兵役通知
成人能力検査の結果の発表は、受験した月の二十日、朱の日と決まっていた。通知は通っている幼年学校へとまとめて送付される。
通知の日まで学校は休みで、それが済めばもう通うことはない。龍翔の常識とは異なり、入学や卒業は特別な行事ではなく、卒業式も行われない。
教室でひとりひとりに手渡された検査結果は、兵役の案内を兼ねていた。案内には、通常軍の兵役は来月初めからすぐに開始するが、魔法軍は魔法軍事応用研究所への最終選抜として、一ヶ月間の予備訓練を行うとあった。
学級の七割以上が通常軍の兵役を課せられたが、龍翔とディルガは残りの三割の魔法軍だった。魔法樽の可能性は残っているが、それでも二人とも一応は希望が叶った形だ。
結果が通知されるまでの十日間で、彼は杉村龍翔ではなくリュウト・オルディスとしてこの世界で生きる覚悟を決めつつあった。元の世界への帰還を諦めたわけでないのだが、帰る宛といっても魔法に期待するくらいしかなく、それならば素直に魔法の専門家たる魔法軍の徴兵に応じたほうが得策に思えたのだ。
成人能力検査が終わって、龍翔が最初にやったことは、家に帰って鏡を見ることだった。
夕飯は外食というリュウトの予定は憶えてはいたが、龍翔にとっては己の姿を確認するほうが重要だったのだ。昼食と同じメニューの夕食は気が進まないので、途中でしっかりとハムサンドを買い込んだりはした。
家までの道筋は、試験問題を解くよりもずっと簡単で、歩けば足が勝手に思い出してくれた。
道路はきちんと舗装され自動車も頻繁に往来していた。昔の戦争映画に出てくるような古い型式だったが、音は意外に静かで排ガス臭くもなかった。電気自動車やハイブリッドかもしれないが、それよりも魔法で動いていたら面白そうだと、龍翔の気持ちは少しだけ弾んだ。
リュウト・オルディスの家は市街地の外れにあった。家の外観から経済事情を推し量るのは龍翔には難しかったが、賑やかな地域の割にはこぢんまりとして見えた。家の中はワンルームに暮らす龍翔の感覚からすれば広いし、一戸建てのイメージからすれば狭かった。なにより内装が全般的に古臭かった。
寝室は二つ。その片方にあった鏡は、抽斗や椅子のついた女性用の鏡台だった。リュウトの母親の物だ。赤の他人である女性の所有物に手を触れるのは躊躇いを覚えたが、寝台も含めて長期間使われた形跡はなかった。
三面鏡に映ったリュウトは、十五、六歳の少年だった。成人能力検査の制度やリュウト自身の記憶からすると、正確には十五歳と一ヶ月ほどだ。
髪は紫がかった紺色、瞳は群青色だった。肌の色も白く、日本人や東アジア系とは程遠い容貌だった。顔立ちもこの世界の基準はよくわからないが、日本人である龍翔の感覚からするとそこそこ整っている。女性にもてそうだなと思ったが、リュウトの記憶はそれを肯定も否定もせず、代わりに鮮やかなオレンジの髪の少女が胸の裡に浮かんだ。
まるで違う姿になってしまった己を見ても、龍翔はさほど衝撃を受けなかった。謎の魔法の試験を受験した段階でショック状態は通り過ぎて、半ば感覚が麻痺してしまったのだ。
それよりも、ひとまず自分の姿を確認したところで、次に気になるのは魔法が自分にも使えるのかどうかだった。
リュウトにとっては常識でしかないため、この世界の魔法について龍翔が記憶を探って理解をするのは、なかなかに困難だった。
この世界では、すべての人間に魔力が備わっているわけではなく、また魔力があっても魔法が使えるとは限らない。魔法の使い方には呪文の詠唱と魔法陣の記述の二つがある。詠唱は個人の持つ特殊能力で、先天的にその有無が分かれ、魔法陣は後天的な能力、複雑な記述方法を習得できるだけの知性が必要となる。
ラウデリアの国民の大多数は少量ながらも魔力持ちだが、詠唱能力者は稀少だ。大魔力保持者や詠唱能力者は国家や軍の中枢を占めている。高度な魔法は軍の管理下で、一般国民がおいそれと使用できるものではない。
幼年学校で学ぶのも、魔法を学ぶための基礎知識であって、魔法そのものではない。龍翔は詠唱試験では魔法を発動させることはできなかったし、記述魔法も補助機能の使い方だけで肝心の主機能の魔法陣の知識はない。
つまり魔法は使えないのかと龍翔はがっかりしたが、それは早まった誤解であった。ラウデリア国では、軍の統制の下、生活魔法のための魔術具が一般家庭にも普及していた。魔術具に刻まれた魔法陣は隠蔽されており、魔力は外部の貯蔵装置から供給されるように設計されている。台所の片隅に並べられた二本の樽がその魔力供給装置だ。
龍翔は意識していなかったが、例えば、家に帰ってきたときに扉を開けた鍵は魔術具であった。個人の魔力を登録する方式のため、もしも龍翔とリュウトで魔力が異なっていたら、家に入れないところだったのだ。
試験会場の筆記具も魔術具で、受験者の魔力の有無の確認も兼ねていた。食堂にあった給茶機もまた魔術具であり、ボタンを押した龍翔の指先が痺れたのは、給茶機を操作した当人から魔力が直接に引き出されたからだったと、リュウトの知識は推測している。
シャワーもまた魔術具だった。水を出すにも湯を沸かすにも魔力が必要だが、使い方自体は蛇口を捻ったり水栓レバーを動かすだけで、元の世界となんら変わりはなかった。
使い方を確認するついでにシャワーを浴びながら確認したリュウト・オルディスの身体は、まだ少年期特有の細身であった。成人だった杉村龍翔より身長は高いようだが、この国では中肉中背だ。まだ成長期だから伸びるだろうかと龍翔は期待したが、リュウトの記憶の反応は薄かった。親兄弟の身長はどうだったか記憶を探ると、窶れた美人の母の姿は浮かんだが、父と兄については顔や外見の代わりに不愉快な感情だけが蘇った。
○◎●○◎●
成人能力検査の結果発表以降、龍翔は兵役の支度に勤しんだ。要は引っ越しの準備だ。
家の所有権は亡父から跡取りの兄へと受け継がれていた。現当主である兄との交流は皆無に近かったようで、土地や財産の管理担当者とだけやり取りをした。
父親が貴族だったり母親がその愛人だったりと、リュウトの生い立ちはなかなか複雑で興味深かったが、だからこそ思い出したくもないのだろうと思い至ると、龍翔としても深く追求する気は失せた。
春の終わりの月の三十日、紫の日。兵役が始まる前日の晩は近くの宿に泊まることにした。
宿の名前は〝巨猫亭〟。成人能力検査の日にリュウトが夕飯を食べに行くつもりだった店だ。巨猫の由来は不明だったが、宿屋兼食事処らしく、倹約家だったらしいリュウトの珍しくも絶対に行くという強い感情に龍翔としても抗いきれなかった。
リュウトの記憶に連れられて来たのは、中心街から少し外れた通りに面した古びた石造りの建物だった。扉は金属のノッカーのついた大きな木の一枚板で、上のほうに金具で看板が吊るされている。だが店の名前は、巨猫亭ではなかった。
「〝隠者の安らぎの宿〟……?」
「よっ、兄ちゃん、迷子か?」
「巨猫亭なら、この店だぜ」
隠者の云々というのは昔の名前だと後ろから来た二人連れが教えてくれた。
ごつい顔の店主に宿泊と食事であることを告げ、壁際の棚の近くの空席に座ると、客たちが生温かい視線で「特等席だな」と呟くのが耳に入った。棚の上に古びた毛布があり、そこを定位置にしている常連客の持ち物かとも思ったが、退くように促されることも敵意を向けられる様子もなかった。
食事は試験の日の軍食堂で気になった、山羊肉を頼んだ。思ったより臭みがなくて美味かったが、途中でディルガが食べていたのは羊だったことを思い出した。龍翔には羊と山羊の違いがよくわからないが、今度、軍食堂であらためて確かめてみるほかない。
「坊主は成人したのか?」
「……明日から兵役です」
「ならば祝いだ、それ呑めや」
ラウデリア国では法的な年齢制限はないが、暗黙の了解で飲酒は成人からとされていた。龍翔が成人したばかりと知ると、気のいい常連客たちは囃し立て酒を奢ってくれた。杉村龍翔は酒の味が苦手だったが、ぬるいビールのような味の酒はリュウトの口には合った。酒に強いのか酔いも回らなかった。
「なあ、坊主のお目当てはここの看板娘か?」
「おっ、看板娘のご登場だ」
常連客たちは龍翔をからかい、勝手に盛り上がっていった。看板娘が顔を出したと聞けば少なからず興味もあったが、残念ながら龍翔の席からは店の入口も店主のいる調理場もよく見えなかった。
仕方がないので追加注文した野菜と鶏肉の煮込みを黙々と食べていると、肩にそっと小さな手が置かれる感触があった。龍翔は振り返ろうとしたが、手に籠められた力は意外に強い。耳の後ろからは柔らかな息遣いが聞こえてきて、振り向きたくとも振り向けない。
常連客たちが「おおぉ!」と囃し立てる。
(近い、近すぎる……!)
身動きもままならない龍翔は、煮込みを掬ったスプーンを口の前に固まった。すると肩にかかる圧力がいっそう増して、次の瞬間、膝の上にずしりと重たい衝撃が落ちた。
「マルル!! お客さんのご飯を取っちゃ駄目でしょ!」
気がつけば龍翔の膝の上には立派な雉猫がいて、胸に伸し掛かるようにしてスプーンの上の羊肉を奪い取らんとしていた。手のひらと思ったのは太く逞しい前足で、柔らかな息遣いは餌を狙う猫の鼻息だった。龍翔の上半身とさほど変わらぬ大きさの雉猫は、声の主に頭を叩かれ、床へと飛び降りた。
「すみません、お客さん、大丈夫ですか? って、あら? リュウトじゃないの」
「あ? う、うん……」
戸惑いながら顔を上げると、声の主は鮮やかなオレンジの髪の若い娘だった。美人というよりは元気で働き者な印象は龍翔の好みからは程遠かったが、目が合った瞬間に頬に血が昇った。落とした視線が、前掛けが浮き上がるほどに盛り上がった胸元に釘づけになる。名前を呼ばれ、にっこりと微笑みかけられると、龍翔の胸は高鳴り息が止まりそうになった。
娘の名前はリィリェ。リュウトの幼年学校の――誕生季も一緒の――同級生だった。巨猫亭の名は雉猫マルルに由来するのかもしれないが、店の看板娘は明らかに彼女であった。
彼女が店を手伝っていることは知っていたが、髪を後ろでひとつに結った姿は、学校でのお下げ髪と違って大人びていた。もちろんそれはリュウトの感覚であって、龍翔から見れば十も年下は子どもに過ぎないはずだった。それなのにリュウトの感情に引っ張られて、龍翔は言葉を絞り出すのにも苦労した。
「リィリェはどうして……?」
「北街区のジィマの店のほうを手伝いに……えと、あたし、ジィマと結婚するの」
ジィマとは巨猫亭で修業していた五歳ほど年上の若者で、街の北に新しく店を出すそうだ。二十歳で店を持つのも、十五で嫁入りするのも早すぎると龍翔は叫びたかった。
他人の過去の想いに引き摺られた途端の、あっという間の失恋だった。呆気なさ過ぎてショックを受ける暇もなかったことが、せめてもの救いだった。常連客たちから向けられる哀れみの視線が龍翔を傷つけた。
「リュウトは魔法軍なんでしょ、すごいわね」
「でも最初は予備訓練で、魔法陣設計士や詠唱士になれるかは、まだわからないから……」
リィリェは屈託のない笑顔を浮かべていた。リュウトの傷心を慮って、さり気なく話題を変えたのかもしれない。龍翔はありがたくその気遣いを受けた。
「成人能力検査の結果はもう出てるんだろう?」
「今季から最初の一ヶ月間、予備訓練をやるんだって」
「面倒くさいことするなあ。お偉い方々の考えることは、さっぱりわからねえや」
「士官待遇になれなかった人が魔法軍から逃げないように制度を変えたんですって」
「リィリェはよくそんなこと知ってるなあ」
「ジィマのお店のお客さんは、独立第一魔法師団の人が多いのよ。別に機密情報なんかじゃないわよ、軍の広報誌に書くからって話してるのを聞いただけ」
兄も弟もいるリィリェは女だから兵役の義務がない。それなのに意外なほどに軍の情報通であることに、その場にいる誰もが感心していた。
適度に賢く働き者で、龍翔の好みとは違うが外見は可愛らしい。リュウトがもっと早くに手を出す決心をしていたら、今頃、リィリェは自分の恋人だったかもしれない――龍翔は無責任にそんな情景を夢想した。
「兵役が始まったら、お休みの日にはジィマの店に食べに来てね。店の名前は〝魔猫のめし処〟だから、よろしくね」
「あ、ああ。きっと」
意外に傷心が癒えるのには時間がかかりそうだと、龍翔はこっそり溜息を吐いた。
いつの間にか棚の上の毛布に包まっていたマルルの尻尾が、慰めるように龍翔の頭の上にぽんと乗せられた。