海が好きだから
甲上めがけて振り上げられた拳に、目を瞑ることしかできない。
しかし、いつまでたっても殴られることはなかった。
甲上と指宿の間には、甲上に背中を向けた桜木が、そして指宿の拳を植村がそっと抑えていた。
「指宿、私の部屋に行こうか?」
優しく、しかし厳しさもある植村の声に、指宿は大人しく従った。
「あ…ありがとうございます、守って頂いて」
「あんたを守ったわけじゃない。
こんなくだらないことで監査官殴って、処分受けるなんて汚点、指宿につけさせたくなかっただけ」
「あくまで指宿曹長を守ったということですか…
私が世間知らずだったのがいけないですからね」
甲上は自分の世間知らず振りに落ち込んでいた。
「自分が世間知らずだって自覚あるんだ?」
からかうような言い方をする桜木。
少しばかり苛立ったが、言い返せるほどの元気はなかった。
「私も世間知らずだよ。
裏町と海軍でしか生きてないからね」
海を眺めながら話す桜木。
「でも、そんなもんでしょ?
自分が進んできた道以外を想像することはできるけど、全てをわかることは不可能。
私もあんたの気持ちはわからない」
よくある台詞。
でも、桜木の言い方や醸し出す雰囲気のせいで、新鮮な言葉だった。
「指宿曹長の言ったことは、どういう意味なんですか?」
「あいつがどういう人生を送ってきたかは知らないけど、誰かに助けられたところで、必ず幸せになれるわけじゃないし、保護施設に保護されても大勢いるなかの一人。相手になんかされない。
裏町でそのまま育つ大半の子は餓死するけど、生き残った子達は案外幸せにやってる。自分の店持ったり、家族がいたり。
だから、助けられない方がいい場合も有るってこと…なんじゃない?」
甲上は言葉が見つからなかった。
自分の人生では想像つかない世界だった。
「あなたもそう思ってるんですか?
宗谷大将に助けられたこと…」
海を眺め続ける桜木の背中が何を考えているのかは、甲上には全くわからなかった。
「厳しかったよ」
「え?」
「基本、笑顔で優しくて面白いで有名なのに、私には厳しかった。
ちょっと悪さしたり、海兵に迷惑かけただけで、こっぴどく叱られて、剣を教えてもらうときなんか、自分からお願いしたのに、逃げ出したことがあったぐらいだった」
桜木は本当に楽しそう話をしていた。
「でも、厳しさと同じぐらい優しくて…。
どうせ、元々何もない人生。
あの人のために使うならいいかなって。
だから、助けられて幸せだと思ってる。
宗谷さんを失ったこと以外はね」
桜木は振り向くことなく、海を見つめたまま話していた。
「では、今のあなたに海兵を続ける理由はないと?」
桜木は甲上の言葉に鼻で笑った。
「続けるよ。
だって、私は海が好きだから」
やっと甲上を見た桜木の顔は穏やかだった。
しばらくして、落ち着いた指宿が甲上に謝罪し、事は済んだ。
こうして、また、桜木との強鷲号での日々が始まったのだった。




