二
翌朝。昨日の疲れは嘘のように飛んで気持ちのいい朝だ。
俺はジェムの作る朝ご飯の薫りで起きた。おはよう、と言って階上に上がった。ジェムも気付き『おはよう』と返してくれた。
そういえば、初めてのおはよう、だな。記憶の中では。
そして、差し出された半熟の目玉焼きとバターをたっぷり塗ったトーストをホットミルクで胃に流し込んだ。
これまた初めてのご飯だった。かなり美味しかった。矢張シンプルが一番いい。安心感があるからだろう。ここで突然何か『地元のものだから』なんて言われて食い慣れていないものなんて出されたら正直な所……苦笑いしか出来ないだろう。
食べ終わり、食器を流しに出すと、ジェムは食器を受け取って『着替えは脱衣所に用意してあるから、風呂に入って来い』と言った。
『何から何まですみません…』
俺は言われるがままに脱衣所へ行った。確かに着替えが……ある?
こ、これは所謂…………女物……?うん……?
えっ…ちょっと待てよ………?
ジェムにそんな趣味が……?いや、まさか。
……まさか……?
焦って鏡を見た。そこには────
ブロンドでツヤツヤしていて肩くらいまである髪。
透き通るような白い肌。細い手足。
素晴らしく翡翠や柘榴石のような色をした眼。
薄く桃色がかった唇。
少し膨らんだ胸元。
丸みを帯びた腰あたり。
────生物学的にこれは……女と呼ぶのだろう。
今の今まで『俺』は男だと思っていたが…違ったようだ。
何だか…変な気分である。そして、大分美人じゃないか……。
少しのショックを受けながらも、昨日のことから比べれば大したことでは無いから、シャワーのお湯で洗い流した。
『シャワー、有難うございました。』
濡れた髪が鼻にかかってうざったいのを掻き分けてお礼を言った。
何とも…自分の性別すら判っていなかったとは……少し恥ずかしさすら覚える。呆れて溜息が出てきた。全くだ。
ジェムがその様子に気づいてか気づかずかこんなことを言った。
『どうした?』
『あ、いや、何でもありません……』
そう言えば声も高いじゃないか。気付けよ、俺。
窓から外を見ると、焦って何も見えていなかったココの風景が見えた。かなり風光明媚だ……白く聳える山、青い空、白や灰などのモノクロな街並み………寒いのが難点だが、それ以外はとても綺麗な所だ。『外に…出ても大丈夫でしょうか……』と俺は聞いた。
しかし、その一言にジェムは豹変した。
『止めた方がいい……ココの方が安全だ』
『はい』
『すまないね、折角綺麗な日だというのに』
『いえ、匿ってもらってますから、ご迷惑はかけられません』
『…まあ、地下室でゆっくりしていてくれ』
『はい』
そして俺は地下室に行った。
それにしても……広いな…と感心していると、本棚があるのを見つけた。本棚の上には古語だろうか…
【アウファ神話について】
とある。中にはファイルやら聖典やらが置いてあった。
ファイルには
【Hoch Wahnsinn】
【被験者Zに関するレポート】
【アウファギャラリ】
【アウファの誕生に関するレポート】
【聖典における『報復者』に関するレポート】
【不遜者に関するレポート】
【『Hoch Wahnsinn』の考察】
などがあった。しかし、今一番気になるのはやはり『アウファスドラフヴ』である。
ベッドでアウファスドラフヴを読み始めた。
人類への報復……それが、ほとんどの主題であった。
『狂気』……幻覚や、幻聴で人を操り、人の精神を壊す。
『癇癪』……無意味に苛立たせて、人の人生設計を壊す。
『畏怖』……無に対して謎の畏怖を感じさせ、威厳を壊す。
この三つの『報復者』によって人類への報復と、『報復者』に反応しなかった『不遜者』を探すというのだ。そして、アウファに忠誠を尽くす者は確実に救われる……本当に胡散臭い。
また、この報復者は姿形が決まっているようだ。
狂気は小児の姿、癇癪は老爺の姿、畏怖は大男だそうだ。
詰まるところが、この報復者とやらはこのアウファという大邪神の眷属という事なのだろう。
その他にも『アウファの直系眷属』などがあったが、その中でもかなり気になったのは『アウファ眷属の不老不死』である。
書かれていたのはこんな内容である。
仮令、不遜者なれど眷属なり。是を以て眷属皆不老不死なり。
眷属皆かひなにアウファの印あり。
かひな……腕だろうか?俺は早速探した。右には……ない。
左には…?
………
………
何か模様があった。
聖典の表紙に刻印された模様だ。どうやら…本当のようだ。
信じたくない。聖典のページをめくる。
信じたくない。挿し絵に醜い神々が印刷されている。
信じたくない。この醜い者共が俺の…私の…帰るべき所?
信じたくない。信じたくない。信じたくないり
俺は…普通の人間の筈だ。
私は…普通の人間だ…。
棺桶の時と同じように恐怖と嫌悪で涙が溢れた。
何故平穏な日々を望むことがいけないのだろう。
果たして私は今の今まで何をしていたんだろう。
果たして私は今の今まで何だったのだろう。
すると、突然私は話しかけられ、驚いた。
『本当に大丈夫か?』
ジェムだ。居候させてもらってるも同然だ…主には迷惑はかけられない。大丈夫です、とは言うものの大丈夫なわけがなく、涙は溢れてくる。
『大丈夫……じゃなさそうだな。待ってな、今ココアでも淹れてやるから。』
『何から何まで本当にすみません……』
これ以上聖典を読んでしまうと、私がおかしくなってしまいそうだ…止めておこう。
…とその時。
……ぎぎいーっ、ばたんっ
ジェムが突如地下室の扉を閉めた。
『?!』私が驚いていると、隙間からメモ紙が落ちて来た。
“急いで電気を消して、ベッドの下に潜っていてくれ。アウファレヴァの検査だ。他の宗教を信じたりしていないか、のね。”
無言で私は電気を消した。そして、ベッドの下に隠れた。
十分程してからだろうか、確かに扉をぎいーっと開ける音がした。
三人……いや、四人の足音。
ジェムの声。
『ちゃんと神学の方も進んでおりますので、ご安心下され。』
あのファイルの事だろうか。
『なら良い。耶蘇だの仏などは我等は決して赦さぬからな。』
低い声が聞こえた。奴等だろうか。
そして、三十分程立ち話をしていたようだが、内容的にはアウファの現状等の話で、到底関係のなさそうな話であった。
立ち話が終わって、奴等が出ていった音がして、私は一息ついていた。と、その時、不意をつかれた。ジェムがベッドに座った音に。
驚いて頭を上げてしまい、強打した。ガンッと音がした為にジェムは察したのだろう。クスクスと笑い声が聞こえた。
『わ、笑わなくても……』
『いや、これで笑うなという方が殺生だよ…ふふっ』
私はベッドの外に出た。頭がまだズキズキと痛む。
すると、ジェムは私の頭をポンポンと撫でた。その時、私は『何か懐かしいもの』を思い出したような気がした。“気がした”だけだから、特に明確なそれではなかった。
思わず微笑むと、ジェムは安心した様子で『そろそろココアができた頃だろうね、飲むかい?』と言ってくれた。
私は頷いた。
そして、今日の衝撃も涙で流し、温かく甘いココアで忘れようとココアを一口飲んだ。