長い沈黙
グレイシス……。どこかで聞いたことがあるような……。
その響きだけを頼りに、自らの記憶を探ってはみたものの、思い当たる人物は見つからなかった。
まあいい。名前については取り合えず触れないでおくのが無難だろう。
「グレイシス……様。あなた様の見た目から判断して高貴な家の方だとお見受けしました。失礼ながら言わせて頂ければ、そのような方がなぜ、授業をサボ……。ごほん。この時間に、このような場所におられるのですか?」
恐らく、彼の家柄は由緒正しい貴族かどこかで間違いないだろう。それは彼の銀色の髪と青色の瞳を見た瞬間にすぐに分かった。この主権国家アブリエルトは、もともと少数民族のみで成り立っていた国であり、今もなおその伝統は至るところに色濃く根付いている。その最もな特徴の1つが、髪と瞳の色による識別だ。
祖先が少数民族であり、今もなおこの地を治め続ける王族やそれに付随する貴族達。彼らは、髪と瞳の色素が極端に薄い。
途中から移住してきた我がローズ家のように、よく目にする黒や茶色とは直ぐに見分けがついてしまうため、その者が由緒正しい貴族の出であるか、それともただの庶民の出であるかは、見ただけで判断することができる。
まれに、時代の移り変わりと共に民族同士が混ざり合い、見た目での判断が難しい者もいるが、彼は明らかに前者だろう。
「確かに言われてみればそうだ。けれど、どうだろう。そういう君だって、今この時間にこの場所にいるということは、僕と同じ状況なのではないかな?」
「そ、それは……」
彼の言い分は正しい。この場合、貴族だからとか庶民だからとか、そんなことは関係なく学園に通う立場の者として、私達は間違いを犯している。
ならば、私の口から言えることは最早これしかないだろう。
「仰るとおりです。この学園内において、私とあなた様は平等に悪者ですね」
「平等に悪者……」
そう呟いたかと思うと、目の前の青年は口に手を当て、不意をつくかのように笑い出した。
「くっ、ふっ、ふはははは! あなたは実に面白い人だ。メルヴィン嬢」
「え? はい?」
私はまた何か判断を誤ってしまったのだろうか……。
分からない……。どこで手順を間違えたのか、考えても考えても分からない。そもそも手順など最初からあったのだろうか? なぜだろう。この人を前にすると、何1つとして私の思い通りにことが運ばないような、そんな気さえしてしまう。
「何の説明もなしに、急に笑い出すなんて失礼ですよ」
そのせいかは分からないが、私はまたしても、適当に受け流しておけばいいことに、むきになって答えてしまうのだった。
「あ、ああ。すまなかった。僕はただ、善か悪かの評価だけでいい部分に、わざわざ平等という単語をつけ足した君の配慮が面白かったんだ」
「その単語をつけ足すことに、そこまで重要な意味があるようには思えませんが……」
「無意識に口にしてしまっている君には分からないかもしれない。けれど一般的に、その悪が平等であるか不平等であるか、それを気にする人は少ないように僕は思う」
「はあ……。そういうものなんですか」
物事の善悪をそこまで深く掘り下げて考えたことのない私には、彼の言葉の真意を理解することは出来なかった。
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降り始めたばかりの雨は止みそうもない。それどころか、その勢いを増して壊れかけの建物の屋根を強く打ち続ける。
しばらく続いたやり取りの後、私と青年は静まり返った礼拝堂の中で、中央に敷かれた赤い絨毯を隔てた両側にある左右それぞれの長椅子に座っていた。
特にこれといった会話もなく、外からの雨の音にだけ耳を澄ませ続ける。
元婚約者のアランとですら、これだけの長い沈黙を2人だけで共有したことはない。
沈黙に耐え切れず、決まってどちらかが口を開いてしまうことが多かったせいもある。けれどそれは、アランに限った話ではないだろう。両親と話す時、友人と話す時、いつだって私は突如やって来る沈黙が怖かった。
そんな私が今、よく知りもしない人物と無言で同じ時間を過ごしている。
不思議を通り越して、もはや異常と言ってもいい。
だって私は、そんな何の意味もないであろう静かな時間を、心地いいと思ってしまったのだから。
「なぜこの場所にいるのか、というさきほどの君の問い。それに答える前に、君の意見を聞いてもいいだろうか?」
先に沈黙を破ったのは、グレイシスという名の青年だった。彼は両手を膝の上で組み、その青色の視線を私へと向けてくる。
「なんでしょうか」
「規律を重んじるこの学園内において、誰もが守っている規律を、悪いと分かっていながら破ってしまうのはどうしてなのだろうか」
「どうしてって、それは……」
――心当たりがありすぎた。
どうしてなのか、そんなことは私が一番よく知っている。
悪いことをしているのは分かっていた。分かっていた上で、それでも私は、そんな罪悪感すらどうでもよくなるほどに、逃げ出したかったのだ。目の前の現実から。
「そんなことがどうでもよくなってしまうほど、追い詰められていたからでしょう」
口にしてようやく、自分自身のことを理解できた。
私は、あの状態であの場所に、まともに立っていることすら出来なかったのだ。
アランに婚約破棄を言い渡された瞬間、自分にはもう何の価値もないのだと悟ってしまったから――――
「……そういうことでしたか。グレイシス様、あなた様は私にそれを認めさせたかったんですね?」
まるで全てを見通しているような目つきで私を見てきた青年に、視線を合わせる。
と、彼は俯き、私が予想していなかった言葉を呟いた。
「……そうか、僕は逃げ出したかったのか。あの場所から」
「へ……?」
痛々しい表情で呟かれた青年の独白に、私は思わず変な声を上げてしまう。
「残念だがメルヴィン嬢、さきほどの問いへの答えはノーだ。
だが、ありがとうと言わせて欲しい。おかげで僕は、ようやく自身の気持ちと向き合うことができた」
「あ、いや! その! 別に私は……。あなた様のために言った訳ではありませんから!」
さきほどまでの駆け引きのようなやり取りから一転、冷たい印象の青い瞳に温もりを潜ませた青年が、唐突にそんなことを言うものだから、私はどう対応していいのか分からなくなり、結果として、自分でも驚くほどの刺々しい返事をしてしまうのだった。
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