奇妙な女
カラン、カランと下駄が鳴る。
澄んだ音色が空気を揺るがした。
木霊は微かに、けれど確かに揺れ動く、空気の音曲。
カランと一つ、鳴る度にたなびく黒髪。
そよと揺れるそれは風に遊ぶ――まさに旋律。
道、涼やかに音色が響く。
ぽつりぽつりと旅籠屋が軒を連ねる旅街道、足軽やかに進む者は――女。
紅葉の模様の入った単衣を纏い、肩までとどく艶やかな黒髪がサラサラと揺れる。
端整な顔立ちに淡い微笑を浮かべ彼女は往く。
それは一見してわかるほどの美貌。
しかし、道行く人々は彼女を見た途端にさっと道を開けた。
まるで忌避するように、関わりをもたぬよう伏せられた顔。そして畏怖と興味の交じった視線が彼女のある一点に注がれる。
それは一振りの太刀。
鈍く黒光る鞘に納まった、人を殺めるためのもの。
その、女性には不釣り合いな物を腰に差し、彼女は悠然と歩を進める。
カラン、カランと音を鳴らし、髪を風に遊ばせながら。
彼女を遠間に見やる人々とはまるで別種の、どこか楽しげな微笑を浮かべ。それがまたどこか、異質。
あくまでも軽く、自然に。心の赴くままとでもいう様に。もしくは導かれでもするように。
彼女の足は道を往く。
その足が、ピタリと止まった。
すっくと伸びた背筋は威厳に満ちて、その双脚はしっかりと大地を踏みしめる。
まるでそれは、けっして揺らがないと暗に示しているかのよう。
ふぅ、と溜息が零れた。
身体を弛緩させ、全身の緊張をほぐす様に抜かれる気勢。けれど、それでも溢れ出る物がある。
それのみを身に纏い、先程とは打って変わった鋭い相貌。
そこに穿たれた眼が見つめる先。力強く見据えた瞳にその姿を映し出す。
「この先か……」
確かめるように呟いてまた、歩を進める。
歩み行く先は山。
天頂を深い霧に包まれた山が目の前にはそびえ立っていた。
さらにはその山にはすでにうっすらと影がかかる。
既にもう、日暮れ時が近づいていた。
「え、ちょっと娘さん?」
軒先に出て客寄せをしていた女が驚いて声をかける。
彼女の歩みは止まらず、その足取りは山へと向かったまま。
「もうじき日暮れだよ! 今からじゃあ野宿になっちまうよっ」
かけられた声に彼女は淡く微笑んで、静かに首を横へと振った。
宵闇の山越えの旅も彼女は意に介さない。
旅籠屋にも目をくれずに山へ行く。
強く、強くその足は踏み出され。
カラン、カランと下駄が鳴る。
〇〇〇
木漏れ日が薄く道を照らす。
射し込む光は黄昏。すでに辺りは薄暗く、夜気の訪れとともにシン、と空気が冷えていく。
一日で深山を踏破することなど到底かなわず、その中腹で彼女は一夜を越すことにした。
〇〇〇
パチパチッ、と火がはぜる。
暗夜の中、彼女の白い顔が茫と浮かぶ。木に背をあずけ彼女は太刀を抱くようにして座している。
眠っているのか、瞳は閉じられ、規則正しく胸が上下している。あるいは、視界を閉ざすことで『何か』に集中しているのか。
「―――」
突然、キッと双茫が見開かれ彼女は立ち上がる。手には太刀。
立つその物腰は柔らかく、何時如何なる場合にも対応できるよう備えている。
その姿はまるで猫。臨戦体勢に入った獣を想わせる。
すっ、すっ、と視線が宙を舞う。油断なく配られる瞳。
しかし、すぐに彼女は諦めたのか「ふぅ……」と長く息を長く吐き、再び瞳を閉じる。
「―――」
数瞬の後、再びゆっくりと目蓋が開かれる、その途中。
「―――ッ。―――けて……ッ!」
遠く、何処かで、泣き叫ぶ声を聴いて取る。
次の瞬間。
彼女の姿は掻き消えていた。
漆黒の闇の中、彼女の影が山中を駆け抜ける。
光は僅かな星明かり。人道でも獣道でもない雑木林の真っ只中を駆け抜ける。
その速度は常人非ずして、ましてや女の身となれば尚更に異常。
しかし、それ以上に驚嘆べきはその身のこなし。
乱立する草木の中を、その柔肌に一度も触れる事無く駆けて抜ける。
さぁっ、と。静寂の夜の中を彼女の駆けゆく音のみが幽かに木霊する。
その最中、彼女の瞳が異形の姿を見てとった。
それは狒々(ひひ)。
黒毛に覆われた毛むくじゃらな体躯に、獰猛な貌からは尖った乱杙歯が覗く。身の丈は七尺(約二メートル)にも及ぶだろう。
そんな狒々に見下ろされるようにして、地べたで腰を抜かす子供が一人。
只々その恐怖にガタガタと身を震わせて、幼い顔をボロボロと涙に濡らす。
遂にあまりの恐怖で動けなくなったのか、子供は後退ることもできず、すっくりと這い寄る狒々を見上げる。
その姿に狒々の口元が大きく釣り上がる。
歪な三日月。
それが、目元を覆う程に上がる、その刹那。
『―――ッ』
喉元まででかかった狒々の哄笑が止まり、苦々しく閉じられる口元。
子供の姿はすでにない。
充分に距離をおいたその先に、背で子供を隠すように優然と女が立ちはだかっていた。
「ここで待ってて、坊や」
狒々から目を逸らすことなく彼女は子供に言う。
その声音は優しく穏やかで、子供は幼心に彼女が味方であると理解した。
「さて……」
狒々を睨み、彼女は腰元の太刀に手をあて鯉口を切る。
「山の翁がどうしてこんな所にいるのか知らないけどさ、この子には手出しさせないよ」
宵闇の中、月下に燦と白刃が煌めく。
『ヒッ――ヒヒヒヒヒィッ―――!』
唸り声が上がる。口元を三日月形に釣り上げた狒々の声。あるいはそれは狂笑の雄叫び。
同時に狒々の腕が空を凪ぐ。
いかなる現象か、突如暴風が巻き起こり、彼女めがけて荒び行く。それを、
「ふっ―――」
一刀の下、彼女は逆袈裟に斬って捨てる。
真っ二つに割れる暴風。彼女の髪がサラサラと揺れた。
果たしてそれは他者にどう映ったであろうか。
子供は、彼女の体が蒼い光で包まれているのを見てとった。
「そろそろ終わりにしようか」
背後へと太刀を引き、背で隠すような脇構え。
同時に、彼女を包む蒼い光がその量を増す。
『ヒヒヒヒヒヒヒィ―――!』
一際高く狒々が吠える。轟、とその周囲を暴風が包み込む。
互いの殺気が場を包む。その、あまりにも異様な空気に、ゴクリと子供が喉を鳴らす。
刹那。
「―――ッ!」
『―――ッ!』
それが合図であったかのように両者の体が交差し、蒼穹の輝きを放つ太刀と暴風の弾丸が衝突し攻めぎあう。
ザワッ、と夜の山が震えた。
寝静まった鳥や獣が一斉に逃げてゆく。
一時の静寂。
ぐらり、と狒々の体が揺れ、地面に倒れ伏す。
血切りをするように彼女は大きく太刀を振り、その刀身からはサラサラと蒼い光が舞い散った。
後に残ったのは彼女と子供。
振り返った彼女は優しく子供に微笑んだ。
「終わったよ、坊や」
その笑顔で張り詰めていた緊張が解けたのか、わっと子供は泣きじゃくる。
「もう大丈夫。だからたくさん泣きな。――坊や、名前は?」
近づくと子供は彼女にすがりつき泣く。それでも、
「そう……じろう……」
自らの名を告げた。
「よかったね、宗次郎。命、拾ったよ」
宗次郎を抱き上げ、ぎゅっと抱き締める。
「私は――奇里」
彼女――奇里に抱きつき宗次郎は咽び泣く。
くしゃり、と奇里は宗次郎の頭を撫でた。
二人を照らす月光はどこか優しげだった。
奇妙な女/了