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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

なんかやだなあ

作者: quiet

【序】


 神は言った。


「なんかやだなあ」


 こうして、なんかやなものがあった。



【終】



 水も酸素もないから僕は広場に向かわなければならないけれど、いつだって広場は沈鬱な、あるいは焦燥を煽るような緊張感に満ちている。なんかやなものは広場の隅にいる。僕らを見ているかもしれない。僕らという言葉を僕は使いたくはない。複数形の自己を認識したくない。なんかやなものは僕を見ているのかもしれない。なんかやだなあと思う。

 広場で僕は専ら呼吸や吸水をする。つまりは風と水を口に入れる精霊のような作業を行っている。時には鼻から取り込むこともある。なんにせよ僕がしているのはそういうことだけだ。正確に言うともう少し無駄なことをしているかもしれないけれど、それは呼吸や吸水と比べればひどく些細なものだから僕自身はそれを意識できない。意識しているとしたら僕の些細な行動によって迷惑を被っているひどく哀れな存在だけだろう。僕は専ら呼吸や吸水をする。他の者のうち呼吸や吸水を必要とする存在らも同様に呼吸や吸水をする。呼吸や吸水を必要としない存在らは、水や酸素の代わりになるものを取り込んでいる。教養とか自尊心とか。なんかやなものも何かを取り込んでいるのかもしれないが、僕は知らない。知る気がないものは知らないし、たとえ知ったとしても忘れるつもりでいるので知らない。

 熊のやつはよくなんかやなものを殴る。大抵は熊自身の毛皮に覆われた巨大すぎる手で殴打する。時に殴殺に近付くほどの勢いで熊は拳を振るう。時には道具を使うこともある。道具というのには、棒や、それから永久歯などがある。しかしそこに芸術的選択の意図は(無意識下ではどうであれ)ないように思われる。熊は自分の腕が機関銃だったらまず間違いなくそれでなんかやなものを殴り、時には発砲するだろうし、自分の腕がミロのヴィーナスの失われた腕だったら不在の美によってなんかやなものを殴り、さらに殴り、殴ると思う。熊は昔から蜻蛉の翅を毟って中身を取り出すのが好きなやつだったし、今はまるで生きることについて真摯に向き合っているという顔をしているから、たぶんそうだ。

 心理学かぶれはよく、熊がなんかやなものを殴るさまを見ると歓喜の表情を浮かべて、病的だと言う。精神科医がその言いぶりを気に入らず、医学書でもって心理学かぶれの頭蓋骨を殴打し、変形させる。ここにも緊張した関係があり、広場は緊張に包まれているように見える。僕はその中で呼吸や吸水をする。朝から晩まで生物学者が虫の捕食シーンを見つめている。すべてを持ち合わせた鳥が必ず、それは自然なことだと呟いて、雨が降るのを待っている。

 爬虫類のやつは自分のことに病的なまでに無自覚で(精神科医が僕を殴打しようと医学書を振り上げた)、熊の行動はすべて葛藤が正しく芸術的に昇華されないがために(心理学かぶれがべらべらと話し始めて医学書の矛先は僕から外れた。殴打の音がする)ああして出力されているに過ぎないと考えている。爬虫類には音楽的な才能がある。爬虫類は時にそれに自覚的であり、時に暴力的なまでに無自覚である。爬虫類が自分のことを色鮮やかな蜥蜴と考えているとき必ず爬虫類は周囲に調子を合わせるだけのごく平凡で小器用なカメレオンであり、爬虫類が自分のことを他者に埋もれる取るに足らないカメレオンと考えているとき必ず爬虫類は有毒を示唆すると思えるほど過剰に輝ける蜥蜴である。爬虫類は時に、なんかやなもののことを歌にする。その中でなんかやなものというのは同情されるべき哀れな存在であり、あるいは同情を拒む気高い存在であり、そして何らかの打破すべき抽象物のメタファーとして感情豊かに歌い上げられる。しかし爬虫類自身がなんかやなものに真に共感したことは一度もない。共感した気になっていることは幾度もあり、実際そうした心の動きというものはある種エンターテイメントに向いている。興趣は現実との隙間に入り込んで歌う。爬虫類はなんかやなものと接触したとき、残酷な表情をする。大抵の者はそうであるが、爬虫類のそれは芸術的に残酷だった。爬虫類の歌と同じように。試しに僕が爬虫類に、なんかやなものと君は気が合うんじゃないか、と言ってみれば目も当てられぬ闘争が始まることに疑いはなく、一生やるつもりはない。

 魚は暴力を恐怖していて、熊がなんかやなものを殴っている間、必ず広場の反対側に陣取っている。魚は魚同士で群れを作っていて、内側にしか顔を向けない。熊がなんかやなものを殴っている間も何も見ないし、聞こえない。あるいは何も見ないし、聞こえないふりをしている。魚らは自分たちのことをおおむね世界で一番幸せで、世界で一番大きな悩みを抱えていると信じていて、その悩みは魚同士の交わりの中に生まれる交感的電撃によって解決されうると信じて今日も生きている。そしてそれは魚らの短い人生においてと注釈を加える限りでは真実であり、熊がなんかやなものを殴打する音、魚らは幸福である。

 すべてを持っている鳥は泣くか、それとも空を見るかしかしていない。時に、自分には何もないと呟く。鳥は目に映るすべてを一般名詞と一般名詞の間における動詞の交換として捉えていて、いつも何か抽象的な悲しみに暮れている。僕は友人になるなら鳥のような相手がいいと常々考えているけれど、鳥は僕と友人になりたいと思っていない。僕の持つ固有名詞のことも理解していない。鳥はすべてを自身と無縁なものであると捉えているし、確かにそれは鳥が羽ばたき続ける限りはその通りであり、しかし鳥はいつもどこにもいけないと悲嘆に暮れているためにどこにも飛べずにいて、ただ現実を直視しないだけの賢しらな存在であり続けている。目の前で起こる事件を何らかの信念の実証に関する具体例としか考えていない。鳥はいずれ自分は雷に打たれて何も残さず死ぬと考えているが、少なくとも死骸は残るだろうし、それは夥しい虫けらに貪られるだろうことも僕は知っていて、しかし鳥が自身の死骸を自身とはみなさないだろうことも予想できている。

 今日も広場ではなんかやなものが熊に殴打されている。止めるものは誰もいない。本当のことを言うと、皆が皆、熊の行動に共感していて、同時に熊を恐れている。分裂した自己。僕らは僕らを殴りつけ、僕らは僕らを恐れている。僕は僕を殴り、僕は僕を恐れている。熊がなんかやなものを殴る。誰も止めない。熊じゃないものがなんかやなものを殴っている。誰も止めない。熊はどこに消えた? 熊が熊を殴っている。幻だ。全部なんかやなものが悪いんだよ、と誰かが言った。そうだそうだ、と同調する声もあり、言いすぎだ、とたしなめる声もある。僕は何も言わない。粉々になったカタツムリ。僕は広場に来たくないと思う。けれど水も酸素もないから広場に来なくてはならない。僕は広場にいたくない。水も酸素もあればいいのにと思う。自分の中に水も酸素もあればいいのになあ。誰かが誰かを殴っている。僕はそれを見ている。

 道徳家が現れた。道徳家は初めみんなに言った。ダメですよ、向き合わなくては。それから僕だけに言った。ダメですよ、向き合わなくては。僕はなんかやなものの前に立たされた。ダメですよ、向き合わなくては。僕は僕の心の中に宿る数々の優しさの中で一番要らない優しさを使って、僕は僕の表情の上に宿る数々の笑顔の中で一番要らない笑顔を使って言った。こんにちは。ダメですよ、向き合わなくては。ダメですよ、向き合わなくては。君はええと、うん……そこにいるね。ダメですよ、向き合わなくては。君、広場にいるんだね。ダメですよ、向き合わなくては。存在してるんだね。ダメですよ、向き合わなくては。うん……、何にしろ、君はそこにいるんだ。ダメですよ、向き合わなくては。

 ダメですよ、向き合わなくては。


 なんかやだなあ。


 全部神様が悪いよ。


 そこにいるんでしょ?

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