青年の名
ザァーっと降りしきる雨の音が聞こえた。
わずかながらの外光を装飾用の窓ガラスが取り込んで、室内を鮮やかに彩る。
とても、神秘的な光景だ。
その中でも一際、異彩を放っていたのが今、私の目の前に立つ人物だった。
だから、つい……。
いつもだったら一度頭の中で考えてから口にする言葉を、ぽろりと漏らしてしまった。
我ながら一生の不覚と言っていいだろう。
自らの顔が赤くなっているのが自分でも分かる。
けれど、ここで相手の返事を待たずして弁解などしようものなら、それこそ失礼な話だ。
私は、恥ずかしさのあまり逃げ出してしまいたい気持ちを押し殺し、目の前の人物が不快な思いをしてしまわないよう、出来るだけ気丈に振る舞った。
――――が。
相手からの返事は一向にない。
怒らせてしまったのだろうか? と思い、顔をまじまじと眺めてみたが、怒っているというよりは、どちらかと言えば驚いた顔……に見える。
あまりにも長すぎる沈黙に耐えられなくなった私は、失礼だと知りながらも声をかけた。
「あのー?」
返事はない。
「あのー!!」
「あ……いや、すまない。あまり言われ慣れていない形容だったので、どう返せばいいのか分からなかった」
ごもっとも。誠に仰るとおりです。
初対面の相手に対して初っ端から、あなたは妖精さん? なんて尋ねる愚か者は、私も絵本の中でしか見たことがありません。ましてや、名だたる貴族が集うこの王立コルテシア共同学園に在籍する生徒の中に、そのような不躾なことを口にする者がいるわけがない。
「失礼いたしました。さきほどの言葉は忘れてください」
私は深く頭を下げる。
「いやしかし、なぜ突然の妖精だったのだろうか……」
相手は私の言葉など聞いていないのか、真剣な顔つきで、あまり繰り返して欲しくない単語を繰り返した。
「特に深い意味はございません」
「深い意味もないのに、妖精なんて単語が出てきてしまうものなんだろうか……?」
なぜ、そこまでその単語にこだわるのか……。
目の前に立つよく知りもしない誰かが、私の失言を口にするごとに、私の中で必死に取り繕っていた何かが壊れてしまいそうで怖くなる。
それを払拭するように口を開いた。
「えーと、その……。あまりにもこの幻想的な場所とあなた様が美しかったので、まるで絵画のようだと思ってしまって、それでその……。それがきっと妖精という言葉へと繋がったのだと思われます」
これは、言っていいことだったのか。それとも言わない方がよかったことだったのか。
その判断すらつかないほどに、私の頭の中はぐらついていた。
「な、なるほど……」
相手があまりにも妖精という単語にこだわるものだから、私なりに必死になって自分の感情を言葉にしてみたつもりだった。足りなすぎる言葉のせいで、よく周囲の人間に冷たいと言われてしまう私なりには頑張ったほうだ。
そんな私の奮闘虚しく、想像以上に相手の反応が薄かったことに、またしても私は愚行を重ねてしまう。
「え? それだけ、ですか?」
「え、あ……いや、そういうわけでは……」
……やってしまった。
適当に受け流せばよかったものを、なぜ私は相手を責める様な物言いをしてしまったのか。
今目の前に、人間離れした風貌を持つどこかの誰かさえいなければ、私は自らのおでこに手をついて深いため息でもついていたことだろう。
駄目だ。このままでは、私メルヴィン・ローズが今までの人生をかけて築き上げてきたもの達が、あっという間に崩れ去っていく。
次の、次の言葉で、なんとか体裁を保たなくては――。そんなことを思案している私の気持ちなどはお構いなしの様子で、銀色の頭髪をした青年は口を開いた。
「よく、気高いやら、尊いやらと持てはやされることはあったのだが、妖精と形容されたのは初めてのことだったので、こちらも戸惑った」
「な、なるほど……」
奇しくも私は、さきほどの青年とまったく同じ言葉を返してしまう。
――あぁ。そうだったのか。
自分が青年と同じ立場になった時、ようやく気付くことがあった。
私が私なりに必死になって紡いだ言葉に対し、青年の反応が薄かったのは当然なのだ。
この学園にいる者達は私同様、幼い頃から当たり前のように、周りの目を気にして生きるよう教育されてきているはず。
だから、表面を取り繕うことに長けている者が多い。
建前や、お世辞、都合の良い解釈なんかは息を吐くように口から出てくるだろう。
けれど、どうだろか?
それら全てを剥ぎ取った先にある、本音、本心というものに対して、果たして私達は対応する術を知っているのだろうか。
恐らくその答えが、私と彼がした「な、なるほど……」という返事だったのだろう。
自分以外の誰かが口にした本音、本心に対して、私と彼は、どう反応すればいいのか分からなかった。ただ、それだけのこと。
「ふふっ……」
ただそれだけのことではあったけれど、たったそれだけのことが、重すぎて向き合うことすら出来なかった私自身の気持ちを軽くしてくれていた。
「ど、どうしたんだ? 急に笑って……」
「え? 私、今笑っていました?」
自分の口元に手を添える。
それは、私にとっても不思議な感覚だった。
相手に好意を示す際に利用する作り笑いなどではなく、私が自身の感情から引き出した笑み。それを無意識に行っていた自分。違和感こそあるが、その違和感は決して嫌なものではない。
「笑っていたように見えたが、気が付かなかったのか?」
「はい……。誰かに合わせて笑うことはあっても、自分でも自分が気づかないうちに笑う、などという行為はしたことがありません」
「そうか……。君は、思考と感情を上手に切り離せる人なんだな」
「少なくともこの学園にいる方々は、皆そうやって生きているのでは?」
そんなことを口にしながらも、実のところ私はこの学園に入学して1年半が過ぎようとしている今になっても、自分と元婚約者であるアラン以外に興味を持たなかったため、周りの人間がどんな生き方をしているかはあまり知らないのである。
「僕自身もそうだが、上手く誤魔化しているようで実際は誤魔化しきれていない者が多い。やはりどう頑張っても感情が表に出てしまうことはあるのだよ」
「…………そうでしたか」
自分の無知さを思い知らされた瞬間だ。
自分と、婚約者であるアランさえ視界に入れておけばいいだろうと考えていた。そんな浅はかさ故に、こうしてアランに婚約を破棄されてしまった私は、どうして良いのかも分からず途方に暮れている。見識を広めるためにと入学した学園の中において、私はあまりにも視野が狭すぎたのだ。
きっと、目の前に立つ青い瞳を宿した青年にだって、様々な考えや思いがあるはずで――――
「そういえば、あなた様のお名前をお伺いしていませんでした」
「あ、ああ。僕の名はグレイシス」
青年は一瞬、不思議そうな顔をした後、出会った時と同じような穏やかな顔つきに戻るとそう答えた。
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