあ何にせよ、一旦ホテルで合流するぞ。どうせ昨日と同じく、暫く待てば帰ってくるだろう」

「作戦会議やな。必要な情報は出揃った訳やし」

二人がホテルの一室に戻って間もなく、神妙な表情を浮かべた雲雀が帰ってきた。

「雲雀、またか」

「よう色男。今度という今度はしっかり話を聞かせてくれるんやろうな?」

「こんにちはー。っていうか、こんにちは、みたいな?」

雲雀の陰から見知らぬアジア系の女の子が姿を現した時、二人は漸く雲雀の微妙な表情の原因を察知した。

連れてきてしまったのだ。例の道端で引っかけた女子高生を。

「あのー。あはは、もしかしてアタシ来ちゃいけない感じやったんかな? もしかしなくてもそういう感じかな?」

普通の今時の女子高生だった。健康的に日焼けした素肌が目に眩しい。

「おい雲雀。ちょっとこっち来い」

「おう待て待て。俺を一人に……。もとい二人にせえへんといてくれ」

大の男二人は遠慮がちに女子高生の横を擦り抜けると、雲雀を連れて一旦ホテルの廊下へと出た。

女子高生は依然として部屋の中にぽつねんと、所在無げに佇んでいる。

「雲雀、これはどういうことだ? 場合によっては然るべき機関に通報するぞ」

「そうやぞ雲雀、流石に女子高生はあかんて」

「ちょっとちょっと、落ち着いてって。ちゃんと事情を説明するから」

「おう。頼むで」

二人が落ち着きを取り戻すまでに多少の時間を要したが、雲雀が決まり悪そうに咳払いする頃には、彼等も話を聞くだけの平常心は取り戻していた。

「ネオ・ギネーに向かう前に、アタシお手洗いに寄ったでしょ。そしたら光男が、先に行ってるからなって言ったの覚えてる?」

「ん? ああ、確かに言いよったな」

「アタシ出てすぐに追い掛けようとしたのよ。そしたらトイレを出た瞬間にあの子と目が合っちゃって」

「はあ。それで?」

「それで言われたのよ。『好きです。結婚を前提に付き合ってください。って言うか結婚しよ?』ってね」

「「はあ!?」」

呆気に取られる二人を前に、雲雀も流石にバツが悪いようだった。

本人に落ち度はないはずなのだが、自然と口を吐いて出てくる言葉が釈明めいたものになってしまう。

「勿論アタシ、相手にしなかったわ。だけど、無視しようが怒ろうが説得しようが、あの子永遠に付いてくるんだもの」

「イケメンって大変なんやな」

「全くだ」

「ちょっと、感心してる場合じゃないでしょ?」

怒ったように眉を潜める雲雀を無遠慮に眺めていた二人は、妙な気持ながら何とか事実を事実として呑み込み始めていた。

なるほど。確かに雲雀の顔の造形なら、思い込みの激しい女子高生の一人や二人、重度の一目惚れに陥らせても不思議ではない。

だがしかし、問題はタイミングだった。

「そうは言っても、なあ」

これは、ほとほと困り果てた様子の武者小路。

「なんやねんこの状況。どうしろっちゅうねん」

投げやりな光男。

「アタシだって困ってるのよ……。でもまあ自分で解決するしかないみたいね」

要するに、この場をどうにか出来るのは雲雀本人だけのようだった。

「行ってくるわね」

廊下に突っ立っている二人を残して、雲雀は颯爽と女子高生の待つホテルルームへと戻った。

女子高生が部屋から元気よく飛び出してきたのは、丁度その30分後だ。

二人とも時間を気にするあまり、必要以上に時計を何度も確認したため、これは間違いない。

「失礼しましたー!」

女子高生は元気良く挨拶すると、膝丈のプリーツスカートを風にたなびかせながら脱兎の如く廊下を駆け抜けていった。

「おいおい、いったいなんて言うてん?」

「え? お願いだから家に帰って頂戴、いい子だからねって言っただけよ」

「本当にそれだけか?」

「そ、それだけよ」

珍しく歯切れが悪い。鈍感な二人にも、今度ばかりは容易に雲雀の嘘を見抜くことが出来た。

黙って雲雀を見つめ続ける二人に対して、とうとう彼も根負けした。

「ああ、もうわかったわよ! あと、こうも言ったわ。後で必ず迎えに行くからって」

「行くのか?」

「本気? 行くわけないじゃない。いくら私でも未成年相手に商売するほど零落れていないわ」

「そうか。安心した」

これもまた誰の落ち度という訳ではないのだが、雲雀は妙に機嫌を損ねてしまい、回復するまでに若干の時間を要した。

漸く落ち着いて話すことが出来るようになったのは正午になってからだ。

口火を切ったのは武者小路だった。

「元メンバーの居場所が分かった。今から奴をとっちめに行く」

「よし、ついにね」

「思ったより楽勝やったな」

「ああ。だがニンジャとやらも忘れるなよ」

途端に光男が分かりやすく顔を顰めた。それを見て雲雀が笑う。

「何よ、その顔。ニンジャってのは、そんなに厄介なわけ?」

「厄介も厄介や。そりゃあもう」

光男が詳しく話そうとしないので、結局二人もニンジャの何が厄介なのかは具体的には分らずじまいだった。

だが、元メンバーのアジトに向かう途中にしても、普段は陽気な光男がもの思いに沈んでいるのを見れば嫌でもわかる。

両者の間には、何やら浅からぬ因縁があるらしい。

「ここだ」

三人はリトルカルカッタの西端に佇む安宿の前で歩みを止めた。

薄汚れた黄色い看板んに掠れた赤い文字で「ホテル・ニューデリー」と記されている。

薄いベニヤ板で出来た扉を開けると、草臥れた老人がロビーで昼寝をしていた。

老人の目の前には個室の管理台帳が不用心にも、見開きのまま置いてある。

「手間が省けたか」

「203号室やな」

どうやら部屋は一室しか埋まっていないらしい。

武者小路が頷くと、光男は忍び足で階段を上り始めた。

「私は下で待機しているわ。この人が起きないとも限らないし」

光男に続き、武者小路も二階へと上がる。

ドアには簡易鍵が掛かっていたが、光男が思いきりドアノブを捻ると破壊的な金属音と共に扉が開いた。

「ひっ」

粗末のベッドと机しかない一室の隅では、何とも情けない姿で小男が縮こまっていた。

「よう。潜伏ド素人」

巨漢の光男が凄むと、哀れな小男はガタガタと震え始めた。

「人気のない所に潜めば見つからないとでも思ったんか? 逆なんよなあ」

わざとらしく殊更に大きな足音を立てて小男に近付く光男に対し、小男は遂に泣き出した。

「し、知らねえ。俺は何にも知らねえんだ。頼む、見逃してくれ、後生だから……」

「ああ? 誰も殺すなんて言うてないやろ?」

光男は念のため部屋の外に待機しており、懐に忍ばせたベレッタM92Fに手を掛けていた。

「あんたら、菅原の手先じゃないのか?」

震える声で小男が問いかけると、光男はゆっくりと首を横に振った。

「下郎と一緒にすんなや。せやけどな」

光男はしゃがみ込んで小男と視線を合わせると、静かに囁いた。

「言う通りにせんと、菅原に捕まった方が何万倍もマシやったと思う羽目になるで」

小男は光男の脅しに黙って震えていたが、直ぐに口を開いた。

「逃げてきたんだ。あんな野郎と一緒に働くのは二度とごめんだ、あんな、あんな自己中野郎と!」

先を促すように光男が頷くと、涙ながらに小男が続けた。

「あいつだって、捨て駒にされたんだ。銀行強盗の囮がいるからって、虎の檻を開けろって。俺は、きっと次は俺の番だって思って、それで怖くなって……」

二人とも驚きはしたが、表情には出さなかった。

どうやら自分達が天王寺動物園で虎に襲われたのも、元を正せばデビット菅原の仕業らしい。

「お前の話はどうでもいい。アジトはどこにある」

「ネオギネーだよ。奴は小さなドッグを持っていて、そこを根城にしている」

「ネオギネー、か」

光男は同胞たちの無遠慮な歓待を思い出して、小さく舌打ちをした。

「もういいか?」

二人のやり取りを黙ってみていた武者小路が問いかける。

「そうやな。おい!」

光男が大声を出すと小男は思わず飛び上がり、地面から数センチ浮きがったかにも見えた。

「これに懲りたら全うな人生を歩むんやで」

小男は何か言いたそうに口を酸欠の金魚のように開閉させていたが、結局は黙って何度も頷いただけだった。

階下へと向かう最中、武者小路は興味深そうな顔で光男の横顔を見つめていた。対する光男は顔を顰めたまま、武者小路を見ようともしない。

「光男、お前って以外と……」

「只の自己満足や。それと、今すぐ気持ち悪いニヤケ顔を何とかせんと、ほんまにシバくで」

互いに小突き合いながら階下に降りると、例の老人が何やら熱心に雲雀に話しかけていた。

「それでな、ショウコさんや。わしは考えたんや。あのー、例の。あれ、なんだったかの。ほらほら……」

「サタデーナイトスペシャル?」

「それじゃ! それでな、悪党どもを」

「あら、おかえり」

雲雀は二人に気が付くと微かに微笑んだ。

「この人、アタシのこと亡くなった奥さんだと思っているみたい」

「お前は男だろうが……」

武者小路が呆れたように呟くと、雲雀は可笑しそうに笑った。

「じゃあね」

雲雀が手を振ると、老人は間抜けだが幸せそうな笑みを浮かべて三人を見送ってくれた。

「なあ、思ったんだが」

帰りの道中。既に簡単な情報共有は終わっていた。

「お前らって相当な御人好しだよな」

「そうかもね。特に、あの人」

「そうだな」

二人が笑うと、先頭を鼻歌交じりで歩いていた光男が何事かと振り返った。

「なんやなんや、二人だけで楽しそうに。は? さてはお前ら」

「妙な勘違いを起こすな。御人好し」

「は?」

「アンタのことよ。御人好し」

光男は顔を赤くしたが、肌色のせいで二人には分らなかった。

「それはこっちの台詞や! だいたい雲雀も隆一も見ず知らずの俺を助けたりせんやろ、普通」

「そうね。アタシやアンタは生きるか死ぬかの世界で今まで生活してきたから、あんなことには慣れてるけど、隆一、アンタは……」

「いや、俺はお前らとは違う。御人好しなんかじゃない」

一瞬だけ武者小路の顔を暗い影が過った。真意を問質そうと二人が武者小路に詰め寄ろうとした、その瞬間。

凄まじい爆音とと共に、激しい衝撃が三人を襲った。

目を向ければ、そこには煌めく観世恩菩薩の電飾を施したトラックがあった。あろうことか、辺りのものを薙ぎ払って突っ込んできたのだ。

「聞いたんよ! 御兄さん達、『ラピッドラビット』を追ってるんやって?」

運転席の日焼けした少女が、にっこりと微笑みながら話しかけてくる。

「お、お前は!」

「やめてよね光男、その三流悪役みたいな反応。ねえ貴方、お家に帰って大人しくしててって言ったじゃない」

武者小路は絶句していた。何故なら運転席の少女は他でもない、昼間の女子高生だったからだ。

「そういえば名乗ってなかったね。アタシは観音トラックの大河原クワンハイって言うんよ」

「相変わらず、全然人の話を聞こうとしないわね、この子」

雲雀は溜息を吐いたが、大河原が気付いた様子はない。

「あそこのリーダー、デビット・菅原は最低の男や。昔、パパの積み荷をぶんどられたことがあるんよ! ぜひぜひ懲らしめて欲しいな!」

「いやいや、せやから人の話を聞け言うてるやろ?」

「ん? ああ、そうそう」

光男は助けを求める目で武者小路を見たが、彼は彼で腕を組んだまま、黙って首を横に振っただけだった。

「悔しいけど、あいつは運転がちょっとばかし得意なんだ。きっと追い詰めたら沙京の水路に逃げ込むと思う。そしたらアタシに連絡して!」

クワンハイは高らかに叫ぶと、クシャクシャに丸めたメモ用紙を投げて寄越した。それなりに汚い字で八ケタの数字が記されている。

「パパの仕事を手伝ってるから、この辺の水路には詳しいんよ。いざとなったら御兄さん達のために、ナビゲートしてあげるから。ああ、あとこれも!」

少女は一方的に宣言すると、何やら筒状のものを無造作に放ってよこした。

「っておい危ねえっ! 暴発したらどうするつもりや!」

光男が受け取ったのは紛れもなくショットガン、モスバーグM500だった。

「ごめーん! アタシもう、行かなくちゃ! 遅れたらパパに怒られちゃう!」

「頼むから二度と現れんでくれ……」

武者小路の呟きも少女に届くはずもなく、彼女は爆音は響かせながら何処かへと走り去っていった。

「まあでも、悪い子ではなさそうね」

「良い子でもないだろう」

「そうかしら? 笑顔がチャーミングだわ」

「じゃあ、お前が責任を取って何とかしろ」

武者小路は脱力したかのように肩を落とし、雲雀は清々しげに微笑んでいた。

「なんや、随分と調子が狂っちまったけど、これからどうする? さっさと菅原の奴をとっちめに行くか?」

光男はいつの間にかモスバーグの検分を終えたらしく、気を取り直して言った。

「いや、その前に幾つか準備したいものがある。しかしながら、生憎と金がない」

何やら悩んでいる様子の武者小路を挟んで、雲雀と光男は我が意を得たりとばかりに笑みを浮かべた。

「なあ大将? 今となっては聞くのも遅いくらいなんやけどもな。俺たちは何のために亜狭になったんや?」

「パンを買えない市民は飢え死に。マリー・アントワネットならケーキ。それなら亜狭はどうするの?」

「はあ? お前たち、一体何を言ってるんだ?」

武者小路が怪訝な表情を受かべると、二人は声を揃えて高らかに言い放った。

「強盗や!」

「強盗よ!」

「はあ!? いや、だがしかし、強盗は犯罪だろう?」

「そもそも亜狭は犯罪者よ、隆一。それも質が悪い方の、ね」

不敵な笑みを浮かべる雲雀から視線を外した先には、やる気に満ちた表情の光男が待ち受けていた。

「なあ兄貴。強盗ってのは亜狭の夢や。ライフワークや。例えるなら、そうやな。ボクサーとKOみたいんなもんや」

「なんだそりゃ」

呆れた表情を浮かべる武者小路の目の前で、光男はモスバーグで軽く素振りをして見せた。

「もしくは野球とホームランやな。なくても一応成り立ちはするが、締まらねえ。そりゃあもう」

二人は真剣な瞳で武者小路を見つめている。

武者小路は暫し悩んでいたが、やがて降参だとでも言いたげに両手を上げた。

「わかったわかった。そこまで言うならやってやろうじゃないか」

「おっしゃ! やったるでえ」

「但し、条件がある」

一転、今度は光男と雲雀が首を傾げる番だった。対する武者小路は不敵な笑みを浮かべている。

「お前らのやる気は十分に伝わってきた。必要悪と言えるかはわからんが、緊急の金策が必要なのは不動の事実ってやつだ」

「何よ、当たり前のことを繰り返して」

雲雀は気色ばんだが、光男は黙って先を促した。

「まあ聞け、雲雀。お前らはどうか知らんが、俺は今朝まで無垢で無知なる小市民に過ぎなかったんだ。

昨日の今日というよりも更に早くして過去の自分を裏切るのは、正直あまり気乗りがしない」

「でも貴方、さっき強盗はしてもいいって言ったじゃない。言っておくけど、今さら取り消しなんて出来ないわよ」

「ああするさ。但し獲物は選ばせてもらう」

光男の目が光った。どうやら妙な部分には鼻が利くらしい。

「幸い、標的には事欠かないんだがな。官庁街やミナミならいざ知らず、沙京には全うな金持ちなんて住んでやしない」

「話はわかったけど、じゃあ何処を狙うって言うのよ」

「良い質問だな。光男、答えてやれ」

まるで本物の教師のような口調に戸惑うことなく、光男は口の端を歪めて笑った。

「そんなん決まってるやろ。沙京一の悪……いや。オオサカ一の悪の溜り場って言えば一つだけや」

雲雀の形の良い眉が僅かに跳ね上がる。どうやら彼にも二人の言わんとすることが分かったらしい。

「それじゃあ行くか。ニンゲン市場に」

ニンゲン市場。この掃き溜めのオオサカにおいても最悪のビジネス、人身売買のメッカは沙京の丁度中心部に位置している。

「確かに御金には事欠かないわね。残念なことに、こと奴隷商売なんてものはオオサカでも一大ビジネスなんだから」

呆れたとばかりに雲雀が溜息を吐く。その様子を見る限り、標的そのものに異論はないようだ。

否、あるのかもしれないが、武者小路の意思を尊重したのかもしれない。

「せやけどな、兄貴。HEART BRIGGEはどうするんや」

「人身売買の総元締めか。ぶちのめされて当然の連中だが、今回は事を構えるだけの余裕がない。そっち方面はマリアに任せておこう」

「あのふざけた姉ちゃんが、そんな善人めいた仕事をしたがるとは思われへん」

そう言って光男は笑い、その手中のモスバーグをウエスタンガンマンのように回した。

「HEART BRIGGEか。あまり関わり合いたくない連中だけど、引っ掻き回すくらいなら問題ないかしらね」

なんだかんだと言いながらも、雲雀も賛成ようだ。

武者小路が思うのは、こんな二人だからこそチームを組んで良かったということ。

それと同時に浮き彫りになる、彼らと自分との明確な差異。

武者小路は軽く頭を振って雑念を追い払った。

「まずは準備からだな。丁度、ニンゲン市場の手前はパウパウマーケットだ。何でもそろうだろう」

「なんやそれ。随分と阿呆な名前やで」

リトルカルカッタから市場までは左程遠くない。

それはつまり、ニンゲン市場のような忌むべき場所が、日常の真隣に平然と鎮座していることをも意味していた。

「ともかく最低限、顔だけは隠しておかないとな」

「裏社会に人相が知れ渡ることほどリスキーなことはないものね」

武者小路が当たりを付けたとおり、よくわからない被り物を売っている御面屋は直ぐにでも見つかった。

普段なれば、誰が欲しがるのかもわからないような代物だが、今の彼等には必要なものだ。

「にしても光男。同じチームのメンバーとして一応忠告しておくが、お前のセンスはどうかと思うぞ?」

「何でもええ言うたのは隆一やろ」

マーケットの隅、薄暗い路地裏を間借りして、三人は手早く襲撃の準備を整えていた。

文句を言い合っているのは虎面の大男と猿の面をした中年のサラリーマンだ。

「なんぼ言うても知らんけどな。ええか、隆一。タイガーマスクってのは漢のロマンなんや。とやかく言われる筋合いはあらへん」

光男はきっぱりと告げると、それきり黙り込んで武器の検分に戻った。

「どうでも良いことで喧嘩しないでよね。頭が痛いわ」

「いや、雲雀。お前はお前でどうかと思うんだが、如何せん」

武者小路は言葉を切って雲雀の長身を眺め見た。スタイルの良い八等身の頂点を飾るのはコミカルな兎の面だ。

「似合ってるんだよな」

「あらそう? ありがとう」

そもそも御面屋に入った時点で嫌な予感はしていたのだ。光男は迫真の虎の面を目にするや否や、それにすると言って聞かなかった。

雲雀も似たようなものだ。狭い店内をして一瞬で姿を眩ましたかと思いきや、次の瞬間には手に兎の被り物を携えて戻ってきた。

武者小路が猿の面を選んだのは単に動物繋がりで残っている御面が、下水道ワニにペストマスク風の鴉、目付きの悪い猿しか残っていなかったからだ。

因みに前者の二つは、長い咢やら嘴やらが見るからに邪魔になりそうだったので却下した。

「よし。二人とも準備はいいな」

「いつでも行けるで」

「勿論。OKよ」

既に打ち合わせは終わっていた。囮役は光男が務める。金品の簒奪は雲雀が行い、武者小路は彼の護衛だった。

散会の合図を送り、光男と別れる。

狙いを付けたのはHEART BRIGGE管轄の倉庫街だった。警備のほどは厳重とまではいかないまでも、決して緩くはない。

コンテナの隅に隠れて息を殺していると、表の方で派手な銃撃音が聞こえてきた。打ち合わせ通り、光男がひと騒ぎ起こしたのだろう。

それを皮切りに薄暗い倉庫内へと突入する。予想通り、中には無数のコンテナが積んであるばかりで、怪しげな匂いがするものは一つとしてない。

先に異変に気が付いたのは雲雀だった。合図を受けて視線の先を辿ると、隅の一角で如何にも柄の悪いスーツの男が待機しているのが目に入った。

この有事の際に一人だけ残っているということは、つまりそういうことだ。

武者小路がベレッタM92を構えようとするのを、雲雀が片手で制した。

武者小路が黙って頷くと、雲雀は猫科の動物を彷彿とさせる敏捷な身のこなしで、音もなくコンテナの上に登っていった。

いや、まあ猫ではなく兎なのだが、と武者小路が胸中で独り言ちている間もない。

雲雀は軽やかに中空へ飛び上がると、勢いを殺さぬままに強かに男の後頭部を殴りつけ、一撃で昏倒させてしまった。

「アサシンか、お前は」

駈け寄る武者小路に一つだけウインクが飛んでくる。

「これか」

地下へと続く隠し戸はコンテナの陰に巧妙に隠されていたが、雲雀は難なく見つけ出した。

曰く、隠蔽性より利便性を重視しているが故に見つけやすかったのだそうだ。

重たい鉄扉の先は急角度の狭い階段になっていた。下からは思わず鼻を塞ぎたくなるような、据えた匂いが漂ってくる。

二人は躊躇うことなく階下へと急いだ。一歩、また一歩と下っていくごとに、醜悪な匂いは否応なく強まるばかりだ。

長い階段を降り切った先には思った以上に開けた空間が広がっていた。足元には細かな砂利を踏む感覚がある。

眼前にあるのは赤茶色の風景、赤錆に覆われた大きな鉄檻が所狭しと並んでいるのが最初に目に付いた。

高い天井には切れかけの裸電球が幾つか吊るされているが、それでも地下の闇を遍く照らし出すことは到底叶わない。

そして、檻の中を不気味に蠢く、簡素な布切れを纏っただけの彼らにとっては、それだけが身の回りの全てだった。

武者小路の視界の淵が、赤く明滅する。間違いない、彼はこの感情を知っていた。これは、怒りだ。

「行くぞ!」

思わず叫ぶ。二人の行動は早かった。鉄檻の錠前は銃弾を前にして容易く砕け散った。

斯様に脆弱な戒めを前にして、眼前の彼らは不当に自由を奪われ続けてきたのだ。そのことすら、堪らなく腹立たしかった。

二人は合図を交わすこともなく二手に分かれると、ただ出鱈目に檻の鍵を破壊し続けた。音がどうだのと構う余裕はない。

「どうしたの?」

弾んだ呼吸を整えながら雲雀が訪ねた。闇雲ながらも大方の錠前を破壊しつくした先、隅にある小さな鉄檻の前での武者小路と再び合流したのだ。

だがしかし、様子がおかしかった。

この火急の時にあって、チームメイトが呆然と立ち尽くしているのだ。雲雀の剣幕も無理もない。

「由美子」

聞きなれない名前が武者小路の唇から漏れ出る。

雲雀は居ても立っても居られず、武者小路を無視して最後の錠前を破壊した。

それでも、この頼もしき中年男性は微動だにしなかった。

「由美子なのか」

「お父さん?」

小柄な人影から紡ぎだされた言葉は、掠れていて酷く聞き取りづらかったが、それでも確かに少女は言った。

お父さん、と。

無理からぬことだろう。雲雀ですら呆然と立ち尽くしているというのに。

少女は覚束ない足取りで立ち尽くす武者小路のもとに歩み寄ると、ふらり彼のもとに倒れこんだ。

「もう!」

すぐに我に返った雲雀が、武者小路の頬を思いきりビンタする。

「行くわよ!」

「あ、ああ!」

それで漸く、止まっていた時間が動き出した。

気が付けば上が騒がしい。敵が招かれざる珍客に気が付いたのかもしれなかった。

一気呵成、二人で階段を駆け上る。下りは二人だったが、上りは三人だ。

雲雀が横目で見ると、武者小路は大切そうに小柄の少女を掻き抱いたまま、何かを堪えるように懸命に歯を食いしばっている。

出口を目前にして、二人は顔を見合わせた。銃声を聞けば嫌でもわかるが、既に修羅場は始まってしまったらしい。

しかし、死地に飛び込むのに勇気はいらなかった。聞き覚えのあるダミ声が辺り一帯に轟き渡っていたからである。

「この正義のマスクが目に入らへん言うんか、ボケカスどもが!」

暴言と共に繰り出される正義の鉄拳。虎面の大男は咆哮を上げながら凄まじい勢いで拳を繰り出している。

それだけでも凄まじい圧迫感だ。仲間ですら圧倒する光男の勇姿は、敵対する連中にとっては悪鬼や武神の如き存在に見えるに違いない。

そして更にもう一人、見知った顔。

「ハッ。騒ぎを聞いて駆けつけてみりゃ、とんだ茶番じゃないか!」

ビッチだのファッキューだの暴言を吐き捨てながらショットガンを乱射する姿には確かに見覚えがあった。

咥え煙草に赤銅色の短髪、女契約刑事のマリア・ビスコンティだ。

何の因果かはわからないが、とんだタイミングで着手が入ったらしい。

解放された奴隷たちは蜘蛛の子を散らすように周囲へと走り去っていくし、敵味方入り乱れての大混戦具合である。

残っている黒スーツの男達は事態を収拾しようと躍起になっているようだが、怒号が飛び交うばかりで混乱が収まる様子は一向にない。

「くそ、裏切ったなマリア!」

そんな叫び声が弾丸凶に向けられる。

「裏切った、だと?」

騒ぎに乗じてコンテナの陰を移動するのは容易かった。二人は直ぐに光男の元に辿り着く。

彼の足もとには、既に二人の黒服が地に倒れ伏していた。

「お、お二人さん。遅かったやんけ!」

変わらず大声を出そうとする光男を、二人掛で強引に物陰へと引っ張り込む。

そうしている間にも、契約刑事とHEART BRIGGEの銃撃戦は激しさを増していた。

「裏切ったのはお前らの方だろう! 何が白無垢の美少女による極上サービスだ? あんなクソババアを送ってきたツケを払いやがれ!」

「くそっ、私怨かよ!」

男たちの悲痛な叫びに被せて、マリアのショットガンが火を噴く。

「いや、俺は普通に奴らを出来るだけ引き付けてトンズラかますつもりやってんけどな」

光男は何やら嬉しそうに話している。いや、正確には虎面の表情は変わらないのだが、その内で笑みを浮かべているだろうことは想像に難くない。

「そしたらあの阿婆擦れ、いきなり警官隊と共に現れて奴さんに突撃していくもんやから、俺も思わず引き返してもうてん。ほんで後はもう……」

「話は後! 今は兎も角、この場から離脱するわよ!」

引き絞るような声で雲雀が懇願する。光男は漸く我に返ったと見えて、全身に漲っていた闘志を消した。

「おお、すまへん。ん? 隆一、その子は」

「いいから!」

光男は見覚えのない少女に奇異の視線を向けたが、直ぐに雲雀に遮られた。

「わかったわかった。そら、今や行くで!」

光男の号令で三人は弾かれたように走り出した。

マリアの高笑いと止む気配のない銃声を背後に、夕暮れの道をひた走る。漸くリトルカルカッタのホテルに着く頃には、日も暮れなんとする頃だった。

マリアの相手に手古摺っているのか、幸いにして厄介な追手の姿も見えない。

「それじゃ」

三人で一室に集まり、腰を落ち着ける。仮面やら何やら襲撃に使った道具は道中の水路に全て投げ込んできた。

尤も、光男がタイガーマスクを手放すためには雲雀の一喝が必要ではあったが。

「話してもらおうかしら。お、父、さ、ん?」

雲雀がわざとらしく一語一語区切って発音する。

部屋の隅のベッドで安らかに寝息を立てる少女を、しげしげと観察していた光男は、その言葉を聞いて俄かに固まった。

「ねえお父さん? アタシ聞いてるんだけど」

「わかった。どうせ隠し立てするようなことじゃない」

「いや待て待て待て! そもそもどっから拾ってきたんや、あの子!」

「そんなの決まっているじゃない、ニンゲン市場よ」

光男は目を白黒させている。雲雀は一言、仕方ないわね、と呟くと簡単に事情を説明した。

地下室の鉄檻に囚われていた少女のこと。彼女が武者小路のことをお父さんと呼んだこと。

「まあ、そういうことだ。あそこにいる女の子、由美子は俺の娘だ」

事実は事実だ、とでも言うように淡々と告げる武者小路を前に、雲雀が詰め寄った。

「だからね、隆一! アタシはそういうことを聞いてるんじゃないの。何だってアンタの娘があんなところに……」

「誘拐されたんだよ」

武者小路の静かな言葉に、雲雀も光男も黙らざるを得なかった。

二人の脳裏を一瞬で過っていったのは、一人娘を誘拐された父親が今まで過ごしてきた過酷で悲痛で、残酷過ぎる人生だった。

「それは」

「いや、いい。過ぎたことだ」

光男が口を開きかけるのを、武者小路は制した。過ぎてしまったことはもうどうにもならない。

それは他ならない光男が一番よく分かっていた。それでも尚、何らかの言葉を探そうとしてた優しい大男の心遣いに、ただ武者小路は感謝した。

「それにな、こうして見つかったんだ。こんなに嬉しいことがあるか」

武者小路は眉間を抑えて涙を堪えた。何故だか、光男が泣いている。

勿論、雲雀とて嬉しかった。こんなにも嬉しいのに、何故。

心は、氷が落ちてきたかのように冷たくなっていった。

「さて、と」

人心地ついた後、武者小路は娘のために一室を取ると言い残して、部屋の外へ出ていった。

少女の寝息をBGMにして、雲雀と光男は安らかな沈黙を共有している。

「ねえ光男」

「なんや」

実を言えば光男は少しだけ緊張していた。武者小路は知恵者だが愚直な男だ。一緒にいても気が楽だった。

だが雲雀は違う。この男は賢い。おそらく、自分や武者小路よりずっと。

「アンタって家族はいるの?」

「そりゃおるで。口喧しい父ちゃんと母ちゃんがな」

阿呆と阿呆やと言って、光男は朗らかに笑った。

「そう。羨ましいわ」

雲雀は嘘偽りなく正直に告げた。光男は雲雀をじっと見つめていたが、穏やかな横顔からは何れの感情も読み取れなかった。

「天涯孤独なのよね、アタシ。物心ついてから、ずっと」

「そら災難やな。ま、俺も長らく一匹狼やったから少しは分かる」

光男はソファから立ち上がると、備え付けの冷蔵庫からウイスキーの酒瓶とグラスを二つ取り出した。

「ロックでええか」

「いいわ」

とくとくと琥珀色の液体が、二人分満たされていく。

「羨ましいだけなら、いいんだけどね」

光男は雲雀の独白に答えるように、静かにグラスを打ち合わせた。

一息で飲み干す。

「ええんちゃう」

光男は気楽そうに一言だけ言い放った。

激昂されてもおかしくはない言い草だった。人の悩みを聞いて、そんなことは何でもないと言われれば誰でも頭にくるのが道理だ。

けれど。雲雀は、ただ黙って気の毒そうに光男のことを見つめただけだった。

「まあ、そういうこっちゃ。人間、生きてれば一つや二つくらい後ろ暗いことがあって普通やからな」

「そうね」

そう。雲雀はしっかりと見ていたし、光男もまた見られていたことを自覚していた。

武者小路は死んだと思っていた娘と再会したばかりで、きっとそれどころではなかっただろう。

倉庫での戦い、光男の足もとに倒れ伏していた二人の男は気絶などしていなかった。かと言って、雲雀のように昏倒させたという訳でもない。

死んでいた。いや違う、人は一人で勝手に死んだりはしない。殺したのだ。光男が。自らの拳でもって。

確かに死んで当然の奴等だとは思う。人身売買など悪魔の所業だ。光男は然るべき報いを与えたに過ぎない。

だが、問題はそこではない。

光男は落ち着いた表情で二杯目のウイスキーを手酌している。

その様子を黙って眺めていると、光男は首を傾げた。

「もう一杯いくか?」

「もらうわ」

穏やかで平和な空気が流れている。とてもではないが、目の前の男が、数刻前に人二人を己の拳で殴り殺しているとは到底思えない。

「ねえ」

「やめろ」

雲雀の問いかけを、光男は静かに遮った。

けれど、雲雀は踏み込みたかった。彼は誰かに話すことで自分の苦しみを和らげる術を知っていたし、それを良しとしていた。

相手は誰でもよい時も会ったし、そうでない時もあった。

だが、感情の籠らない光男の拒絶の声は、彼が己が苦しみを他人に打ち明けることは、今までも、そしてこらからも絶対にないということを如実に表していた。

雲雀が意を決して立ち上がり、顔を背けている光男に近寄ろうとすると、部屋の扉が思いきり開け放たれた。

「帰ったぞ! 雲雀! 光男!」

誰かと思えば、武者小路だった。しかも既にかなり酒臭い。頬には幾筋かの涙の跡が見て取れる。

大方、二人に見せるのが恥ずかしかったのだろうが、一人で祝杯を挙げていたらしい。

「おう! 待っとったで隆一!」

気が付けば仮面のようだった光男の顔は喜色満面、いつもの快活な笑みが戻っていた。

それを見て、雲雀は溜息を吐く。まあ、今はいい。

「おい、雲雀! お前もこっちに来い! さあ、今から私の愛娘に祝杯を捧げるぞ!」

豪快に笑う武者小路。見よ、数十年に渡る戒めから解き放たれた男の勇姿を。

雲雀は微笑んで参列に組した。これだけ騒げば少女も起きるだろうが、当の父親が知っててやっているのだから許可が出ているも同然だろう。

「私の娘、由美子に乾杯!」

「「乾杯!」」

グラスを上げる。どうやら今夜は荒れそうだ。


翌朝。結論から言って、一番お酒に強かったのは雲雀だった。おかげで昨夜は本当に大変だったのである。

特に由美子ちゃんが起きてからは大童で、武者小路は隙あらば愛娘に頬擦りしようとするし、光男はしこたま酒を煽った挙句、由美子ちゃんにまで飲ませようとする始末。

怒った武者小路が光男に掴み掛る大惨事にまで発展してしまった。

欠伸をしてベッドから起き上がる。床に大の字になっているのは光男。ソファで丸まっているのが武者小路だ。

由美子ちゃんは雲雀が別室に寝かしつけてきた。こんな空間に幼気な少女を放置しておくわけにはいかない。

時刻はAM7時。外は晴れているようで、カーテンを透かして入ってくる陽光に、少しだけ目が眩む。

二人は当分起きないだろうという高鼾だ。全く、今晩までにはネオギネーに行ってデビット菅原と立ち会わねばならないというのに呑気な連中である。

「まあ、いいか」

頬が緩んでいるのが自分でもわかる。気を引き締めるつもりで外に出ると、強い朝の光が雲雀を照らした。

これなら夜になってもデビット菅原を取り流すことはないな、などと考えながら足を踏み出そうとした矢先。

「やっほー」

間延びした声が静謐な朝の空気に上乗せされた。

視界の端には見間違えようのないド派手なネオンの観音トラック。

「また来たの? 大河原さん」

「うん。だって私、お兄さんのこと好きだもん」

こともなげに告げる小麦色の肌をした少女は、あっけらかんと笑っていた。

「でもアタシ、バイよ」

「知ってる」

冷たい瞳で流し見ても少女は気後れした様子もない。その瞳は真剣だった。

「ねえお兄さん。私と付き合ってよ。って言うか結婚」

「それはもう聞いたわ」

片手で制すると、少女は少しだけむくれた。

「じゃあ聞くんやけど、私の何がダメなの?」

「え? だって貴方まだ子供じゃない」

「子供だと何がダメなの?」

これには参った。一般論で言い包めようとしたところで、この子は決して納得しないだろう。

それに、深い所では恋愛に年齢など関係ないということを雲雀は知っている。出来れば、自分に嘘を吐くような真似はしたくなかった。

「うーん。じゃあわかったよ」

雲雀が口を閉ざして考えていると、大河原はピンと人差し指を青空に向かって突き立てた。

「私と付き合ってみない?」

小首を傾げる彼女。聊か野性味にあふれすぎてはいるが、決して整っていないわけではない顔立ち。数年もすれば美人に育つだろう。

「さっきと何が変わったって言うのよ」

溜息と共に問いかけると、少女は薄い胸を張って主張した。

「やからね、これはお試しだよって言うこと。なんやけど……」

少女の声は尻すぼみになっていき、やがて掻き消えた

「ダメ、かな」

不安げな瞳で此方を見上げる少女を前にして、ますます雲雀は困惑する。

そんな顔をさせるつもりなど毛頭ないのに、これでは此方が悪者のようではないか。

「そもそも、なんでアタシのことが好きになったの?」

「顔!」

「うそつきは嫌いよ」

即答した少女を雲雀は切って捨てた。少女は年の割に随分しっかりしている。

それに、これくらいの駆け引きに動揺するようでは雲雀の相手など勤まろうはずもない。

そう、それは単なる鎌掛けに過ぎなかった。雲雀の日常。終わることのない男女の恋愛ゲーム。

「だって御兄さん、寂しそうだったから」

それが雲雀の心を簡単に刺し貫いた。

脳裏に蘇るのは、娘と抱き合った武者小路の泣き顔。口やかましい両親だと切って捨てた光男の微笑み。

彼らは孤独ではなかった。私とは違った。

「私、お兄さんの傍にいるよ? ずっと」

じっと少女の目を見つめる。その瞳に迷いはなく、一片の嘘もないことに彼はたじろいだ。

若さというものは怖い。ただそれだけで、何でも出来てしまうような気になれるのだから。

吸い込まれるような鳶色の瞳を前に、遂に彼女は降参した。

「負けたわ。いいでしょう。付き合ってあげる」

「え? うそ? ほんと?」

「本当よ」

雲雀が微笑むと、少女は一目散に駈け寄ってきて彼に抱き付いた。

「やったー! 御兄さん、大好き!」

「はいはい」

てっきり少女は帰るのかと思いきや、そのまま雲雀にくっ付いて離れようとしなかった。

仕方なしに彼女を連れて部屋に戻ると、洗面所で眠気眼を擦っている武者小路と出くわす。

「ああ、おはよう雲雀。どうも昨夜の記憶が曖昧なんだが、俺は何か失礼なことを」

「してないわ。大丈夫」

「あ、おはよう! 武者小路のおじさん」

途端に靄掛かっていた武者小路の思考が覚醒する。言うまでもなく、雲雀の陰から飛び出した少女によって。

「ああ、それと」

雲雀は固まっている武者小路の横を擦り抜けるようにして部屋の中に入った。

「私達、付き合うことになったから」

「よろしくねー」

「おいウソだろ、何の冗談……」

慌てて追い縋ろうとする武者小路を無視して、未だに床に大の字になっている光男を叩き起こす。

「ちょっと光男! 起きなさい!」

「起きて光男おじさん! 私達付き合うことになったんよ!」

「ん? ああ、雲雀がまた新しい女を連れて」

大河原を目にした途端、光男は目を丸くしてガバリと跳ね起きた。

「待て待て、それは何の冗談……」

「やめてよね。隆一と同じ反応するの。気が抜けるわ」

「ほんとね」

「貴方は少し黙りなさい」

雲雀に窘められて大河原は少しだけ項垂れたが、すぐに元気になって落ち着きのない犬のように雲雀の周りをぐるぐる回った。

「まあ、いい。わかった。雲雀の恋愛に俺たちがどうこういう筋合いはない」

「そ、そうやな。確かに、隆一の言う通りや」

単に二人は思考を放棄しただけなのだが、それに気が付いているのは雲雀だけだった。

「で、襲撃はどうするのよ」

「それなんだが」

簡単に昨日の惨状の後片付けをした後、三人は腰を落ち着けて作戦会議と洒落込んでいた。

大河原はあまりにも煩いので、由美子の部屋へと強引に追い出している。

「菅原を〆るのは夜になってからだ。正直、正面から戦っても我々が苦戦するだけだろう」

「そうね。例え烏合の衆でも、アタシ達みたいな新米亜興には十分すぎる脅威よ」

光男は少々不服な面持ちだったが、矢張り一人ではどうすることも出来ないということは彼とて承知している。

「夜陰に乗じて奇襲。これで決まりだ。その時は光男、お前が突破口を開いてくれ」

「おうよ」

苦笑する武者小路に対して、光男は力強く頷いた。

「それで、それまではどうするの?」

「ああ、それも決まっている」

雲雀の問いかけに対して、武者小路は不敵な笑みを浮かべた。

「何も二日続けて強盗してはいけない、なんてルールはないんだろ?」

「お? 味を占めたな? 隆一」

光男が嬉しそうに笑う。

「そうだな。だが今回強盗に参加するのはお前たち二人だけだ」

「それは良いけど、アンタは?」

「ナニワ兵器廟とオオサカゴミ処理場に行く」

「あら、ウインドウショッピングでもするつもり?」

「そうならないための強盗だ。それにな」

武者小路が光男を見やると、彼は不敵な笑みを浮かべてポケットの中に手を突っ込んだ。

出てきたのは分厚い札束だ。雲雀は目を丸くした。

「アンタ、そんなもんどこで……」

「そりゃドンパチやってる最中やな。こう、ちょろっと」

雲雀は光男の抜け目ない働きに舌を巻いた。不器用そうに見えて、実はこの男はとんでもなく器用なのではないか。

「兎も角、光男のおかげで武器は揃う。後はアシが必要だ。お前達にはその為の資金調達を頼みたい」

「ふうん。じゃあアンタがナニワ兵器廟に行ってる間、アタシ達で強盗。その戦果で乗り物を買うってことね」

「OKOK、そんならさくっと行こうや」

勢い込んで立ち上がろうとする光男を雲雀が制した。

「ちょっとちょっと、アンタ一人でどこに行こうって言うのよ。まだ襲撃場所も決まったわけじゃないのに」

「そうだぞ光男、焦る気持ちはわかるが」

「いやいや待てお二人さんよ、あんたらもしかして気づいてないんか?」

光男は本気で不思議そうな顔をして、二人の顔を交互に見比べた。

「ホテルの目の前の宝石店、警備ザルやで」

果たして光男の言う通り、宝石店強盗はあっさり成功してしまった。

これは偶々運が良かっただけどもいえるが、それも警備の甘さを見抜くことが出来た光男の成果と言っても良いだろう。

「そして強盗の犯人が目の前の高級ホテルに宿泊しているなんて、誰も考え付かないでしょうね……」

「全く、その通りやな」

実際、光男の手際は鮮やかなものだった。見ている雲雀が惚れ惚れするほどに。

「ねえ光男、アンタ、昔も亜興だったことがあるの?」

気軽に問いかける。昨夜のような詰問とは違う、聞き流せるレベルの気楽さで雲雀は問いかけた。答えたくないならば光男の方ではぐらかすだろうと踏んだのだ。

「いや、亜狭になったのは昨日で初めてやな。まあ、おいおい話す」

「そう」

会話はそれで終わった。だがそれでも、光男の返答は雲雀にとって及第点を付けられるものだった。

外は未だに騒がしいが、流石に高級ホテルの一室は静かなものだ。騒がしいクワンハイはと言えば、放り込まれた由美子の部屋から出てこようともしない。

年が近いこともある。我々の預かり知らないところで意気投合しているのだとすれば、それはそれで嬉しい誤算だった。

暫くして、武者小路が戻ってきた。その手には黒光りするSMGが握られている。

「ほらよ」

武者小路は手にしたステアーAUGを雲雀に放って寄越した。

「安心しろ。軍の放出品だ。勝手に暴発したりはしない」

「アンタ、こんな高価なもの買うお金があったの?」

「心配しなくても、これの才能があるんでね」

武者小路は二人には良く分からないハンドジェスチャーをして、雲雀の疑問に答えた。

どうやら、値切りや交渉事は任せておけ、と言いたいらしい。

「ほんなら、これが俺たちの成果や」

そう言って黒いトランクを持ち出してくるのは光男。その顔はどことなく得意げだった。

それを見て武者小路がにやりと笑う。

「良いぞ二人とも。これだけあれば飛び切りの奴が買える」

オオサカゴミ処理場はリトルカルカッタの北西、見渡す限り何もない一帯にある。

より正確に言えば、何もない一帯は実のところゴミというゴミで埋め尽くされており、その広すぎる一帯そのものが便宜的にオオサカゴミ処理場と呼ばれているに過ぎない。

オオサカは良く掃き溜めのという枕詞を付けて呼称されることがあるが、オオサカゴミ処理場は掃き溜めの掃き溜め、文字通り物理的に世界一のゴミ山なのである。

勿論、処理が追いつくはずもなく、ゴミ処理場は日夜拡大する一方だ。しかし、そんなものでも廃品業者やジャンク屋には宝の山である。

結果としてゴミ処理場周辺では常にジャンクヤードが開かれており、何か入用の亜興は必然的に足を向けることになる。それは武者小路達とて変わらなかった。

「これにしよう」

当然、三人の意見は割れた。光男はジェットスキーが欲しいというし、雲雀はと言えば馬が欲しいという。

もはや馬とジャンクは何の関係もないのでは、と武者小路は頭を抱えたが、売っているものは売っているのだから仕方がない。

二人の要求を跳ね除けるのに時間は掛かったが、最終的にはシトロエン2CVに落ち着いた。至って性能の良い、普通乗用車である。

「でもこれ、マリアが乗ってた奴と同じ奴やな」

という光男の言葉さえなければ、不慣れな買い物も概ね成功したと言って良いだろう。

そして、来るべき夜。準備は整った。

「いよいよだな」

「目にもの見せてやるわ」

「ド突きまわしたるで……!」

「いよーし、やっちゃうよー!」

何故だか、三人が乗ってきたシトロエンの隣には観音トラックが止まっていた。

「いや帰れ。お前は、ほんまに」

これには流石の光男でも頭痛を抑えきれないようだ。武者小路と雲雀に至っては、言わずもがな、である。

少女は無意味にぶんぶんと右手を振り回しており、やる気は十分のようだ。

「クワンハイ、ちょっとこっちに来て」

「うん!」

雲雀は観音トラックの陰にクワンハイを呼び出すと、残された二人の死角に隠れてしまった。

二人が気を揉んだのは言うまでもないだろう。尤も、二人が戻ってくるまでに左程の時間も掛からなかった。

「お待たせ。じゃあクワンハイ、良い子で待ってるのよ」

「うん。わかった。待ってるね」

クワンハイは先程とは打って変わって大人しい。というか、心ここに在らずといった様子である。

だが、その幸せそうに緩み切った頬を見ればわかる。

「何したんだよ?」

「何もしてないわよ」

二人は声を潜めて雲雀を追及したが、当の本人は全くの澄まし顔である。

「ともかく、これで漸く本気で戦えるってことやな」

光男は拳を鳴らしていて気合十分だ。出鼻を挫かれた感じはするが、既に仕切り直しも終わった。

最早ためらう理由などどこにもない。三人は夜陰に乗じてデビット菅原のアジトを目指した。

ネオギネーの片隅、奴の根城は海に張り出した小さな船のドッグだった。

光男が小さく舌打ちをする。それもそのはず、オンボロのドッグは小さすぎるが故に見晴らしが良く、不意打ちには向いていなかったのだ。

作戦変更、三人は顔を見合わせると各々の獲物を構え直し、正面から堂々とアジトに踏み入った。

中ではデビット菅原が三人を待ち受けていた。アロハシャツをだらしなく着崩した軽薄な男だ。

「知ってるぜ、アンタらのこと。俺たちの代わりに犯人扱いされてる間抜けどもだろ?」

ひゃはは、と下卑た笑い声を上げるデビット菅原を前に、三人は揃って凶悪な笑みを浮かべた。

こいつは飛んだ下種野郎で小物だということが分かったからだ。ぶちのめすのに理由はいらない。

「じゃあな」

光男は一言だけ告げると、デビット菅原に向かって突進した。

「ひっ」

菅原は小さく悲鳴を上げると、すぐに用意してあったらしいモーターボートに乗り込むとドッグから逃げ出した。

「なっ、この卑怯者!」

雲雀の叫び声も空しく、菅原の後姿は遠ざかっていく。

「追うぞ!」

武者小路が叫ぶと同時に、ラピットラビットのメンバーが何処からともなく現れて行く手を遮ろうとする。

「くそっ、この雑魚共が!」

光男の雄叫びと共に、激しい銃撃の火蓋が切って落とされた。


最初に動いたのは雲雀だった。その白い腕に構えたステアーの銃口が火を噴く。

チンピラ共は五人、手応えは確かにあった。狭い襤褸ドッグの何処かで、情けない呻き声があがる。

「よし」

物陰に隠れて額を流れる汗を拭う。荒事は久しぶりだが、心配していたほど腕は訛っていないらしい。

雲雀が大きく深呼吸して次の銃撃に移ろうとした、その時だった。雲雀の直ぐ隣で、ドス黒い闘気がゆらりと立ち上った。

雲雀はぎょっとして思わず、味方と知っていながら彼に銃口を向けてしまう。それほど、彼の放つオーラは禍々しく殺意に満ちていた。

「奥義……」

獣の如き燐光を発する彼の瞳が僅かに揺らぐ。雲雀はすぐさま彼を止めようとした。そこにいるのは、自分の知っている陽気なアフリカンではなかったから。

「破戒!!」

瞬間、大男の姿が掻き消える。単に素早いという訳ではない、文字通り、卓越した技術と身の熟しで相手の視界から消え失せたのだ。

雲雀が次に目にしたのは、哀れなチンピラの背後、己が獲物を振り被る光男の姿だった。それは確実に相手の命を奪う、プロの殺人術。

急所目掛けて迷いなく振り下ろされたに見えたハードケースは、しかし、首の皮一枚で躱された。

雲雀は思わず胸を撫で下ろす。それは反対端のコンテナから様子を伺っていた武者小路にしても、何故だか同じだった。

光男は小さく舌打ちして、すぐに彼我の距離を取った。今のは、外す筈のない一撃だった。

事実、相手は完全に光男の動きを見失っていただろう。光男が奥義を使うと決めた時には、奴の死は決まっていたのだ。

だがしかし、一瞬だけ脳裏にちらついた。昨夜、血に染まった己の拳を見つめていた、雲雀の悲しそうな瞳が。

光男が飛び退いたのと、武者小路のベレッタが炸裂したのは同時だった。援護射撃のつもりだったが、彼の銃撃は狙い違わず、チンピラの一人を撃ち抜いた。

「やるやん」

「お前こそ」

光男は武者小路の隣まで直ぐに後退してきた。漸く体制を立て直してきた三下共の銃撃は思いの外激しい。何度もヒヤリとするほど、多くの弾丸が頭上を掠めていく。

「次で決めるぞ」

光男は無言で頷いた。雲雀にも視線で合図を送る。

雲雀のステアーと光男のベレッタが再び火を噴いたのは全くの同時だった。

大方の敵は容赦ない銃撃の前に倒れ、僅かに撃ち漏らした敵は、武士が如き光男の一撃で大海原へと叩き落された。

残る敵は一人。奇跡的に無傷の男が、震える銃口を此方に向けて最後の一発を放ってきた。そんな決死の一撃も、へっぴり腰の素人射撃では当たるはずもない。

「失せな。命を無駄にするんじゃないよ」

雲雀が吐き捨てる。それは彼女の優しさか、はたまた甘さか。

哀れな残党は、粗悪な武器を放り投げると、這う這うの体で一目散に逃げ去っていた。

「終わったか」

「早くアイツを追い掛けないと!」

武者小路と雲雀がモーターボートに向かって走る。

「待て!」

光男が聞いたこともないような焦った声を出したのは、その時だった。

二人の目前に突如として白刃が翻る。光男の静止がなければ、二人の命の保証はなかった。

「ニンジャー」

「ニンジャニンジャー!」

眼前に構える二人の異邦人。一人は白装束、もう一人は紅装束に身を包んでいた。身に纏う気迫は先程のチンピラ共の非ではない。

「戸惑ってる場合やない! 早う撃て!」

光男の叫びで、二人の硬直が解ける。先に打ったのは雲雀だった。至近距離で放たれたステアーのフルオート射撃は白装束を血で染めたが、紅のニンジャはひらりと身を躱す。

零距離での銃撃を躱すなど、やはり人間業ではない。光男は先手を打って、大きく相手の懐に踏み込んだ。奴らの名前を聞いた瞬間から、命を懸ける覚悟は出来ていた。

放っておけば、大切なチームメイトを失いかねない……!

光男の放った渾身の一撃は空しく空を切った。どころか、強かに地面に叩き付けられた光男の獲物は木端微塵に砕け散ってしまった。

恐れるべきは光男の腕力だが、見えざる速度で放たれた必殺の一撃を紙一重で避けたニンジャもまた人外の領域にある存在だった。

だがしかし、そこに大きな隙が生まれたのも事実。攻防の合間を縫うようにして放たれた武者小路の弾丸は、恐るべき強敵の心臓を貫いた。

刹那の攻防。いざ終わってみれば、三人とも全くの無傷だ。だがしかし、擦り減った神経と精神は先程の銃撃の非ではなかった。

気を抜いたら殺されるという実感は否応なく三人の精神を蝕み、今さらながら大量の冷や汗が背筋を伝っていく。

一時、光男は獣のような姿勢で深呼吸を繰り返していた。

「見失ったか……」

一時して我に返った武者小路が強く歯噛みする。大事がなかったのは幸いとしか言いようがないが、今の一瞬が命取りだった。

標的が左程遠くに行っていないことは確信が持てるが、奴の現在地が分らなければ追い掛けようもない。

三人とも声もなく、必死に打開策を考えていた。勝利の余韻など、あろうはずもない。

このままでは人間の屑風情が大金と共に逃げおおせてしまい、自分達は地獄の海上刑務所行きだ。勿論、そうなっては生きては出られまい。

雲雀の携帯電話がけたたましく鳴り響いたのは、丁度その時だった。

「御兄さん達! 諦めるのは、まだ早いんよ!」

それは聞き覚えのある少女の声。

「実はこっそり菅原の奴を追っかけてるんだ! ナビしてあげるから早くおいでよ!」

それはまさに起死回生の一手だった。

「クワンハイ!」

声を揃えて思わず叫ぶ。

「でかした雲雀!」

武者小路は一番にモーターボートに飛び乗ると、思いきりエンジンを回した。

「助かるわ、クワンハイ。本当に、ね」

雲雀の言葉が、残る二人の耳に響く。

「いいよいいよー。私は雲雀さんのことが好きなんだから、寧ろこれくらいは当然って感じかな?」

三人は全速力で菅原の後を追った。携帯電話からは場違いな程に威勢の良いクワンハイの声が繰り返し鳴り響いては、夜の虚空へと吸い込まれていく。

「ナビ、頼むわよ!」

「イエッサー!」

そこには、大阪湾の漆黒の海原をひた走る一隻のモーターボートがあった。散らす水飛沫は激しく、風は身を切るように冷たい。

「いた!」

武者小路が叫んだ。まさか追いつかれるとは思っていなかったのだろう。包囲網を警戒してか、デビット菅原は殆どスピードを出していなかったらしい。

だが、それもここまでだ。目と鼻の先までは追いついたが、流石の相手も此方に気が付く。

あと一歩の距離まで肉薄した瞬間、デビット菅原のモーターボートは恐るべき速度で逃走を開始した。逃げ込む先は外海ではなく、迷路のように入り組んだ沙京の水路の中。

「おいおいおい、大丈夫やんな!」

大男の光男は頭上を掠めていく障害物に思わず叫んだ。

2台のモーターボートは凄まじい速度で細い隘路を走り抜けていく。悔しいが菅原が辺りの地理に明るいというのは本当のようだ。

だがしかし、此方にも心強い味方が付いていた。

「そこ右!」

携帯から聞こえるクワンハイの声が闇夜に響く。黙って走っていれば、とっくに菅原は逃げおおせていただろう。

だが、少女の的確なナビのおかげで、間一髪食らいついている。一瞬その後姿を見失っても、次の瞬間には再び奴を捉えなおすことが出来た。

そしてそれは、菅原にとっては悪夢のような光景。

「クソクソクソッ! なんなんだよ奴らは!」

今の今まで見たことも聞いたこともないような連中が、沙京を根城にする自分達しか知らない道を使って追い掛けてくるのだ。

菅原の驚きは相当なものだった。だが彼とて、おいそれと捕まってやるわけにはいかない事情がある。

何せこのモーターボートには、銀行強盗で分捕った、自分が一生遊べるだけの大金が積み込まれているのだ。

「まだか!」

「もう少しや!」

鳴り響くエンジン音と波の音を縫って、武者小路と光男の怒号が飛び交う。

ナビはクワンハイと雲雀だ。最早、時は一刻を争っていた。

「あれ!」

緊迫した状況の中、切羽詰まったよクワンハイの声が響く。

三人同時に視線をやると、前方の海面には揺らめく緑色の炎が立ち上っていた。

「あれが沙京ネオンか!」

驚きとと共に武者小路が叫ぶ。遠景でしか見たことのなかったそれが、現実的な障害として三人の前に立ち塞がっている。

だがしかし、スピードを緩める訳にはいかなかった。菅原とて、それは変わらない。

「ひゃっはー!」

逃げウサギ。菅原は巷を渡り歩く己の蔑称を、世間で言うものとは少し違った意味で受け止めていた。

確かに、自分は姑息で卑怯な小悪党かもしれない。だがしかし、沙京の水路を一番早く走り抜けることが出来るのはラピットラビットをおいて他ならない!

「まさか、高速道路の星!?」

「何を言うとるんや雲雀!」

雲雀は知っていた。世の中には走り屋と呼ばれる連中がいて、日夜命を賭した無謀な競争に興じていることを。

そして、そんな彼等だけが知るはずの人知を超えた業が、今まさに目の前で起ころうとしている。

叫び声と共に炎の壁の真っ只中へ突入した菅原のモーターボートは、その流星の如き勢いのまま壁の向こうへと躍り出た。

勿論、彼も彼のマシンとて無傷ではないが、その姿は確かに伝説と呼ばれる走り屋の姿とも重なる。

「俺たちも行くぞ!」

避けて通るわけにはいかない。単なる小悪党だと思い込んでいた標的は、今この瞬間に己の才能を開花させようとしている。

この一瞬で全てを決めなければ、奴を取り逃す――!


「おおお……」

リトルカルカッタの西端、沙京の始まりにはホテルニューデリーという名の寂れたモーテルが一軒、突っ立ている。

昼間たっぷりと居眠りを決め込んだ老主人は、良い気分で夜の散歩に勤しんでいた。

何せ今日は、死んだはずの女房と再開する夢を見たのだ。こんなことは何年か振りだった。

「これはいったい」

平和なリトルカルカッタに似つかわしくない、大事故の跡。

大破した二隻のモーターボートは、哀れな桟橋を粉々に破壊しつくした挙句に乗り捨てられたようだ。

「さあ観念しな。菅原のあんちゃん」

緑色に揺らめく炎を背景に、手にしたショットガンが玩具のように見える黒人の大男が楽しげに吠える。

「勝負あったな」

煤けてはいるが一目で上等なものだと分るスーツを羽織った中年男性は、堅気に見える外面とは裏腹に全身に一部の隙もない。

「さてと、まだ逃げるつもりかしら?」

「もう逃がさないよー!」

長身の白人男性は端正な顔立ちとは不釣り合いな無骨なSMGを中腰に構えていた。胸ポケットからは何故か威勢の良い少女の声が鳴り響いている。

相対するのはアロハシャツを着た如何にも軽薄そうな小男。

老人は固唾を飲んで四人の行く末を見守ったが、決着は直ぐに訪れた。

やがて、アロハの男が脱力したように地面に膝を付いたのだ。それは事実上の敗北宣言に等しかった。

警察のものと思しきサイレンが何処からか鳴り響く。大方、この大騒ぎを聞きつけて急ぎ駆けつけてきたのだろう。

「遅かったな、マリア」

「ハッ、言うじゃないか」

中でも、赤髪の女刑事は一足早く此方に辿り着いたようだ。

「さすが、現場至上主義の契約刑事はちゃうもんやな」

光男の軽口には答える素振りも見せず、マリアは萎れきった菅原へと歩み寄るなり、慣れた手付きで手錠を掛けた。

「これで一件落着ってわけ?」

「まあな。だが、これで終わりってわけじゃない」

雲雀の問いに、マリアはこともなげに答えた。三人は揃って首を傾げる。

「あのな、お前達。私はお前たちに何て言った? それとも、その大層なオツムの中身はすっからかんなのか?」

三人の脳裏にカモメ大橋でのやり取りが蘇る。自分たちが依頼されたのは真犯人の逮捕と……。

「奪われた現金の奪還だよ、間抜け」

溜息と共にマリアの口から紫煙が吐き出される。

「あかん! 忘れとった!」

急いでモーターボートに駈け寄ろうとする光男を、投げやりなマリアの声が押しとどめた。

「あー、やめなやめな。どのみち手遅れだって。お前らがやらかした失態のおかげで、今頃全部海の藻屑さ」

「でも、じゃあ……」

再び、銃を握りしめる三人の拳に力が籠る。この女のことだ。どんな報復を仕掛けてきてもおかしくはない。

「だから、やめろって言ってるだろ? 言っておくが、今さらお前たちをどうこしようっていう気は、さらさらないよ」

「金はどうする」

武者小路の油断ない瞳が女刑事を見据える。その射るような視線を受けても、マリアは小さく肩を竦めただけだった。

「まあ、本来なら教えてやる義理もないんだがな。今回はお前らの手柄ってのもある。一応筋は通しておいてやるよ」

マリアは飄々とした態度を変えようともしない。辺りにはいつの間にか警官隊が到着しており、菅原は何処かへとしょっ引かれていったようだ。

赤々としたサイレンが、マリアの無表情な横顔を照らす。

「まず一つ、デビット菅原の懸賞金。だが知ってのとおり、奴は単なる小悪党で、金額もタカが知れてる。これだけだったら、お前らは豚箱行きだった。結局な」

そう言ってマリアは笑った。三人にとっては笑えない話だ。

「ほんなら、まだあるんやな? 泡銭が」

「そう焦るなよアフリカン。二つ目はお前の活躍だって言うのに」

「HEART BRIGGEね」

雲雀の確信めいた言葉に、マリアはゆっくりと頷く。

「ご名答。私怨を張らせてすっきりしたってものあるが、あそこはお前たちが思っているより重要な案件でね。正直とっかかりを作ってくれて助かった」

「それで全部か?」

「いいや。お前ら、銀行強盗を舐めてるだろ? 二つ合わせたって足りやしないんだよ、奴さんの盗んだ金額にはな」

「まだあるって言うのか」

「白々丸と赤々丸」

武者小路の問いかけを遮るようにしてマリアが告げた。当然、聞いたことのない名前だ。感付いたのは光男だけだった。

「あいつらやな」

「正解だ。何せ厄介な連中でね。地獄組から落とし前を付けさせるように言われてたんだけど、尻尾さえ掴めやしなかったんだ」

赤と白。残る二人にも漸く合点がいった。菅原のドッグで渡り合った赤白一対の死神。

「お前たちが見事やってくれたってわけだ。正直、鉢合わせれば死ぬのはお前たちの方だと思っていたが、嬉しい誤算だった」

マリアは紅の口唇を歪めてニヤリと笑った。三人は慣れたはずの彼女の笑みに改めて気圧される。

「まあ、そんな感じだ。それに私の温情が一匙ってところだな。その分は、おいおい返してもらうとするさ」

マリアは余裕たっぷりの表情で言い放つと、くるりと背を向けてその場を立ち去ろうとした。

「ああ、そうそう」

しかし、一筋縄ではいかぬのが契約刑事というものだ。マリアはその点においても矢張り一級品だった。

「アンタら、そこのアフリカンには気を付けなよ。そいつはお前達みたいな半端者の振りをしているが、本当はそうじゃないんだから」

呆気にとられる武者小路と雲雀を他所に、光男の反応を対照的だった。ドッグで感じた漆黒の闘気が光男の身体から放たれる。

「ソイツは亜狭なんかじゃない。元狭さ。正真正銘の殺人者め」

マリアは歌うように告げると、今度こそコートを翻して世闇に消えていった。

同時に、はち切れんばかりに漲っていた光男の殺意も少しずつ薄れ、やがて完全なる静寂が辺りを包んだ。

「んーとね」

一拍の後、場違いな程に呑気な声が雲雀の胸ポケットから聞こえた。

「私、難しい話はぜーんぜんわかんないんだけど、ようは私たちの勝ちってことで良いんだよね!?」

固まっていた空気が緩やかに解れ出す。少女の声には不思議な力があった。

「ええ、そうね」

答える雲雀の声も今になく穏やかだった。彼女の声色は、暗に全てが終わったのだということを残る二人に告げていた。

光男と武者小路は互いに顔を見合わす。

「そうだな、取りあえず光男」

「なんや隆一」

その瞳に不信の色はなかった。

「宴だ!」

「宴や!」

沙京の満天の星空の下、四人の快哉が響き渡る。

第二章「亜侠の矜持」


マリアから連絡があったのは、それから一週間後の事だった。

「会ってほしい男がいる」

武者小路は無言を貫いた。カーステレオから不機嫌そうな女の声が続く。

「時刻は明日の夜。ジェイルハウスで待っていろよ。言わなくてもわかるだろうが、拒否権はないからな」

「わかった」

ハンドルを握る手が微かに汗ばんだ。

平穏そのものに見えた深夜の湾岸線は、途端に鮮明な色彩を伴って武者小路の視界を通り過ぎていく。

「んー……お父さん、お仕事?」

「サツキ? 悪いな、起こしてしまって」

助手席で眠り込んでいた線の細い少女が、眠気眼を擦りながら尋ねた。

お父さんと呼ばれた男性は、黙って頷く。

「和歌山、楽しかったね」

暫しの静寂の後、サツキと呼ばれた少女はポツリと呟いた。

「そうだな。今度はアイツらも誘っていこう」

武者小路が言うと、サツキの顔は綻んだ。出会って間もない彼等だったが、不思議と旧い付き合いがあるかのように見える。

後部座席には大量の蜜柑と中国茶。車内には爽やかな柑橘系の香りと、香ばしい茶葉の香りが混ざり合い充満している。

武者小路は無意識に煙草へと手を伸ばしかけたが、直ぐに思い直してウィンドウを開けるだけに留めた。

清々しい夜風にサツキの長い髪が微かにたなびく。複雑に混ざり合っていた車内の空気も、少しづつ爽やかな初夏の空気へと入れ替わっていった。

車はひた走る。彼らの故郷、ネオン煌々たるオオサカへ向けて。


場所は変わり、バー、ジェイルハウス。ミナミにある、しみったれた亜狭御用達の地下バーだ。唯一の目印は表に掛かっているエルヴィスの看板のみ。

狭い、汚い、薄暗いと三拍子揃っているが、犯罪者たちには返って居心地が良いらしく、今も素性の知れない小悪党共でごった返す場所だ。

小競り合い上等、しかし表立っての任侠沙汰が御法度と言うのが此処の不文律で、

新米亜狭の武者小路達でさえ、ジェイルハウスがオオサカ最大の中立地帯であるという話は十分過ぎるほど聞き及んでいた。

その一室、地下一階のボックス席が三人の新たな溜り場だった。

「しかしやな」

光男は何やら不満があるらしく、席に着くや否や早速とばかりに管を巻いていた。

「ここはどうも狭くて叶わん。他にもっと良い場所はないんか?」

「あらそう? 私は別に気にならないけど」

雲雀はショットグラスを片手に、いつも通りの澄まし顔だ。

「こんなでも私の家よりはマシだしね。それに、そんなに言うならアンタが自分の家を提供しなさいよ。アジトとして」

「む、すまんな光男。我が家が使えなくて」

武者小路は黙って煙草を吹かしながら、ジュークボックスから流れるグランジミュージックに耳を傾けていた。

「いんや、隆一は良いんや。事情が事情やし構わへん。俺たちやって、サツキちゃんに気を遣うしやな」

「お前がか? 光男」

武者小路の声には笑いが含まれていた。光男は顔を顰めたが、結局は己とサツキとの間に繰り広げられているプロレス100本勝負のことを思い出して、わざとらしく咳払いをした。

「かと言って、家はアカンしなあ……。特に今はアカン」

「だから、それはなんでなのよ。アンタだって、隆一には及ばずとも私よりは良い場所に住んでるはずでしょ?」

軽い調子で、雲雀が問いかける。光男は苦虫を噛み潰したような表情のまま、黙って首を横に振った。

「あーあ、しかしやなあ、やっぱり俺の理想としては、もっとこう秘密基地みたいなアジトが欲しいんやけどなあ」

「アンタねえ……」

呆れ返っている雲雀を横目で見ながら、武者小路は笑った。もう何度か繰り返された、お決まりのやり取りだ。結末は常に同じだった。

「し、失礼します」

突然の来訪者に三人は揃って目を細めた。入ってきたのは20代半ばのサラリーマンらしき男性だ。

眼鏡をかけており、それなりに整った顔つきをしてはいるが、あまり落ち着きがなく、目には憔悴の色が見られる。

その野暮ったい鼠色のスーツ姿と言い、結論からすれば、どこからどう見てもカタギの人間だった。

「ロイ、ロイ・林さんですね」

武者小路は相手を落ち着けるつもりで、静かに問いかけた。男は何度も頷いた後、漸く全身の強張りが解けたようで、今は全身で大きく深呼吸している。

「よ、良かった。藁にも縋る気持ちで、あんな女に頼ってしまったけど、あれは単なる大失敗だったんじゃないかって心配していたところだったんです」

男は一息に捲し立てると、額に流れる汗をハンカチで拭った。

「すいません、水を……」

「おう。任せとき」

光男が頼んだ水が運ばれてくる頃には、林も腰を落ち着けて話が出来るだけの落ち着きを取り戻していた。手にした通勤鞄の中には安物の中国製ノートパソコンが出てきた。

「妹を、探して欲しいんです」

ディスプレイに映し出されているのは、見目麗しいチャイナドレスの踊り子だ。

「ど、どうでしょう。引き受けてくださいますか?」

ロイは三人が黙っていることに再び不安を覚えたのか、やや上ずった声で三人に問いかけた。

面食らったのは、寧ろ三人の方だった。

「いやいやいや、ちょいと待ちいや、お兄さん」

「と、言いますと……?」

「ねえ、ロイさん。本当にこれだけなの?」

ロイの呆けた顔を見ている限り、およそ考える得る限り最悪な予想が的中しそうな確率は非常に高かった。

「つまり、この写真一枚ってことか」

武者小路が小さく嘆息する。それを見て、流石のロイも責任を感じたのか、その場をとりなすように言葉を続けた。

「いやいや、流石に名前くらいはわかりますよ。なんせ実の妹なんですから。彼女の名前はシャオメイ」

「それから?」

雲雀の問いかけに、ロイは所々詰まりながらも、何とか答えた。

「シャオメイとは、五年も前に生き別れたんです。両親が離婚して僕は父方と台湾に、シャオメイは母親とオオサカに残りました」

「それは、大変だったろうな」

似た境遇にあった武者小路が憐れみを込めてロイの肩を優しく叩いた。二人は黙って先を促す。

「こっちに来たのは半年前のことです。偶然にも、仕事の都合で。そして、この画像を見つけた。一目でわかりましたよ、これは僕の妹だってことがね」

「見間違いってことはないんやな?」

光男が念を押すと、ロイは力強く頷いた。

真実が何かは分らないが、この冴えないサラリーマンは本気で自分の妹を探し出すつもりでいるらしい。それも、このオオサカで。

「引き受けてくださいますか?」

「さ、どうするんや? 隆一」

光男が訳知り顔で、武者小路を見る。武者小路が雲雀を見ると、彼も矢張り小さく頷いた。どうやら結論は出ているようだ。

「可、だな。よろしく頼む」

「本当ですか!」

ロイの喜び様は、見ている三人までも嬉しくなる程だった。と同時に、その期待を裏切るわけにはいかないという強い重圧が双肩に圧し掛かる。

「妹を、どうかよろしくお願いします。これは前金です」

そう言ってロイは札巻を二束、三人に向かって差し出した。

「随分と気前がいいのね」

雲雀が勘ぐると、ロイは何ら裏のない微笑みを浮かべながら答えた。

「貯めたましたからね、この時のために。それに、あなた達は良い人そうだ。あの女に出会ったときは正直どうかと思いましたけど、案外信じてみるものですね」

「マリアのことか」

溜息と共に武者小路が独り言ちる。

「そうやな。せやから、そんなに大袈裟に感謝されるとむず痒いわ。どのみち受けざるを得ない依頼やってんから」

光男はそう言って、親しみを込めた笑顔を浮かべた。

「それに、アンタの妹を思う気持ちはしかと伝わってきてで。後は任せときや」

「ありがとうございます!」

ロイは三人に向かって深々と頭を下げた。三人は気恥ずかしさで互いに顔を見合わせる。

「さ、ほら、光男が言ったでしょう? ビジネスライクにやりましょうよ。当然、貰った分はきっちり働かせて貰うから、期待しておいて」

「わかりました。それでは、よろしくお願いします!」

ロイは最後にもう一度だけ頭を下げると、今度こそ勢いよくボックス席の外へと飛び出していった。

後に残ったのはロイの名刺と、プリントされた探し人の写真が一枚。

「さてと、振出からスタートね」

「このオオサカで人探しをするってのに、写真一枚ってのは中々ハードだな」

武者小路は眉間を強く揉んだ。決して安請け合いしたわけではないが、それで問題が易しくなったわけでは、決してなかった。

「問題は、どこから始めるか、やな」

「正直、見当もつかんな」

光男の問いかけに対して、武者小路はお手上げだ、とでも言いたげに両手を上げて降参のポーズを取って見せた。

「だけど、手立てがないって訳じゃない。そうでしょ?」

雲雀が意味ありげに微笑む。

「無論だ。こういう時は、餅は餅屋、だろ?」

「ええ、そうね」

さらりと言いのけて、颯爽と席を立とうとする雲雀を、光男は慌てて押し留めた。

「おいおい待てや。あんたらが何を言うてるのかホンマに理解できへん」

「だからね、光男」

雲雀は光男の制止を擦り抜けると、いつの間にか鞄から取り出した口紅を軽く塗りなおし、二人に向き直った。

「情報戦は、それぞれの得意分野で頑張りましょうよってこと。それじゃ、私はアメ村辺りから始めるから何かわかったら連絡して」

「おう、行ってこい」

武者小路は自前のノートパソコンを取り出しながら、おざなりに雲雀を送り出した。

「あらありがとう。行ってくるわ」

雲雀は武者小路に答えるようにひらひらと左手を振ると、今度こそボックス席から出て行ってしまった。後に残ったのは仄かな香水の残り香だけ。

「ほんで、隆一は?」

恐る恐る問いかける光男の顔には、大方の不安と、ほんの一抹の淡い期待が見え隠れしていた。

「簡単な調べものが終わったら直ぐにでも出るさ。場所は……道頓堀でいいだろ。これでも、サラリーマン時代は散々飲み歩いてたんだ。ツテの一つや二つはある」

付いて行ってもいいか、と聞くことは簡単なようでいて、その実は意外と難しいことだった。

「それじゃ、俺は行くぞ」

黙ってチビチビ酒を舐めていると、やがて用意を終えたらしい武者小路が席を立った。

「お前は、どこに行くんだ? 光男」

上着をを羽織った武者小路が光男に問いかける。

「そんなん決まっとるやんけ。情報収集って言ったら、あそこしか無いやろ?」

光男は武者小路の顔を見ずに、最早殆ど中身の残っていないグラスを大袈裟に煽った。

「まあ、何でも良いがな。無茶はするなよ」

「任しとき」

武者小路は光男の答えに小さく頷くと、雲雀に続いてボックス席を後にした。

残されたのは巨漢のアフリカンただ一人。

「ああ、席が広なった」

そのように独り言ちている場合ではないことは本人にも良く分かっていた。

行く当てもないまま、取り敢えずジェイルハウスを後にする。

来たころには宵の口だったが、今は日も暮れて辺りには様々な色のネオンサインが瞬いている。

どこへ行くともなく北へと足を向ける。それは自然、道頓堀やアメリカ村へと向かう方向と期せずして重なっていたが、今さら合流するのも気が引ける話だった。

第一、大した情報も持ち合わせていないというのに、どの面下げて会えばいいというのか。

明りに誘われるようにして人通りの多い方へと歩いていくと、やがて馴染み深い場所へと辿り着いた。

そこは道頓堀の西端、やや南よりに広がる小規模なソープ街だ。中でも一際大きい建物は「アムール」と呼ばれており、中途半端な女性亜狭が最期に流れ着く場所として悪名高い。

しかし、そんなことも見飽きた光景だ。無論、客としてではない。

確かに、女性たちの奉仕を受けることもあったが、それは光男が客だったからでなはかった。嘗ては彼が、その元締めだったからだ。

組を抜けてからは、自然と界隈に近付くことも少なくなってはいたが、こうして来てみると、良い思い出が無かった場所のはずでさえ、今はどことなく懐かしい。

要すれば、簡単な話だった。彼らには彼らの得意分野があるように、自分にも矢張り得意分野はあるのだ。

犯罪者は犯罪者らしく、使えるものは何でも使え、ということだろう。そのためには、多少の後ろ暗いことは覚悟しなければならないとしても。

光男は意を決して、単身、夜の街へと身を躍らせた。そもそも、小難しく考えるような話でもない。捜査はアシだという金言があるくらいなのだから。

結果的に言えば、光男の正攻法的な情報収集は完全なる空振りに終わった。しかし、それすらも無駄ではなかった。

長時間に渡る聞き込みの末に精根尽き果てた光男は、休憩がてら一軒のコンビニに立ち寄っていた。

栄養ドリンクと、簡単な軽食を見繕い、何とはなしに雑誌コーナーの横を通り過ぎようとしたところで、光男の視線が止まる。

立地のせいか、成人向けのものが多い雑誌コーナーは無残に荒れ果てており、多くのものは見開きのまま陳列棚に放置され、積み上げられていた。

その一冊、ナイトクラブ「リド」と銘打たれた特集の頁に、光男は引っ掛かりを覚えた。それも、古馴染のものとは異なる、直近への既視感。

「当たりやな」

にやりと光男はほくそ笑んだ。小美の写真を取り出して見比べると、確かに両者の背景は酷似している。

これが何時撮られた写真なのかは定かではないが、少なくとも彼女が其処にいたことは間違いないはずだ。

勢い込んで武者小路に電話を掛けようとすると、ちょうど向こうから着信があった。

「やったで隆一、遂に奴さんの居場所がわかった」

「うーん? 光男か? 悪い、ちょっとばかり飲み過ぎたみたいでな、どうも頭がぼうっとしていかん」

電話口の向こうは何やら騒々しかった。どうやら居酒屋のような場所にいるらしい。しかも、相当に酔っているようだ。

「なんやそれ……。帰れるんか?」

「いいや、無理だ。だが俺は絶対に帰らねばならん。サツキが俺の帰りを待っているからな」

珍しく、光男が溜息を吐く番だった。

「わかったわかった、伝えたい話もあることやし、迎えに行くからそこで待っとってくれ」

「む、すまんな。恩に着る」

電話口から鳴り響く歓声に、思わず携帯を耳から離す。もしかすると、まだ何か言っていたかもしれないが、兎にも角にも合流してしまえば済む話だろう。

足を早めると、直ぐに喧噪の真っ只中へと入り込むことになった。丁度、飲み屋が繁盛する時間だ。二件目を探して通りに屯する若者やサラリーマンでごった返している。

不思議と武者小路は直ぐに見つかった。橋の欄干に凭れ掛かっており、気分は悪そうだが、酩酊状態と言うほどでもないようだ。

「隆一!」

「すまん、光男。こんなつもりじゃなかったんだがな、ついつい熱が入りすぎてしまって」

「わかったわかった。良いからタクシー捕まえて帰るで」

武者小路の自宅はミナミにある高層マンションだった。武者小路はタクシーに乗るや否や高鼾だったため、道中はロクな話も出来ず仕舞だ。

「降りるで」

「ん? もう着いたのか」

着く頃には大分回復したのか、顔色の良くなった武者小路が颯爽とタクシーを降りる。

「助かった。寄っていくか?」

「せやな、まだ話してないことがある。とっておきの奴や」

「何だと。やるじゃないか」

お互い笑って肩を叩きあう。無音で一階へと降り立った高速エレベーターへと乗り込むと、矢張り音もなく扉が閉まった。

「18階、やったか?」

「そうだ。良く覚えているな」

「これだけ来れば誰でも覚えるやろ」

軽快な電子音がエレベーターが目的地へと到着したことを知らせる。静まり返った廊下に出て三件目の扉には、武者小路の文字が表札に掲げられていた。

「ただいまー」

「おかえり、お父さん。あ、それに光男さんも!」

綺麗にワックス掛けされた廊下を駆けてくるのは、武者小路の一人娘、サツキだった。長く美しい黒髪が目にまぶしい。

「久しぶりやな、サツキ! そして永遠にサヨナラだ!」

両手を上げ、サツキに襲い掛かろうとする光男。サツキはキャッキャッと笑いながら、大男の手緩い突進から身を躱した。

「相変わらずだな、光男。ご近所迷惑で追い出されない程度にしてくれよ?」

武者小路が苦笑すると、光男が大真面目な顔で頷く。サツキは真面目な父親の諌言に聊か不満げに頬を膨らませた。

「あ、そうだお父さん、あれ、あれ光男さんにあげなくちゃ!」

「あれって?」

「あれはあれだよあれ!」

「ええから、放っておいてくれ。こんなんいつものことなんやし」

光男の声が聞こえているのかいないのか、サツキは慌ただしく何かを探し回っている。

「待ってろ、今コーヒー淹れるから」

武者小路はキッチンから三つのマグカップを持ち出してくると、順番にコーヒーを注いだ。豆の香ばしい香りが室内に広がる。

「すまんな、ペーパードリップしかないが」

「ええに決まっとるやんけ。毎度、ごちそうさん」

漸く、二人はソファへと腰を落ち着ける。

「でだ。その分かった情報ってのは」

「あったよ、お父さん! これこれ」

武者小路は観念したという風に溜息を着いて、愛娘に向き直った。

「なんだ、サツキ」

「はい、これ三人分ね」

サツキの手には、良く熟れた大きな蜜柑が三つ乗っていた。

「コーヒーと蜜柑か……」

武者小路が苦言を呈そうとするのを、光男は笑って諌めた。

「ええでええで。サツキちゃん、いつもありがとうな!」

「ううん。いつも遊んでくれるお礼だから」

サツキは嬉しそうにはにかんでいる。父親もその笑顔を前にしては何も言えまい。

結局、邪険にすることも出来ずにそのままにしていると、彼女は砂糖とミルクが一番多く乗ったソーサーを自分の前に引き寄せ、話に加わる気合も十分に黙り込んだ。

「まあいい」

武者小路はわざとらしく咳払いをして先を続けた。

「それで?」

「これや」

光男の手から持ち出されたのは例の成年誌だった。

「コラ、お前なんてものを……」

「おおっと、すまんすまん、その辺は考えとらんかった」

「何これ?」

「やめろサツキ、これはお前にはまだ早すぎる」

武者小路がサツキの目を塞いでいる間に、光男は手早く雑誌を丸め込み、ポケットに突っ込んだ。

「つまんないの。お父さんも光男さんも隠し事ばっかりして!」

サツキはまたしても不満顔だが、そんなことに構っている場合ではなかった。

「それで? 『リド』がどうかしたのか?」

「なんや知っとるんか」

「そりゃ、そうだろう。『リド』と言えば中華街一、いやオオサカ一の高級娼館だ。しかし俺たちには縁も所縁もない場所だろう?」

「それが、そうでもないんやな」

光男はそう言って、小美の写真を取り出した。武者小路が目を見張る。

「この背景、『リド』か!」

「そういうことやな」

光男は得意げに笑った。武者小路は感嘆の意を込めて強く彼の背を叩く。

「はーい。隠し事は終わり。私も話に混ぜてね」

「あっ、こらサツキ、その写真は大事な」

「あれ?」

光男の手から写真を奪い取ったサツキが、チャイナドレス姿の彼女を見て、ふと首を傾げている。

「なんだサツキ。まさかその子に見覚えがあるのか?」

「小美先輩の写真、なんでお父さんが持ってるの?」

「「先輩?」」

思わず口を揃えて繰り返してしまう。大の男二人は、少女の発言に思わず顔を見合わせた。

世界は狭いというが、そんな偶然があるのだろうか。

「そうだよ、小美先輩。私、歳は少し離れてるんだけど、すっごく仲良かったんだ。先輩、かわいくて綺麗で優しくて……」

そうしてサツキは黙り込んでしまった。そうだ、サツキは、そんな当たり前の学生生活の途中で惨劇に巻き込まれたのだ。

「サツキ?」

「ううん、大丈夫。ありがとう、お父さん」

サツキは心配そうな顔で此方を覗き込む父親に健気に微笑むと、写真を光男に返した。

「でも、なんでかな。もしかして小美先輩に何かあったの?」

またしても、二人は顔を見合わせなければならなかった。そして勘の鋭い少女にとっては、それが答えも同じだった。

「そっか」

武者小路も光男も言葉なく立ち尽くすしかなかった。まさか、依頼人と我が娘が知り合いだとは誰しも思うまい。

「でも、お父さんと光男さんが何とかしてくれるんだよね? 先輩を助けてくれるんだよね?」

しかし、それについては答えるまでもなかった。

「無論だ。絶対に助ける」

「当たり前や。せやからサツキちゃんは安心して良い子で待っててな」

二人の答えに満足したのか、サツキは安心したように微笑んだ。その表情を見て、漸く彼らも胸を撫で下ろす。

「じゃあ、明日はバンブービレッジに行くの?」

情報共有も終わり、三人で静かにコーヒーを啜っていると、唐突にサツキが問いかけた。

「バンブービレッジ? 中華街の?」

「そうそう。行くんでしょ?」

二人がぽかんとしているのを見て、サツキは小首を傾げた。

「え? だって小美先輩はバンブービレッジで働いてたんだよ? うん、少なくとも五年前までは」

「は? それは本当か?」

「本当だよ。先輩、かわいいので有名だったんだから」

武者小路は光男の顔を見たが、光男には一切心当たりがなかった。

「どういうことだ、光男。小美はリドで働いているんじゃなかったのか?」

「知らんがな。ダブルワークとか色々、あるやろうに」

「はあ、なるほど、ダブルワーク」

小声で会話を交わす二人を他所に、サツキは小さく欠伸をした。

「おっとすまんな、サツキ」

その様子を横目で見て、光男がソファから立ち上がる。

「ほんなら、俺はそろそろ御暇するで。隆一、明日の朝はどうするん?」

「そうだな、どっちにしろリドは夜しか空いてない。午前中はバンブービレッジで聞き込みだな」

「おっし、今から腹が鳴るで」

「腹が鳴るのか……」

光男は大きく伸びをすると、無きに等しい荷物を引っ掴み、玄関へと向かった。

武者小路が見送ろうとすると、サツキも眠気眼を擦りながら付いてくる。

「遅くまですまんな、光男。雲雀には俺から連絡を入れておく」

「例のごとく、電話も繋がらへんしな、アイツ。今頃どこで何しとるんか」

「さあな。いつもの色恋営業だろうよ、お得意の」

「違いない」

顔を見合わせて笑う。沙京の時は随分と気を揉んだが、流石に三回目ともなれば心配するのも阿呆らしい。

「それじゃ、明日な」

「おやすみなさい、光男さん」

二人の見送りに手を上げて答えると、光男は扉の向こうへと姿を消した。

「さてと、じゃあ俺たちも寝るか」

「うん。眠い」

リビングに戻ると、サツキが何かに気が付いたようにピタリと固まった。視線の先には手付かずのまま放置された三つの蜜柑。

「忘れて帰った。光男さんの馬鹿あ!」

武者小路は、それなりに高い家賃を払って暮らしている、このマンションの防音設備を信じる他なかった。

雲雀の方でも、情報収集は着々と進んでいた。

意気揚々とアメ村に乗り込んだ彼は、早々に小美の着ているチャイナドレスに目を付けると、高級服飾店を片っ端から漁って回った。

例えば少女の髪をあしらっている、見るからに高級そうな簪。細い首筋を彩っている白金の首飾り。

そういった一点物から彼女の足取りを掴めると踏んだのだ。だがしかし、結果は空振り。

彼女と同じような服を着て、同じようなアクセサリをに見つけた人間がオオサカには溢れかえっているのだ。そう簡単に見つかるなら、誰も苦労はしない。

ヒントをくれたのは、センスの良い昔の恋人だった。

「これ、この刺青は一点物かもしれない」

「はあ。刺青なんて全部一点物でしょ。だからアンタはどんくさくって嫌になったよ」

「いや違う、雲雀。そういうことじゃない。これを見てくれ」

拡大された小美の太腿には美しい蘭の花の刺青があった。

「確かに綺麗だけど、それがどうかしたの?」

「これは、おそらく鳳翁の刺青だ。このオオサカで、これ程までの見事な蘭の花を刺れてみせる刺青師は、鳳翁くらいなものだろう」

「鳳翁って、鳳外科医院の?」

「そうだ。彼に聞けば何かわかるかもしれないな」

嘗ての恋人は、それだけ告げると仕事を止めていた手を再開させ、雲雀の方には見向きもしようとはしなかった。

「だから、そういう格好付けなところが嫌いなんだってば……ありがとう」

雲雀は嘗ての恋人の肩に優しく手を置いて、そっとその場を離れた。

彼の平穏な心をさざ波立ててしまったとしたなら、それは申し訳ないことだ。

だが、彼のような人間と恋愛を通じて一時でも心を通わせることが出来たというのは、雲雀の恋愛に関する数少ない自負の一つでもあった。

そうして、彼らとの繋がりは、今回のように思わぬところで自分を助けてくれたりもする。残念なことに、その逆の場合の方が遥かに多いことも、また事実だが。

「あら、おはよう。二人とも元気そうね」

「雲雀か、早いな。てっきり昨日は徹夜かと思ったが」

「そうしても良かったんだけど、ね」

武者小路は軽口と共に、鞄から楕円形の何かを放ってよこした。

受け取った光男が小声で何かつぶやいている。

「サツキが怒っていたぞ、光男」

「やってしもうた。嫌われへんかな、俺」

「なにこれ。蜜柑?」

二人の手にあるのは、良く熟れた蜜柑だった。

「そうそう。和歌山土産だ。だが食べるのは後にしておけよ」

「ならなんで今持ってきたのよ」

雲雀の溜息を気にするでもなく、武者小路と光男の顔は、どことなく生気に漲っていた。

「なあ隆一、バンブービレッジは初めてちゃうよな?」

「いや、学生の時は散々、世話になった。ここのチンジャオロースは天下一品だ。久しく来てないがな」

「俺は現役バリバリやで。でもまあしかし、早起きして朝からバンブービレッジってのも最高に乙やな」

「あら、アタシも中華は好きよ。あんた達の、その異様な空気に関しては良く分らないけれど」

バンブービレッジ。ギネス公認、世界一広い大衆食堂である。どのくらい広いかと言うと、サッカー場よりも広い。

加えて、味はオオサカ一、愛想の悪さもオオサカ一ときたもんだから始末が悪い。

このオオサカには接客にホスピタリティなんて甘えたものを求める奴は殆どいないし、安くて旨いこの店は異常に広くて異常に混んでいるのだ。

「行くぞ」

まだ昼前だが、店内は既に超満員だった。サラリーマン、学生を筆頭に、子連れの主婦なんかも多い。

極め付きは、店内のいたるところで大食い選手権紛いのコンテストが催されていて、この広い場内のそこかしこでテレビクルーやら地下アイドルやらがテレビ撮影をしていることだ。

ただでさえ混雑している店内が、余計に狭く、息苦しく感じられる。

「これは……。どうするんや、隆一」

「こっちが聞きたいところだ」

「とてもじゃないけど、ねえ?」

問題は、そんな状態で聞き込み調査どころではないということだった。まさに戦場が如き様相を呈している店内に置いて、店員は戦士そのもの。

目付きや動きも尋常じゃなければ、声すらかけられそうにもない。そもそも、たまに人混みの中に姿が垣間見える程度で、殆ど何処にいるのかすら分らないのだ。

「取り敢えず、座りましょうか」

雲雀の一声で、兎にも角にも席を探す。不思議なもので、どれだけ込み合っているように見えても、常に全員が座れるだけの席が必ず用意されているのがバンブービレッジである。

辿り着くまでに多少の押し合いへし合いがあったものの、三人は直ぐに自分たちの席を確保することが出来た。

「で、どうするのよ」

「取り敢えず、なんか頼んだらええんちゃう?」

「確かにそうなんだが、店員の姿すら見えないのでは注文のしようがないだろう」

「はい、注文は?」

三人が驚いたのは言うまでもない。

先程までは影も形もなかったのに、何処からか幽鬼のように湧いて出た目付きの悪い若い女性店員は、今やメモ帳片手に仏頂面で三人をねめつけている。

「ほんなら、ええっと……」

「決まったらまた呼んで」

「あ、おい、ちょい待たんかい自分!」

現れたのが一瞬なら、消え去るのもまた一瞬の出来事だった。光男の注文が定まっていないと分るや否や、店員は光の速度で人混みの向こうへと消えて行ってしまった。

「光男、アンタのせいで店員取り逃しちゃったじゃない!」

「その言い方はどうかと思うがな。だがしかし、どうする?」

光男は二人の責めるような物言いに困り果てた様子で考え込んだ。

「ほんま、すまん。せやかて、あいつも決まったらまた呼べ言うてたんやから、もう一回呼んだら来るんとちゃうんか?」

「それなら試してみるか? すいません、注文お願いします!」

「はい、注文どうぞ」

「出たわね!」

武者小路の言葉が魔法の呪文であるかのようにして、店員は再び姿を現した。不機嫌そうな表情は先刻と相違ない。

「注文、早く」

「わかった。わかったからそう急かすなや。まずチンジャオロース」

「はい、チンジャオロース」

言葉に詰まった光男を店員は鋭い三白眼で睨んだ。歴戦の古強者である光男が思わず怯むほどの眼光だ。

「それだけ? 忙しい、早くして」

「あ、ああ。ほんなら後は天津飯と、この、極上炒飯」

「ご飯ものばっかりじゃない」

雲雀は溜息を吐いて、分厚い辞書のようなメニュー表を光男から取り上げた。

「酢豚と回鍋肉。あ、酢豚はパイナップルを抜いておいて。それと、胡麻団子も追加するわね」

「はい。他には?」

「餃子一人前。後ビール。お前らは?」

「私はいいわ」

光男が頷いたので、武者小路はビールを二つと中国茶を注文した。

「はい、これで全部ね」

「ああ。後、聞きたいことがあるんだが」

「忙しい。注文以外は後にして」

武者小路の必死の挑戦も空しく、年若い店員は凄まじい速度で人混みの中に掻き消えた。

「取り付く島もない、とはこのことだな」

肩を落とした武者小路の背中を慰めるように、光男が彼の背中を叩いた。

「まあまあ、そう気を落とすもんやないで。久々にバンブービレッジで飯が食えるってだけでも、考えてみれば儲けもんや」

「結局、調査に進展はなしってわけね。それにしても、噂に違わぬ接客で驚いたわ」

店内に入ってから怒涛のような展開に疲れたのか、やや気怠そうな面持ちの雲雀が告げた。

「料理が来たらもっと驚くことになるで。今度は良い意味で、やけどな。にしても雲雀、お前」

「何よ?」

雲雀は粗末な木目調のピクニックテーブルに頬杖を付いており、胡乱げな瞳で光男を流し見た。

「パイナップル苦手とか、お子ちゃまやな」

光男が笑いながら告げると、雲雀は眉根を寄せてしかめっ面で答えた。

「その位いいでしょ、放っておいてよ。それにアタシもともと甘いものはそこまで好きじゃないの。特に酢豚に入ってるパイナップル、なんて邪道なものは許したくても許せないわ」

「妙な拘りがあるんだな。俺なんて食べられれば何でもいいが。なあ、光男」

光男が力強く頷くのを横目で見て、再び雲雀は嘆息した。

「ガサツなアンタ達と一緒にしないでよ。こっちだって好きで繊細になったわけじゃないんだから」

「へい、お待ち」

「あら、随分と早いのね」

気が付けば先程の店員が三人のすぐそばまでやって来ていた。しかも驚くべきことに、7枚の大皿と二杯のジョッキ、一杯のティーカップを同時に持ってきている。

それは一分の狂いもない芸術的な均衡によって成り立つ達人の業に違いないが、当の本人は至って涼しい顔だ。

唖然としている三人の前に次々と料理が並べられていく。

「はい。これで全部ね」

「いや、そうなんだが、これは」

気のせいか、武者小路は心なしか青褪めているようにすら見える。

「多すぎや!」

光男の叫びも無理からぬことだった。何せ、大皿一枚一枚の大きさは、まるで座布団。おまけ大盛りてんこ盛りである。それが怒涛の七皿。

「ん? これだけ普通の量ね」

雲雀が餃子の皿を指さして問いかけと、店員は素早くメモを取り出して、何やら確認しだした。

「それ、一人前。他は三人前。間違ってる?」

「確かに、餃子以外は何人前とか言ってなかったな」

武者小路は頭を抱えた。三人とも、多すぎる料理を前にして戦慄している。

「じゃ、これ伝票ね」

勢いよく差し出された伝票を、力なく受け取った光男が俄かに目を丸くした。

「おいおい姉ちゃん、安すぎちゃうか? これ、ざっと二十人前弱はあんねやろ?」

光男が伝票を突き返そうとすると、店員は首を横に振ってにやりと笑った。

「安くて旨い。それがバンブービレッジ」

店員は初めて感情らしきものを見せると、そのまま踊るようにして去って行った。良くも悪くも印象に残る店員だ。

「さてと、それじゃ」

暫しの無言の後、武者小路が三人の顔色を伺う。二人は命を賭した銃撃戦を前にした時と、全く同じ表情を浮かべていた。

そこにあるのは、命を落とすかもしれないという緊迫感と、最高のスリルに昂った高揚感。

「いただきます!」

お決まりの掛け声とともに戦いの火蓋が今、切って落とされた。

「こ、これは!」

「うまい!」

前半戦は、その驚嘆すべき料理の腕前に三人が舌を巻くという展開に終始した。

「この輝く油の照り、しんなりとしていながら歯応えの残るピーマン、食べ応えのある牛肉に海鮮の出汁が効いたオイスターソースが絡まって最高だ!」

自ら絶品だとのたまっていたチンジャオロースに舌包みを打ちながら、武者小路が唸る。

「なんやこの天津飯は! 半熟とも薄焼きとも言えない絶妙な匙加減の卵に包まれた白米、これに甘酸っぱい餡が最高に食欲をそそる! こんなん止まらん!」

目を剥いて無我夢中で天津飯を書き込む光男。その姿は、獲物を前にした野獣に近しい。食欲を刺激する香りが、人の理性の裏に隠された野生の本能をむき出しにしているのだ。

「酢豚にパイナップルなんて、あり得ないと思っていた……でも、それは間違いだった! この柔らかさ、全体を纏める酸味と引き立てる色味! 酢豚の主役は貴方だったのね」

結局のところ、雲雀の頼んだ酢豚にはパイナップルがしっかりと入っていた。だがそれが、彼女の人生を僅かに変えたことも、また事実。

本当のところを言えば、彼ら三人とも、このような料理番組よろしく長ったらしい感想を述べながら料理を食べていたわけではないが、

彼らの脳内を言葉にして表現するとしたならば、概ねこんなところだった。

流れに変化があったのは、三人が一通り全ての料理を味わった後だった。そう、例え食欲には限りがなくとも、胃袋には限界がある。

ただでさえ一人前の量が多いバンブービレッジの料理は、二十人前と言う圧倒的物量を持ってして三人の胃袋を今にも満たそうとしていた。

「ご、ごめん。後は任せた、わ」

最初に倒れたのは雲雀だった。彼は至福の表情を浮かべて、安っぽいピクニックテーブルに突っ伏している。その前には、雲雀が平らげた幾つもの大皿が並んでいた。

雲雀のダウンを嘆く余裕は、残された二人にはなかった。雲雀も相当を食べたとは言え、目の前には依然とした相当量の料理が残されている。

「くっ」

武者小路の口から思わず苦鳴が漏れる。先刻まであれ程美味しく感じられた料理が、今は圧倒的な暴力を伴って彼の体内を蹂躙していた。

料理は変わらない。口に入れれば極上の旨さが広がる。しかし、咀嚼し嚥下する喜びと多幸感は、今や憎しみと絶望へと変わっていた。

武者小路の箸のペースが見るからに落ちる。彼が倒れるのも時間の問題だろう。

そんな中、一人取り残された光男は、獅子奮迅、孤軍奮闘の姿勢を貫いていた。

どんなに苦しくとも、どんなに辛くとも、雄々しく料理に立ち向かう彼の勇姿は圧巻の一言だった。周囲の客は決して諦めぬ彼の姿に心打たれ、感嘆の意を表明した。

気が付けば、どこからか湧いてきたテレビクルーが大して変わり映えのしない食タレを放置して、光男の姿をフィルムに収めようと躍起になっている。

それほどまでに、彼が料理を食らう姿は勇壮で、ドラマチックで、見る者の心に感動の念を呼び起こした。

彼が最期の一口を食べ終わったその時、不思議と周囲から拍手が巻き起こったのは当然とも言える。

彼の食事姿は決して上品とは言えず、寧ろ野蛮にすら見えたが、それでも全ての料理を平らげた光男からは、ある種の高貴さすら感じられた。

「お兄さん、すごいね」

「ん? なんやアンタか」

光男が一服していると、三人の注文を受けた店員が彼の傍に立ち寄った。

その眼には、先程の鋭さは宿っておらず、代わりに好奇の色が見え隠れしている。

「それで?」

「それでって、なんのことや」

「何か聞きたいことがあったんでしょ。今なら聞いてあげてもいい。お店も落ち着いてきたから」

「ん、ああ、それやったらこれや。この写真の子のこと知らんか。何でも、何年か前に働いとったらしいんやけど」

店員は光男から写真を受け取り、暫しの間しげしげと眺めていたが、やがて強く頷いた。

「小美ちゃん。間違いない」

「そうや! 知ってるんか?」

「知っているも何も、五年前までここで働いていた。もっと稼げる仕事を見つけたって言って、辞めてしまったけど」

もっと稼げる仕事。光男の脳内をリドが過った。確かに、水商売の方が稼ぎは良いだろう。

「御金を貯めて、お父さんとお兄ちゃんのいる台湾に行くんだって言ってた。すごく良い子だった」

「そうやったんか」

店員の独白めいた言葉は、光男の心を打った。それはおそらく事実だろう。写真でしか見たことはないが、その表情からは彼女の人の好さが滲み出ている。

「店長!」

どこからともなく叫び声が響く。光男は辺りをきょろきょろと見まわしたが、答えはもっと意外なところにあった。

「あ、ああ。今行く」

「店長? あんた店長やったんか!」

光男が唖然としているのがおかしいようで、店員、もとい店長はクスクス笑った。

「君の食べっぷり、なかなか。また来て」

「おうよ! 旨かったで」

光男が手を上げて答えると、店長は初めてにっこりと笑い、人混みの中へと消えていった。

「おい、二人とも」

机に突っ伏している二人組を叩き起こす。必要な情報は得た。それに混雑する店内で長時間居座るのも居心地が悪い話だった。

「むにゃ、もう食べれない……」

「あほか! もうとっくに食べ終わってるわ!」

「は! 俺は一体何を」

いつの間にかダウンしていた武者小路はがばりと跳ね起きると、辺りの様子を伺うように首を巡らせた。

「な、料理がない? お前まさか、全部食べたのか?」

「どうも、そのまさかみたいね。正直驚いたわ。あんた、伊達にデカい身体してるだけじゃないのね」

武者小路に続き、雲雀も食欲の楽園から帰ってくる。

「ただ食べただけじゃないで。情報もしっかりゲットした。小美は五年前まで間違いなくここで働いとった。ほんで、辞めたらしい。もっと稼ぎの良い仕事を探すってな」

「それで、リドって訳ね」

雲雀が相槌を打つと、光男は頷いた。

「まあ、まだ確定ってわけじゃないが……」

武者小路が難しい顔をして腕時計を睨む。時刻は丁度正午を回ったころ。ナイトクラブが開くまでには、まだ時間があった。

「私は私で行く宛があるんだけど、あんた達はどうするの」

「いったいどこに行くって言うんだ、雲雀? 今行ったってナイトクラブは開店前だぞ」

「そうやそうや、ボディガードすらおらへんやろ?」

騒がしい店内を抜けると、午後の強烈な日差しが三人を照らした。雲雀は眩しそうに青い眼を細めている。

「教えてあげても良いんだけど,今回は内緒。ちょっとした事情があってね、私にも」

二人は胡散臭いものを見る目で雲雀を睨んだが、彼は気にした風もなく飄々とした仕草で肩を竦めた。

「そういうわけだから、午後からは別行動ね。夜になったら再集合してリドに乗り込みましょう」

「それじゃ、俺たちはどうするんや? なんか良い案はあるんか」

「特にないんだが、まあ一つだけ無い訳でもない」

「金策ね」

雲雀が去り際に微笑む。それは美しい顔にはそぐわぬ、獲物を前にした狩人の笑みだった。

「そういうわけだ。やれるな、光男?」

「合点承知の助! バンブービレッジの御蔭で体力は最高潮、こりゃ腕が鳴るで」

光男は気合も十分、両手の拳骨を高らかに鳴らしている。バンブービレッジで食事を前にした時と同じ、完全なる臨戦態勢だ。

「じゃあ、後でね。良い成果を期待してるわ」

「任せておけ。あっと言わせてやる」

手を振って別れを告げ、武者小路と光男はミナミ方面へ、雲雀は中華街西端へと足を向けた。雲雀の目的地は勿論、鳳外科医院だ。

東屋に長屋ビル、籠屋が立ち並ぶ中華街特有のキナ臭い隘路を抜けていくと、比較的大きい通りに出た。

こういう場所には決まって朱塗りの立派な鳥居や関門が立てられていて、袂には干し棗を嗜む老人が屯しているというのが常の光景だ。

大きな関帝廟の前を横切ると、目的地である鳳外科院が視界に表れた。外科を標榜してはいるが、本業は堀師だというのが、如何にもオオサカらしい。

古びた木目調の玄関扉は僅かに軋んだ音を立てながら、ゆっくりと開いた。店内に他の客の姿はなく、雲雀一人だ。

「いらっしゃい」

奥から出てきたのは仙人めいた風貌をした老齢の男性だった。白く長い口髭を蓄え、長い年月に寄って刻まれた皺は深く、その小さな黒い瞳を覆い隠すほどだ。

「こんにちは、鳳先生。あの、すみません、実は私、今日は先生にお伺いしたいことがあって此処に来たんですけれど……」

年老いた堀師は雲雀の落ち着かない様子に動ずることもなく、黙って先を促した。

「これ、これなんです。この子を探していまして。違っていたら申し訳ないのですが、この刺青は先生が掘ったものではないですか?」

老人は黙って雲雀が差し出した写真を受け取ると、その姿を見るや否や軽く頷いた。

「本当ですか! 何でも良いんです。何かこの子について知っていることを教えていただけませんか。御金なら払いますから」

雲雀が勢い込んで捲し立てると、鳳はしかし、ゆっくりと首を横に振った。

「そんな、どうして」

「お前さん、なかなか良い肌をしている」

雲雀は食い下がろうとしたが、老紳士の突飛な言葉に思わず口を噤んだ。

「ワシはな、刺青を掘っている間だけはおしゃべりになるんだ」

鳳はそれだけ告げると、矢張り仙人めいたゆったりとした動作で院内の奥へと消えていった。

雲雀は僅かな躊躇いの後、直ぐに鳳の後を追いかけた。

「良いわ。もともとはこの身体を売って暮らしてきたんだもの。刺青の一つや二つ掘られるくらい、どうってことないわ」

「その意気や良し!」

鳳は再度軽く頷くと、真剣な眼差しで雲雀の身体を検分し始めた。

その瞳に好色さは一片も見当たらず、そこにあるのは只一人の芸術家としての飽くなき情熱のみであることが雲雀にも分った。

「脱いで」

堀師の指示通り、上着を脱ぎ捨てると、程好く引き締まった雲雀の肉体が露わになった。その肌は白磁のように滑らかで透き通っている。

「小美の肌とは対極的だが、これもまた良い。あちらは黒檀、此方は白檀と言ったところか……。良し、じゃあうつ伏せになって。痛いのは平気かい?」

「慣れてるわ」

「ふむ。肝が太いのも彼女と一緒か」

老人は独り言ちると、テキパキと用意を進め、遂には雲雀の背中に針を打ち込んだ。鋭い痛みが背筋を走り抜ける。

「小美が来たのは、丁度一年前のことだ。印象的な娘だったから、良く覚えている」

雲雀は黙って老人が喋るに任せた。背中の鋭い痛みは、やがて鈍い疼痛に変わっていく。その感覚だけでは、自分の背中に如何なる紋様が掘られているのか知るべくもなかった。

「一応は此処も外科医院を掲げているからな。ワシに刺青を掘って欲しいと言ってくるのは余程の物好きか、金持ち、或はカタギじゃない人間に限られていてな。

けれど、彼女はそのどれにも該当しなかった。彼女は只一枚、写真を持ってきて、彼女のものと同じ刺青を掘って欲しいとワシに告げた」

「それは誰?」

「わからんよ。但し、彼女に良く似ていた」

「きっと母親ね」

「そうか。だとしたら彼女は辛い人生を歩んだのだろうな。実のところ私も同じような質問をしたのだが、彼女はただ一言、故人だ、と答えただけだったから」

小美の母親が既に死んでいた、という事実は雲雀の心に小さな痛みを齎した。それは刺青を掘る痛みにも似た、鋭い針を体に打ち込むような痛み。

「しかしまあ、その時の彼女は左程落ち込んでいるようには見えなかった。彼女が口にしていた恋人の存在が、大きかったのかもしれないな」

「恋人? 恋人がいるって言っていたの?」

「ん? ああ、確かにそう言っていた。何せ後日、感謝の絵葉書が届いた程だからな。確か、ほらここに……」

鳳は手を止めて、年季の入った書き物机から白い便箋を取り出した。そこには確かに小美らしき美しい女性と、アジア系の顔の男性が並んで描かれている。

「ざっと、そんなところだ」

「十分よ。ありがとう」

「礼には及ばないさ。素晴らしいカンバスを提供してくれているのだから」

老人はそう言うと、口髭の奥から、ふぉっふぉっふぉという仙人めいた笑い声を漏らした。

刺青を掘り終わったのは、それから丁度3時間後のことだ。

「初対面は一対一で」

という鳳の言葉に従い、雲雀は一人で背中の刺青と向き合う。姿見に映し出されたそれは、見事に雲雀の予想を裏切るものであった。

雲雀はあまりの衝撃に言葉を失う。彼の逞しい背中には、あろうことか、オオサカの象徴、威風堂々たる太陽の塔が刻まれていた。

芸術的な混沌と調和からなる誇り高き色彩と形状は、雲雀の背中という大舞台を持ってして完全に再現されており、見る者に畏敬の念すら巻き起こすだろう。

だが、当人に一抹の当惑が残ったこともまた、変えられらない事実でもあった。

一応の感謝の言葉と共に、鳳に別れを告げる。確かに彼の手腕は一流だったが、同時に、その風流に関しては奇人変人の領域に踏み込みつつあることも違いなかった。

深呼吸して、武者小路の携帯に電話を掛ける。辺りは既に日も暮れ始め、宵の口だ。大本命、ナイトクラブ「リド」も開く頃だろう。

「収穫あり、よ。そっちは上手くいった?」

「上々だ。獲物が良かった」

「あら、以外ね。なら、集まって成果を見せ合おうかしら?」

「上等だ。言っておくが我々の手柄は中々のものだぞ?」

「望むところよ。それじゃあ、リドに向かうわ」

雲雀の手には、鳳から譲り受けた例の絵葉書が握られていた。勿論、その絵葉書には送り元の住所が記されている。

少なくとも一年前、彼女は其処に住んでいたのだ。恋人であろう男性と一緒に。

帰り道では再び関帝廟を横切り、目的のナイトクラブへと赴いた。老人たちは数時間前と変わらぬ姿勢で、干し棗を噛み続けている。

きっと死ぬまで噛み続けているのだろう。雲雀と同じように、孤独に。



リドの前ではグレーのスーツに身を包んだ武者小路が待ち受けていた。その横に巨漢のアフリカンの姿はない。

「光男は?」

「大阪雑技団に行った」

「ちょっと、遊んでる場合じゃ……ってまさか」

雲雀は呆れた様子から一転、目を丸くした。武者小路は腕を組んだまま、小さく頷く。

「おそらく、そのまさかだろうな。あいつは殺十兄弟に用があると言っていた」

「あの馬鹿!」

慌てて光男の元へと向かおうとする雲雀の二の腕を、武者小路が掴む。

「落ち着け、雲雀。何も殺十兄弟とドンパチやろうっていうつもりじゃない。寧ろ、その逆だ」

「逆って、どういうことよ」

雲雀が気色ばむ。武者小路は雲雀を掴んでいた手を放すと、不器用に肩を竦めた。

「さあな。アイツ曰く、武器を手に入れてくるらしい。どっちみち雲雀のハードケースは壊れたまま元には戻らないし、悪い選択じゃないんじゃないか?」

雲雀は未だ納得いかない様子で、歯を食い縛っている。武者小路はその様子を見て、さらに言葉を続けた。

「安心しろ、俺も光男も大?とは何のしがらみもない。金も十分に持たせた。俺たちは俺たちのやるべきことに集中すべきだ。そうだろう?」

「わかったわ。あんたがそこまで言うのなら、今回はアイツを信じてみる」

雲雀は深呼吸をして自分を落ち着かせようとしていた。光男が心配なのは変わらないが、武者小路の言葉で頭も冷えた。

「はい。それじゃあ、隆一はこれを御願い」

「これは?」

「住所を見て。小美は少なくとも一年前まで、其処に住んでいた。恋人と一緒にね」

「本当か!」

武者小路は雲雀の齎した成果に唸った。そう上手くいくかはわからないが、運が良ければ小美は今も同じ場所に住んでいるかもしれない。

「どうする。先にアパートに行くか」

「いいえ、今は少しでも時間が惜しい。二手に分かれた方が賢明よ」

眼前には宵闇に包み込まれようとしているナイトクラブ「リド」の一種異様な姿が待ち構えている。

「いや、矢張りリドには俺が」

「だから、貴方はアパートの方をお願い。いったい、貴方で百戦錬磨の夜蝶達を相手取れるのかしら?」

武者小路は妖艶に微笑む雲雀を前にして言葉に詰まった。リドは裏社会の大物達が集う会員制の超高級クラブだ。当然、そこに努める女性たちも一筋縄ではいかないだろう。

「朴念仁は朴念仁らしく、ということか。良いだろう、修羅場なら得意だ。華やかな世界は華やかな人間に任せるさ。地味な人間は地味な場所へ赴こう」

武者小路がおどけてみせると、雲雀は微かに微笑んだ。

「じゃあ、後でな。健闘を祈る」

「私もよ。無茶しないでね」

武者小路は雲雀の言葉に無言で手を振って答えると、暗い路地裏へと消えていった。

空の藍色は増々濃くなり、いよいよビロードのような夜が訪れようとしている。気付けばリドの重々しい観音扉の両横には黒人のガードマンが二人現れたようだ。

上空には控えめなネオンサインが瞬き、黒塗りの高級車が次々とビルのエントランス前にやって来る。

その面子はどこぞのベンチャー企業の社長、盟約の大物、芸能人などなど、要は金と権力の亡者達だ。

中華街一、いやオオサカ一有名な高級クラブに出入り出来るということは、ただそれだけで重要な社会的ステータスになるが所以だろう。

雲雀は一度だけ深呼吸すると、物陰から出て堂々とエントランスに向かった。

こういった場所には運転手付きの高級車にて乗りつけるのが通例だが、生憎チームの車はシトロエン2CV。あまり高級クラブに横付けしたい車種ではなかった。

ボディガードは一瞬じろりと雲雀の方を睨んだが、結局は彼の入場を咎めることなく、慇懃無礼な態度を崩さずに店内へと通した。

沙京で手に入れた一張羅が効いたのか、生来の容姿の上か、どちらにせよ有難い話だ。中へと入ってしまえば話は簡単だった。ここから先は金とはったりの世界だ。

「これ。プライベートルームでお願い」

顔の見えない受付嬢に無造作に札束を放ってよこす。信用ならない闇金が横行するオオサカの金融市場において、現金は常に最良の取引手段だ。

暫し待つと、目隠し帽子を被った細身の女性が雲雀を迎えに来た。顔はイスラム教徒の女性が付けるような薄いヴェールに覆われている。

「此方へ」

女性の案内に従って、エレベーターに乗り込む。薄暗いエレベーターにはボタンらしきものが付いておらず、しかし二人が乗り込むと音もなく上昇を始めた。

「どうぞ」

人影も疎らなクラブルームを通り過ぎ、ホール中央の噴水を分かつよう左右対称に配置された階段を上ると、上質なカーテンによって目隠しされたプライベートルームへと通された。

高低差の関係で、此方からはホール全体を見渡すことが出来るが、向こう側からは此方を伺うことは出来ない造りになっている。

雲雀が豪奢な革張りのラウンドソファに腰かけると、案内人の女性も優雅な仕草でソファの端に腰かけ、顔の薄布をゆっくりと掻き上げた。

「わたくしで宜しければ、僭越ながら、このままお相手を務めさせて頂ます。それとも、他の給仕を御呼びいたしましょうか?」

現れたのは、高級クラブに相応しい美貌を兼ね備えた、うら若き乙女の相貌だった。

「君がいい。よろしく頼む」

雲雀は女言葉を使わぬよう、常に気を使って短く言葉を切らねばならなかったが、女が其の奇妙な言葉遣いを不審に思っている様子は今のところなかった。

「ウォッカを。ストレートで。君は?」

「同じもので。お酒、お強いんですね」

「なに、故郷の酒だ。単なる景気づけさ、美人を前にして柄にもなく緊張にしているもんでね」

雲雀がおどけてみせると、女性は口元を隠しながら、眦だけで柔らかく微笑んだ。

「お待たせしました」

直ぐに酒が運ばれてくる。新たな給仕の女性は露出の多いチャイナドレスを着用していて、酒を置いた後も立ち去ることなく、雲雀を挟み込むようにして席に着いた。

「なんだなんだ、酒を飲む度に女性が増えていく方式かい? これは悩ましいな」

雲雀が笑うと、両隣の女性も合わせて笑った。

「乾杯」

雲雀の声に合わせて、二人の女性もグラスを控え身に掲げる。一息に飲み干すと、二人の女性のグラスもまた空になっていた。

大方、彼女たちの白い手に握られているグラスの中身はペリエか何かだろう。仮に酒だったとしても、相当薄められているに違いない。

「さて、と」

雲雀は洗練された優雅な仕草で、音一つ無くグラスをテーブルに戻した。二人の女性にも、雲雀の立派な態度に眉ひとつ動かさないだけの分別は持ち合わせていた。

雲雀で色香に煙る蒼瞳で左右の女性を流し見た。おそらく、雲雀が見た目通りの金持ちでないことは、彼女達にも当に見抜かれているだろう。

所詮は上辺を着飾っただけ、百戦錬磨のリドの女に半端なこけおどしは通じまい。

「君たち、まさかそれで仕舞だなんて言わないでくれよ? 次はそっちの番だ」

故に雲雀は追加の札束を、殊更無造作にテーブルの上へ放り投げた。釣り合わない芝居を続けるつもりは、雲雀には毛頭なかった。

「遠慮はいらない」

それからは、言葉も少なく、怒涛のように酒を飲みほし、有り得ない価格の軽食を次々と平らげた。

勿論、軽快な冗句と多少の戯れを挟む余興は忘れなかった。実際、彼女たちは雲雀のペースに付いていくのがやっとのことで、華々しい笑顔の裏では内心舌を巻いていた。

過酷な訓練を耐え抜いた彼女たちをもってしても、雲雀と同じだけ軽妙洒脱に飲み語らい、かつ品を崩さずに振舞うというのは相当に難しいことだった。

「雲雀さん。ねえ、雲雀さん」

女性たちは気が付けば雲雀と肩が触れ合う位置まで近付いてきていた。今度は雲雀が舌を巻く番だ。

分ってはいても彼女たちの物理的な距離のつめ方と言うのは、最早それを生業とする沙京流民の暗殺者に匹敵するのではなかろうか。

女性は細面を僅かに紅潮させて、雲雀の整った横顔を仰ぎ見た。既に、この男は初回にしても相当の金を使っている。

最初はどこぞの道楽息子かとも思ったが、それにしては男は理性的に見え過ぎたし、かと言って本当に金と権力を持っている人間に特有の圧は感ぜられなかった。

とすれば、結論は一つだった。玄人である彼女たちの感情をも揺さ振るほどの人心掌握術。

そんなものを持ち合わせるのは、裏社会においても僅か一握りだ。即ち彼は同業者に他ならなかった。

雲雀は女の呼び掛けには応じず、黙って煙草に火をつけた。彼はタイミングを伺っていた。プロであるはずの彼女たちの心に綻びが生じる、その瞬間を。

拮抗する両者の鬩ぎ合いにおいて、最初に袂を緩めたのは彼女たちの方だった。

「雲雀さん。貴方、本当は見た目通りの遊び人ではではないのでしょう? 何の目的で来ているかは分らないけれど」

「そうね。私たちのことを弄びにきたの?」

二人は極上の笑みを浮かべながら、雲雀の身体を白魚のような手で妖しく撫で上げた。

雲雀は、二人の瞳を交互に見つめる。その中には、当初は微塵も存在していなかった好奇の色が慎重に押し隠してあった。

「実は、ね」

雲雀は勿体ぶるかのように煙草の火を丁寧に揉み消すと、懐から一枚の写真を取り出してテーブルの上に置いた。

二人の女性の目に宿っていた好奇の色が瞬く間に掻き消える。人探しなど、界隈じゃ良くある話だ。雲雀の得心行かない行動の端々にも納得がいく。

「まあ待て。そう侮るなよ」

雲雀に内心を悟られ、各々は目を伏せて己の失態を恥じらった。

「彼女の兄に頼まれてるんだ」

「あら、私立探偵さんだったのですか? それとも契約刑事かしら」

「いや、生憎と少し違う。こちとら日雇いの身でね。貧乏暇なしってやつだ」

雲雀は更に懐から札束を取り出すと、女の元へと押しやった。

「探り合いは止めだ。正直言って自分の手練手管ってやつには自信があったんだが、流石にリドの夜蝶は手強いな。危うくこっちが惚れるところだ」

束の間の演技も止め、素直に賞賛の意を述べると、彼女たちもまた優雅に微笑んで雲雀の賛辞を軽やかに受け止めた。

「雲雀さんも中々よ。信じてもらえるかわからないけれど、その言葉、そっくりそのままお返しするわ」

「そうね。因みにうちのお店、恋愛営業は禁止なのよ?」

二人の美しい情婦は揃って自然な笑みを浮かべていた。それは雲雀が初めて見る、彼女たちの本当の微笑みだった。

「そりゃ光栄だ。では、我々の健闘を湛えて」

雲雀が軽くグラスを持ち上げると、彼女たちも其れに応えた。

「しかし、だ。困ったことになったな」

「そうね。私たちにできるのは、貴方を一時の夢に誘うことくらい。現実的な手助けは、残念ながら出来ないもの」

「例え、どんなに貴方の力になりたくても、ね」

ヴェールの女性が美しい顔を伏せて悲しげに告げると、チャイナドレスの女性が後を引き取った。

「いいさ。駆け引きはイーブン。所謂ゼロサムゲームだったからね、これは」

雲雀はソファに深々と体を沈めると、浅く溜息を吐いた。二人の女性は黙って、熱の籠った視線を雲雀に向けている。

「参ったな。用は済んだのだから帰らなければいけないんだけど」

資金もすっからかん、と雲雀がおどけてみせると、矢張り二人は上機嫌に笑って見せた。

「ねえ、雲雀さん」

ヴェールを掻き上げた女性が艶めかしい笑みを浮かべて、雲雀に擦り寄る。強烈な色香が女に惑わないはずの彼の脳髄すら犯す。

「リドってね、特殊なお店なのよ。現場では私たちの判断が何よりも最優先されるの」

「そうそう。清き流れに住みかねてって言うでしょう?」

「元の濁りの、か」

雲雀が呟くと、チャイナドレスの女性が負けじと雲雀の腕に豊満な体を押し付けた。

「だから良いのよ? もう一戦してあげても。雲雀さんがそうしたいなら」

「どうする?」

どうやら雲雀のテクニックは彼女たちの闘争本能に火を付けてしまったらしい。

「僕が勝ったら?」

「欲しい情報を上げる。私達の淡い恋心付きで、ね」

「随分と弾むじゃないか」

「当然よ。勝負はスリリングじゃなきゃ、つまらないもの」

雲雀は光男や武者小路を呼ばなくて本当に良かったと胸を撫で下ろしていた。

あの二人では話にならないどころか、骨までしゃぶられて、どこぞの裏路地に打ち捨てられていたに違いあるまい。

それほどまでに彼女たちは美しく、そして男としての煩悩を刺激した。

「それで、負ければどうなる? いや失敬、聞くまでもないな。君たちは自尊心を満足させ、僕は借金地獄にまっしぐらって訳だ」

「さあ、どうかしら。私たちの気分次第ね、それは」

階下のフロアではゆったりとしたクラブミュージックが流れ始めていた。人影も徐々に増えつつある。

「良いだろう。受けよう、その勝負」

それに、雲雀には負ける理由がなかった。人を愛することが出来ない身にありながら、彼は最早、己の孤独すらも克服しつつあるのだ。

彼女たちは雲雀が勝負に乗ってきてことに何処となく嬉しそうな表情を浮かべ、意気揚々と新たな酒を注文し始めた。

おそらく次に彼女達のグラスに注がれるのは本物の酒だろう。

聞き覚えのある声が聞こえ、雲雀が身を固くしたのは、二人が何やら長めの注文をしている最中だった。

「いやあ、やっぱりリドはいいねえ。横溝クン。まさに酒池肉林、僕のためにあるような場所だと思わないかい?」

「そうですね。ですが、最近は少し頻度が多いのではないですか? 乃木先生」

乃木先生。雲雀はそのワードに増々身を強張らせた。まさか同姓同名と言うこともあるまい。何より、この特徴的な粘り付く様な喋り方には聞き覚えがあった。

「悪い、カーテンを」

雲雀の只ならぬ様子を察したのか、彼女たちの動きは素早かった。近付いてくる乃木の視線を遮るようにして、さっとカーテンを引き絞る。

「すまん。彼とは浅からぬ因縁があってね」

雲雀が溜息と共に小声で感謝を告げると、二人は興味津々と言った様子でお互いに顔を見合わせていた。雲雀にとってはあまり嬉しくない話でもある。

「いやいや、一時期は来てなかったんだから反動があって然るべきだろう?」

「はあ、確かに。そうですか。心境の変化でもありましたか?」

乃木は隣の卓へと腰を落ち着けたものらしい。恐るべきことに、この高級クラブにあって男の声しか聞こえてこない。

「そこまで大袈裟ことじゃないさ、横溝クン。ただ、見苦しくて煩い豚がいなくなったからね。嬉しくて、ついつい来てしまうという訳だ」

「豚……? ああ、江様のことですか。江貿易の」

「こらこら、様などと付けなくてよい。あの脂ぎった禿のデブ親父め。視界に入るだけで吐き気がする。男はやっぱりお前のような美しい童顔でなくてはなあ」

「はあ。お褒めに預かり光栄です」

既に酔っぱらっているのか乃木の声は相当に大きく、会話の内容も筒抜けだった。雲雀は黙って耳を欹てている。左右の二人がそれに倣っているのが何となく可笑しかった。

「ですが、何故ぱったりと来なくなったのでしょうね。一時期はいつ行っても顔を見合わせる程だったのに」

「いや全くだ、あの嫌しんぼめ。大方、あの付きまとっていた小娘を落したのだろうよ。ああ、あんな小娘のどこが良いんだか。僕は理解に苦しむねえ」

「興味ないとか言っていながら、しっかり観察しているじゃないですか。だけど、そんな小娘なんていましたか? 記憶にありませんが」

「君は相変わらずだな。容姿は良いが脳味噌の方は極貧だ。ほら、居ただろう。あの褐色で、名前は確か……小美だったか?」

「さあ。覚えていませんから」

雲雀は驚いて、ついで左右の二人の顔を交互に見つめた。彼女たちは雲雀と目を合わせようとせず、けれどもその横顔には僅かに朱が差していた。

「なるほどね。しかし、江か。乃木もたまには役に立つことを言うじゃないか。表現も概ね間違っていない」

女性達は雲雀の独り言に返す言葉もなく、押し黙ったまま来たばかりの酒を舌先で舐めていた。

雲雀はそんな彼女たちを気にしている様子もなく、ただ新しい煙草に火を付けて、立ち上る煙を眺めていた。

江。界隈では有名な好色漢だ。雲雀も昔、聞き及んだことがある。

だが名誉と権力に相応しい好人物という訳ではなく、見た目も心も小汚い中年親父だという。嘗ての仕事仲間も、大金を騙し取られたと言って嘆いていた。

「さて」

雲雀が席を立とうとすると、静かに身を強張らせていた女性たちの剥き出しの肩が僅かに震えた。

敢えて無視しようかとも思ったが、それは彼自身の騎士道精神に反する行いだった。

「寒いのか?」

「少し、ね」

震える方に優しく手を添える。ヴェールの女性は堪え切れなくなったのか、その無骨な手の上に自分の手の平を躊躇いがちに重ねた。

「君も?」

「そんなことないわ。甘く見ないで」

チャイナドレスの女性は気丈に雲雀の優しさを跳ね除けようとしたが、一度彼の瞳を正面から捉えてしまうと、その魔性から逃れる術はなかった。

そっと差し出された手に諦めて頭を預ける。敏感な彼女達だからこそわかる。彼の手には一切の下心がなく、そこにあるのは慈しみと謝罪の念のみだった。

「どうやら、勝負はお預けみたいだな」

「また、来ますよね」

縋るような瞳からは、何の感情も読み取ることが出来なかった。それは雲雀を持ってしても本音を見抜くことが出来ない、プロとしての矜持に塗りこめられていた。

「約束してくれる?」

陳腐なやり取りのはずが、彼女たちの手に掛かれば魔法のようにして、すわ一大事に早変わりする。雲雀は自分の人生を天秤に駆けているかのような錯覚にすら囚われかけた。

「ああ。君たちの勝ちだ」

掠れた声で告げると、二人はそれぞれ雲雀に向かって儚げに微笑みかけた。

「見送りますので」

乃木に注意を払いながらカーテンを潜ろうとすると、彼女達は丁度目線の楯となるよう、雲雀をエスコートしてくれた。

エントランスの巨大な玄関扉を潜るまで、二人は無言のままぴったりと雲雀の横に寄り添い続けた。

両開きの巨大な扉を抜けると、左右の温もりが溶けるようにして消え去った。代わりに火照った雲雀の身体を夏の夜風が撫でる。

終わってみると、矢張りすべてが夢のようだ。雲雀は改めてリドの恐ろしさに身を震わせた。

嘗てはその身を彼女たちと同じ世界に浸していた自分ですら、この有様だ。これまで一体何人の男性が、夢の虜となり現実から立ち去って行ったのだろう。

「いえ、何も男性に限った話でもないわね」

乃木太郎丸の存在を思い出して、独り言ちる。男性の給仕もいるのだから、女性も来るに違いない。

雲雀は気分を新たにするつもりで思いきり夜の空気を吸い込むと、携帯電話に手を掛けた。

情報は仕入れた。まずは仲間と連絡を取らなければ。

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