恋風のふく朝
朝になり、目が覚めた。
暖かな布団の温もりが肌を包み、カーテン越しに照らす太陽の光が瞼の裏を温める。窓ガラスを濡らして漂ってくる冷気は、秋がもうとっくに終わっていることを告げていた。
私を再び眠りへ誘おうと這い寄ってくるそれらが、これが現実であり、先程までが夢だっだのだと告げていた。
そう、夢だった——
その事実に、切なくなった。
一人きりの部屋で、堪えきれず私は泣き出した。
幸せな夢だった。
私は、彼と二人で汽車に乗っていた。二人掛けの椅子に、くっついて座っていた。
中世のヨーロッパのように、またはファンタジー小説のように、窓の外には田園が広がっていて、ところどころに木々や家が見えた。いや、過去や空想の景色ではないのかもしれない。それらは、いつか、イギリスでコーチから眺めた景色によく似ていた気がする。
手元の端末を操作している彼に寄りかかって、私は目をつむっていた。彼の向こう側の窓から入り込んでくる風が、車体のスピードの割にとても静かで優しかった。耳元で発せられる彼の声が心地よくて、紡がれる彼の話が面白くて、時折端末の画面をこちらに見せて説明してくれるから、瞼を上げて、タッチパネルを操作する長い指を見つめていた。血管の浮いた腕や手の甲が視界に映って、いつもながら私はドキッとしていた。
右腕に感じる彼の体温が、窓から差し込む太陽の光よりも熱かった。髪越しに頭に感じる彼の肩が、痛いくらいに硬かった。
――そして、
私を見下ろす彼の笑みが、とても優しくて、柔らかかった。
少しだけ細められた一重の目。かさついた唇の隙間から覗く歯。頬ごとつり上がった口角。とても明るくて、私の大好きなあの笑顔。思い浮かべる度ににやけてしまう、私にとって太陽のような笑顔。
一度も呼ばれたことのない下の名前で、当たり前のように呼んでくれていた。
くすぐったくて、でも嬉しくて、恥ずかしい気持ちで頬が緩んだ。きっと、従叔母にそっくりだと母が笑っていた笑みを私は浮かべていたのだろう。
まるで、新婚旅行に来た花婿と花嫁のようなカップルで。
とても、幸せな夢だった。
彼のことが大好きだ。
多分一目ぼれで、会うたびに、話すたびに、その笑顔を見るたびにさらに好きになっていった。目が合った時に掲げられる手も、笑う時に唇に運ばれる指も、一緒に歩く時何度も振り返ってくれる優しさも、癖だと言っていた組まれた脚も、それが組みなおされる瞬間も、全部が好きで、見るたびにときめいてしまう。
勇気を出して会う約束をして、頑張ってお洒落をして、会うその瞬間をいつも心待ちにする。待ち合わせ場所で会った時、歓喜と緊張で胸が高鳴る。彼の話が面白くて、とても分かりやすくて、聞いていていつも楽しい。いつまでも聞いていたいと思う。低くて芯の通った声で、気さくな口調で、いつも聞き惚れてしまう。別れる時いつも寂しい気持ちになって、でも端末でお礼のメッセージを送ると返ってくるメッセージに、いつも機嫌を直してしまう。
彼からメッセージが入っているといつもはにかんでしまって、嬉しいことがあるといつも彼に伝えたくなって、彼と会う為の理由や彼と話す話題をいつも考えてしまう。誰かと将来の話をするときはいつも、彼の傍にいたいと願う。彼のあの笑顔を一番近くで見たくて、彼のあの声を一番近くで聞きたいと思う。
盲目的なほどに彼のことが大好きで、この上ないほどに彼に恋をしている。
嗚咽がこぼれた。
――どうして
――どうして、夢なんだろう。
悲しくて、切なくて、愛しくて、恋しくて、涙が止まらない。
彼と幸せに過ごしていたのは、彼に名前を呼んでもらえたのは、彼の温もりを感じていたのは、夢の中でのことだ。
現実の私は、まだ名前を呼ばれたことがない。彼と手を繋いだこともない。あんなふうに、愛しい人を見る目で見てもらえたこともないのに。きっと、異性の友人としか思われていないのに。
どうして、夢の中で私の願いが叶ったのだろうか。どうして、現実ではまだ叶わないのだろうか。
切なくて、涙が止まらなかった。恋しくて、嗚咽を堪えれなかった。私はただ、布団に顔を埋めて泣いた。
片思いは、こんなにも辛い――
拙作をお読みくださり、ありがとうございます。
作中で出ました『コーチ』は、イギリスで都市と都市をつなぐ長距離バスの事です。
日本で長距離バスは塀に囲まれた高速道路を走りますが、イギリスでは田園風景がよく見えます。
批評批判大歓迎です。もっと私自身の思い描く世界を表現したいので、感想酷評、友人への紹介も期待しています。
長編の作品を幾つか載せる予定ですが、いずれもまだ修正中ですので先は長そうです。
少なくとも月に一度は、短編や童話や詩を載せるつもりなので、気が向いたらお読みください。
繰り返しますが、本当にありがとうございます。