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第五話 親和

 軍事学科の生徒。特に強い紋様の力を持っていたり珍しい紋様を持っている生徒は、大学に呼ばれ紋様の研究に付き合わされる事がある。危険は伴わないし報酬はそれなりに出るという事で、その対象たる学生の間からはかなり好評である。今回ライズも、クルルの兄カイルを通じて二重紋様を研究している学生やら教授から頼み込まれ、渋々協力をしていた。


 二重紋様を晒すのにはやはりまだ抵抗がある。クラスメイト全員にはもう知れ渡っているし、他の学年にも実際に見た事はないが二重紋様を持っている者がいるという程度には広まっている。事実無根の噂話ならば自然と落ち着くのだろうが、いかんせんこの噂は事実だ。時間がもみ消してくれる事を期待するのは難儀だろう。


 しかし抵抗があるとはいえ、もう隠し通すような事はしない。ライズには事情を知った上で友として接してくれる者がいる。知られたら知られたで問題ないし、例え陰口を叩かれたとしても乗り切れる。


「じゃあ、軽く二重紋様を発動してくれるかな」


 無機質な白の床と壁に囲まれた円柱状の空間にスピーカーから声が響き渡る。部屋全体を眺められる程の高い位置にガラスを境にした部屋がある。そこに設置されたマイクから流れた声だ。


 ライズは今、頭に物々しい雰囲気の機械を取り付けている。どうやら紋様を発動した時の脳波や発汗等の変化を計測する機械らしい。おかげで動きづらいが、紋様を発動するだけならば問題ない。ライズはゆっくりと息を吸い、右手に蜘蛛、左手に花の紋様を浮かばせる。


「うん。それじゃあ次は剣を投げて、自分の所に戻してくれるかな」


 小さく前に屈み、背中から人間の指先から肘までの長さはあろうかと思われる両刃の剣を取り出し、右斜め前に放り投げる。『花』の紋様によって遠隔から『蜘蛛』の影響を受ける事のできる剣はゆっくりと旋回し、やがて大きな楕円を描いてライズの元へ戻ってくる。


「すごいな……『蜘蛛』が重力と空気抵抗を阻害してる。剣が落下しないのはそのためか」


 研究熱心そうな学生の独り言がマイクを通じてライズのいる部屋に漏れる。『蜘蛛』の紋様は触れる事さえできればあらゆる力に干渉する事が可能。少なくともライズはそう記憶している。紋様を研究している学生がそれを知らない事などありえない。恐らく彼は単純に、机上の空論でしかなかった『蜘蛛』の紋様による重力と空気抵抗への干渉に驚いているのだろう。


「ライズ君、同時に操れる剣は最大で何本だい?」


 ライズは食い入るようにこちらを見ているガラスの先にいる学生に四本と指で伝える。


「じゃあ、今と同じ事を四本同時にできるかい?」


 小さく頷き、背中からもう一本の剣を取り出す。二刀一対の短剣がライズの本来のスタイルだ。しかしライズは何の躊躇もなく双剣を空中に放り投げ、すぐさま両腕に隠し持っていた刃渡りが掌に収まる程度のナイフを取り出し、それもまた虚空に放る。


 剣は各々綺麗な曲線を描き、またぶつかる事のないように交差しながら、再び持ち主であるライズの元へ戻ってくる。


「……ライズ君、この動きは戦いの上でどれくらい続けられるんだい?」


 学生の問いかけにライズは指を開き、掌をガラスに向け突き出す。


「五分……いや五十分?」


 スピーカーから流れる質問に首を振る。こちらからは声が聞こえないというのが不便に思う。スムーズに意志疎通できた方が便利だとは思うし、研究者の方ももっと入り込んだ質問をすぐに投げかける事もできる。


「……まさか、五時間?」


 恐る恐るといった様子で言葉を口にする研究者に、ライズはようやく首を縦に振る。通常、紋様は一時間も維持できれば問題ないようだ。しかしライズはその五倍、紋様が維持できる。紋様の才能がある、と一年前にこの学生と同じ質問をした担任の教師が言っていたが、ライズには一つ思い当たる節があった。


「すごいなライズ君。こちらの予想以上だ。これで研究が前に進みそうだよ。実験は以上だ。機材は床に置いてもらって構わない。だいたい五日後になると思うけど、今回の実験レポートを君の住所に送るから役立てて欲しい」


 この実験が学生に重宝される理由がもう一つあった。今回の結果から得た情報を専門知識のない学生にもわかりやすいようにまとめて輸送してくれる事だ。話にしか聞いたことがないが、自身の持つ紋様から理論上可能な事や今後の成長性が詳細に書かれているらしい。精神的な面に依存してその効力を発揮する紋様にとって、第三者からそうした意見を貰えるというのは本当に貴重だ。


「あ、終わった?」


 機材を床に置いて部屋から出ると、先程の無機質な部屋とは打って変わって目に優しい薄緑とクリーム色の二段に分かれた壁がライズを出迎えた。そして部屋の前に設置されたベンチには、漆黒の長い髪を足元まで届くかというほどに伸ばした小柄な少女、クルルが佇んでいた。


「……やけに驚いてたな」


「そりゃそうだよ! ライズ君の紋様はすごいもん!」


 胸の前で握り拳を作り、若干前屈みになりながらクルルが言う。元々の身長差もさることながら、前屈みになったせいで更に開いた目線の高さから生み出される上目遣いがまさに子猫を思わせた。


「やあ、ライズ君。凄かったね」


 コツコツという音を鳴らして右側からクルルの兄、カイルがやってくる。いかにも好青年といった容姿に白衣と眼鏡。その手の趣味を持つ女性がいたら卒倒してしまいそうな外見をしている。


「今回はお誘いいただきありがとうございました」


「いやいや、僕がうっかり口を滑らせたせいであいつが食いついてね。無理を言ってしまった。申し訳ない」


「こういう機会は貴重ですし、結果的にはありがたいです」


「そう言ってくれるとうれしいよ。僕も見学してたが、終始あいつ興奮しっぱなしだったし」


 カイルの言う「あいつ」とは、実験中ライズに指示をしていた学生の事を指すのだろう。カイルからしか彼の人となりは知らないが、どうやら二重紋様を研究しているらしく、カイルに紋様学の知識を与えたのも彼だという。


「僕は学校に戻るけど、君達はデートかな?」


「もう、お兄ちゃん!」


 クルルのお咎めに小さく鼻を鳴らし、カイルは左の方へ歩き出す。


「……ふう」


 小さく深呼吸をする。それにクルルが反応をしめした。


「大丈夫? ……やっぱりお兄ちゃんの事、苦手?」


 クルルは、単純な興味でライズに紋様の話を吹きかけるカイルをライズが嫌っているのではないかという事を危惧しているようだった。第一印象こそあまり良くはなかったが、彼に悪意はない。ライズはそれを知っている。現にこうして協力までしているのだ。何を苦手とする必要があるのか。


「大丈夫だよ。カイルさんはいい人だし」


「でも、何か……疲れた顔してるし」


 疲れた顔、というのは、恐らくいや確実にカイルの言った「デート」という単語だろう。クルルと約束したデートは、未だ実現の目処も立っていない。周囲は時たま煽ってくるが、それとなく受け流している。カイルがその単語を発した瞬間、まさか煽ってくるのかと思ってしまった。結果として茶化しただけなのだが、それでもライズにとってその言葉は一種の条件反射のように作用していた。


「……やっぱりあの人苦手かも」


「えぇ!? 何で?」


 鼻を鳴らしたのがライズには少しだけ気になっていた。クルルから既にデートの件を知っているのだとしたら、間違いなくカイルはライズの反応を見るためにあの質問をしたのだろうからだ。


「やあ、君達」


 前から話しかけられ、その方向を見やる。白髪とはまた違う美しい無着色の長いポニーテールに烈火の如く紅に光る瞳、クルルよりいくらか高い身長にとその外見に見合わない大きめの白衣に赤いフレームの眼鏡が特徴の女性が立っている。


「あなたは……」


「こんにちはクレアさん」


「こんにちはクルルちゃん」


「知り合いかよ!!」


 ライズ達の前に立つ女性は名前をクレア・ラディカリィと言う。校内に十四ある小隊の一つ、第四小隊の隊長だ。


 小隊。有志によって結成された三人から六人で構成される部隊。有志とはいえその存在は学校が定めた公式の部隊であり、毎年六月から四ヶ月間、小隊同士での最強を決めるリーグ戦が行われる。優勝チームには全国小隊選手権大会への出場権や卒業までの学費免除等の優遇措置が取られる他、小隊全体から選ばれるMVPに輝いた場合、本人の願いを学園側が可能な範囲で叶えるという賞品が用意されている。


 その第四小隊の隊長が一体何の用なのか、ライズは推察できずにいた。


「……何の用でしょうか? クルルへの用事でしたら席を外しますけど」


「両方に用事があるのよ。とは言っても今ここで出会ったのは偶然だから、何の準備もしてないのよね。もうすぐ私の連れが帰ってくるから、ちょっと待ってて」


「……? 話以外の用事なんですか?」


「それも両方ね。話があるのと、二人をちょっとしたパーティに招待しようかと」


 会話のペースを自然に握るクレアにライズは少し警戒心を見せる。小隊の隊長になる条件に『学年ランキングが百位以内である』というのがある。彼女が隊長の座を引き継いだ事はライズ含め多くの生徒が知っている事だが、それでも彼女が在籍する五年生の中で上から百人の中に入っている事は確かだ。


 そしてライズがクレアを警戒する理由、それは彼女がランキング上位に位置する理由であった。


 小隊に在籍している者は得てして有名人となる。試合を大衆に晒す手前、武器や紋様も当選ながら明るみに出る。ライズもまた彼女の戦闘スタイルはよく知っていた。


 彼女の武器は「指揮棒」。紋様は『音』である。指揮棒は折れる事のないよう市販の物より数段硬い物となっているが、それでも特殊な技術でも持っていない限りは戦闘に持ち込めるような代物ではない。そして彼女の『音』の紋様。これはその名の通り『音』を生み出す紋様である。足音、爆発音、金属音等、非常に本物と酷似してはいるが大音量を出す事のできない、主に攪乱に使用される攻撃能力はおろか攻撃への転用も一工夫必要な紋様だ。


 クレア・ラディカリィの戦闘スタイル、それは『相手の妨害をしながらの指揮』であった。その実力は折り紙付きで、事実昨年の第四小隊において三人在籍していた六年生を差し置いて部隊の頭脳たる指揮官を任されていたのが彼女だ。


 そんな彼女だ、頭はいい。頭脳の話ではない。回転の話だ。戦いの中で積み上げられた判断力は、即座に嘘を作り出して他人を信じ込ませる事も可能だろう。


「あはは……何だか君には警戒されてるみたいだね」


「……クルルはともかく、初対面の俺を誘う理由がわからないからです」


「初対面……うん。そういえば初対面だね」


 クレアが意味深な事を口にする。


「もう、ライズ君! この人はね!」


 クルルが頬を膨らませながら全く威厳のない表情と声で怒りを表す。しかしその怒りをかき消すように、クレアの後方にあるドアが開き、中からクルルの身長程はありそうな機械を担いだコートの男性が出てくる。


「あらウィルおかえりなさい。収穫はあった?」


「全くナシ。単発は問題無いけど連射となるとどうしてもズレる」


 無造作に整えられた茶色の髪、一際目立つ長身にもうすぐ初夏だというのにさも当然といった様子で羽織ったコート。この人物もまた、ライズは知っていた。


 ウィル・シルバーバレット。第四小隊副隊長。学年は五年生。昨年度では小隊の狙撃手として在籍していたが、若干四年生で隊の頭脳を務めたクレアや六年生達の無双ぶりのせいかあまり目立った活躍はないように思える。事実、五人在籍していた第四小隊の中では唯一、学年ランキングが百位を切らなかった人物だ。


「そう。戦力不足を補うにはうってつけだと思ったけれど、ここまで何もないともう諦めるしかないかもしれないわね」


「単発なら使えるから、必要なら言ってくれよ。所で……」


 ウィルはドアの近くにあった袋に機械を詰め込み、チャックを閉める。その袋を担ぎながらライズ達を見て少し不適な笑みを浮かべた。


「そいつらは例のゲストかい?」


「そうそう。偶然ね。せっかくだしやっちゃおうと思うんだけど」


「だな。それじゃあ後輩諸君、来てくれるか?」


「いやあの」


「そうね。私の部屋でいいかしら」


「はあ……俺達は帰ります」


 こちらの話など聞く気はないとばかりにそそくさと話を進める。しかも私室に呼び込もうなど、何をされるかわかったものではない。危機感を覚えライズは一歩前に踏み出す。


「待ってライズ君、断っちゃ悪いよ」


「知らない人について行くなと言われなかったか? どこで何をするかもわからない相手と付き合ってなんかられない」


「もうっ! ライズ君知らないの? この人達は……」



 ここは大和荘。ライズとクルルの住むアパートである。


 ライズが今いるのは二○一号室。ライズの部屋がある二○三号室からクルルの部屋一つをまたいだ先にある、住人のいる部屋。


「しかしまあ……私達がここに住んでいる事は割と有名であったと思うんだけど……」


「本当に申し訳ありません……」


 片付いているはずなのにこの上ない居心地の悪さをライズは肌身に感じていた。リビングの真中にある小さな円卓を挟んで苦い顔のライズと苦笑いを浮かべた部屋の主、クレアが座っていた。


 クレアは、いやもっと言えばウィルもなのだが、ここ大和荘に住んでいた。ふとした時に二重紋様が知られないようにとこのアパートに住む人に一切関わらなかったのが祟った。どうやらあちらもライズの住む二○三号室に誰がいるのか知らなかったらしいが、それにしても第四小隊の隊長と副隊長の両名がここに住んでいるのを知らなかったのはライズだけという事になる。


「まあ、いいんだけどね。事情も事情でしょうし」


 ライズの二重紋様に関しては、二人は知っている。二重紋様を持つ生徒がいるという情報と、その生徒が大和荘に住んでいるらしいという噂が同時に回り、独自に調べた結果との事だ。ライズが今まで他人と接する事が少なかった理由も汲んでいる。


「ただいまー!」


 部屋の扉が勢いよく開けられ元気な声がライズとクレアに届く。クルルだ。帰路の中、買い出しの話になった際に、安い店を知っているという事で率先して買い物の役を引き受けていた。ライズが荷物持ちを引き受けようかと申し出たが、断りの言葉も短く走り出してしまった。


「お帰りなさい。何買うか言わないで飛び出したけど大丈夫?」


「お鍋ですよねっ? バッチリです!」


「ネギ、シイタケ……うん。一通り揃ってるわね。……これは、鱈?」


「はいっ!」


 鱈鍋をクルルは想定しているらしい。鍋ときて真っ先に思い浮かぶ辺り、よほど好きなのか思い入れがあるのか。


「そうね。寄せ鍋にしようと思ってたけど、そっちの方が方向性決まってていいかもね」


「えへへ〜」


 袋の中身を吟味するクレアから離れ、駆け足でライズの所へと寄り腰を降ろす。


「鱈好きなんだ」


「へえ、美味しいもんな」


「えへへ〜」


 別に猫が魚好きというわけではないのだが、ここまで猫らしい所が多いと本当に猫の生まれ変わりなのではないかと思えてくる。


「……ライズ君は?」


「ん?」


「ライズ君が好きな食べ物って何?」


「俺は……別に」


「ないの? 好きな食べ物」


 クルルの思わぬ追求にやや戸惑う。好きな食べ物などあっただろうかと過去の記憶を手繰り寄せる。実家での食事はあまり覚えていない。ここに来てからも自炊はしていたが、ずいぶんと無味乾燥な食事をしていた気がする。クルルと出会ってからライズも変わったが、食事にまで気が回っていなかった。


「その……今まで食事なんて栄養補給のための行為って思ってたから、好きな食べ物なんてないっていうか……」


「……? 食事は楽しむものでしょ」


「いやだから……」


「クルルちゃん、そこは個人の事情って奴が絡んでくると思うからあんまり追及しないでもいいでしょ」


 いつの間にかウィルが部屋に上がり込み、ガスコンロをいじっている。そういえば鍋を取ってくると言ってどこかに消えていたが、どこに行っていたのだろうか。


「個人の事情?」


「んー……意外と鈍感だねこの子」


 苦笑いを浮かべながらウィルがちょいちょいとクルルを呼ぶ。膝を擦りながらずりずりとクルルは近付き、ウィルはクルルに耳打ちをする。


「……あ」


 短く声を出し、さっきよりも速くライズの元へ戻る。そして目の前に正座をして、そのまま頭を下げる。


「ごめんなさい」


「いや、別にいいよ。シルバーバレット先輩も、俺は気にしませんから」


「そうか? 変な気遣いしたかね」


 ライズの目を見るでもなく、作業を続けながら軽く返す。昨年もあまり目立った活躍がない分、ウィルに関しては個人的に蓄積してある記憶が薄い。どういった人物なのか、ライズ自身よく掴めていなかった。


「んー……客人を暇させるのもなんだな。クルルちゃん。そこに本棚あるだろ」


「はい。これですか?」


「一番下の段にあるやつ、好きなの読んでていいよ」


「はーい。えっと、本? 薄いけど……絵本、いや漫画かな?」


「俺は……ちょっとトイレ行ってきます」


「おう」


 本を読み始めたクルルを視界の端に起きながらライズは立ち上がり、部屋の出入り口へ向かう。


「あれ、ライズ君どうしたの」


「ちょっとトイレに」


「トイレ? そっちは外だよ?」


「自分の部屋に戻ります」


「何で?」


 案外天然なのか、あるいは無防備なのか。さも当然であるかのように疑問を持つクレアにライズは小さくため息を吐く。


「女性が一人暮らしで使ってるトイレ、使わせていいんですか?」


「え? …………ああ、うん。ごめんね」


 少し顔を赤くしてはにかむ。他人よりかは言い辛い事を口に出せる性分ではあると自覚はしているが、さすがにこれは言い辛かった。軍事学科とはいえ基本的な勉強もこなしている。無論、保健体育も例外ではない。


「……」


 外に出る。夏が近い。昼には運動すれば汗ばむくらいには暑くなったし、夜も以前よりは過ごしやすくなった。


 ほんの一月前、クルルがライズに話しかけた時から、ライズの人生は大きく変わった。一人の世界に閉じこもっていたら、一匹の猫が迷い込んで、いつの間にか世界には迷い猫を中心に少しずつ広がっていた。以前とは比べものにならないくらいには明るい性格になったし、人と話す機会も増えた。おそらくそれは良い事なのだろう。学生の身分である以上、いつまでも共にいられる訳ではない。だが、それでもこうして自分を変えてくれたクルルや友人達には感謝をしている。


「……年寄りみたいな事考えるな。環境が変わりすぎて老けたか?」


 一人ごちながら用を済ませ、クレア達のいる部屋へと歩く。どこからか蛙の鳴く声が聞こえたが、果たしてこの辺りに蛙の住めるような水辺があったかどうか、定かではない。


「あ、おーい、すみませーん」


 部屋まであと二歩といった所で下の方から何者かを呼び止める声がする。こんな時間という程でもないが、それにしても人通りの少ないこの地域でこんな大声を発するというのには、少し違和感と警戒心が拭えなかった。


「……はい、どうかいたしましたか?」


 女性。シルエットから察するに髪は二つ結びにしているように見える。背は高低差のせいでよくわからない。ライズと同じか少し低いくらいだろうか。服も、少なくともアンジェラス学園のものとは違う気がする。


「ここって大和荘で会ってます?」


「はい。そうです」


 大和荘の看板は、夜になるとほとんど見えない。そもそも看板自体が見辛い位置にあるのもあるのだが。


「えっと、私、再来週からここに住む事になったエレン・カクタスと言います」


 エレン・カクタス。どこかで聞いた名前ではある。が、思い出せない。仮に他の学校の有名人というのであればライズの記憶にもあるかもしれないが、どちらにしても今ここでそれを確かめるのは失礼に値するのではと思う。


「……よろしくお願いします」


「はいっ! えっと、今日は大和荘の位置を知りたかっただけですので、失礼します」


 エレンは深々と頭を下げると踵を返し、とことこと走り出す。振り返る瞬間、はっきりとツインテールなのが確認できた。


「……あ」


 一瞬、電灯にエレンが照らされその顔が露わになった。やはり記憶にある。明確には思い出せないが、彼女とはどこかで会った事のあるような気がした。


「まあ、いいか」


 再来週にまた会えるのならその時にわかるだろう。そう考え、ライズは二歩足を踏み出してドアノブを捻った。



 エレン・カクタスは大和荘からの帰路をただ一人、先程出会った男性の事を考えながら歩いていた。こちらを警戒していたようすだったが、対応も丁寧だったし良い人のように思える。不安も多いが、少なくとも人柄の良い知人が一人できそうで安心した。


「……本当にあたし、ここに来るんだ」


 親の都合とはいえ、前にいた学園よりも遥かに品性が劣っている。前に通っていた所が高く纏まっていたといえばそうなのだが、それでもここでやっていけるのかどうか、不安は尽きない。


 しかも住む場所の間取りを全く見ないで決めたのがまずかった。まさかここまで貧相なアパートだとは思いもしなかった。一応両親は「社会勉強になるから」と、ここで暮らすように言っていたが、あまりにも以前の暮らしと環境が違いすぎる。


「はあ〜、まあいいわ。あの人を見つけて、近い場所に引っ越しましょう」


 あの人というのは、彼女の記憶に残っているある人物の事だ。十一年前だろうか、半年間だけ、実家に負けず劣らず名のある家の隣に暮らし、その家の兄弟と遊んでいた事がある。その名家の兄弟の兄が、この学園に在籍しているというのだ。名家の息子ならばきっとここよりも良い場所に住んでいるに違いないと、エレンは踏んでいた。


「待ってなさいよ、ライズ君とやら」


 ライズ・デュエル。エレンがかつて共に遊んだ昔馴染みの名。どこにいるのかは知らないが、必ず見つけだしてみせる。自分の暮らしを良くするためだけに、彼女は一人、そんな目標を掲げていた。



「……クルル?」


 部屋に戻ると、クルルが顔を真っ赤にして本を読み進めているのが目に付いた。横には数冊の本が転がっている。本当に絵本程の厚さしかないのもあるせいか、読み終わるのは早いようだ。


「クルル?」


「はひゃい!?」


 間近で大きな音でも鳴らされたかのような反応でクルルは飛び跳ねる。そしてライズの顔を見ると、羞恥心をさらけ出したかのような表情を本で隠す。


「……どうした。すごい事でも描いてあったか?」


「す、すごい事……うん。僕はとてもびっくりしています」


「へえ、何の本なんだ……って、これ……」


 手に取って表紙を眺める。美化されて描かれた青年二人が顔を近くに寄せ合いながらカメラ目線にライズを見ている。この時点で嫌な予感しかしない。ライズは恐る恐る本を開き、直後に閉じた。


「……シルバーバレット先輩」


「……何だ?」


 明らかに笑いを堪えた様子で答える。間違いない、彼はこの本の内容を知っていた。その上でクルルに本を読むように勧めたのだ。


「これは先輩の趣味ですか?」


「先輩は先輩でもあっちの先輩だな」


 親指でキッチンに立っているクレアを差す。そんな事はわかっている。こんなとんでもない物をクルルに読ませた彼へのささやかな反撃のはずだったが、受け流されてしまった。行き場のないもやもやをひとまず置いておき、クルルの手から本を強奪する。


「あっ」


「教育上よろしくないから、読むのやめなさい」


「……ねえ、ライズ君」


「何?」


 真っ赤にした顔はそのままに、おずおずとクルルが聞いてくる。


「ライズ君も、その……お、男の人が好きだったりとか」


 最後まで言うのを待たずにライズは手の平でクルルのこめかみを挟み、そのまま締め上げる。


「うあぁーライズ君痛い痛い痛い!」


「先輩のせいでクルルにとんでもない誤解が植え付けられたじゃないか! どうしてくれる!!」


「先輩ってどっちの」


「どっちもです!!」


「ああもう騒がしいわねえ。一体何……が…………」


 切り分けた野菜を皿に入れて持ってきたクレアがリビングを眺め、青ざめた顔を見せる。そしてゆっくりとテーブルに皿を置くと、武闘派さながらのミドルキックをウィルに向けて放つ。


「ごふぇあっ!!」


 クルルの脚は腰を降ろしていたウィルの頭を直撃、そのまま後ろに倒れる。


「何で私の隠してる趣味早々にばらすのよおおおおおおっ!!」


「早く仲良くなってもらうためにぁあああああああっ!! 痛い痛い痛い痛い痛い!! 折れるから!!!! 折れるから!!!!」


 ウィルを二回蹴り、そのまま鮮やかな動きで腕を取り腕挫十字固に移行する。


「だからってこの事をバラす必要はないでしょうが!!」


「あああああああ悪かった! 悪かったから痛い痛い痛い!!」


「お、落ち着いてくださいクレア先輩。もういいですから」


「ライズ君が良くても私が良くないの!!」


「ああああああああああああっ!! わかったから!! 今度松見屋のケーキ買ってやるから!!」


 悲痛すぎるウィルが物を条件に解放を希望すると、クレアは先程まで完璧に固めていた手を離し立ち上がる。


「……ショコラでお願いね」


「ああ……了解っと」


 ウィルが上体を起こし、右腕をぐるぐると回す。どうやらダメージはそれほどでもないらしい。技を掛けるのが上手いのか、受けるのが上手いのか、それともそもそも本気でやってはいないのか。いずれにしても、二人の仲はかなり良いように見える。


「……後輩が説教するようで何ですけど、先輩はまだこの手の本買えないはずでしょう」


「いいのよ、十七歳も十八歳もおんなじでしょ」


「あいつ軍事学科入ってから買ってるんだぜ」


「ウィル! 余計な事言わないで!」


 ウィルがにししと笑い、クレアが再び顔を赤くする。


「……ともかく、クルルにとって非常に悪影響なので、こいつの前では今後こういう事のないようにしてください」


「堅いねえ、今時そんなので悪影響なんて……」


「俺とシルバーバレット先輩でこいつが妄想繰り広げてもいいんですか」


「悪い、前言撤回だ。クルルちゃん、今読んだ本はファンタジーだ。幻想だ。いいね?」


「……はい」


 素直なクルルの事だ。しばらくすれば忘れるだろう。考えを切り替え、鍋の準備をする二人に話しかける。


「そろそろ教えてください。何で突然、俺とクルルを呼びつけて鍋パーティなんて開いたのか」


「んー、そうね。話してもいいかしら」


 鍋に具材を入れながら、やや困り顔でクレアが答える。ふと、ウィルがクレアに目配せをしているのに気付いた。そしてそれに応えるようにクレアが語り始める。


「ライズ君、去年の小隊戦、私達の所属する第四小隊が何位だったか知ってる?」


 突然何を言い出すのかと思えば、去年からこの学園に在籍していれば誰もが知っているような事だ。また話の流れを掴まれるのではないかと怪訝に思いつつ、ライズは答える。


「十四戦十二勝二敗。全体では二位だったはずです」


「詳しいわね。正解よ。大体がフルメンバーの六人で小隊を構成する中、私達がいた第四小隊はたった五人で二位という好成績を残したわ」


 後から映像化された物を見ただけだが、昨年の第四小隊最後の試合はライズも見た。対戦相手はその試合で優勝を決めた第三小隊。終始第四小隊が優勢だった戦況を覆しての大逆転勝利だった。第四小隊の敗因は、指揮官、つまりクレアの戦闘不能による戦線の崩壊であった事を、ライズは記憶している。


「優勝を決める試合で負けたのは私のせい。そのせいで先輩達を優勝させてあげる事ができなかったわ。先輩は気にするなって笑っていたけれど、私はどうしても諦められない。優勝トロフィーを先輩達に持たせてあげたいの。だから……」


「俺とクルルを小隊にスカウトしたい。ですか?」


「……わかっているなら話は早いわ」


 何とも返答に困る勧誘理由である。方便であるとしても、実力を買ったと言った方がまだ良い返事を貰えそうなものであるが、妙な所で正直だなと思う。


「一つ訪ねます。実力のあるクルルはともかくとして、俺まで勧誘したのは、人数合わせが理由ですか?」


「最初はそう考えてたな。人数は多い方がいい。実力は後で身に付かせるとしても、まずは人数集めにって感じでな。でも二重紋様の話を聞いて考えが変わった。まだライズ自身の実力を見てないから何とも言えないが、一線級の戦いができると信じてる」


 問いにはウィルが答える。これもまた、驚く程に正直だ。過去の経験から他人の嘘には機敏であるため、真意を知ろうとして投げた質問ではあるが、こうも素直に答えられると調子が狂う。


「……だってさクルル。どうする」


「えっと、よくわからないんですけど、クレアさんは先輩のために優勝したいんですよね?」


「そう、かしら。そんな綺麗な理由じゃなく、あなた達を利用しようとしていると捉えてもらっても構わないのだけれど」


「ううん。そんな事ないです。僕はその目標、応援したいです!」


 屈託のない笑顔を見せる。そして座ったままクレアの前に移動し、話しながらも鍋に具材を入れていたその手を取る。


「ぜひ第四小隊に入れてください! 僕、頑張ります!」


 少しクルルの行動をライズは意外に思っていた。他人に遠慮しない性格である事は重々承知しているのだが、こうして見返りのない交渉を二つ返事で受けるような人物とは思わなかった。最も、小隊に入って活躍をすれば利用されるという立場を鑑みても有り余る見返りというのはあるのだが、少なくともクルルがそれを見越しているとは思えない。


「はあ……クルル、本当にいいのか? 本人が言っているように、小隊に入るって事は二人のごく個人的な目的に利用されるって事だぞ」


「利用じゃないよ。僕は協力するんだ。それに、誰かのために何かをするってとっても素敵! だから僕はクレアさんを協力したいんだ」


 一応、考えなしというわけではないらしい。他人のために力を発揮する事を惜しまないクルルらしい考えだが、他人の知り合いのために動くというのは、なんとも妙に感じる。


「……はあ、わかったよ。クレア先輩、シルバーバレット先輩。俺も小隊に入ります」


「おや、意外だね。君の方は気難しい性格をしているから説得するのは難しいと踏んでいたけど」


 ウィルが薄く、嬉しそうな笑みを浮かべてライズを見る。小隊に入る事は悪い選択ではない。活躍をすれば二重紋様に関して理解を得られるだろうし、何より考えはあるにしても後先を見ていないクルルが心配というのがライズの考えにあった。


「俺には俺の考えがあります。あなた達が俺を利用するのは構いませんが、俺もあなた達を利用させてもらいます」


「よし。十分な理由だ。クレア、鍋食おうぜ、腹減った」


 ウィルが笑みを隠しきれていない一方で、クレアは必死に涙をこらえていた。


「あ、えっ、クレア先輩!? 大丈夫ですか!?」


「うん……大丈夫……大丈夫だから……」


 立ち上がり、台所へと小走りに向かう。涙を隠すためだろうか。


「……利用ねえ」


「ん?」


 目的のために利用すると、自嘲気味にクレアは言っていた。もちろんその言葉を真に受けてはいないが、少なくとも先程クレアが見せた表情は、利用などという冷たい言葉を使う人間のする顔ではなかった。第四小隊が実質的な解散をしてからどんな苦労があったのかライズは知らないし、あまり詮索する事でもない。だが感極まって涙が溢れる程にその思いは強く、今に至るまでに障害が立ちはだかっていたのだろう。


「人間ってのは素直じゃないな」


「それ、ライズ君が言う?」


「どういう意味だよ」


「僕の事心配してくれたんでしょ? だから僕を止めてくれた。違う?」


 図星を突かれる。女のカンというものだろうか。あるいはクルルの目が鋭いのは戦いに関する事のみだというライズの読みが外れていたのか。どちらにせよ、抜けているようで抜け目がない。


「そりゃ心配だってするさ。クルルが他人に利用されるなんて、俺は許せないからな」


「えへへ〜」


 とても緩んだ表情で笑顔を作る。こう言っては何だろうが、割と気味は悪い。


「やっぱりライズ君は僕の王子様だっ!」


 クルルがライズに抱きつく。そしてライズの腹部に顔をうずめ、ぐいぐいと力強く押してくる。


「おい、クルル?」


 照れ隠しの一つなのだろうか、髪の間から見える耳が赤くなっているのを見るに、恐らくはそうなのだろう。ライズは右手をクルルの頭の上に置くと、ゆっくりと柔らかい髪をなぞるようになで始める。


「……俺を独りの世界から連れ出してくれたのは感謝してるよ。ありがとう」


 クルルに周囲の音が聞こえているかはともかくとして、ライズは少しかがんで小声で囁く。


「ごめんなさいね。さあ鍋にしましょう……ってあら?」


 四つの椀に盛られた白米を盆に乗せてクレアがやってくる。その後ろではザルに盛られた食材を持ったウィルが立っていた。


「あらあらあら……お邪魔だったかしら」


「え? ああ、気にしないでください。クルル、ご飯だぞ」


「んー」


 クルルがゆっくりと顔を上げる。顔は先程髪の間から見えた耳ほど赤くないが、それでも少し紅潮している。そして同時に、とても満足そうな表情を浮かべていた。


「うふふ、青春ねえ」


 椀をそれぞれの場所に置き、ウィルもザルを適当な場所に置いてライズの隣に座る。そして腰を降ろすなりライズに顔を近づけ、耳打ちをする。


「……いつもこんな感じなのか?」


「二人は腕組みしてくる程度なんですけど、こんな風に抱きつかれたのは初めてです」


「いつも腕組みしてんのか……」


「ほらほら三人とも、ちゃんと座って。お行儀が悪いわよ」


 なぜか定位置から全く動いていないはずのライズまで注意を受けながら、ウィルとクルルは元の位置に座り直す。


「さて、新第四小隊結成記念を祝いまして、お手を拝借」


 一体何の掛け声なのかと逡巡するが、クレアとウィルが胸の前で合掌した所でようやく理解した。それにならい、ライズもまた手を合わせる。


『いただきます』


 今更ながら、おおよそ十一年ぶりともなる大人数での夕飯に、ライズは無意識のうちに心が踊っていた。



「そういえばさ、ライズ君」


「はい」


 味のよく染みた白菜を食べようとした時、クレアから声を掛けられる。一旦手を止め、コップに注がれた麦茶に口を付けながらクレアの方を見やる。


「さっき外で誰かと話してたみたいだけど、誰だったの?」


「さっき……ああ」


 トイレのために部屋を出た帰りの事だろう。エレン・カクタスという人物が再来週、ここに越してくるという話だった。


「エレンという人が着ていました。場所を確認するためとか言っていましたけど」


「エレン・カクタスね。へえ、来てたのなら言ってくれれば良かったのに。鍋パーティやってたんだし」


「そそくさと帰って行きましたし、時間もなかったんじゃないですか。というか、ご存知で?」


「うーん。まあ、あまり私も知らないんだけどね。ミューズ学園って知ってる?」


 聞き覚えはない。ライズは首を横に振る。


「クルルちゃんは?」


「知らないです」


「なるほど。まあ、お金持ちが多く通うってだけで実績もあまりないし、あまり知られてないか」


「お金持ちの人なのに、大和荘に来るんですか?」


 的確な質問をクルルが投げる。これには率先してウィルが答えた。


「何でもこの学校に探し人がいるって話だ」


「探し人?」


「ああ、この辺りなら学校も近いし、比較的交通の便もいいだろ?」


 大和荘は高等部の校舎が非常に近い事で知られている。更に近くには、このアンジェラス学園の命と言っても過言ではない交通手段の路面電車が停まる駅が存在する。確かに人を探すにはうってつけかもしれない。


「エレンかあ……」


「あら、ライズ君もしかして知ってる?」


「いや、ただ、エレン・カクタスって名前と街頭に照らされて少しだけ見えた容姿に覚えがあります。どっかで会ったような気はするんですよね」


 この言葉には三人とも食いついてくる。


「知ってるじゃないの。詳しく教えて」


「どんな顔してた?」


「女の子なの? どういう関係だったの!?」


 一斉に投げかけられる質問に苦笑いを浮かべつつ、最初の質問から答える。


「知ってると言っても記憶も曖昧で、うっすら記憶の彼方にあるといった感じです。それと、容姿ですが髪は紫のツインテール、背は多分俺とクレア先輩の間くらいだと思います」


「顔は? 美人だったか?」


 ウィルが言う。


「……そこに食いつきますね。とても整っていましたよ。少しつり目だった気がします」


 ライズの言葉を聞いてかクルルが露骨に不機嫌な顔になる。それを察してライズは最後の質問に答える。


「俺との関係は覚えていない。知り合いかどうかもわからない。例え知り合いだったとしても、相手もこうして忘れてると思うよ」


 むすっとした顔を崩さないまま、クルルは鱈を口の中へ運ぶ。


「……クルル怒ってる?」


「怒ってませんよー」


 非常にわかりやすい態度を見せるクルルにライズは苦笑いを見せる。これ以上はフォローのしようがない。ライズは先程食べようと思っていた白菜を再び食べる。


「そういえば二人ってABCどこまで行ったの?」


「ブフォッ!」


 飲み込んだ白菜が妙な所で止まって一気に咳き込む。


「ABCって何ですか?」


「知らなくていい、知らなくていいから!!」


「古いよクレア。今時ABCなんて誰も使わねえって。というわけで改めて訊くが、ヤったのか?」


「何をですか?」


「知らなくていいから! 先輩達もやめてください! 俺とクルルは友達ですから!」


 ライズは箸を持ったまま頭を抱える。この面子で大丈夫なのだろうか。主にクルルへの悪影響が計り知れない。彼らなりのスキンシップなのかもしれないが、ある意味クルルとのファーストコンタクトよりも疲れる。


「あれ? つーかお前ら付き合ってねえの?」


「付き合ってませんよ。なぜかよく誤解されますけどね」


「んー……そうなの? クルルちゃん」


 ウィルがライズに継いでクルルに訊く。ここで数日前、ケンとレイスに言われた言葉を思い出す。すると途端にクルルとの関係を否定した自分に罪悪感が沸き立つ。確証はないものの、第三者からあのような事を言われた上であの発言は不適切であった。


「んー……ライズ君は僕の王子様ですから。今は気にしないです」


「何っ……?」


「ほう……?」


 突拍子のない発言に先輩組の二人が食いつく。別に恥じるエピソードでもないのだが、真顔で王子様と言われると、やはりどこかこそばゆいものがある。


「ちょっと詳しく訊かせてもらえるかなクルルちゃん」


「実は僕がこの学園に入った頃に……」


 ライズとクルルの邂逅を語り始める。まだライズが他人を避けていた時の話だ。なぜあの時、見ず知らずのクルルを助けたのか、今でもよくわからない。十一年前、自身に第二の紋様が発現した時からライズは人間に絶望し、誰の記憶にも残らないよう生きていこうと決めたではないか。


(まあ、あの時にはまだ良心が残っていたのかもな)


 我ながらクルルに絡まれ始めた時の拒絶ぶりといったらなかった記憶がある。その他人への拒絶を解いたのもまた、クルルである。あるいはクルルを受け入れたのも、自分の中に助けを求める心があったからかもしれない。


「そりゃあ……王子様ってより命の恩人だな」


「うーん、鉄骨って当たったら痛いんですか?」


「痛いなんてもんじゃないわよ……大手柄だったわねライズ君」


「あはは……」


 クルル以外の三人が苦笑いを浮かべる。鉄骨が上から降ってくる機会などそうそうあるものではないが、それでもあれに当たったらどうなるか、ある程度の想像は付いてしまうのではないだろうか。やはり猫か、その辺りはあまり気にしないらしい。


「なるほどね……」


 ウィルが呟いた。何に納得したのかは知らないが、こっぱずかしいのと過去のあまり話したくない話題だったのとで居心地の悪かった話題が終わった事に気が向き追及する気も起きなかった。



「さて……ライズ、ちょっといいか」


「はい?」


 ウィルが立ち上がり、突然ライズを誘う。


「どこに行くのよ」


「外の風に当たってくる。汗かいて暑いんだよ。ベランダ借りるぜ」


「あ、私も」


「クルルちゃんはここにいてくれるかな? 風に当たるついでに男同士の話もしたいし」


 クルルへの説明からウィルがライズを誘い出した目的を知る。面倒な話でなければいいなどと思いながら、ライズは外に出た。


「やっぱり外の方が涼しいな」


 ベランダに出るなり腕を伸ばすウィル。それに対しライズはベランダの柵に腕を置いて空を眺めていた。


「話って何ですか?」


「それな。もう一度訊くぞ。お前、クルルちゃんと付き合っているのか?」


「なっ……」


 一度は終わった話題を再び盛り返され言葉に詰まる。なるほど、当人のいない場所で色々話を聞き出そうという魂胆か。


「付き合ってませんよ」


「なるほど。まあよほどの事が無ければ付き合ってる事なんて隠さないしな」


 ウィルが柵に背中を預け、真上に広がる夜空を見上げる。ここは別段夜景の見えるような場所に位置していない。ライズのように街灯しか見えない体勢よりも、ウィルのように夜空を見上げた方がいくらかロマンがあるのかもしれない。


「じゃあ質問を変えよう。お前、クルルちゃんが好きなのか?」


「……」


「似合ってると思うぜ、お前ら。『魔女の黒猫』の噂は時たま聞くが、今みたいに特定の誰かにべったり懐くなんて話は全く聞かなかった。何が言いたいかわかるか?」


「……まだ、わからないんです」


 搾り出すような声にウィルは視線をライズに移す。非常に初々しい少年の顔がそこにあった。


「わからないって言うと?」


「これが恋心なのか、俺を変えてくれた事に対する恩から来る気持ちなのか……俺にもまだわからなくて」


(どう考えても恋だろ。その顔は)


 ライズが以前どのような人物だったのか、ウィルはよく知らない。どうやら他人と関わりを持たない性格であったようだ。他人を惹きつける性質のクルルですら最初は拒絶されたというのだから、よほど二重紋様がコンプレックスになっていたんだろう。


 しかし今はこうしてウィルとも普通に会話しているし、こうして過ごしてみて違和感を覚えるような場面もなかった。だが、仮に長い間他人との関わりを拒絶した事で、自分の感情自体に鈍感になっているのだとしたら、あるいは他人の領域に踏み込む事を恐れているのだとしたら、なるほど自分の気持ちに無意識のまま蓋をしているのかもしれないとウィルは思考する。


「まあいいや。気持ちに整理ついたり、どうしたらいいかわからなくなったら相談してくれ。これでも先輩だしな」


 弾みを付けて柵から背を離す。それを見てライズはウィルを引き留めるように話を続ける。


「シルバーバレット先輩は、クレア先輩と付き合ってないんですか?」


「……いい質問ぶつけてくるね」


 身を翻し、ライズに覆い被さるように肩を組む。


「うおっ……」


「ここだけの秘密だぞ? 実はな、俺はクレアに片想いしてる」


 それは予想の斜め上の返答だった。てっきり二人は付き合っているものだと思っていた。


「……俺からすればお二人の方がお似合いのカップルだと思いますけどね」


「嬉しい事言うねえ。でもな、あいつには想い人がいるからな」


「想い人?」


「元第四小隊隊長だよ」


 ライズの問い掛けとも疑問をただ口に出したともつかない呟きに含みのある笑みと共に返す。そしてライズの中で、クレアの言動に合点がいった。


 クレアが小隊を再び組み、優勝を目指すのは、昨年自身の責任で第四小隊の先輩達が逃した優勝を掴みたいからであると思っていた。しかし、ウィルの話が本当であるならば理由も変わってくる。


「……先輩はそれでいいんですか?」


「ん?」


「そんな……好きな人に協力しても振り向いてもらえないって事じゃないですか。そんなのでいいんですか?」


 ライズの明確な問い掛けに、ウィルはクルルの時たま見せるような屈託のない笑顔で返す。


「恋なんて損得勘定でやるもんじゃねえよ」


 そう言って一人、部屋の中へと戻る。自分は変わったと思っていたが、相変わらず他人の心の機微には疎いらしい。


「恋って……何だろうな」


 答えが帰ってくる事のない問い掛けを呟き、夜空を見上げる。雲に隠れた月の隣で、一際輝く一等星がやけに眩しく見えた。

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