グッドナイトフォーエバー
約ネバとバイオがフュージョンしたみたいな夢を見たので文字に起こしてみたらこうなりました。
「バーナードはどこだ!」
狂人が斧を持って、家にズカズカと入ってきました。
小さな子たちはその剣幕におびえ、上の弟たちも不安そうに俺へ視線を向けてきます。
「ば、バーナード? あんたバーナードを知ってるのか!」
一番上の兄である自分がしっかりしなくてはならない。
その一心で、俺は叫び返しました。狂人は顔半分を隠すヒゲの下で、面食らってたじろいでいます。
「俺たちもバーナードに会いたいんだ! もう何日も会ってない! あんたバーナードの知り合いなんだろ? あの人がどこに行ったか知らないのか?」
すべて出まかせです。
バーナードは、俺たち孤児院の兄弟たちで力を合わせて殺しました。
でなければ手遅れになったからです。バーナードは俺たちに『父の愛』とかいう得体の知れない何かを植え付けようとしていて、それを植え付けられた俺の兄たちは、目の前の狂人のようにバーナードの従順な奴隷になってしまいました。
「バーナードは俺たちに温かい飯を用意してくれた! 服も家もそうだ! 恩返しがしたいんだ、分かるだろ! バーナードを俺たちが殺すはずない!」
「わ、分かった、分かったから落ち着け」
もはや自分で何を言っているのかも分からないほどの勢いでまくしたてながら、俺は狂人に詰め寄りながら彼の持つ斧に手をかけました。
仰け反って握力の緩んだ狂人の手から斧を奪い取り、その脳天に、えいや、と振り下ろします。
うわ、と狂人はもんどり打って倒れこみました。その首筋目掛け、俺はもう一度斧を振るいました。
木こり用の斧は思ったより軽かったのですが、遠心力も載せた一撃は、会心の手ごたえを返してきます。
それなのに、斧は狂人の首を落とせないまま弾かれてしまいました。
斧は脛骨の半ばまでしか断つことができず、首の裂け目から、うねうねと何かが這い出してきました。
「う、うわあああ!」
俺は叫びながら、何度も、何度も斧を振り下ろしました。
何かは細っこい見た目をしているのに、何度切り付けても動きを止めません。ほとんど狂乱しながら攻撃を続けていると、不意に、誰かが俺の後ろから振り上げた斧を掴みました。
振り返ると、そこにいたのは狂人の仲間でした。
暗い目をした女。先ほど狂人と一緒にいたところを、俺たちは孤児院の二階から確認しています。
「むやみに攻撃しても、そいつは殺せない」
女は俺から斧を奪い取ると、おもむろに刃と柄の接合部分で、ぐちゃり、と這いまわる何かの体を押し潰しました。
ギギィ、と何かが寒気のするような声を上げて身を捩らせます。女は構わず、ぐりぐりぐりと三度、柄を押し込みました。やがて何かは身体の半ばほどから千切れ、動かなくなりました。
「こいつらは外皮ばかり頑丈だけど、継続的にかけられる圧力には弱い」
女はそういうと、俺に斧を返しました。
目を白黒させながら斧を受け取り、俺は女の顔と何度も見比べました。
「あ、ありがとう。アンタは?」
「あなたたちの先輩。ほら、そこで見てる兄弟たちを早く呼んで。ここから逃げるよ」
◇
俺たちの孤児院は、何かがおかしい。
そのことに気づいたのは、一冊の日記が原因でした。
その日記の持ち主は、俺たちの兄にあたる人物でした。だいぶ前に引き取り先が見つかって、今は新しい親の元で幸せに暮らしているはずの人でした。
日記を見つけたのは、孤児院の東側にある、お仕置き部屋と呼ばれる部屋の窓の外でした。
格子のはまった窓から外に放り投げたのでしょう。藪の中に隠れていたそれは、ページの後ろ半分が不自然に破られていて、俺たちは失われたページを探すことにしました。
よくある宝探しです。
ヒントを散りばめ、ひとつのヒントに次のヒントを隠す。そうやってページを集めていくうちに宝の地図が完成し、最初にたどり着いた子が隠された宝物──大抵は愚にもつかないようなガラクタです──を手に入れることができます。娯楽の少ない孤児院で、俺たちがいつもやっていた遊びです。
けれど、その日の宝探しはいつもと様子が違っていました。
ページはヒントではなく日記のほうがメインで、不気味で赤い文字の書かれた紙片を見つけるたび、俺たちは顔色を悪くしました。
『今日、新しいお父さんと会える。どんな人だろう』
『連れていかれたのはお仕置き部屋だった。どうして』
『部屋にバーナードと、知らない奴が入ってきた。目がぎょろぎょろとしていて、とても不気味だった』
『首に注射を打たれた。液体の中に、卵みたいなものが浮いていた。気持ち悪い』
『頭に知らない声が聞こえる。大いなる父を崇めよ。父を愛せよ。父もまたお前を愛し、祝福を授けるだろう』
『父は尊きお方だ。すべての存在は父のためにあり、己のすべてを父に捧げることこそ無上の喜びである。ああ、身体が打ち震える。父の一部が身体に根を張っているのを感じる。父よ、私はいつでも傍に』
『気持ち悪い。気持ちが悪い。オレがどんどんオレじゃなくなっていく。正気でいられるのは、もう日に数十分もない。兄弟は、ガキたちはまだ無事なのか』
『オレに注射を打ったギョロ目の男は、時折オレの様子を見に来る。オレの首を絞めるように掴んでは、満足したように頷いて帰る。多分、オレの中で育っている化け物を確認しているんだ』
『ギョロ目を殺した。カギを奪ってお仕置き部屋から逃げた。けど、ああ、最悪だ』
『オレはもうだめだ。頭の奥に響く声に逆らえない。ガキどもに会ったら、殺してしまうか、もしかしたら父の愛を植え付けてしまうかもしれない』
『ギョロ目から奪った物を隠しておく。見つけて、ガキどもを守ってくれ』──
そうして見つけたのは、大きな岩で胸から上を潰した、兄と思しき人物の死体でした。
兄の手にはロープが握られていて、ロープの先には太い丸太がつながっていました。岩を持ち上げ、丸太をつっかえ棒のようにして、岩の真下でつっかえ棒を引っ張ることで自ら押しつぶされたのでしょう。
吐しゃ物と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、俺は兄が抱えていたバッグを確認しました。
多分、これがギョロ目の男から奪ったというものでしょう。宝探しの地図が示していたのはこのバッグ、正確にはバッグの中身だったのです。
中に入っていたのは、注射器と、得体のしれない赤色の液体が入ったシリンダー。それから、バインダーで綴じられた一組の書類。
書類は、孤児院の名簿でした。
俺と、弟妹達と、かつて孤児院を出た兄姉たちの名前。兄姉たちの名前には斜線が引かれていて、彼らがどんな末路をたどったのか、ありありと想像できてしまいました。
俺は比較的年の近い弟たちと協力して、吐き気をこらえながら岩をどかし、兄の死体を焼いて弔いました。
兄の死体は顔が潰れていて、肉片に混じって、ミミズかヘビのような気味の悪い生き物が息絶えていました。
これが日記に書かれていた『父の愛』という得体の知れない化け物の正体なのだと、俺たちは否応なく理解しました。
そして、俺たちの孤児院が、この化け物を植え付ける苗床を育てるための牧場であることも、また。
孤児院に戻った俺たちは、計画を練り、バーナードを殺しました。
燃料を満たした落とし穴にバーナードを落とし、火をつけて丸焼きにしました。空気穴をあけて温度も上げて、炭化したバーナードの首も念のために落としました。
得体の知れない化け物が相手である以上、そこまでしないと安心できなかったのです。
バーナードは孤児院の院長で、身寄りのない俺たちを引き取って育ててくれた恩人でした。飯を俺たちに与え、寝床と服を俺たちに与え、教育を俺たちに与えてくれました。
けれど、敵でした。
俺たちの兄や姉を『父』とやらに売り渡し、いずれ俺たちも売り払おうとしている敵。
弟妹達を守るためには、情に流されてバーナードを生かしておくことはできませんでいた。
◇
「──そう。バーナードは死んだの」
暗い目をした女のつぶやきに、俺は頷きました。
場所は孤児院から離れた森の中。じきに他の狂人が孤児院に様子を見に来るといわれ、俺たちは彼女の案内でここまで逃げてきたのです。
俺は手の中の斧を握りなおしました。逃げてくるときに持ち出した鞄の紐を握って、緊張に震える手を落ち着けます。
狂人と一緒にいたこの女を、まだ信用するわけにはいきません。いざというときは、斧で彼女に切りかかって、弟妹達が逃げる時間を稼ぐ覚悟を決めていました。
「なあ、アンタいくつなんだ? 先輩、ってことは孤児院にいたんだろ?」
俺はチビたちが遅れていないかを時折振り返って確認しながら、前を歩く女に聞きました。
女はちらりと俺を振り返ると、やはり感情のうかがえない暗い目で淡々と答えました。
「レディに年齢を尋ねるのはマナー違反。……って言いたいとこだけど、二六。一〇年前に孤児院を出た」
「一〇年前……」
一〇年前というと、まだ俺が物心つくより前です。であれば見覚えがないのも仕方ないかもしれませんが、俺はもう少し女の真意を探るため、質問を重ねました。
「……アンタ、本当にアイツらとは違うのか?」
「アイツらって?」
「ほら……あの、化け物を植え付けられた、頭のおかしい連中のことだよ」
あの化け物を『父の愛』なんて呼ぶのが嫌で、俺はなんとなく言葉を濁しました。
真意を探るには、少々直截に過ぎる質問だったかもしれません。女は俺の言葉に「ああ」と頷くと、おもむろに袖をまくって見せました。
「…………!」
そこにあったものを見て、俺は悲鳴を噛み殺しました。
俺の様子に異変を感じたのか、近くにいた弟がのぞき込もうとします。それを左腕で制止して押しやりながら、俺は喘ぐように声を漏らしました。
「その触手……アイツらと同じ……!」
女の腕には、ぬらぬらとピンク色に光る触手が巻き付いていました。
先ほどの狂人や、兄の首元から姿をのぞかせていたものと同じ、化け物です。
騙されていたのか、そう身構える俺に、女は「はあ」とため息をつきました。
その首元に血管が浮いた、そう思った次の瞬間には、女の腕に巻き付いていた触手がシュルシュルと袖の奥に戻っていきました。
後に残ったのは、普通の人間と同じ薄橙の肌の、想像よりもほっそりとした腕だけです。
「こいつらの支配力には、個人差がある」
目を白黒させる俺に、女はそう告げました。
「私は運よく自我が残った。けど、それがバレたら殺される。だから、ずっと言いなりのふりしてた」
「ずっと……一〇年間も?」
「ん」
まあ、他にも同じような子がいるんだけど。
そう続けて頷く女に、俺は絶句しました。
一〇年。まだ一四にしかならない俺にとって、その時間は想像するのが難しいほど長すぎました。それだけの間、化け物になった体で、狂人に交じって暮らしてきたのでしょうか。
そう思ってから、俺は自らの考えを恥じました。助けてくれた相手を、心の中とはいえ、化け物と呼ぶなんて。
「その……ごめんなさい」
「別に気にしなくていい。自分でも気持ち悪いと思う。まあ、便利でもあるんだけど」
そう言うと、女は歩きながら触手を伸ばし、頭上の木から枝を一本手折り、俺に差し出しました。
まるで体の一部のように動く触手に驚きながら、俺はそれをおずおずと受け取りました。枝には丸々とした赤い実がついていて、俺はそういえば昨日から何も食べていないことを思い出しました。
「それよりも、あなたたちのほうがすごい。あのバーナードを殺すなんて」
後ろを歩く弟妹たちに枝の実を分けてやっていると、ふと、女がそんなことを呟きました。
女は目を細めて俺たちの様子を眺めています。
それを見て、俺は女の印象が変わるのを感じました。暗い目をしていると思いましたが、表情があまり変わらないからそう思うだけで、こうして目を細めただけで随分と優しい雰囲気になります。
「……兄がすごかったんだ。化け物の卵を植え付けられても抵抗して、俺たちに孤児院の真実を教えてくれた」
「ふぅん、お兄さん。誰?」
俺は兄の名前を伝えました。
それを耳にして、女がみるみる目を見開きます。
「……知ってる名前。私が孤児院を出るときにギャンギャン泣いてた子。そっか、あの子、立派になったんだ」
女がしみじみと目を閉じました。
歩きながらだったので少し心配しましたが、女は足元を這いまわる木の根を踏みつけてしまうこともなく、するすると歩いていきます。
ふと、俺は背中をつんつんとつつかれていることに気づいて振り返りました。
「ん! 兄ちゃんも!」
一番末の弟がそう言って、果実のかけらを差し出してきます。
俺は苦笑しながら、「ありがとう」と言ってそれを受け取りました。
木の実は木苺でした。鼻に抜ける酸味を感じながら、俺はそろそろ聞いてもいいだろうかと思って前を歩く女に声を掛けました。
「そういえば、今どこに向かってるんだ?」
俺の問いに、振り返った女は首を傾げました。
言ってなかったか、これはしまった。なんて言い出しそうな表情です。……表情に乏しいという印象も、改めたほうがいいかもしれません。
「私たちの隠れ家。私みたいに親の言うことを聞かなかったり、注射から逃げたりした、悪い子たちの家」
◇
孤児院は村のはずれにあります。
とても小さな村で、村の中にさえ森があるような僻地です。村の中央と孤児院は森で隔たれていて、村まで行こうと思ったら森を抜ける必要があります。
「村はダメ。化け物の巣。村人は一人残らず化け物に支配されてる」
そう口にした女が案内したのは、村とは反対の方角でした。
時間にして五時間くらいでしょうか。延々と歩き続けていると、不意に森が途切れ、唐突に視界が開けました。
「う、わあ~!」
「すごーい! ひろーい!」
チビたちがはしゃいだように大声を上げます。追っ手を気にするなら窘めるべきですが、俺はそうしませんでした。
なにせ、ごうごう、と目の前を流れる川が、チビたちの声を掻き消してくれるので。
孤児院で一番体力のある俺でも泳ぎ切れないほどの幅と流れの速さを誇る、村の終端に横たわる大河です。
向こう岸に渡れば、そこはもう村の外です。けれど、河を渡るのは現実的ではありません。
河には肉食性の魚が群生していて、足を踏み入れてしまえば、ものの数十秒で骨まで食い尽くされてしまいます。河の流れは急で、ところどころ岩も突き出ているので、粗末な船では簡単にひっくり返ってしまうでしょう。
「そろそろアイツらも空っぽの孤児院に気づくころ。山狩り、というか森狩りが始まる前に、下流で向こう岸に渡る」
そう説明し、女は俺たちを案内して河沿いを下っていきました。
どうも、下流に三角州になっている場所があるそうです。そこは流れが緩やからしく、近くに船を隠しているのでそれで向こう岸に渡るという話でした。
俺は疲れた様子を見せ始める弟妹を励ましながら歩きました。とはいえ、チビたちも十分に体力があり、こんな状況だというのに泣き言ひとつ言いません。
孤児院でバーナードに与えられた教育は、運動も含め、割と高いレベルのものだったのです。一番末の弟はまだ六つですが、その子でさえ一キロくらいなら息を切らさず走り切ることができます。
その教育も、優秀な苗床を育てるためのものだったのだと思えば、複雑な気持ちを禁じ得ないのですが。
「こいつらは結構大食らい」
歩きがてら、触手をゆらゆら揺らして見せながら女は教えてくれました。
「宿主に体力がなければ吸い尽くして殺しちゃうし、もともとの頭が悪いと暴れるだけの獣になる。だから、アイツらは宿主になる人間をしっかりと育ててから種を植える」
「……一番手ごろなのが十六歳なのか?」
「ん」
俺たちに真実を伝えて死んだ兄の年齢を思い出しながら聞いてみると、女は端的に頷きました。
一〇年間も狂人に交じって暮らしてきたというだけあって、女は化け物のことをよく知っていました。
化け物は人間の脊髄に寄生して成長し、ある程度成長すると神経系に根を張って意識を乗っ取ってしまうそうです。
一方、自意識を保っている女はといえば、確かに寄生はされていて、神経系にもしっかりと根を張られてしまっているようなのですが、脊髄には根を張られなかったそうです。
「だから私は正気のままだし、神経を通して逆に言うことも聞かせられる。例えば腕を切り落とされてもこいつらの体で一時的に代用できるみたいだけど、私はそこまで試してない」
そう言って手元から伸ばした触手をゆらゆらと揺らす女の表情は、言葉とは裏腹に、とても物憂げに見えました。
その顔を眺めて、俺は肩に掛けた鞄の感触を確かめました。
この中には、兄が狂人の仲間から奪った名簿が入っています。そこに書かれた名前は、知らないものも少なからずありましたが、知っている名前もたくさんありました。
俺がまだチビたちくらいの頃に孤児院を出た、よく勉強を教えてくれた姉たちや、好きなおかずをこっそり分けてくれた兄たちは、化け物に乗っ取られて今もどこかをさまよっているのでしょうか。
一番下の兄は自死を選びましたが、もし今もまだ生きているとしたら、それはどんな感覚なのでしょう。
そう考えて、俺は思考を振り払いました。正気を失って生き続けているなど、苦しいに決まっています。
それからどれくらい歩いたでしょうか。
出発したのは朝一番で、頭上では太陽がすでに天頂を通り過ぎています。実に六時間ほども歩いていることになりますが、河の終端は一向に見えてきません。
ふと、俺は背後を振り返りました。
何か理由があったわけではありません。チビたちがちゃんとついてきているか、とか、歩いてきた距離とか、そういうものを確かめたくなったのです。
だから、それを目にしたのは偶然でした。
轟音を立てる河の上流から忍び寄っていた、一隻の船。
石炭を燃やしているのか、煙突から白い蒸気を噴き上げる、孤児院の建物ほどもある大きさのそれが、甲板から何かを撃ちだしました。
「あ──」
咄嗟にあげた声は、何の意味も成しませんでした。
驚愕が具体的な行動へと変わるよりも早く、撃ちだされた大岩は、最後尾を歩いていた上の弟を、バラバラの肉片へと変えました。
「きゃああああ!!」
弟のすぐ隣を歩いていた妹が、腰を抜かして悲鳴を上げました。
その妹も、すぐに放たれた二発目の投石によって赤いシミへと変わりました。
「走って! 森の中へ! 早く!」
切羽詰まった声で、女が叫びました。
悲鳴を上げて、弟妹達が叫びながら三々五々に森へ飛び込んでいきます。
けれど俺は、頭が真っ白になったまま、俺に向かって伸ばされている半ばから千切れた腕を、未練がましく見つめていることしかできませんでした。
「なにしてるの! 急いで!」
「ま、待って、弟たちがまだ」
「もう手遅れ! 諦めて!」
動けずにいる俺の胴に、女が伸ばした触手が巻き付いて持ち上げました。
景色が溶けるほどの速さで運ばれながら、俺は無意味に手を伸ばしました。
投石機を乗せた蒸気船には見覚えがあります。
河の上流にある湖に浮いている、村で一番速い船。つまり、村からの追っ手です。
こんなに早く追っ手がかかるとは思っていませんでした。
苗床として育てていたはずの自分たちを、こんなに簡単に殺してしまうとも思っていませんでした。
想像力が足りなかったのでしょう。そのせいで、弟たちは訳も分からぬまま命を散らしてしまったのです。
「…………っ!」
息を呑んだのは俺ではありませんでした。
驚愕の気配とともに、女が足を止めます。
俺は顔を持ち上げ、進行方向へと目を向けました。
そして、時間がギシリと固まるような感覚を覚えました。
そんなはずはない。ただの見間違いだ。
そう言い聞かせますが、俺が彼を見間違うはずがありません。
「弟たちを巻き込んで家出とは、悪い子だ」
「ば、バーナード……!?」
黒い神父服を着た巨漢。いかめしい顔つきの、禿頭の男。
顔の半分は真っ黒に焦げていましたが、もう半分はまるで何事もなかったかのように平然としていて、金色の瞳が俺を睥睨していました。
◇
化け物の弱点は、継続的に掛けられる圧力。
それ以外の攻撃はあまり効果がなく、たとえ焼却炉に放り込んだとしても、炭化した内側に残った無事な組織が体を再生させる。
女は俺にそう教えてくれましたが、念のために首を落としたと伝えると、それならさすがのバーナードも確かに死んだだろうと言ってくれました。
「バーナード……なんでアンタが生きてるんだ?」
信じられない思いで、俺は聞きました。
バーナードは、顔の半分と、袖から覗いている右腕が炭化しています。その様子から他人の空似でないことは確かですが、まさか首を落とされてなお生きていたというのでしょうか。
よみがえったバーナードは、俺たちの裏切りを村人たちに伝え、こうして船で追いかけてきたのです。
「悲しいな。もうお父さんとは呼んでくれないのか」
「ごまかすな! 質問に答えろ!」
「やれやれ、首を落としたくらいで、父の愛を受けた私が死ぬと思っていたのか。私を殺したかったら、プレス機でも持ってくるんだな」
そう言って、バーナードは仕方なさそうに笑みを浮かべました。
その顔は、小さいころ、俺が恐る恐るおねしょしてしまったことを伝えた時と、同じ表情でした。
「お前は昔からそうだ。兄弟たちの中で誰よりも運動ができて、思い切りもいいが、いつも詰めが甘くて怪我をする。お前が果たして父の愛を受けるのに相応しいのか、私はいつも──」
「──ふっ」
「ぬ?!」
言葉の途中で、バーナードは驚いたように顔を庇いました。
俺を持ち上げたまま、女が俺の手から斧を奪い取り、それを投擲したのです。
それが致命傷になるはずもありませんでしたが、顔を庇ったのは咄嗟のことだったのでしょう。バーナードはすぐに斧を払い落としましたが、まんまと視界を塞がれた隙をついて、女は俺を抱えたまま猛然と逃げていました。
「わ、わぁぁぁ──!」
恐ろしいほどの速度に目を瞑り、俺は夢中で女の首元に抱き着きました。
ぐに、とそこから生えている触手が生々しい感触を返しますが、それを気にしている余裕はありません。
気づけば俺たちは森を飛び出していて、進行方向には二又に分かれた河が作るデルタ地形が広がっていました。
「船漕いでる時間はない! このまま跳ぶ!」
「待っ、うぐっ」
女は速度を全く緩めることなく、それどころか加速して、河辺から空中に身を躍らせました。
巨大なGに舌を噛みそうになりながら、俺は上流へ目を向けました。
依然船は森めがけて投石を続けており、ズゥゥン、ズゥゥンと断続的に砲撃音を響かせています。
「ま、待って! 弟たちがまだ向こうにいるんだ!」
一足飛びに河を飛び越え、三角州に着地した瞬間に減速した女に、俺は懸命に叫びました。
けれど、女は再び加速を始めます。三角州から向こう岸へと、もう一度飛ぶつもりなのは明白でした。
「後で私がまた助けに行く! 今は大人しくしてて!」
そう言われ、守られる立場に過ぎない俺は口を閉じるしかありませんでした。
弟たちが逃げ込んだ森には、まだバーナードがいます。かくれんぼが得意ないたずらっ子たちですが、見つかれば殺されてしまうでしょう。あまり濃い森ではないので、投石から身を隠すのにも限界があります。
あーあ、お前のせいだね。
心の中で、もう一人の俺が俺をあざけりました。
バーナードに逆らいさえしなければ。そうすれば、化け物を植え付けられたかもしれませんが、孤児院を出る十六歳までは生きられたでしょう。
すぐ上の兄が孤児院を出たことで、最年長は俺になりました。
次が自分の番だったから、耐えきれなくなって弟たちを巻き込んだんじゃないか。水に垂らした毒のように心を蝕むその想像を、俺はどうしても否定できません。
なんで真っ先に俺が助かるんだ。
なんでバーナードをちゃんと殺せなかったんだ。
なんで俺は、この女のように戦う力がないんだ。
無力感に苛まれながら、俺にできるのはただ、女に運ばれるに身を任せていることだけでした。
◇
河の向こう岸は、村側よりも鬱蒼とした森になっていました。
茫然自失としていた俺はどこをどう進んだか覚えていませんが、女は河を渡ってしばらく歩き、やがて見えてきた岸壁の中の洞窟へと俺を連れていきました。
上ったり下ったり、何かの仕掛けを解除したりして迷路のように枝分かれしている道を進んでいくと、やがてたどり着いたのは木組みで補強された部屋でした。
「おお、お前さん! 無事だったんだねえ」
「おばあちゃん。うん、無事」
部屋の奥から姿を現した老婆に、女はそう答えました。
背筋の曲がった、皺々の老婆です。
彼女は隠れ家の住人なのでしょう。老婆がやってきた方向を見ると、そちらには廊下が続いていて、暗がりの向こうに人の気配が感じられました。
「この子が例の?」
「ん。孤児院の子。ほかにも迎えが必要な子がいるから、また行ってくる」
「そうかい……気を付けていくんだよ」
女は老婆に俺を預け、もと来た道を戻っていきました。
その途中で一度、心配そうに俺を振り返りましたが、俺はそれに反応を返すことができませんでした。
女はぎゅっと目を閉じ、俺から視線を外すと、今度こそ部屋の外へと姿を消しました。
それから、俺を預けられた老婆は、俺にあれやこれやと話しかけました。
やれ、お腹が空いただろう。やれ、兄弟のことは知っているよ、気の毒にね。
一言も口を利かないガキに、老婆は嫌な顔一つせず話しかけ続けました。俺も、誰かの声が聞こえ続けていることで、気が紛れたのだと思います。老婆の声は、決して嫌ではありませんでした。
老婆のほかにも、時折、隠れ家の奥から住人が姿を見せました。
どうやら老婆は彼らから頼られる立場らしく、いろんな相談事を持ち込まれていました。家畜の元気がないとか、誰それがお隣の彼それとトラブルを起こしたとか、……あるいは、化け物に完全に乗っ取られた奴を看取ってほしい、とか。
相談を持ち込む者たちも、俺の存在に気づいて声をかけてきましたが、反応がないことに諦めたように、しかし気遣わし気な目を向けて去っていきました。
女はいつまで経っても帰ってきませんでした。
洞窟の奥は時間が分からなかったので、もしかしたらそんなに経っていないのかもしれませんでしたが、ぐるぐると二人の弟妹が死んだ瞬間を反芻している俺には、とても長い時間でした。
「…………?」
不意に、声が聞こえた気がして、俺は目を開きました。
いつの間に眠ってしまっていたのでしょうか。俺の体には毛布が掛けられていて、隣の椅子に腰かけた老婆は船を漕いでいます。
時折、洞窟の奥から反響する、ピチョン、ピチョンという水音以外にはなにも聞こえてきません。
気のせいだったのか。そう思った矢先、俺の耳が、やはり遠くから声を拾いました。
「……ぃちゃん──」
「……っ!!」
ガバッ。思わず立ち上がった俺に気付いたか、老婆がビクッと体を震わせました。
「ど、どうかしたのかい?」
「声が……弟の声が!」
遠くで、お兄ちゃん、どこ、お兄ちゃん、助けて、と繰り返す声が聞こえます。
聞き間違えるはずがありません。弟の声です。
俺は居ても立ってもいられず、出口へと走りました。
「ま、待っておくれ! 扉を開いてはいけないよ!」
老婆の声が背中から俺を追いかけましたが、俺の耳には届きませんでした。
俺の不甲斐なさが弟たちを危険な目に合わせてしまったのです。弟が助けを呼んでいるのなら、兄である俺には駆けつける義務があります。
うろ覚えの迷路をさかのぼり、パズルのような仕掛けを解き、道を塞いでいる岩を渾身の力でどかし、俺は懸命に地上を目指しました。
やがて地上に出ると、オレンジ色に染まった空が樹冠の隙間から見えました。
地上に出たことで、お兄ちゃん、と呼ぶ声がはっきりと聞こえます。
後ろから老婆が追いかけてくるのが分かりましたが、俺は老婆を待たず声の方向へと走りました。
木はかなりの密度で生えていて、足元を這いまわる木の根に躓きかけながら足を動かした俺は、やがてその姿を見つけました。
俺の胸元くらいの、弟たちの中でもひときわ小さい背丈。
俺が着ているのと同じ、お仕着せのシャツ。
襟元から上を覆う、冒涜的な見た目の触手。
「オニ、ぃちゃん」
触手の隙間から弟の声が聞こえ、俺は膝をつきました。
脳裏を過ったのは、昔読んだ本の生き物の生態です。
深海で目立つ光を放ち、餌をおびき寄せるチョウチンアンコウ。
香りで虫をおびき寄せ、ぱくりと食べてしまう食虫植物。
俺を誘い出したことで用済みとなり、生餌にされていた弟は地面へと投げ出され、頭にまとわりついていた化け物がシュルシュルと離れていきました。
化け物は地を這って行き、傍の木の後ろに立っていた巨漢の足を這い上ると、神父服の隙間から内側へと潜り込んでいきます。
「……バーナード」
「まったく。反抗期の子供は手がかかる」
あきれたように首を振るバーナードの姿に、俺は頭が真っ白になるのを感じました。
なんでここにバーナードが居るんだ。兄弟たちは、あの女はどうなったんだ。
当然、そんな疑問にバーナードが答えてくれるはずもなく、彼は俺に鋭い視線を向けました。
「しかもほかの子たちまで巻き込むとは。おかげでたくさん処分する羽目になった」
「…………」
「みんな優秀だったからもったいないが、仕方ない。優秀すぎると、お前の兄のように毒をばら撒いてしまうからな」
毒。確かに、孤児院の真実は劇毒でした。
知らずにいれば、今頃弟妹たちは宝探しでもしながら笑っていたのでしょう。
「お前は特に優秀だった。思慮はともかく、座学の成績は良かったし、身体能力は歴代でも群を抜いていたかもなあ。お前を私たちの仲間とするのが、本当に楽しみだったんだ。……まあ、頭のほうは買いかぶりだったようだが」
そう言って、バーナードは俺の背後へと視線を移しました。
老婆が俺に追い付いてきていました。老婆はバーナードの姿を認めると、目を剥いて驚きの声を上げます。
「お前……バーナード!」
「お久しぶりです、先生。お元気そうで何よりです」
口許に酷薄な笑みを浮かべ、バーナードは余裕そうに言い放ちました。
「これまでこそこそと逃げ回ってきたのに、残念です。こいつのせいで、あなたたちの隠れ家の場所はバレてしまった。助けようなどと思わなければ、あなた方の余生ももう少し穏やかでしたでしょうに」
「黙らんか! 子供をエサに使ったりして、恥ずかしくはないのかい?!」
「全ては大いなる父のため……父のためならば、愛する我が子さえ縊り殺しましょう」
バーナードが右手を掲げました。
その手のひらから、うぞうぞと化け物が這い出していきます。
いったいどこにそんな質量が隠れていたのか、触手は瞬く間にバーナードの背丈よりも大きくなり、先端をハンマーのように膨らませました。
「それでは、安らかに」
左手で十字を切り、バーナードが鉄槌を振り下ろしました。
俺は目を瞑り、衝撃が脳天を砕くのを待ちました。
しかし、その瞬間が訪れることはありませんでした。
何かが俺の体を引っ張り、狙いを外したハンマーが、ゴォォウ、と空気を引き千切り、地面を叩きます。
「しょんべん漏らしのバーナード! 見えるとこでイジメなんて、随分と行儀がよくなったもんだよ!」
俺を救ったのは、老婆の首筋から伸びる、細い無数の触手でした。
俺を背後に放り投げながら叫ぶその姿を、俺は驚愕とともに見つめます。化け物に寄生されている人が隠れ家にいることは知っていましたが、見るからに皺々な老婆がそれであることは予想していませんでした。
老婆は触手を束ねると、先端を錐のように鋭くさせ、年を感じさせないほどの踏み込みとともにそれを突きこみました。
「ぐぅ!」
バーナードはたまらず後退しました。
その隙に振り返った老婆は、眦を鋭くして、地面に転がったままの俺を一喝しました。
「なにしてるんだい! 今のうちに逃げるんだよ!」
「で、でも」
「早くしな! あの子や弟たちの犠牲を無駄にする気かい!?」
「…………!」
そう言われては、俺は立ち上がり、駆けだすしかありませんでした。
一瞬、こと切れた弟へと目を向けたくなりましたが、あらん限りの意思を振り絞ってその欲求をねじ伏せます。
ごめん、ごめんと声を漏らしながら、俺は走りました。
後ろからおよそ人のものとは思えない声が響き、めきめき、と木々の倒れる振動が体を揺らしても、俺は足を止めることなく走りました。
あとからあとから涙があふれてきましたが、視界をぼやけさせるそれを拭いながら、やっぱり俺は走り続けました。
弟たちが死んでしまった。俺のせいで。
隠れ家がバーナードに見つかってしまった。俺のせいで。
助けてくれた女も安否がわからず、俺を助けるために老婆もバーナードに立ち向かった。
全部全部、俺のせいでした。
もう何もかもを投げ出してしまいたくなりました。
命すら、全部。
死ぬだけなら簡単です。その辺に転がっている石でも叩き割って、鋭利になった断面で首を切り裂けば、それだけで俺の命は失われます。
あるいは河まで走って飛び込んでもいいでしょう。バーナードと老婆の戦いに決着がついて、バーナードが追いかけてくるまでの間に、河へたどり着けるだけの身体能力を俺は持ち合わせています。
けれど、この状況で自ら死を選ぶ無責任さだけは、俺は持ち合わせていませんでした。
弟たちは手遅れかもしれません。
けれど、まだ全員の死体を確認したわけではありません。
女や老婆も、もう手遅れかもしれませんし、彼女たちの隠れ家も見つかってしまったかもしれません。
けれど、責任の取り方が残っていないわけではありません。
「……やっぱり」
ぐるっと隠れ家の周囲を駆け回り、俺は確信しました。
近くにいる敵はバーナードだけ。他の狂人たちはまだ遠くにいるか、あるいは女や弟妹たちのの始末にてこずっているのかもしれません。
つまり、バーナードの口さえ封じてしまえば、隠れ家の場所が漏れる心配はないのです。
子供を始末するのに投石機を持ち出すような連中です。隠れ家の人たちが見つかってしまえば、どんな目に遭わされるか。詰めが甘いと言われた俺の想像力でも、簡単に想像することができました。
ほんの少し、しかも一方的に声をかけられただけの関係です。ですが、自分のせいで誰かが不幸になってしまうことは、これ以上ごめんでした。
バーナードを殺す。今度こそ、確実に。
その決意を固め、俺は隠れ家のある岸壁の上を目指しました。
◇
殺したはずのバーナードが、なぜ生きているのか。
俺はその理由に仮説を立てていました。
化け物の本体は狂人たちの脊髄に取りついていて、首を落としてしまえば、本体も真っ二つになって死ぬ。女はそう教えてくれました。
もしかすると、バーナードは死んだふりをしていたのかもしれません。考えてみれば、斧をいくら振り下ろしても断つことのできなかった化け物を簡単に殺せたはずがないのです。
「どうした? 鬼ごっこはもう終わりなのか?」
「…………」
後ろから響いてきた足音に、崖際に立っていた俺は振り返りました。
崖下よりは密度の低い森の中から、真っ黒な神父服に身を包んだ男が歩み出てきます。握られた拳にはべっとりと血がついていて、老婆の最期を想像した俺は顔をしかめました。
「……聞いてもいいか?」
俺の言葉に、バーナードは首をひねりました。
「何か企んでいるな? まあ、いいだろう。言ってみろ」
「アンタは、俺たちを化け物に寄生させるために育てていたのか?」
聞くまでもないことかもしれません。
バーナードが化け物に寄生されたのは、それこそ俺が物心つくよりもずっと前でしょう。女が孤児院を出たという一〇年前、それよりもさらに昔にいた大勢の兄姉たちを、この男は化け物に捧げ続けたのです。
それでも、俺はそれを問わずにはいられませんでした。
「なにかと思えば、そんなことを……」
「いいから答えろ!」
「……すべては父のために。父は強い兵を望んでいる。ならば、私たちはそれを叶えるのみ」
「強い兵? 何のために」
「さて、私は知らないな。知っていたとしても、それを教えるはずもないだろう」
「…………」
俺はバーナードに見えない角度で、手を握ったり開いたりを繰り返しました。
もう少し時間が欲しい。俺は慎重に言葉を選びながら、再度口を開きます。
「兵隊が欲しいなら、簡単に俺たちを殺してよかったのか? 育てるのに短くない時間がかかるのに」
いつから孤児院が化け物のための養殖場になったのかは分かりませんが、少なくともここ一〇年や二〇年ではないことは確かです。兄が残した名簿に書かれた名前は、一番古いもので三〇年前の人物のものでした。
孤児院だって何十人も子供がいるわけではありません。長いスパンで見ているからこそ、損失は看過できないはずです。
そんな俺の予想に、バーナードはやはり表情を歪めました。
「……残念だが、仕方あるまい。『父の愛』を受け取れるのは無垢の子だけと決まっているのだ。真実を知ると、嘆かわしいことに誰も彼も愛を否定するからな。そんな連中に愛を注ぐのは我慢ならんと、父が仰せなのだ」
「ずいぶんと狭量なオヤジなんだな。孤児院でパパやってた時のアンタのほうが、よっぽどマシだ」
「父と私を比べるなど畏れ多い! 確かにお前たちを教え導きはしたが、すべてはやがて兄弟となる子らを思えばこそだ!」
左の瞳に狂気を浮かべるバーナードの姿を、俺は複雑な気持ちで見つめました。
愛、愛とバーナードは言いますが、俺はこの男を、本当の父親のように愛していたのです。
俺だけではありません。俺に真実を伝えた兄も、その前に消えた兄姉たちも、みなバーナードを愛していました。
目を固く閉じ、居なくなってしまった兄弟たちの姿を思い浮かべます。彼らの無念を思えばこそ、これからやることにためらいはありませんでした。
「……化け物の弱点は、継続的な圧力だ」
俺はおもむろに語りだしました。
唐突に変えられた話題に、バーナードが怪訝そうに眉をひそめます。
「……そうだな、それがどうした?」
「逆にそれ以外の攻撃はとおりが悪くて、炭化させても殺しきることはできない。殺すなら押し潰すのが一番だけど……アンタに取りついてるやつほどでかいと、潰せる質量を持ち上げるのも一苦労だ」
「フン、岩でも落とすつもりだったか?」
バーナードはつまらなそうに鼻を鳴らしました」
「こうして崖の上まで来て、岩か木でも落とす仕掛けを作ろうとしていたんだろう? お前は頭は悪くないのに、昔から短絡だった」
そういって、バーナードが俺の隣に目を向けます。
そこには、岩が埋まっていました。
崖際に大きく突き出していて、少し足元を崩してやれば落下させることができそうです。大きさもバーナードの全身を押しつぶすには十分で、うまくやればバーナードを殺すことができたかもしれません。
こうして、想像以上に早くバーナードが追いかけて来さえしなければ。
「まったく……お前に父の愛が授けられなくて、かえって良かったかもしれん。もしお前が愛に耐え切れず、暴れるだけの獣になっていたら骨が折れていただろうからな」
「仮にもアンタの息子だろ。俺がバカなら、そりゃアンタの教育不足だ」
「息子ではない……兄弟になるはずだった子だ」
もはや言葉を交わす意味はない。
バーナードはそう言わんばかりに会話を打ち切ると、俺に向けて歩を進めました。
俺は目を閉じました。
時間は十分に稼げました。
ずきずきと、首筋を苛む痛みをこらえながら、肩に掛けていた鞄に手を差し込みます。
「ところでバーナード、これ、なんだと思う?」
そして中に入っていた棒状のものをおもむろに取り出し、バーナードへと見せつけました。
それは、兄がギョロ目の男を殺して奪った、赤色の注射器でした。
「お、お前! なぜそれを」
俺が手に持つ注射器を目にして、バーナードは足を止め、狼狽したように俺の手元を凝視しました。
想像通りの反応に、俺は内心で胸をなでおろします。これがバーナードにとって重要なものであることは、愕然と表情を震わせる様子を見れば明白でした。
「兄さんに化け物を植え付けたやつ、『父』とやらの侍医なんだってな」
「…………」
「そして、これは化け物の中でも特別なヤツの卵だ」
そのことを知ったのは、兄の亡骸を見つけ、バーナードを丸焼きにしてからしばらく経った後のことでした。
兄はギョロ目の男を殺し、この鞄を奪った後、その死体をどこかに隠しました。当然、自分が逃げたことをバーナードに知られないためです。
俺は炭になったバーナードの首と胴体を孤児院の庭に埋めた後、ギョロ目の男の死体を見つけました。兄とは違い、宝の地図もなかったので非常に時間がかかってしまいましたが、とにかく、ギョロ目の男が上衣のポケットに持っていた書類には、この注射器の中身についてのことが書かれていました。
愛がどうとか、偉大な父がどうとか、およそ正気ではないことがつらつらと書かれていましたが、そうしたノイズを除いて読んでみると、どうやらこれに満たされていたのは卵ではないそうです。
曰く、『父』とやらの身体の一部。血液なのか、髄液なのか、詳しいことは分かりません。これを与えられるのは、「より大きな『父の愛』を受ける資格のある者」だけで、狂人たちがこれを神聖視していることは容易に想像できました。
俺はそれを、崖の上から、放り捨てました。
「な、なんてことをぉぉぉぉぉ」
バーナードは悲鳴を上げ、俺には目もくれず、注射器を追って空中に身を躍らせました。
注射器は軽く、また投げた時に回転をかけていたので複雑な軌道を描いて落ちていきます。バーナードは中々それを掴み取ることができず、最終的には触手に巻き取って手元へと引き寄せました。
何とか地面に叩きつけられるよりも前に確保できたことに安堵しつつ、両足で崖の下へと着地します。轟音とともにクレーターが大地に刻まれましたが、そんなことよりも大事な父の一部が無事であることを確かめようとして、注射器に巻き付けていた触手を解きました。
そして、手の中を確認し、唖然として目を見開きました。
「な、に……?」
赤い木の実の果汁でしょうか。表面に赤くてべたべたする液体を塗りたくられた注射器は、何度確認しても、矯めつ眇めつしても、やはり中身が空っぽでした。
まさか。そう思い頭上を振り仰いだバーナードは、目の前に迫る影に、またしても驚愕させられました。
大岩。先ほどまで崖際に埋まっていた大岩です。
巨大な質量に、十分な加速を得て迫る、大岩。その天辺にしがみつく俺と目が合って、バーナードは口を開きかけました。
「あぁぁぁぁぁぁ──!」
しかしその声は、俺の絶叫に掻き消されました。
着弾、轟音、衝撃。暮れかけた空に、驚いた鳥たちが飛び立っていきます。
げほ、げほ。ひどくせき込みながら、衝撃で岩から放り出されていた俺は何とか立ち上がりました。めくりあげられた土砂で視界が煙っていましたが、落下の瞬間に下敷きにしていた左腕と左足がひしゃげているのが分かりました。左腕に至ってはもげかけていて、ぐちゃぐちゃになって皮膚や肉と混ざる袖口から白いものがのぞいています。
けれど、右腕と右足は無事でした。俺は足を引きずり、半ば這うように大岩に潰されたバーナードの元へと向かいました。
「…………」
果たして、バーナードは首から下を赤いシミへと変えていました。
潰される瞬間に身を捩ったのでしょう。首から上は千切れていて、確認することができません。
やがて土煙が晴れると、俺は傍に転がっている禿頭の生首を見つけることができました。
生首になってなお、バーナードはぎょろぎょろと目を動かしていました。
何が起こったのか分からない、そんな表情です。口をはくはくとさせていますが、喉もなくなってしまったためか、それが意味のある言葉になることはありません。
「……バーナード」
名前を呼ぶと、バーナードの目が俺を捉えました。
そうして、もう何度目かもわからない驚愕を目に浮かべ、無音のまま叫びました。
なぜお前が。
音にはなりませんでしたが、口の動きで言いたいことが分かり、俺は苦笑を浮かべます。
ずるり。そんな音を立てて、俺の左腕の断面から、触手が姿をのぞかせていました。
バーナードが死に物狂いでつかんだ注射器は、空っぽでした。
中身はすでに、俺が自らの首筋に打ち込んでいたのです。
「普通の化け物なら、孵化とか成長とかで時間がかかるんだろうけど、こいつはアンタのパパの身体の一部だもんな。宿主の体力が充分なら、エネルギーを奪って身体を再生させるんだって書いてあったよ」
「──!」
口を大きく開いたバーナードが、顔の奥から触手を鋭く伸ばしました。
その攻撃を予想していた俺は、首を傾けることでそれを躱します。右手でバーナードの触手を握り潰すと、ぐちゃり、と音を立てて千切ることができました。
「アンタの顔は右半分が炭化したままだよな。首を切り落としても死ななかったから、もしかしたら本体は左半身のどこかにいるんじゃないかと思ったんだ」
「──、──」
「その様子だと、左脳に居るのか? まあ、もうどっちでもいいや」
そう言って、俺は左腕を掲げました。
触手の動かし方は、感覚で分かりました。神経系を通して命令し、先端を大きく、大きく膨らませていきます。
やがてそれが、バーナードの首から下を潰す大岩と同じくらいの大きさになったところで、俺はバーナードへと視線を戻します。
「私を殺したかったらプレス機でも持ってこい、だっけ? ──これなら充分だろ?」
「──! ──!」
何かを訴えようとするバーナードを無視して、俺は左腕を振り下ろしました。
ズシィィィン。腕を持ち上げ、二度、三度。打擲のたびに、ギシャア、とおぞけの走る悲鳴が聞こえましたが、それも次第に弱まり、聞こえなくなりました。
腕を持ち上げてみると、バーナードの頭部はミンチになって、骨粉やら土やらと混ざりあっていました。
土の隙間にうぞうぞとうごめくものを見つけ、それをつまみ上げてみます。
バーナードに寄生していた化け物は、意外なほどに小さく、身を捩って逃れようとしています。
「…………」
ぐちゃり。指先で潰すと、それは今度こそ動かなくなりました。
それを確認して、俺は両腕を投げ出して倒れこみました。
もう指先ひとつ動かせませんでした。女に聞いた通り、化け物は大食いで、俺の体力は残らず吸い上げられてしまったようでした。
やるべきことはまだまだたくさんあります。
バーナードは死にましたが、狂人たちはまだ近くにいるでしょう。戦闘の痕跡を消さなければ隠れ家が見つかってしまうかもしれません。
それに、弟妹たちの安否も確認していません。
それから、俺自身の始末も。
頭の奥には、絶えず声が響き続けています。父を崇めよ、父を愛せよ。父に尽くすのが子の喜びであり、愛し子らの務めである。
きっとこのまま、俺は狂人になってしまうのでしょう。バーナードと同じように、弟たちに父の愛を植え付けようとする化け物になるのです。
けれど、きっと大丈夫だと、俺は根拠もなく信じることができました。
弟妹たちを助けにいくと、女は言ってくれました。彼女がいれば弟妹たちは無事でしょうし、化け物になった俺のこともきっと殺してくれるでしょう。
バーナードを殺したとはいえ、こうしてガス欠になって身動き一つとれない化け物一匹程度、女が後れを取るとは思えませんでした。バーナードから逃げるときの女の足は素早く、きっと弟妹たちが手遅れになる前に駆けつけてくれたことでしょう。
だから、もう大丈夫。
そう信じて俺は目を閉じ、意識を手放しました。
永遠に。
という夢を見たんじゃよ。
~登場人物とか~
・俺くん
夢の中でカメラマンをしてくれた子。作者本人ではない。
・女さん
登場するたびに作者は山賊になってた。
・兄
夢には出て来なかったけど、解説役として登場させてかゆうま日記もどきを書かせてみたらやたらと解像度が高くなってしまった。殺しちゃってごめん。
・弟妹たち
背景。人数がはっきりとしていなくて人格も持っていない。ぶっちゃけ作者は俺くんを苦しめるための舞台装置にしか思っていない。
・化け物(父の愛)
プ○ーガ。マジで夢に出て来んでほしい。
・狂人
化け物に寄生された人たち。ちなみに第一犠牲者のイメージはドワーフ。ひたすらバーナードバーナード叫びながら滅多打ちにしてた。
・ギョロ目の男
兄に化け物を植え付けた人。アンタの残した注射器は役に立ったよ。
・バーナード
なぜか唯一名前をもらった狂人。イメージはメンデス村長。どうしても殺し方が思いつかなくて作者は絶望していた。
・老婆
実は孤児院出身だったバーナードがいた頃の院長先生。夢には出て来なかったし、精々隠れ家の助言役くらいにするつもりだったのに、気づいたらバトルババアになってアグレッシブに皮肉を吐いてた。
・蒸気船
投石機を積んで流れの急な河を進むでかい船。なんでそんなものが村にあるのか知らないけど、夢の中で追いかけてきたから登場させてみた。
・父
誰お前。知らん。