月とすっぽん
満月は浅雲で朧げになりながらも、降りたる夜の帳にぽっかりと空いた穴のように、黒く闇に染まった空を、地を照らしていた。
今宵、騒がしい人の声もなくただ凛々と鳴く鈴虫共と涼しい風がススキの穂を揺らすばかりで、私は意を決して泥塗れの重い体を押し上げて、水面から顔を出した。
ちゃぽんと水音が響く。夜を映すその池は黒くありながら、あの手の届かぬ場所にある満月さえも映し出していて、私は導かれるようにその光の元まで泳いだ。
泥臭い体に月明りが沁み込んでいく感覚が好きだったのだ。けれども次の刹那、突如として現れた気配に私は反応しきれなかった。ひょいと、甲羅を手に取られて、たやすくこの体は宙へと上がる。
いままで確かに誰もいなかったはずなのに。しかし驚くべきはその気配の主が極めて人に近しい人ではない何かであったことである。深い夜のように黒く美しい髪。
あどけない肌が私を触るものだから泥に汚れていた。柔らかな薄紅の羽衣も沼に浸かってしまっている。それなのに月明りにも似たその双眸はまるで気にする様子も見せなかった。
「我が言葉は分かるか」
「分かりますが、あなたは一体?」
「我か。我は……月の姫じゃ。御伽噺とかにもあるじゃろう。輝夜姫とか」
あいにく御伽噺は知らなかったが、彼女の話は信じるべきだろうと思った。なにせ捕まっている以上、どうしようもないのだから。
「それで月の姫が私をどうするのですか?」
「おぬしを食う」
「はは……満月の夜に月のお姫様にそんなことを言って貰えるとは光栄ですよ」
逃げる術もない。いや、そもそも逃げようと思いを起こす気はなかった。
「……慌てぬのか?」
「少し話をさせてもらっていいですか。逃げませんので、そこの池のほとりにでも座って」
彼女は怪訝そうに首を傾げたが、ススキに寄り掛かるように腰を下ろした。私は膝元に置かれた。
「地面に置かれたほうがよいのでは? ハッキリ言って私は小汚くて、臭いです。あなたの服が汚れてしまいますよ。臭いも移ります」
「お主は我が月の姫だからと言って汚れを疎ましいものだと思うか。……気にはせぬゆえ、その話とやらをしてほしいものじゃな。我も何故おぬしが食べられるのを嫌がらないか疑問じゃ。これではお主も喉を通らぬわい」
少女は幼げな相貌に蠱惑的な微笑を浮かべ、私の上に手を置いた。その指は繊細で、手の届かない神々しい存在であると実感させてくる。
「私はですね。――――恋をしてしまったのですよ」
「我にか? 人間に飽きるほど一目惚れされた我じゃがついにスッ――」
「いいえ。あの満月にです」
変な誤解を口にされるのが嫌で、私は強引に彼女の言葉を上書きした。少女は不服そうだったが、しかしそれもわずかな間で、すぐに好奇心に目を光らせた。
「ふむ、満月にかへ? じゃがお主、お主の種族と似ている点といえば精々その丸みのある形ぐらいな気がするがのぉ……。それこそあれじゃ、月とすっぽんというやつじゃ」
月とすっぽん。その言葉はあまりに無情な現実をいつも突き付けてくれた。だが今私はその月の姫様の膝元にいるのだ。汚泥に濡れた私が、今世界中の何よりも月に近いだなんて、
「だからうれしいのですよ。捕食という形とはいえ私の想いは雲よりも空よりも高く遠い高嶺の花に近づけるのですから」
「……分からぬのぉ。満月の何がいいのじゃ?」
何がいい。と問われると言葉に悩むものがあった。いままでその恋心のような想いを言葉にしたことはなかったからだ。
私はしばし熟考した。黙ってしまうと、鈴虫と蛙の声以外聞こえなくなる。蛾が一匹飛んでいた。月明りを求めるようにふらふらと羽ばたいていた。
「手が届かないところにあることですかね。地が天に憧れるのは自然なことでしょう」
「ふむ……随分お主はロマンチストじゃな」
少女は考えているんだか考えていないんだか分からない神妙な表情をして、ふむふむと何度も頷いた。月の姫。そんなものが誠に存在するかと問われれば答えに悩むが、その所作を見ていると真実だと思えてくる。
「それに、月は綺麗です」
「我……死んでもよいぞ。…………なんちて。それでお主は死んでもよいと?」
悪戯に少女は笑う。腕を大きく振り仰いで、その場に仰向けになった。満月は実に明るいもので、私と彼女の時間を照らし続ける。私は話がしやすいように彼女の体を歩いた。
「これこれ……。胸に座るでない。助平め」
「あいにく私は哺乳類ではないもので、その心は理解しかねます」
「まぁ、よいか。それでのぉ。無情な現実を突きつけるようで悪いが、月は美しくもなんともないのじゃよ」
言われて、私は今一度満月を見上げる。黒く、そして藍色に染まる空にぽつんと水滴でも零したかのように存在する黄金。これが美しくないのであれば、一体何が美しいものか。
「月は我々の心ですよ。そして人間共も、蛾でさえも月明りに恋い焦がれています」
「お主の心と申すか。じゃがな、月というものは天高くあるからわからぬだけで、その本当の顔というのは傷だらけで、何よりも醜いものじゃ」
少女の言葉に力が籠っているのが分かった。その夜色の瞳が満月を映し出す。幻想的な光を目の当たりにして、それが醜いと断言できる彼女の言葉が恐ろしくもあった。
「お主も気づくじゃろう。その本当の姿を見たとき、それがお主と何一つ変わらぬものであることにのぉ。そして知るのじゃ。何よりも醜い存在に愛を告げていたことに」
妖艶に彼女は笑う。ケタケタと。ゆっくりと体を起こして、軽快に指を鳴らした。その音は空気を震わせて、雲と距離が隠していた残酷なる現実を突きつける。
「なっ……!」
私は確かにこの眼で見た。黄金が灰のごときくすんだ、虚ろな死の色を見せる瞬間を、深く影を差したその表面は抉れ、穴だらけで、傷だらけで、私が見ていた満月は幻想そのものであったという事実を。
「どうじゃ。それが月の真実じゃ。お主は言ったな。人々でさえも月に恋い焦がれていると。確かに魅了していたかもしれぬ。じゃが真実を知ったとき、かの地にあるのはただ傷だらけの大地であることを知ったとき、彼らはどう思ったのじゃろうな」
私は言葉を失って、じっと月を見上げていた。それはまるで鏡のようだった。いや、それ以上だ。月は私よりも古傷に苛まれて、それこそ生きているかのようだった。
「どうじゃ。地が求めた天はこんなにも――」
「こんなにも、月は……傷ついていたのですか? あなたは……傷ついていたのですか?」
今度黙ってしまったのは彼女だった。月のお姫様。あの空高く、誰の手も届かない最果ての地の少女。
「……我は最初に言ったじゃろう。汚れるのは気にせぬ。それで、話じゃが、お主のロマンチックな戯言を聞いて満腹になってしもうた。お主も月に絶望したじゃろう。お主が求める美しさも、高嶺も、あそこにはないのじゃよ」
彼女は私を優しく地面に置いた。考え直して逃げてもいいと、言いたいのだろう。だが私にそんな気はなかった。
「私を食べてください。月とすっぽん。その言葉を作った人は真実を知らなかったのでしょう。ですが私は知った。だから、私が少しでもあなたの傷を埋めることができるはずです」
「月を憐れむか」
「空を見ればわかります。貴女は孤独です」
今も地を照らすのは月のみだった。
「そうか。お主が孤独を打ち消さんと申すか。ならば我が願いを叶えておくれ」
彼女は再び私を掴み上げた。そして――――。