休息
「どういうことだ?」
「だから、斬り祓ったの」
夜。
行灯に灯された光が寺の中をほの暗く照らしだす。
時折びゅうびゅうと風が鳴り、中の蝋燭の灯火が揺れ動く。
それが形づくる不気味な影に、奇里に抱かれるようにして座る宗次郎の体がビクッとふるえた。
「それが私の『力』なのよ。唯一私だけが持っている、ね」
安心させるように宗次郎を抱きながら奇里は妖しく笑う。
「その恩恵がこれか」
奇里の対面に座し、安慶はチラリと野武士を流し見る。
彼らは二人の近くに座し、それから離れるように隅では村人が固まっている。
「しかし妖に憑かれた者を元に戻すとは……。不可能というのが通説なんだがな」
「ま、しょせん通説は通説よ」
「ふむ……。そうなると噂話は本当か。もしやお主……」
「しぃー」
唇に人差し指をあてて奇里は安慶の言葉をさえぎった。
「それは後で二人きりの時にゆっくりと……」
艶めかしく言う奇里に安慶は「ふん」と鼻で笑う。
「構わんがな、俺に色仕掛けはきかんぞ」
「ちぇ、つまんない。この堅物坊主」
「一応坊主だからな。それよりお主ら、少し話を聞きたいのだが」
野武士に顔を向けた安慶が言えば、「へい」と一人が頷いた。
「少しお主らの経緯を話してくれんか」
「お安いご用で。俺らは皆織田方の兵士なんですよ」
そう言って彼らは語りだした。
織田、と聞いてさらに村人が後退るように彼らとの距離を開ける。
織田家が当主、織田上総介信長といえば今や天下に名高い大武将の内の一人である。その兵士ということに村人は縮みあがっていた。
一方何もわかっていない宗次郎と誰であっても構わないという風な奇里と安慶だけは平静な様子で話し合いを聞いている。
「織田と今川が対立しているのはご存じだと思います。今俺たちが鎧を纏っているのもそんな理由からで、桶狭間で合戦してきたからなんです」
「そういえば旅最中の風の噂で聞いたけどあのお歯黒、討ち取られたみたいね」
「ええっ! 殿の奇策が功を奏し見事あの今川義元を討ち取ったんです!」
織田方の大勝利がよほど嬉しかったのか、話す声に力が籠もる。
しかし、すぐにその顔が暗く曇る。
「あの時は雨でした。戦も終わり、落ち延びた今川兵を追っている途中、俺らは妖と会ったんです」
「でしょうね。で、そこから先の記憶はあるの?」
「……? はい。俺らが会った妖は猫でした。体は黒く瞳は赤く不気味に光っていて、何より尾が二つに割れていました」
「猫又か」
ポツリ、と安慶が呟いた。
「猫はじっと俺たちを見てきて、二つに割れた尾がゆらゆらと揺れていました。それが気味悪くて思わず刀を抜こうとした時、その尾に青白い炎が灯ったんです。それで、猫が鳴いた途端俺らは体の自由を奪われて、気付いたらあそこにいました」
カタカタと音がする。
見れば握った彼らの手が恐怖のためか微かにふるえていた。
「じゃあその間のことは何も覚えていないの?」
「いえ、所々覚えていますが、何というか夢を見た時のように曖昧で……。ただあなたに斬られたことだけはハッキリと覚えていますよ」
「そう。嫌なとこだけ覚えているんだ」
「とんでもないっ! あなたが我々を助けてくれたのでしょう。ならむしろこれは良いことだ。それにあの瞳――」
唇に指が触れた。
武士の言葉を奇里は人差し指でさえぎった。
「しぃー。そのことは黙っていて。……でも、ありがとう」
吐息のかかるほど近く。
奇里は心の底から嬉しそうに微笑んだ。
それに彼の顔が赤く染まる。
「しかしとんでもないな、お主の力は」
「それはもう。だからこそ忌み名まで頂いたんだもの。むしろそうじゃなきゃ割に合わないわ」
「忌み名?」
「ええ。ま、あとで話す……あら?」
奇里が優しげな声をあげる。見れば奇里の腕の中で宗次郎がすやすやと眠っていた。
「寝ちゃったか。疲れたもんね、宗次郎も」
優しく頭を撫でると宗次郎は気持ち良さそうな声を洩らし甘えるように奇里の腕に潜り込む。
「ふふ。ゆっくりおやすみ…………さて、安慶」
「ああ」
奇里の表情が変わる。
先程までの優しげな顔とは違い、今の奇里の顔は合戦に挑む武士のそれ。
その表情に武士たちは息を呑む。
「典明さん、悪いけどちょと来てもらえるかしら」
変化はほんの一瞬。
典明に声をかけたときにはもう元の表情に戻っていた。
「悪いんだけど、この村に起きたことを詳しく話してもらえないかしら」
「ええ、もちろんですだ。宗次郎も寝ちまったことですし、調度いいですな」
典明はやってくると奇里たちの近くに座った。
武士たちも話を聞こうと身を乗り出してくる。
「けんど、何分突然の出来事でやしたからわしらにも事情はようわからねぇんですが」
「構わぬ。そういったことは俺が補おう」
「わかりやした。では」
居住まいを正し、もう一度宗次郎が眠っていることを確かめてから、典明は話し始めた。
「事の始まりはおそらくお坊様がやってこられた所からだと思いやす。お坊様といっても安慶様でなく、もっとわけぇお方と年寄りなお方でやした。その人たちが来られたのが丁度二週間前のこと。同じ頃にこの村を治めているお屋形様のご様子が変わりだしちまったんです」
「変わった?」
「へい」
奇里の問い掛けに典明は悲しそうな顔で頷いた。
「お屋形様はとてもお優しい方でやした。よくわしらの仕事を手伝ってくださり、村の子供らにもお優しくて。なのに一歩も屋敷から出られなくなって……。そんで村のもんが心配して様子を見に行けばえんれぇ剣幕で追い返したりして。なかにはひでぇめにおったもんまでおりやす」
「それは少し変ね……。それで?」
「へぇ、それからすぐにお二人のお坊様が行動を起こされたんでやす」
奇里は安慶に目を向けた。安慶はそれに肩をすくめて答える。
「俺は知らんな。まだ俺が来る前の話だ。それにどうもやられたらしいしな」
「やられたって……。典明さん?」
典明は暗い顔で頷いた。
「お二人でお屋形様のご様子を見に行かれるとかで。でもその格好はもうまるで戦支度みてぇで。んで、そのような格好で行かれたっきり……」
「帰ってこない、と」
安慶が最後の言葉を受けた。
「ふぅん。じゃあ最悪操られちゃってるわね」
「ああ。年寄りの方はある程度修業を積んでいるだろうからな。むしろ死んでいたほうが有難いかもしれん」
「あら、弱きね安慶。もし操られてるなら逆に調度いいわ。味方になってもらうから」
不敵に笑う奇里を見て「頼もしいな」と安慶は呟く。武士たちもこくこくと首を縦に振った。
「あ、ごめんなさい。脱線しちゃった。続けて、典明さん」
「承知しやした。でも後は知っての通りで。それからしばらくは静かでやした、わしらはもうおっかなくてお屋形様には近づかなくなりやして。……それからしばらくして、あの夜に急に化け物どもが襲ってきたんです。ほんに突然で、わしらはわけがわからず逃げ惑いやして。気付いたら残ったのはこんだけでやした」
そこまで言い終わり、典明は悲しそうに肩を落とした。
奇里が慈しむように宗次郎の頭を撫でる。
「宗が生きてたのは奇跡だね」
「ほんに。もしあの時宗次郎がいたら正直守れたかどうか……。だから、ほんに奇里様には感謝してもしきれねぇ」
「ふふ。なら今度こそ宗次郎は守り抜かないとね」
「もちろんですだ。今度ぁ何があっても守り抜いてみせやす」
ぐっと強く拳を握る。
力の入れすぎでふるふると拳はしかし、恐怖の表れとは真逆で、奇里にはそれが頼もしく見えた。
「あの、ちょっとよろしいですか」
武士の一人が声をあげた。
「ん、なに?」
「わからないんですが、結局はどうしてこの村が襲われたんですか? それに俺たちは何故この村にいたのかも気になるんですが」
もっともなその問いに、他の者たちも頷いた。
「それに対しては俺が話そう。典明殿も話は終わったな? ならここからは俺が語り部となろう」
「そう、ね」
ほんの少し奇里の顔が陰る。
「どうかしたのか」
「なんでもないわ。それより、お願いね、安慶」
奇里はその場を少し離れ、典明の用意した布団に宗次郎を寝かす。
布団で眠る宗次郎は、それでも奇里の服の裾を掴んで離そうとせず、奇里がそっと手を離し代わりに手をやると、ぎゅぅっと手を握った。
そんな宗次郎を愛しそうに眺めながらその場で膝を折り、安慶の話に耳を傾けた。
――それは妖とは別の、人々に恐れられ忌み嫌われた者の話。
人の身でありながら人を斬る、最悪の存在であった。
「事の起こりは一年以上も前にさかのぼる。人々に害を成す存在として『妖』、その妖に憑かれたものとして『妖憑き』がいる。お前たちがそうであったように一度妖に憑かれてしまえばあらがうことは困難だ」
武士たち三人は神妙な顔つきで頷き、居住まいを正し真剣な顔で安慶の話を聞いている。
「我々に害を成すのは妖だ。妖憑きとて妖に操られているにすぎん。しかし、そうでないものが現れた。
名を『キリシマ』
奴は人の身でありながら人々を襲い殺戮を繰り返す。それだけでなく妖を配下にし村を襲う。その数は膨大でな、正確な把握ができないほどだ。その奴の軍隊ともいえる群れの中に妖憑きも混じっていてな、おそらくお前たちがこの村にいたのもそういった理由からだろう」
「まってくだせぇ。じゃあそいつがこの村に入ってきてるって言うんでやすか!?」
「ああ、そう考えていいだろう」
「そん、な……」
村人のみならず武士たちも愕然となる。
そんな中、気持ち良さそうに眠る宗次郎と、その隣にいる奇里だけが平然としている。
そんなある種異様な光景を横目に捉えつつ、安慶は先を続ける。
「悲観するのはまだ早い。そもそも何故奴がここに来たのか、という疑問が残るだろう。ここは周囲を山に囲まれた村だ。隠れるにはもってこいだが、かなりの勢力を誇るのなら特に隠れる必要はない。現に奴はそうだった」
「え、じゃあどうしてこの村に?」
「我々退魔師とて何もしなかったわけではない」
安慶は三本指を立てた。
「仏道、神道、陰陽道。大きく分けて退魔師と呼ばれる者たちにはこの三つの勢力がある。ここ半年ほどの話しだがな、この三つの勢力が手を組み奴を討つことにしたのだ」
「えっ!?」
皆が驚きで目を見張る。
戦乱が続くこの時代、武将たちによる表立った戦のその裏で、秘密裡に人々の平和を守る戦いが行われていたのだ。
「我らの間では第二次妖魔大戦などと呼ばれていてな、なにせ怨霊と化し魔王と成った平将門討伐以来の退魔師連合だ。規模はまさに大戦と呼ぶに相応しく、被害もまた甚大。敵方にはもちろんだが、こちらも軽視できないほどの死者が出た」
「そ、それでどうなったんで?」
「失敗した。奴の勢力はほぼ討ち果たしたが肝心のキリシマを取り逃したのだ。以来行方は酔うとして知れていない。俺がここに来たのも実はな、奴の痕跡を探るためでもあったのだ」
「じゃ、じゃあ……」
「ああ、思わぬ収穫を得た、といったところか。本来は偵察を兼ねた半信半疑であったのだがな、どうも状況を鑑みる限り辺りだろう。わかるか、先程この村には隠れるには良いと言ったがな、まさにその通り、奴は隠れるためにこの村に来たのだ」
しばしの沈黙が訪れた。誰も何も言わない。
カタカタと、夜風に障子が揺れ動く。
「俺より先にここに来た坊主どもはずっと奴を追跡していたのだろうな。おそらくはこの村の状況から討てると踏み、そして返り討ちにあったわけだ。
奴は我々との戦いで相当疲弊している。だからこそここに隠れ力を溜めようとしたのだろうな。だから彼らの狙いとしては悪くなかった。だが遅すぎた」
「あの……」
武士の一人がおずおずといった風に手を挙げた。
「また退魔師の方々に助けてもらえないのですか?」
「それは無理だ。言ったであろう、軽視できない死者がでた、と。既に圧倒的な人で不足だ。またこちらの指揮者もそれなりに討たれていてな、もはや連合は機能しておらん。そんな状況では手は貸せんさ。もっとも、俺や奇里のように何処にも属していない者なら別だがな。それに奴らはもうある程度は回復しているだろう」
「ど、どういうことですか?」
「単純だ。退魔師より妖のほうが数は多いのだ。それに加えお前たちのように操ってしまえば即席の兵もできる。都合のいい事に代えのきく兵士ならつい最近まで戦でいくらでも湧いていたからな」
「あ! じゃ、じゃあ俺らがあの化け物に操られたのも」
「その通りだ。おそらく、この村が襲われた理由にもなるだろう。戦場跡に近く、襲撃もされにくい。戦場跡には死者の怨念が溜まりやすい。そういう場はな、妖や奴のような魔に落ちたモノにとっては良い栄養源となる。すでに傷も癒えている頃合いだろうな」
びゅうっと風が鳴いた。
見えない不安に怯えるように皆体を寄せ合って固まる。
「大丈夫よ。それでも、アイツは人間なんだから」
今まで黙っていた奇里が初めて口を開いた。
その声はまるで真夏の蒼穹のように透き通っていて。
「たとえ魔に堕ちようとアイツは人間。なら、倒す手段はいくらでもある」
悲哀と憎悪とが入り交じった表情に、安慶さえも息を呑んだ。
「奇里……?」
「だからそこまで不安がることはないわ」
ふっと表情が柔らかくなる。
まるで呪縛が解けたかのように皆息をついた。
「じゃ、じゃあ倒せるんですね!?」
「奇里がいったであろう、不可能ではないさ。だが一つ問題がある」
急に安慶の顔が曇る。
「先程奴を取り逃がしたと言ったろう。実をいうとな、奴の顔がよくわからぬのだ。故に先の戦でも取り逃がした。顔がわからぬのでは倒す前に戦いようがない」
「それなら大丈夫ですだ!」
典明がドンと胸を叩いた。
「わしがあの晩に見てますだ。きっとアイツにちげぇねぇ」
「本当かっ?」
「ええ。あんなおっかねぇ目にあったのは初めてだ。間違いねぇ。それに……」
「まて……っ!」
急に安慶が声を張り上げた。その顔は緊張で強張っている。
「安慶……?」
宗次郎を守るように奇里が立ち上がる。左手はすでに太刀を握る。
「……結界を三重にしておいて正解か。
来るぞ、敵襲だ……っ!」
休息/了