懸念事項
朝食を食べ終えると、急ぎ足で教室へと向かった。
教室の扉に掲げられた『2ーC』の文字を眺める。東側の中でもとりわけ権力のない中流貴族と、庶民の中でもそれなりに財力を持つ家の者が混在する場所。『C』の文字はこの学園内において唯一、庶民が存在を許されている教室のことを指す。
私は今、この場所に入ることを心の底から躊躇している。
今朝方の時点で、エメットが在席している『2ーA』まで噂が広まっているということは、間違いなく教室の中は今頃その話題で持ちきりだろう。昨日までそういった雰囲気が一切なかったところを見ると、噂が広まったのは学校が終わった後か。一体どこから、どうやって……。
そんなことを考えれば考えるほどに、足が重くなっていく。
「昨日の行いはさておき、何も恥じることはないはず――――」
そう己自身に言い聞かせ、固く握りしめた右手と共に、私は教室の中へと入っていった。
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教室に入ってすぐ朝礼が始まったこともあり、特に何か問題が起きることなく、いつも通りの授業が執り行われた。学園の厳しい教えもあってか、授業中に言葉を交わす生徒はおらず穏やかな時間がゆっくりと流れていく。
それが破られたのは、丁度時計の針が12時を指した時だった。
「こんにちは。メルヴィン」
わざわざ教室を出ようとする私の前に立ちはだかり声をかけてきたのは、同じ教室に在席するアシェリー・ミルボンドである。
「こんにちは、アシェリー。私に何か?」
「いいえ。特にあなた自身に興味はないの。ただ、あなたには伝えておいた方がいいと思って。あの方には、止めた方がいいと言われたけど、あたし、こういうことははっきりさせておきたい性分なのよ」
不敵な笑みを浮かべながら、同じ庶民の出であるアシェリーは言った。普段、口数の少ない彼女がここまで強引に人を引き留めて話をするのは珍しい。
だからこそ余計に分からない。そうまでして一体、彼女は私に何を言いたいのだろう。
「急いでいるので、手短にお願いします」
「……相変わらずお高くとまっているのね。まあいいわ。じゃあ用件だけ。
あなたの元婚約者だった『2ーB』のアラン・ダーシーですけどね、昨日正式に申し出があって、このあたしアシェリー・ミルボンドと婚約することになったの」
目の前の少女は2つに結った髪を揺らしながら得意げに語る。
私は、アシェリーの言葉に衝撃を受けた。
単純に、アランが既に自分の婚約者ではないということを、人の言葉を通して改めて実感させられたこともそうだったが、それよりも重大な懸念事項を見つけてしまったのだ。
――それは、余りにも話が出来過ぎているということ。
時系列順に並べた場合、アランは私に婚約破棄を言い渡したその足で、彼女アシェリー・ミルボンドに婚約の申し込みをしたことになる訳だが、はたして、家同士が関わってくる婚約という名の一種の契約が、たった1日の内に破棄され成立してしまうことなどあり得るのだろうか。
それこそ、事前に口裏を合わせておく必要が出てくる。
問題は、その事前の口裏合わせが一体どこからどこまでであるのか、という点だ。
私は、鎌をかけるつもりでアシェリーに答えた。
「そうでしたか。それは、おめでとうございます。しかし1つだけ気になることが……。
私との婚約を破棄したその直後に、アシェリー、あなたに婚約を申し出るとは、アランも随分と配慮のない行いをするようになったんですね」
「……そ、それは違うわ! アランはあたしだけじゃない、ちゃんとした手順を踏んで父と母にも了承を得ているし、あたしだってアランのご両親には挨拶に行ったもの!」
「なるほど、そうでしたか。それは失礼しました」
彼女の返事を聞いて、私は確信を得る。
この話は、私の婚約破棄程度のことで留まる規模のものではない。
我がローズ家自体が、何者かの手によって水面下で貶められていたということになるのだ。
流れからするに、アシェリーの父親であるミルボンド家の家長が、アランの父親であるダーシー家の家長と利害が一致し、手を組んだと読むこともできるが……。
「いつまでその澄ました顔でいられるか、見ものだわ! 今度の定期舞踏会にアランはあたしと行くことになる。つまり、あなたには一緒に表舞台に立ってくれるパートナーがいないってこと。
いつまでも自分が注目の的だと思い込んでいるとしたら、大間違いだから」
「……それ以前の話だとは思いますが」
私とアシェリーのやり取りが余りにも長すぎたのか、いつの間にか辺りには人だかりが出来ていた。どこかの誰かが話す、ひそひそとした冷笑が聞こえる。
ちょうど昨日広まったばかりの噂の主要人物が会話をしているのだ、気になるのも当然と言えば当然のこと。
「アシェリー、そろそろ行かないとお昼時間がなくなってしまうので、この辺で失礼させていただきます」
私はそう吐き捨てると、冷ややかな視線を通り過ぎ教室から出る。
注目の的、か――――。
誰が、いつ、私を見ていたというのだろう。もし見ていたとして、それは恐らく見ていた人間の中に映った幻想でしかない。
本来の私なんて、こんな些細なやり取りですら全て真に受けてしまう、弱くて脆い人間なのだから。
おぼつかない足取りで向かったのは食堂ではなく、古びたあの礼拝堂。
相変わらず晴れていても薄暗い室内は、今の自分の心境と重なってかひどく落ち着く。
そうか……。あの人も、あの時こんな気持ちでこの場所に逃げ込んだのか。
冷静な頭でこの場所に辿り着いた今なら、少しだけ分かる気がする。
全てのものに置いて行かれたようにひっそりと朽ちゆくこの場所は、行き場のなくなった者にとっての終着地なのだ。
全てが終わりかけているからこそ、どこにも行けない私のような人間にとっては安息の地となる。
――せめてお昼ご飯でも持ってくればよかった。
赤い絨毯の下で軋む廊下を歩きながら、静まり返った空気に身をゆだねる。
と、背後から新鮮味のある声がした。
「あれ? 君は、昨日の――……」
その声だけで、私の鼓動が脈打つのが分かる。
逃げ場所としてこの地を選んだ時から、少なくとも私は、この瞬間を期待していたに違いない。
その証拠に、さっきまでの陰鬱な気持ちを全て吹き飛ばしてしまえるほどの高揚感に今、私は襲われている。
落ち着け。落ち着け。
あくまでも自然に、軽快に、返事をしよう。そう決意した私は、自らの左腕を右手でぎゅっと強く握りしめた。
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