目が覚めたら牛でした
タイトル出落ちですが、ちょっとした暇つぶしにでもなれば幸いです。
俺の名前は紗藤部 吏安。勤続4年で特に役職もない、しがないサラリーマンだった。
過去形なのは、それが俺の前世だからだ。
今世の俺に名前はない。特に仕事らしいこともしていない。
だが、役職はある。
「聖牛様ぁ〜」
どうやらこれが、今世の俺に与えられた役割らしい。
*****
――ここは……どこだ……?
長い夢から覚めたように、ぼんやりとした意識が少しずつはっきりしてくる。
目が覚めたのなら、1DKの自宅の平べったい布団の中にいるはずなのだが……俺は何故か、地面の上に寝転がっていた。
周りを見回せば、どこまでも続く土と草。遥か遠くには薄青く見える山。
少し離れたところでは数頭の牛たちが呑気に草を食っているから、ここは牧場か何かだろうか。
なんとなく見覚えがある場所の気もするが、俺は今まで牧場に行ったことはないから気のせいだろう。
すぐに頭を過ぎったのは、忙しすぎる仕事から逃避したくて、無意識のうちにどこか遠くまで来てしまったのでは、ということだった。
確かに就職してからずっと心身ともにストレスが溜まりまくってはいたが、そこまで自分が追い詰められていたとは。
ああ、いや、そんなことより、これは無断欠勤なんじゃないか?
マズい。
また課長にネチネチ嫌味を言われる。
にやにやしながら俺たち部下をいたぶる陰湿な課長の目を思い出して、途端に気分が落ち込んだ。
ううう、またストレスが溜まる……。
とはいえ、社会人としてどんな理由であれ無断欠勤はよろしくない。
まずは会社に連絡しなければ。そもそも今は何時なんだ?――と、腕時計を見ようとして、俺の脳は一瞬ピタリと動きを止めた。
んんんんん???
なんだ、こりゃ……???
百歩譲って、掲げた左腕に時計がなかったことはまあいい。
無意識に家を出てふらりと遠くへ来てしまったのなら、腕時計もしてこなかったのだろう。
問題は、左腕の方だ。
いや。そもそもこれを左腕と言っていいものか。
視覚情報は、これが俺の左腕だとはこれっぽっちも認めていないが、感覚はこれが俺の左腕だとばっちり認めてしまっている。
俺の左腕のようなモノは、ずんぐりと太い黒と白のまだら模様だった。先端は二つに割れている。
例えるならそれは、節のある細長い脚先に蹄のついた、偶蹄類の前脚のような――。
……ってこりゃどう見ても牛の脚じゃねえかあああ!!
自分の見たものが理解できなくて、俺は叫んだね。
腹の底からデカイ声を出せば、このわけのわからない状態が実は夢かなんかで、今度こそ俺は布団の中で目が覚めるんじゃないか、と思って。
「んモ〜〜〜〜!!!」
残念ながら、俺の口から飛び出した声は、俺を更にわけのわからない状態にして混乱させるだけだったけどな。
一頻りモーモー叫んだ俺は、どうやらこれが夢じゃなさそうだと理解した。
何がなんだかわからんが、俺は知らないうちに人間を辞めて牛になっていたらしい。
いよいよ切羽詰まってきたら会社を辞めるつもりはあったが、その前に人間を辞めることになるなんて思わなかった。
正確に言えば、しがないサラリーマン紗藤部 吏安(享年26歳)は、牛に生まれ変わって前世の記憶を呼び覚ましたらしい。
思い出したんだよ。寝不足でふらふらしてたところを勢いよくぶつかってきた誰かに弾き飛ばされて、歩道から飛び出てしまったことをさ。
朝の殺気立つ国道に飛び出した俺がどうなったかなんて、お察しだろう。
で、今の状況を考えるに、俺は牛に転生したのだろうと思うわけだ。
いや、知らんけど。
難しいことはこれ以上考えるのがめんどくさい。
牛になったからか知らんが、なんかもう色々めんどくさい。
は〜もう何にも考えずにその辺の草食って寝転がってだらだらしてればいいんじゃね。
仕事しなくていいし、課長の嫌味もお局様のセクハラも後輩のやらかしも、何もかもどうでもいい。
平和だ……ぁ…………。
「セイギュウさまぁ〜! セイギュウさまはいるっぺかよぉ〜!」
誰だ、俺の平和を邪魔するやつは。
突然聞こえてきた声に、うとうとしていた俺は耳をピクピク動かして、うっすら目を開けた。
邪魔者の正体は、おじさんだった。
デカイ声で「セイギュウ様」とやらを呼びながらこっちへ歩いてくる。
シャツから伸びた腕は筋肉質で、日に焼けた肌は浅黒い。典型的な肉体労働者の体格だ。
ただ、おじさんの髪はアニメのコスプレでしか見たことがないような鮮やかな緑色をしている。
こりゃ地球じゃねえな。
ということは異世界転生か。まあ、そういうこともあるだろう。
転生といえば異世界とだいたい相場は決まってる。
だとしても俺にはあまり関係ない。
地球だろうが異世界だろうが、牛は牛だし。
そういうもんなんだろうと、深く考えもせずに納得した。
俺はもう一度目を閉じたが、おじさんはお構いなしにドカドカ歩いてきて、俺の横に立った。
「セイギュウさまぁ〜! おおぉーい! おめぇはセイギュウ様だべかぁ?」
うるせえええええ!!
耳元で叫ぶな! 聞こえてるわ!!
「モォ〜〜〜〜」
抗議の意味を込めて怒鳴ったつもりだが、俺の口から出たのはなんとも呑気な鳴き声だった。
「おおっ!? 返事した!? やっぱりおめえがセイギュウさまだべか?」
「モー!」
違うわ!
言い返そうとするも、またしても呑気な鳴き声しか出ない。
こうなったら、面倒だが実力でおじさんを排除するか。
俺はのっそりと立ち上がり、おじさんに体当たりをした。
「おおお! オラに何か伝えたいんだべな? よしよし、待ってろよ」
だから違うっつの!
体当たりしたつもりなのに、動きが鈍すぎておじさんに擦り寄っただけになってしまった。
声といい動きといい、なんだってこんなに呑気なんだ俺は。
牛か。牛だからか?
いやいや違うだろう。牛が暴れたら人間なんかひとたまりもないぞ?
「よーしよしよし。んじゃおめえ、これ分かっか?」
俺がイライラしていると、おじさんは木の板を俺に見せてきた。
だいぶ年季が入ってるようで、板に書かれた文字は擦り切れてしまっているが、読めないことはない。
のんびりとそこに書かれた文字を見て、意味を理解すると、俺はまたイラッとした。
【1+1=?】
バカにしてんのか。
牛だからか。俺が牛だからこんな幼稚園児でもわかる計算もできないと思ってバカにしてんのか。
「モ〜! モ〜!」
「おおおおお! すごいっぺ! 正解だっぺ! オラんとこの嫁より賢いっぺ!」
……そいつはとんでもない嫁だな。
いや、もしかしたらこの世界では、読み書きや計算ができないのが普通なのかもしれない。
「んじゃ、これはどうだっぺか?」
おじさんは、もう一枚別の板を出してきた。
そこに書かれた文字を読む。
【2✕2=?】
「モーモーモーモー!」
「おおおっ! これも正解だっぺ! 天才牛だっぺ! てことは、おめえがセイギュウさまで間違いねえべな。はぁー、えがったえがった! ……んにゃ、あんま良くはねえんか? んでも、セイギュウさま探すんがオラの役割だもんなあ……。まあええか!」
ぶつぶつ言いながら首を捻っていたおじさんは、最後はにこにこ笑いながら俺の背中をぺしぺし叩いた。
なんだか知らんが、今の計算問題で俺がセイギュウさまとやらだと認定されたらしい。
「んじゃセイギュウさま。ちいっと遠いけんど、楽にしててええからな。このあとは、うまくやるっぺよ?」
そうして俺は、何がなんだかよくわからないうちに、やたら豪華な牛車で運ばれた。
牛車だ。牛の俺が、牛に運ばれたわけだ。
これが格差社会というやつだろうか。
あんな簡単な計算で人生ならぬ牛生が決まってしまうなんて、異世界はとんでもないところだな。
そんなことを考えながら、ふかふかのクッションの上でゆらゆら揺られて、俺は眠気に逆らわずに目を閉じた。