9.
いつものように、私は河川敷で魔法の腕を磨いていた。
もっと、上手に放つことができるようにしなければ。より、高度な技術を扱えるようにならなければ。そんなことを思い、私は杖を操る。軽やかに、まるで、ボールペンで殴り書きでもしているかのように素早く、素早く。
そういった調子で普段のやるべきことをやっていたら、通常通り、茜が後ろから私のことを覗き込んでいた。
「茜ですか。なんです?」
「あっ、ううん。なんでもないんだけどね」
「そうですか」
「ああ、いや、なんでもないってわけじゃないんだけど……」
「……どっちなんですか」
私は不満そうに茜をジロリと見る。茜は慌てた素振りで私から視線を逸らした。
「…………?」
私は不思議に思い、茜のことを観察する。顔は青ざめているとか痩せこけてしまっているとかそんなマイナスな要素は見られない。元気さもいつもと比較して、さほど変わらないだろうか。身体の震えはない。何処かに異常がある感じはしない。はて。では、いったい、どうしたというのだろうか。
と、そんなことを考えていたら、茜のさらに後ろの方から熊昼野先輩がやって来ていることに気づいた。
「あ、熊昼野先輩……」
「こんにちは、千夜泉さん。あと、それと、邑夕和さん」
「ど、どうも~……」
茜は笑みを浮かべてなんでもないと主張するように返事をするのだが、その言い方に詰まりのようなものを感じて、私はやはり茜の様子が気になってしまうのだった。
「ところで、千夜泉さん。今日はなんの日か、知っているかしら?」
「今日ですか? 魔法の練習日です」
私はきっぱりと答えていた。その答えを聞いて、熊昼野先輩は「アハハ」と苦笑する。茜も同じように笑むのだが、笑んでいるのに笑んでいる感じがしない。でも、元気ではないというわけでもない。という、矛盾したようなものがあって、私の頭の中に謎という塊が蓄積されていき、徐々に私は気持ちを支配されていく。好奇心というか、茜の考えていることを知りたい、という気持ちに。
「ヒントを出しましょうか?」
「……あっ、はい。熊昼野先輩、今日はなんの日なのですか」
「ヒント……そうね。お菓子が関係あるかしらね」
「お菓子ですね」
私はそのヒントを聞いて、そういえば今日がアレの日だったということに気づく。何故か、ソワソワとしているようなヤツが続出する、あの謎のイベント。忘れていたし、私には縁がないのでべつにどうでもいいことだと考えたことすらなかったのだが、どうやら世間ではそのイベントの話題で持ち切りのようだ。
「バから始まるものですね」
私は答えがわかったというように二人の前で言っていた。
「そうよ。バから始まるあの日よ!」
熊昼野先輩が力強い声で言い、私の肩をポンと叩いて、私の方に顔を近づける。この先輩は俗っぽい性格のようだ。
「バから始まる日というわけなので、千夜泉さんにアレを持ってきました」
「どういうわけだかは聞きたくありませんでしたが、なるほど。アレを持ってきたのですね。ですが、つくろうと思えばいつでもつくれますので、私にはそれは必要ありませんです」
「まぁまぁ、良いじゃない。そういうムードと空気を感じることも大事よ~」
「私にとっては大事なことではないです」
そう否定するのだが、熊昼野先輩はニコニコした顔つきで私の発言を無視するように例のブツを私に手渡した。
「……チから始まるやつですね。そして、コで終わるか、トで終わるか、意見が分かれるようなやつでもあります」
私はその手渡されたものをまじまじと見て、そんなことを言っていた。
「嬉しいかしら?」
「いいえ、まったくです」
「お世辞くらい言ってくれても、良いじゃないの。私、一応、先輩なんだけども」
「ああ、そういえばそうでした。礼節を弁えていなかったです。これは私の失態でした。どうも、申し訳ありませんです」
「そ、そこまで謝られると、なんか逆に傷つくというか、心が切なくなってくるというか……」
「切なくなるのですか」
どういう仕組みの心をしているのだろう。私とは異なる構造をした心のようだ。
「まあ、有り難く受け取らせていただきますですよ。チョコレート」
「バッチリ、本命の友チョコよ! 味わって食べてね」
「本命の友チョコってどういう意味です?」
「そういう意味よ!」
ふむ。まったく意味がわからない。この先輩はちょっと頭がどうかしているようだ。私はこの色ボケ……いやべつに色ボケしているわけでもないけれど、謎のアプローチ的な何かをしてくる熊昼野先輩の頭を心配したような目で見た。
「そんな目で見ないで」
「どんな目なら良いのでしょう。軽蔑の目でしょうか。それとも失望の眼差し? あるいは、光を失った目?」
「全部、やめて」
熊昼野先輩にそう言われながらも、私は先輩に失望の眼差しを送っていた。
「……茜。調子、悪いのです?」
私は熊昼野先輩とそんなやり取りをしても尚、静かなままでいる茜の様子が気掛かりで、とうとう茜に直接何があったかと訊くモードに入ってしまう。
「へっ? あ、本当になんでもないの。なんでも……」
なんでもない人間は、『本当になんでもない』なんて言葉を使うことは滅多にない。私はそう思う。
というわけで、茜はなんでもないわけではないということが今ここではっきりとされた。茜は重症である。茜がつらくなる前に私が何か手を打っておいた方が良さそうだ。
「……はは~ん。そういうことね」
と、急に熊昼野先輩は悪どい笑みを浮かべて、何かを察したような目で私たちのことを眺めた。その顔があまりにも腹立つ顔をしていたので、私は「なんだこいつ」と言っていてもおかしくないような顔で熊昼野先輩のことを睨んだ。
「千夜泉さん……今日、私にとても辛辣じゃないかしら……?」
「私は通常営業です。熊昼野先輩がいつもとちがうキャラを出してきているから、こんな対応をしているだけですよ」
「辛口だねぇ……」
何故だか知らないけれども、熊昼野先輩はスマイルしながら、私の頭を撫でていた。子ども扱いされるのはあまり好きではないし、気安く触られるのはもっと好きではないのだが、一応、先輩ということらしいので不問にしておくことにしよう。
と、思うのだけれど、やっぱり不問にすることはやめにしよう。どんな理由があれ、嫌なものは嫌なのだから。
「茜……茜……茜……? あっ……」
私は名を呼びながら茜のことを見ていると、突然、私の身体の中にピシャリと雷が落ちていた。そして、私はすっきりしたような顔で熊昼野先輩の方を見た。
「そういうことですかね」
「そういうことよ!」
そういうことらしい。
茜の今の感情がわかってしまった。茜は今、気恥ずかしく思っているのだ。
「茜」
「……あっ、ごめんごめん。ど、どうしたの?」
「いいえ、なんでもないです」
なんでもないことはないけれど。まあ、気づかないフリをしておいた方が良いだろうか。茜の決心がつくまで待ってあげよう。
「熊昼野先輩。このチョコレート、食べても良いのです?」
「ええ、どうぞ」
「では、いただきますです」
私は頂戴したものをモグモグと食べていく。
「あっ、これは市販品のやつ。有名なお店のチョコレートですね」
「正解!」
「正解したので、では、何か賞品をくださいです」
「それは図々しい!」
スパッと言われた。クイズ大会だったら、賞品があっただろうか。
「さて。熊昼野先輩からチョコレートを貰ったわけですけれど、熊昼野先輩からだけ貰うのもアレなので、茜。茜からも何かくださいよ、です」
「…………!?」
どう切り出したら良いものかわからなくて、私は雑にそう言う。私が言うと、茜は手に持っているものを私に隠すような体勢を取る。それを見て、私はやはり、というようにフッと笑ってみせた。
「私は今、ハラペコなので、腹の虫に負けてしまって、もしかしたら魔力を暴走させてしまうかもしれません。嗚呼、世界の皆よ……許してくだされ……」
私はわざとらしく言ってみせ、茜の顔をチラリと見る。
「あーあ、何処かに空腹を抑えるものはないですかー……チラッチラッ」
演技することは下手くそではないのだけれど、あえて下手な芝居をうってみる。逆効果だったら申し訳ないのだけれど。
「え、えっと……理夢ちゃん……こ、これ……」
茜は静かにそう言って、例のブツを私の方に見せる。
「食べても良いです?」
「う、うん!」
私はそれを茜の手から取って、丁寧に包みを開けていく。
「……あ、手作りなのですね」
かたちはお世辞にも良いとは言えないくらいの不格好さなのだが、茜が頑張ってつくったのだろう、ということはこちらにも伝わってくる。
「いただきますです」
私はパクパクとそれを食べた。
「うん、美味しいです。茜の優しさが伝わってくるですよ?」
言っていて、私は何を言っているのだろうと思ってしまったが、まあ、いいや。気にしない、気にしない。
「ありがとうです。茜」
私はペコリとお辞儀する。
「……ううん。こっちこそ、いつも、ありがとう」
茜に普段の明るさが戻ってきたようだ。茜は微笑んで言っていた。
「仲がよろしいようで、羨ましいわ~……うふふ。これは、嫉妬してしまうかもしれないわね」
熊昼野先輩は邪悪なオーラを隠すこともせずに呟く。ゴゴゴゴゴ、なんて音が熊昼野先輩から聞こえてきたような気もするが、この先輩はおそらくこういった特殊な感じの技を持った者なのだろうから、スルーしておくことにしておこう。
「今度、茜にお礼をするです」
「えっ、大丈夫、大丈夫。理夢ちゃんにはいつもお世話になってるし!」
「それは否定しませんけど。お世話になられている自覚がありますし」
「……ありゃりゃ?」
やっぱり、茜といると、なんだか楽しい。こんな感情、人間に抱いては、いけないのに。
「……本当にありがとうです。茜」
私はもう一度、今度は茜に聞こえないくらいの小さな声で、茜に感謝を言っていた。友チョコ、とかいうやつを貰ったのは今まで生きてきて、はじめてのことだった。私はこの日を忘れない。