世界は変わらない夜を迎える
全てが終わった。
否、終わったのはひとつの恋だけ。しかしその終わりは、彼にそう思わせた。自分だけが取り残され、置いていかれてしまうようなその感覚が、彼の胸を締め付けていた。決してひっくり返らなくなった事実を前に、彼はどうする事も出来ない。心を覆おうとする寂寥感のなかで、彼は冷静だった。
彼は一途な人間だった。1度人を想えば、その人を幸せにしたいと願い、その為だけに生きるような、そんな人間だった。
その夜彼は失恋した。彼の友人が彼の想い人に
告白し、成功したのだと告げられたからだ。
もっとはやく告げるべきだったと、友人は言った。彼は責めなかった。あくまで自分を傷付けたくないという思いがそうさせていたと悟ったからだ。彼は崩れなかった。彼の望みの根底は彼の想う彼女の幸せであり、この友人は、彼女を幸せにしうる人間だと思ったからだ。
そしてそれは、彼ではなかった。それだけの事。
抗いようのない事実に、せめて色でもつけてやろうと、彼は言った。彼女を泣かせたら殺すと。友人は絶対に泣かせないと言った。彼はふと笑った。友人がそう言う事も、はなから、彼女を泣かすような奴ではないと言う事も分かっていたからだ。彼にとってのせめてもの救いだった。
夜の街を彼は歩く。黄色と赤の信号が交互に瞬く。それでも都会の夜は賑やかだ。つるむ大学生、1人歩く会社員、手を繋いで歩く男女。その街は何も変わらない。もっと言えば世界も。
人生は近くから見たら悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ。そんな言葉がある。
彼にとって、全てが終わったと思わしめるようなそんな出来事は、世界の何も変えない。
世界は変わらないことを通して彼に告げている。考えても無駄だ、終わったことだと。考えるのをやめた彼は、呟いた。もう夏休みか、と。
役者の夢を追って上京していた彼は、その休みに故郷へと帰った。懐かしい家の匂い、訛った家族の言葉、飼い猫の手触り。彼は安堵する。自分には帰る場所があり、迎えてくれる存在がある事。彼は孤独ではないのだ。しかしそれだけですぐ痛みを忘れるほど、彼にとって恋は軽くない。その都度本気で思い、本気で傷つく。見方によっては、彼は不器用な人だろう。もし駄目でも傷が軽くて済む想い方もある。だが彼はそういうやり方に走る人ではなかったのだ。全てをかけて想う事が、相手への敬意であり、相手の幸せを願うための義務だと思っているからだ。
彼は海へ向かった。彼の実家は海に近い。
変わらない景色がそこにあった。寄せては返す波。ゆらり飛び交うウミネコ。さざめく波の音。ウミネコの声。
綺麗だと彼は思った。幼少の彼と共にあった、変わらないその場所が。海は綺麗であろうとして綺麗なのではない。そのままで、綺麗だと思わせる。
それが彼に教える。君は無理に変わる必要はないのだと。今のままの君を見つけてくれる誰が現れるのを信じて待ってもいい。変わる時が来たら、変わるべくして変わればいい。それが君がそこにいるということなのだと。
彼は歩き出した。日の沈む海に背を向けて。世界は変わらない夜を迎える。