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断章:屍霊と乙女

『我は求めん! 燦々と輝ける陽光より出づる穢れなき白の炎よ、形を失いし醜きもの、悍ましきもの、悪しきものを焼き尽くし、彷徨える魂を無へと還らせたまえ!』

『我は求めん! 十重二十重に暈する幻日よ、邪悪を打ち払う力を弥増さん!』

『我は求めん! 清冽なる水よ、白き泡となりて――』


 異臭を放つ黒き炭の沼の表面には、屍霊の目がいくつも穿たれ、生者を求めて泡立っていた。

 攻撃魔法はルフラ・ハウゼルプス中級詠唱士、補助魔法を唱えるのはディアンテ見習い詠唱士だ。フィオメリカ・デュラレネルは防御の呪文を遅れて唱え始める。


 淀んだ沼がねっとりと波打つ。黒い泥を垂らした屍霊が、ずぽり(・・・)と湿った音を立てる。沼の外へと歩を進める屍霊たちを高熱の発光体が迎え討つ。

 白い炎に巻き込まれた屍霊が勢い良く爆ぜる。ここは泥炭地、可燃物の宝庫だ。宙に舞った泥炭に爆炎が引火し、長く伸びた炎が詠唱士たちを呑み込まんとする。飛び散る火の粉を抑えるはずのフィオメリカの詠唱は間に合わない。


「さっさと動けよっ!」

「おら、お前も行け!」

「危ない、フィオメリカ殿!」


 護衛の供給士がフィオメリカを背中に庇い、燃え盛る泥炭の欠片から救った。

 ルフラ中級詠唱士は近くにいた供給士の肩を掴み、盾代わりに己の前へと突き出す。真正面から炎の舌に舐められた供給士が「ぎゃっ!」と呻く。ディアンテに腰を蹴飛ばされた別の供給士は、泥炭の沼に頭から倒れ込んだ。

 フィオメリカの声音が尖る。


「な、なにをする!? ルフラ殿、ディアンテ殿!!」

「合唱の呪文を碌に憶えていないお前が全部悪い」

「それは……っ!」


 詠唱士仲間から軽んじられているフィオメリカは呪文や戦法の教育を受け損ねている。リュウトやヴァルエスの協力で一応の内容は学んだが、屍霊を屠るための合唱魔法など、呪文は暗記しても使ったことはない。それを承知なのだろう、ルフラとディアンテは俯くフィオメリカを嘲笑う。

 彼らが次の詠唱を始めると、供給士たちは黙って火傷を負った身体を起こす。


『――黒き屍霊の群れを焼尽せよ!』


 フィオメリカの詠唱が追いつく前に攻撃魔法の詠唱が完了する。フィオメリカが呪文を暗記しているかいないか以前に、ルフラとディアンテは明らかに彼女の詠唱を無視している。

 それでも少しでも炎の拡散を防ぎ被害を最小限に止めようと彼女は懸命に水泡の呪文を唱え続けた。その努力も虚しくなるほどに、ルフラとディアンテによる攻撃の合唱魔法は続く。


「ルフラ殿! ディアンテ殿! 泥炭地で火炎系の魔法はあまりにも危険だ! 光か……せめて雷系を!!」

「はんっ、お前がまともに水泡の詠唱をすればいいだけだろう!」


 ルフラから返ってきたのは嘲笑だけだった。供給士たちは魔術具で炎を防ぐのに精一杯の状態だ。右往左往する供給士を見てルフラが哄笑する。


 次々と襲いかかる屍霊の群れは、ルフラとディアンテの詠唱により防がれる。しかしフィオメリカの詠唱の出遅れもあり、炎の余波は供給士に少なからず及ぶ。供給士たちの鮮やかな髪色も、泥と煤に塗れて黒ずんでいる。


「ルフラ殿! 供給士を無駄に傷つける攻撃は……」

「防御は供給士の役目だ。気にする必要などない」

「たかが子爵家の娘ごときが伯爵家の嫡子様に口答えするな!」


 ディアンテが冷たい口調でフィオメリカの懇願を切り捨てた。屍霊の群れが一段落し供給士たちが消火に専念し始めると、ルフラとディアンテはフィオメリカに対する嫌味を再開する。


「デュラレネルの弟は女と見紛うばかりとの噂だったから期待したんだが……これじゃあ妾にする気も起きやしない」

「女と見紛うってのは顔の話じゃなくて無能で非力って意味でしょう」


 弟のことまで持ち出されて、フィオメリカは悔しさに唇を噛んだ。それでも、ここは軍人として作戦の遂行に心を傾けるべきだ――それが彼女の考え方だ。だがその思いはルフラたちには通じない。


「このままではドマシュ殿が――」

「詠唱士はひとりで百人の兵にあたる。況してやドマシュ筆頭詠唱士殿なら一軍にも匹敵するはず」


 ディアンテの戦力分析は決して間違ってはいない。屍霊の討伐も範囲がこれほど広くなければドマシュ筆頭詠唱士ひとりで十分だったはずだ。だが逆にいえば、広範囲に屍霊が分散している状況では、フィオメリカたちの働きが討伐の成否に大きく影響する。


『我は求めん――』

『――幻惑せよ!』


 再び集まり始めた屍霊の群れに向かい、ルフラとディアンテが詠唱を始める。その狙いは雑で沼の中を漂っている屍霊にまで向かう。引火したまま沼から飛び出した屍霊が、小さな爆発を繰り返しながらフィオメリカに当たる――と、その直前に護衛の供給士がフィオメリカの腕を引き、代わりに自分が炎を纏ったまま沼の中へと倒れ伏した。


『我は求めん! 絹の如く滑らかなる水よ、赤き怒りを鎮めよ!」


 フィオメリカは叫びながら駆け寄り、雨水の詠唱で炎を消し止めた。だが泥炭に塗れた身体が完全に火に包み込まれるほうが一瞬早かった。


「ちっ! 役立たずを庇って死ぬとは愚かな!」

「デュラレネル見習い詠唱士、そいつの装備を引き継げ」


 薄黄色の髪まで黒焦げになった骸を見てルフラが悪態を吐く。他の供給士たちは思うところはあるのだろうが、無言のまま護衛の役割を果たし続けている。

 死んだ供給士の装備を使えというディアンテの言葉はフィオメリカに供給士として動けといっているに等しい。だが彼女の詠唱は悉く邪魔されるのだ。貴重な魔術具を泥炭の沼に沈めるわけにもいかない。


「次、でかいのが来るぞ! 爆裂の魔術具だ!」

「えっ……? は、はい!」

「さっさとしろ! 次で決着をつける!」


 ひときわ大きな塊が沼の中に現れるとルフラが怒鳴った。命じられた供給士も、ディアンテまでもが唖然する。だがそれも一瞬のことで、供給士は魔術具を取り出し手早く組み立て始めた。


 詠唱の開始とともに残った四人の供給士たちも魔術具に魔力を込め始めた。

 自身への悪意はともかく、あまりにも理性を欠いたルフラの行動の意図がわからず、フィオメリカは呆然とその様子を見守るしかできない。

 悍ましい屍霊の群れは視界を覆い尽くさんばかりだ。我に返ったフィオメリカは、早口に水泡の魔術を詠唱しつつ、引き継いだ装備から防御系と水系の魔術具をありったけ引っ張り出した。


 爆裂の魔術具が投擲される。その軌跡を攻撃魔法が追う。閃光と同時に屍霊の塊が膨れ上がる。

 防御の魔術具を投げながらフィオメリカは後方へ向かって駆け出す。爆風を感じた瞬間にありったけの魔術具を後ろに向かって投げつけ、地面に倒れ込みながら水泡の呪文をひと息に放った。


               ○◎●○◎●


 沼はすっかりと静まり返っていた。不気味な屍霊の目も、嫌な匂いを発するうねりも消えた。

 フィオメリカは呆然と立ち尽くしていた。辺りには千切れた手足や、灰青色の軍服の胴体が散らばっている。黒い泥炭の燃え滓の中に見える紫色や緑色は頭部のようだ。


 フィオメリカには空虚感しか残っていなかった。恐怖さえも既に感じていない。

 屍霊の数を減らし沼の奥へと追い込むことには成功した。だが生存者が自分ひとりということは作戦は失敗だろうか? フィオメリカには判断がつかない。


 魔力樽は随分と頑丈で、爆風にも耐えていた。そのひとつをフィオメリカは背負う。供給士の荷物を漁り使えそうな魔術具を集める。

 ひとわたり遺骸を見回す。遺品を持ち帰る余裕はない。遺髪を集めようにも、転げ落ちた頭部は全員分には足りない。


 ならば仕方ない――割り切ってフィオメリカはドマシュに合流すべく歩き出した。

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