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第三話 開闢

 クルルに二重紋様である事が知られてしまった翌日。登校したライズを待ちかまえていたのは、周囲からの視線であった。


 覚悟はしていた。人の口に戸は立てられない。クルル以外にも数人にライズの秘密は知られている上に、モンスター小屋での事は監視カメラにしっかりと写されている。どこからか二重紋様の事が漏れても仕方がないし、こうなってしまえばいつかは二重紋様の事も公となる。その時にライズの待遇はどうなるか、想像に難くない。


 冷たく当たられるかもしれない。場合によっては、嫌がらせだって起きるかもしれない。それでもとりあえずは、クルルが近くにいる間は、この学園にいよう。昨日の夜、ライズはそう結論付けた。


「……」


 一限、ライズが授業を受ける教室に入ると、室内の温度が若干下がる。騒がしかった各々の会話の代わりにライズへ浴びせられる視線。それをひらりと躱し、ライズは空いている席に一人腰掛ける。


「……はあ」


 周囲の生徒達も知ったばかりの事実に驚きを隠せないのか、まだライズに対して直接的な悪意は向けてこない。だが、ライズとしてもこの場に居づらいのは確かである。まだ授業開始まで十分ある。それまで誰もライズに対して悪意ある行動に移らないのを祈るばかりであった。


「お、おい、やめろって……」


「うるせぇ、直接確かめた方が早いだろうが」


「確かめてどうするんだよ。下手したら殺されるぞ」


 後ろから、周囲より少し大きな声で会話しているのが聞こえた。声から判断するに、男子二名。嫌な予感がライズを過ぎる。


「おい、デュエル」


「……どうした?」


 いつもの、他人との会話を鬱陶しがる表情で男子の方向を見る。寝癖で乱れているのかセットしたのかよくわからない重力を無視した奇抜な髪型、ちらりと見えた左耳のピアス、そして通常の腰の位置より明らかに下げたズボン。なるほどいかにもといった外見だ。


「……昨日から出回っているお前に関する噂、お前自身は知ってるのか?」


「知ってるよ」


 嘘ではある。噂など全くライズ本人の耳には入っていない。しかし彼の表情と周囲の反応。


これだけでライズは噂の内容が何であるか、判断するに足りていた。


「そうか、なら話は早い。……で、本当なのか?」


「本当だよ」


「隠さないんだな」


「隠しても無駄だからな」


 ライズの自信に満ちた態度に少し苛立ちを感じたのか、男子は拳を強く握り、その腕を震わせる。そのままライズに殴りかかってもおかしくない。そんな雰囲気だった。


「念のため、証拠が欲しい」


「証拠?」


 なぜそんなものを欲しがるのか、ライズは一瞬理解できなかった。しかしすぐに、それがただの好奇心による言葉だと理解し、何か難癖を付けられる前にライズは無言のまま両手の甲を男子に向ける。


「おはよー、ライズくぅーん!」


 両手の甲に『蜘蛛』と『花』が別々にぼんやりと浮かび始めた所で、クルルが後ろから覆い被さるように抱きついてくる。突然の事に紋様は解け、二つの紋様は発動するまでには至らず霧散する。


「なっ! ク、クルル!?」


「もー、一緒に学校行こうと思ってたのにライズ君いないんだもん。びっくりしちゃったよ」


「当たり前だ、そもそも登校する時間が違うだろうが」


「じゃあ明日から一緒に行こうよ」


「それは……別にいいけど、俺に合わせろよ?」


「うんっ!」


 クルルは明瞭な返事をすると、そのまま床を蹴りライズの背中を前転する形で床に着地する。


制服のスカートがふわりと揺れたが、クルルはそれを気にする様子もなく当然のようにライズの隣の席に座る。授業によって教室が目まぐるしく変わる軍事学科の授業では、ほぼ固定化しているものの、席に決まりはない。


「……失礼した。証拠だったな」


 目を丸くして先程のやりとりを見ていた男子に軽く咳払いをする。冷静である事には自信のあるライズだが、さすがに今のようなやりとりを見られるというのは少し恥ずかしい。


「い、いや、もう十分だ」


「……見えたのか?」


「み、見てない。見てないぞ!」


 男子はなぜか顔を赤くして首を横に激しく振る。外見に反して、案外気が小さいのだろうか。


「だったらわからないだろう。証拠っていうのは……」


「もういいって! お前らが付き合ってるのはよーくわかったから!」


「…………は?」


 状況理解のために、無意識のまま視線を少し泳がせる。少し遠くにいた女子三人組と目があった。三人とも、顔を真っ赤にして目を背けた。よく見れば、その内の二人は昨日、ライズがクルルと保健室に向かう途中の渡り廊下ですれ違った生徒だった。


「……何、今日のコレって、その事なの?」


 ライズの前に立つ男子の後ろ。恐らくこの男子と会話していたであろうもう一人の男子生徒が、小さく頷いた。



 話は前日の夕方にまで遡る。


 カイルと別れ、下校しようという時には、既に空は暗くなり始めていた。


「……もうこんな時間か。腹減ったな」


「あー、そうかも。おやつ食べてないもんねえ」

「別に間食してないから腹減ってるわけじゃねえよ。いつもなら俺は夕飯食ってる時間なんだ」


「へえー、晩御飯早いんだ」


「そうか? もう七時過ぎてるぞ?」


 近くにある時計を見て時刻を確認する。暗いせいか、見えないわけではないが、見づらい。


「まあいいや、俺は帰るよ。じゃあな」


「え、一人で帰るの?」


「ん? ああ、そうだよ」


「えー……」


 トントンとつま先で地面を叩きながら、もじもじと体を揺らす。


「何かあるのか?」


「その……夜道怖いなーって」


「……別に、まだ明るいし、今すぐ帰れば怖くなる程でもないだろ」


「暴漢に襲われちゃうかも!」


「返り討ちにできそうだけどな」


「僕じゃ適わない相手だったら?」


「俺も適わない」


 間髪入れない流れるような会話がそこまで進んだ所でクルルがぶーっと頬を膨らませる。ライズは腕を組み、その反応を楽しむ。ライズとて唐変木ではない。クルルの言わんとしている事はなんとなく理解している。


「……いいよ、送ってってやる」


「ホント!?」


 一瞬で機嫌を持ち直すと、クルルは数歩前に出て小さく跳ねる。欲しい物を買ってもらえた子供そのものの動きだった。



「あ、そうだ。約束してたよね」


 十五分歩いた辺りで、クルルが唐突にライズに心当たりのない話を持ち出す。


「約束?」


「順手と逆手の持ち方だよ」


 少ないキーワードを基に記憶を辿る。思い出した。まだクルルを疎ましく思っていた頃、クルルに対して言った言葉だった。


「剣の持ち手を変える理由がわかったら、本気で相手してやる……だったか?」


 クルルは頷く。やはりか。理由がないわけではないが、あの時はクルルに二重紋様の事が知られてしまうとは思いもしなかったし、あの言葉はクルルを突き放す意味でのニュアンスが強かった。覚えているのはたかだか一週間程前であるからそうだろうが、また蒸し返すとは、なかなか執念深い。


「投擲時の空気抵抗軽減のため、及び攻撃範囲拡大のために、剣を回転させる必要がある。そのため投げる方向、体勢によって剣の持ち手を変更し、あらゆる状況からの投擲を可能としている。また、近接戦闘においても『蜘蛛』の紋様を発動させるために逆手持ちによる連続攻撃を行う。紋様の性質上、決定打を与える必要はないため……」


「ストップ、ストップ。八割方正解だ」


「残りの二割は?」


「まだ秘密」


 クルルはまた不機嫌そうに頬を膨らませる。ところがライズはそれどころではない。


「……なあ、本当にお前と戦わないといけないか? 本気で戦っても多分俺が負けるぞ」


「えっとね、それだけどね、わざわざ次に訓練で当たるまで待つのは嫌だし、だからといって決闘を申し込むのもなんか違うし、そもそも別に僕と戦う必要はないよね」


「まあな」


「だからね……」


 この件はなかった事に。としたい所だが、クルルの前でそういう結論に至るわけがなかった。クルルはある意味で真剣勝負よりも過酷な条件を突きつける。


「次の個人訓練で戦う相手に、二重紋様の力を見せてほしいの」


「…………マジでか?」


「うん。だって、せっかく強いのに使わないなんてもったいないよ」


「いや、いくら他人を拒絶しないとはいってもね? あんまりおおっぴらにするのは……」


「他人に気を許して、いざ二重紋様がバレた時にその人から拒否されるよりはいいでしょ。早めに公表した方がいいって」


「…………いや」


 その後、いくらかクルルの提案をはねのけようとしたが、ことごとく無碍にされてしまった。クルルの言うことは尤もではある。二重紋様を嫌う人間というのは、確実に存在する。ともすれば、公表した上で他人と接した方がいいのかもしれない。


「っていうか、個人訓練明日じゃん……心の準備する時間すらないのかよ」


「あ、そっか。えっと……時間、必要?」


「…………いや、大丈夫。明日やるよ」


「うん。そっか。じゃあわかったよ。僕が見届けてあげるね!」


 ライズの横から離れ、駆け足で前方に見えるアパートの敷地内に入る。その暗い中でも一目でわかるほど年季の入った外観に、ライズは見覚えがあった。


「僕の部屋、ここだから。ありがとうね」


「……は? え、そうなの?」


「うん」


「カイルさんは?」


「うん? あれ、言ってなかったけか。前に住んでた所、大学に行くには不便だからって、お兄ちゃんだけ大学の寮に入ったんだ。ついでに僕も一人暮らし始めようかって事になって、二年前からここに住んでるんだよ」


 この辺りにはこのアパートの他にも、学生が住むにはうってつけのアパートやシェアハウスが多くある。一方で兄弟や仲のいい人物が共用するルームシェア用の部屋が密集した地域は、ここから少し離れた場所にある。確かにその場所から一番遠いキャンパスは医学部のキャンパスであるが、知らなかったとはいえ、何の疑問もなく兄と暮らしているだろうと思っていたライズにとっては、なかなか衝撃的ではあった。


 更に、だ。


「……俺の部屋も、ここにあるんだけど」


「へー……へ? ええええええええええ!?」


 大和荘(やまとそう)。この辺りでは最も家賃が安く、なおかつ学校からも近い。時たま幽霊が出ると噂のアパートである。現在住人は四人。それに対し空きが八部屋ある事から、学生がいかにここを避けているかが窺える。


「嘘、ライズ君ここに住んでたの? いつから?」


「入学してからずっとだよ」


「何号室?」


「二○三」


「お隣だー! でもでも、引っ越しの挨拶に行ったけど会ったことないよ?」


「……別に居留守とかはした覚えないから、普通に留守だったんだろ」


「えー……あ! そういえば一つだけ留守の部屋があった気がする! 明日また挨拶しに行こうと思ってて、そのまま忘れてたんだった!」


 テンションが上がっているせいか、やけに張っているクルルの声に耳を痛めながら、あまりの偶然にライズも苦笑いを浮かべる。ずっと探していた命の恩人は、なんて事はない。すぐ隣にずっと住んでいたのだ。


「でも、僕達一回も顔合わせた事ないよね」


「学科は同じでも、受ける授業とか生活リズムが違うならそうそう会わないさ。俺は昼飯を途中で買っていくから早めに出るし」


「ふーん……」


 目を輝かせながらライズを見つめ、嬉しさを必死に抑えながら溢れ出るエネルギーを余すことなく放出し、クルルはダッシュで階段へと向かい、そのまま駆け上がる。そしてライズの部屋の隣、二○四号室の前で立ち止まる。


「これからよろしくね! お隣さん!」


「……おう」


 嬉しそうな表情をそのままに、クルルは部屋中へと入る。ライズも腹の虫が催促するままに階段を早足に上がり、自分の部屋へと入っていった。



 それから十二時間後、ライズは男子の言った事を全否定した後、身に覚えのない噂話の真相を聞いていた。


「昨日の夜、SNSに『魔女の黒猫』が男と歩いてるって噂が流れたんだ。その後に、『魔女の黒猫』が男と仲良さそうに下校してるってのと、二人が同じ部屋に入ってそのまま出てこなかったって、写真付きの書き込みがされてよ。解析班が男の正体を突き止めて、お前だっていう事になったんだ」


 この学園は広い。ただ単にカップルが成立したというだけであれば、何の騒ぎにもならない。せいぜい当事者の友人が騒ぎ立てるくらいだろう。だがしかし、今回の場合は違う。軍事学科四年生ランキング第七位、クルル・クレッセント。他学年にも名前が知られているランカーたる彼女の色恋沙汰ともなれば、野次馬やファンが騒ぎ立てるのも無理はないだろう。


「いやさ、お前ら昨日、モンスター小屋での騒動があっただろ? 何で一見関係のなさそうな二人が一緒にいたのか、みたいな話にもなってさ」


「……その噂が流れたSNSは?」


Fixi(フィクシー)の、アンジェラ学園四年生コミュ」


 そのSNSサイトに、ライズは登録をしていなかった。わざわざ登録してまでその噂を否定しに行くのも、必死になっているような気がして嫌だ。だからといってこのまま噂を放っておけば、伝言ゲームの要領であることないことが広まりかねない。


「とりあえず、少なくとも俺とクルルは友達だから、周囲の人に広めといてくれないか?」


「友達?」


「ああ、昨日の一見で意気投合してな。それと、俺とこいつはアパートが同じなんだ。しかも隣人。だから同じ部屋に入ったように見えたかもしれないけど、勘違いだから」


「そ、そうなのか!?」


「そうだよ」


 念を押すように聞き返す男子に肯定の言葉をかける。


「そうか……そうなのか」


「ああ、悪意のない勘違いから生まれた噂だったわけだ」


 そこまで言うと、男子は腰を曲げ前屈みになり膝を垂直近くまで折る。そして拳を握り締め、全身のバネを全て使い飛び跳ねた。


「……ううぅおおおおおオオオオオオオォォォォォォ!!!! やったぞ! やっぱり俺達のクルルちゃんは純潔だった!!」


「!?」


「すまなかったなライズ、根も葉もない噂に困惑した事だろう! だがしかし後は俺に任せておけ! 責任をもって噂の仲裁に中ろう!」


「お、おう、頼む……」


「任せろ! ウオオオオオォォォォォォ!!」


 叫びながら男子は教室の外へ向かって全力疾走を見せる。もうすぐ授業が始まるが、どこにいくというのだろうか。


「……何なんだ、あれ」


「クルルさんのファンなんですよ、あいつ」


 男子と立ち替わりに、恐らく今さっき走り去って行った男子と会話をしていたであろう、もう一人の男子生徒が近付いてくる。彼とは対照的に髪も整い、制服もしっかりと着こなしている。優男、というと印象が悪いかもしれないが、まさに優しそうな好青年だ。


「ファン、ねえ。ランカーには多かれ少なかれファンが付くっていうけど、あんなのばっかりなのか?」


「クルルさん、見た目が幼いですからね。その……そういった人達もファンの中にいるにはいます」


 彼の言う『そういった人達』がどういった人達なのか、ライズは考えるでもなく理解した。クルルのファンが暴走しない事を祈ると同時に、クルルが一人暮らしをしているという事が突然に危険に思えてきた。


「クルル、今日、一緒に帰ろうか」


「うん? うん! いいよ!」


「あははは、本当に仲いいですね。確かにこれは端から見れば恋人同士だ」


 男子生徒が笑う。


「からかうなよ……割と本気で焦ったんだからな」


「はは、ごめんなさい。ところで、最初に噂の内容を勘違いしてた時、手の甲を見せてましたけど、何をしようとしてたんですか?」


 男子生徒の言葉にライズの身体が一瞬硬直する。ライズは二重紋様である事が噂されているのだと勘違いし、その証明を行おうとしていた。クルルが飛び込んだ事でそれは阻止されたものの、あのまま紋様を浮かべていたらどうなっていたのか、あまり考えたくはない。


 そして彼はその様子を見ており、こうして興味を以てライズに尋ねている。二重紋様である事に感づいているだとか、そういった理由ではない。ただ単純に、ライズが何の噂と勘違いしていたのか、気になっているだけなのだろう。


「あー……四限の個人訓練、出る?」


「出ますよ。とはいえ、前線で戦わないので記録係としてですけど」


「んじゃあ、その時にわかると思うよ」


「はあ……そうですか?」


 男子生徒に疑問を含ませたと同時に始業を知らせるチャイムが鳴った。男子生徒は少し釈然としない表情のまま席に戻る。ライズは前を向き、机の上にテキストと筆記用具を用意する。


「じゃあ始めまーす、文様基礎の四十一ページ出して」


 教師が教壇に着くと同時に授業が始まる。ライズを含めた生徒は教師の指定したページとノートを開くと、教師が黒板に書き記す内容をノートに写す。


 授業直前に教室を飛び出した彼は、授業から三十分が経過してから教室に戻ってきた。なぜか汗だくで、そしてなぜかライズに親指を上に突き立てて何かをやり遂げたようないい表情をしていたが、ライズはそれを無視する事にした。



 三限が終わり昼休み。ライズは一人、裏庭へと続く小道の前でどうしたものかと思案する。


 裏庭は、ライズがいつも食事をする場所だ。そこは同時に猫の溜まり場でもあり、ライズが心安らぐ数少ない場所でもあったのだが、そこへの道が封鎖されているのだ。


 それもそのはずである。裏庭とモンスター小屋は目と鼻の先。広い意味でいえば、モンスター小屋は裏庭にあるともいえる。そして先日起きた騒動の事を考えれば、裏庭に行く事が無理なのは当たり前だ。


「……戻るか」


 昼になり、例の噂はかなり沈静化した。具体的には、ライズとクルルはただの友人であるという事実が急に流布したために、皆が一気に興味をなくしたといった方が正しいか。教室を飛び出した彼が何をしたのかいささか気になるが、何はともあれ未だ多少の視線は気になるものの、別にどうという事はないまでに収まった。教室で昼食を食べても問題ないだろう。


「あ……えっと、ラ、ライズさん?」


 ライズが教室へと戻る途中、というよりも来た道を戻り始めてすぐ、後ろからやや細い声で名前を呼ばれる。聞き覚えのある声だったので振り返ると、そこにはやはりエスポワールが少し申し訳なさそうな表情で立っていた。

「……エウアンゲリオン、か」


「はい……あれ、え? そっちの名前で覚えてるんですか」


「いや、別にそういう訳じゃないが」


「でしたらエスポワールでいいですよ。呼びにくいでしょうし」


 エスポワールも十分呼びづらいというライズの感想はさておき、エスポワールから、今からクルルと昼食に中庭へ向かっている途中だという事を聞き、ついでに昼食を一緒にしないかと誘われた。


「遠慮する」


「はい、ではこっちです……って、え? ダメですか?」


 即答したライズとは対称的にエスポワールは遅れて断られた事への驚きを見せる。断られるとは思っていなかったのだろう、どうすればいいのかわからず、ライズを上目遣いに見ながら沈黙している。


 断った理由は簡単。シルビアの存在だ。ライズが見る限りでは、クルルとシルビア、エスポワールは知り合いというレベルの仲ではない。友人いや、親友と呼ぶべき仲であろう。そして親友であるエスポワールがクルルと昼食を取るというのであれば、当然シルビアも同席するだろう。シルビアは二重紋様を嫌っている。ライズは自分がきっかけでクルルとシルビアの仲に亀裂が入る事を危惧していた。


「じゃあな、クルルによろしく言っておいてくれ」


「あ、あの! 私、知ってるんです!」


「……クルルと打ち解けた話か? それとも昔、クルルを助けた話か?」


「いえ、ライズさんがにじゅ……」


「ああああああああああああああああああっ!?」


 思いのほか周囲に聞こえる声でエスポワールがライズに都合の悪い事を口走りそうになるのを、ライズは大声でかき消す。突然の出来事にエスポワールはもちろん、周囲の人間も目を丸くしてライズに視線を集中させる。


「……エスポワール・エウアンゲリオン」


「は、はい!」


「二重紋様の事、知ってるんだな?」


「はい!」


 気をつけのポーズをしながらエスポワールは明瞭な返事をする。この辺りは前線で戦う事はしないとはいえ、軍事学科の人間らしい。


「はあ……知ってる上で話しかけて来たんだ。お前はあんまり二重紋様である事を気にしないみたいだな」


「はい!」


「もういいよ、楽にして」


「あ、はい」


 気をつけの姿勢を崩し、大きく息を吐く。そして後ろで手を組み少し前屈みになりながら身体を左右にゆらゆらと揺らす。彼女なりの楽な姿勢なのだろう。


「お前が例え気にしないとしても、だ。周囲の人間はそうもいかない。あんまり言いふらさないでくれないか?」


「……何か知られると不味いんですか?」


 最近の世代は二重紋様という存在に触れる事すら稀なためか、差別意識そのものが薄れてきているというが、彼女もまたその一人なのだろうか。それ以前に、シルビアはライズに対してかなり嫌悪感を示していたというのに、それに何も疑問を覚えなかったというのだろうか。


「二重紋様そのものを毛嫌いする人間だっているんだ。シルビアがそのいい例だろう。あいつ、何か俺の悪口とか言ってなかったか?」


「えーと……? あ、そういえばシルビアちゃん、怒ってました。それでクルルちゃんをしきりに心配してて、クルルちゃんがどこかに行っちゃって…………あれ?」


「お前、天然だろ」


「天然? 誰がですか?」


「お前以外に誰がいる」


「私は天然じゃないですよ」


 恐らく本物だろう。自覚がない。


「それで夜にシルビアちゃん、反省してましたよ」


「反省?」


「はい。言い過ぎたとか、クルルちゃんの気持ちを考えていなかったとかいろいろ私に打ち明けて、私はよくわからなかったんですけど、そのうちにシルビアちゃん泣いちゃって……」


「え、あいつが?」


 シルビアの容姿を思い出す。緑色の短髪に凛と少しつり上がった瞳、女性にしては高い身長。一言二言しか会話をした事がないが、かなり勝ち気な物言いだったように思う。とても泣くという行為が似合うとは思えない。


「今、シルビアちゃんが泣くわけないって思ったでしょ」


「……少なくとも、人前で泣くような人間には思えないな」


「シルビアちゃん、案外泣き虫なんですよ。……えっと、何の話してましたっけ?」


「反省して泣いた話」


「あ、えっと、シルビアちゃんは泣きながら寝ちゃったんですけど、なんだかライズさんに謝りたいみたいな事言ってましたし、大丈夫ですよ」


 話がずれている。エスポワール本人が、シルビアから何か二重紋様について悪い話を聞いていないのかという話をしていたのだが、いつの間にかシルビアの話になっている。天然と話すとこうなるのかとライズは目を細める。


「お前は、二重紋様についてどう思ってるんだよ」


 本来ぶつけていた質問の本質を突く。帰ってきた答えは、イエスかノーのどちらでもない、第三の回答だった。


「私は、二重紋様について何も知らないですから、嫌うも何もないですよ」


 自分の過ごしてきた環境では考えられない、まさに予想外の言葉だった。



「おーい」


 エルポワールが元気よく手を振る先には、クルルと、やはりシルビアがベンチに腰掛けながら昼食を取っていた。クルルはライズを見つけるや一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに満面の笑顔でエスポワールに手を振り返す。


 対するシルビアはというと、度肝を抜かれたような表情をしていた。手に握られているサンドウィッチは食べかけのまま彼女と共に硬直し、今にも膝の上に落ちてしまいそうな程に彼女は意識をライズに集中させていた。


「ライズ君連れてきたよ」


「ナイスだエスポワールちゃん!」


「えへへー」


 両手の平を上に向け、なおかつ指先をライズに向けながらエスポワールが大げさにライズを紹介する。クルルはそれに惜しみない賛美の言葉をかけるが、シルビアは相変わらず硬直したままだ。


「シルビアちゃん? サンドされたレタスが落ちそうですよ?」


「……私は帰る」


「えっ、えっ?」


 シルビアは手に持っていたサンドウィッチを頬張ると、そそくさとまだサンドウィッチの入っている洒落た箱に蓋を乗せ、どこかへ行こうとする。


「どこへ行こうというんだいシルビアちゃん。せっかくのチャンスッ! なんだぜ?」


 やけに高いテンションでクルルはシルビアの手を握る。シルビアはエスポワールとクルルを交互に睨み、最後にライズを睨む。


「何でここにいる」


「裏庭で食べようと思ったんだけどな。封鎖されてた」


「そこを私が拾いました」


 エスポワールが手を挙げて言う。彼女の天真爛漫ぶりも、なかなかクルルに負けていないだろう。十代も後半に差し掛かっている中、諸手を挙げて嬉しそうにするような人物はなかなかに珍しい。


「何で余計な事するかなぁ!?」


 シルビアはエスポワールの頬を指でつまみ、横に引っ張る。柔らかいエスポワールの頬は大福のように伸び、シルビアもどこまで伸びるのかと試すように頬をつねる。端から見ている分には微笑ましい。


「ら、らっふぇひるふぃあひゃん、ひほうあひゃひゃりひゃいっひぇいっひぇひゃのひゃ」


「うるっさい! あれは私が私のタイミングで言うからいいんだよ!」


「……すごいな。何言ってるのかわかるのか」


「シルビアちゃんとエスポワールちゃん、幼なじみだもんね」

「へぇ……」


 幼なじみという単語には馴染みがない。幼い頃、それこそ二重紋様が発覚する前、弟と一緒に、近所に住んでいた女の子と遊んだ記憶はあるが、それを幼なじみと言えるかどうかは怪しい。彼女は出会って一年程でどこか遠い場所に引っ越してしまった。文通をしようとかいう約束もしたが、直後にライズの二重紋様が発覚してしまい、軟禁生活を送る事となってしまった。仮に手紙が来ていたとしても、読まれる事もなく捨てられているだろう。


「……っていうか、邪魔なら帰るよ」


「まあまあ、積もる話もあることだし」


 ライズは食事をしに来たのであって、シルビアを困らせるために来たのではない。それにライズも空腹だ。さっさと事態を変えようと自身が退去する事を提案するが、クルルがそれをさせまいとライズの両肩を掴み、ベンチに座らせる。


「ほら二人とも、一緒にご飯食べようよ」


「いやだから、私は……」


「もう、今言うのも今度言うのも一緒でしょ? 悪い事したと思うなら、早く謝らないと」


「うっ……はい……」


「ひるふぃあひゃん! いいひゃへんははひへふはひゃい!!」


「あ、おう」


 シルビアが嫌々納得した後、エスポワールの頬をつねる手を離す。ようやく解放されたエスポワールは少し赤くなった頬をさすりながらも笑顔でライズにアイコンタクトを向ける。やりましたね。とでも言いたそうな表情だ。


「さてさてライズ君は何を食べるのかなーっと」


「勝手に見るなよ」


「見るだけならいいんだけど、クルルちゃんは美味しそうなもの見つけると食べちゃうもんね」


 エスポワールの言葉を聞いてライズは即座にクルルからライズの朝食の入ったビニール袋を取り上げる。


「ああっ、別に食べないってば」


「お前なら何の躊躇いもなく食べかねない」


「だから食べないって!」


「あはははははははっ!」


 二人のやりとりを見てエスポワールが笑う。どうやらエスポワールにからかわれただけらしい。


「……全く」


「ほら、シルビアちゃんも座って座って」


「あ、おい、押すな!」


 エスポワールはシルビアの後ろに回り込み、無防備な背中をぐいぐいと押して彼女をライズの隣に座らせる。間髪入れずにエスポワールもその隣に座り、シルビアが文句を言う間もなく四人は並ぶ。


「よくやったエスポワール少尉!」


「はい! クルル大佐!」


 あからさまに嫌な表情を見せるシルビアをライズと共に挟んで、両端の二人が敬礼を交わす。この三人、クルルが二人を引っ掻き回すだけかと思っていたが、どうやら違うらしい。


「…………」


 シルビアは諦めた様子でサンドウィッチの入った箱を空け、昼食をかじる。隣のライズを気にかけながら、様子を見るように、昼食を少しずつ食べる。


「そういえばライズさん、昨日の件でお怪我などはされていませんか?」


 数秒続いた沈黙を破り去るようにエスポワールがライズに話を振る。


「いや、俺は大丈夫なんだけど……クルル、最後に転んでたよな。大丈夫だったか?」


「あ、うん。大丈夫だよ。転んだだけだったし、ライズ君が助けてくれたし」


「助けた?」


「ほら、剣を投げてズババババーって」


 二重紋様を使っての紋様剣について言っているのだろう。ライズが転倒したクルルを救出するために使用したのは「裏技『ファノプレシス』」。投擲した剣を『蜘蛛』と『花』の紋様を組み合わせる事により精製される『糸』で操作・攻撃する技だ。


「別に助けなくてもお前ならどうにかできたんじゃないのか?」


「それは買い被りすぎだよ。本当に助かったんだからね」


「はぁ〜、素敵ですね〜。私も男性に颯爽と助けられたいです」


 エスポワールが空を見ながら自身の憧れを語る。やはり軍事学科に属する以上、強い男性に憧れるものなのだろうか。


「シルビアちゃんも、そう思わない?」


「えっ」


 エスポワールが今度はライズを気にかけてばかりいたシルビアに話を振る。やや驚いたように顔を上げ、話を全く聞いていなかったというのがよくわかる表情でエスポワールを見つめる。


「男の人にピンチから助けてもらいたいって思うでしょ?」


「あ……ええと……」


 視線がエスポワールからライズに移る。手近にいた男性という事であろう。しかしすぐに気まずさがやってきたのか、目をそらしてぶつぶつと小声で呟く。


「シルビアちゃん?」


「わっ! 私はっ! そういう質じゃないからなっ!」


 非常にうわずった声で答える。その反応を受けてクルルとエスポワールの両名が目配せをしてクスクスと笑う。


「わ、笑うな!」


「シルビアちゃんかーわいいー」


「からかうな!」


 とても楽しそうにクルルとエスポワールがシルビアを弄る一方で、ライズは内心シルビアに同情する。昨日、シルビアがライズを拒絶した事を、ライズはあまり気にしていない。差別されるのは日常茶飯事だったし、ましてやシルビアがそれを後悔しているのなら尚更気にする事もない。しかしシルビアは違う。少なくとも、ライズが気にしていないのだから謝らなくとも良い、などという考えは持っていない。


 謝罪をしたいのは山々である。が、後悔と罪悪感、そしてライズを更に傷つけてしまうのではという恐怖が、シルビアに一歩を踏み出す勇気を阻ませていた。加えて、ライズがシルビアを許しているという事も、彼女に精神的な負担を掛けていた。


(……俺がいると、こいつの気が休まらないか)


 シルビアの心情を伺い知り、ライズは立ち上がる。


「ライズ君?」


「先生に報告があるの忘れてた。ちょっと長くなるから、席外すわ」


 クルルが呼び止める声に振り向く事もなく適当な理由を付け、その場を去る。右手には全く手を着けていないパンの入った袋が提げられていた。


「……あ、おいっ!」


 シルビアの声。その声色には少しばかり焦りが見える。


「気にしないでいいよ。別に、一緒に飯食うなんて今日じゃなくていいんだ」


「そうじゃない、待って、ライズ!」


 名前を呼ばれやっとライズは立ち止まる。そして少しけだるそうに肩を落とし、シルビアの言葉を待つ。



「そ、その……あ……えっと……」


「別に今日じゃなくてもいいって」


「いや、言う。言うから、少し待ってくれ!」


 そう言うとシルビアは二人のいる方へと振り返る。二人のリアクションは同じ。握り拳を二つ胸の前に持ってきて、応援の眼差しをシルビアに向けている。シルビアはそれに無言で頷き、深呼吸を三回。そしてライズのいる方へと向き直る。


「きっ……昨日はぁ! ……昨日は悪かった! お前の気持ちも、クルルの気持ちも考えてやれなくて、自分勝手でひどい事をしてしまった!」


 シルビアは頭を深々と下げ、続ける。


「本当に、本当にすまなかった!」


 二人の間を、晩春とも初夏ともつかない生ぬるい風が通り抜ける。どこかの気が抜け落ちたまだ青々しい葉が地面に擦れる音を、ライズは音のみで察知する。


「……謝罪の気持ちがあるなら、俺はそれでいいよ」


「でも……」


「もしも俺がただ許すだけじゃ気が済まないっていうなら、そうだな……」


 くるりと踵を返し、シルビアの目の前で跪く。少し驚いた表情で迎える彼女に、ライズは口角を上げて応える。


「お前のサンドウィッチ、一つくれないか?」


「えっ……? あ、え?」


「ダメか?」


「え? い、いや、ダメじゃない!」


「んじゃあ、一つ貰うよ」


 ライズは立ち上がり、未だ頭を下げた体勢のままのシルビアの横を通り、ベンチの上に置いてあるシルビアの小箱からサンドウィッチを一つ掴む。


「これでチャラだ。それじゃあな」


「あっ……」


 シルビアは呼び止めようとするが、何も言い出せずただライズの背中を見送る。


 なぜだろうか、心がさっきよりも軽くなったのを感じる。心の内を吐き出す事はつまり心の重りを下ろす事。クルルがシルビアと出会った時に言った言葉だ。その時と同じ気持ちが、シルビアの中にはあった。



 簡易闘技場にて行われている個人の実戦訓練を見るわけでもなく、ライズは闘技場の戦いを眺める。互いに譲らない接戦だ。ほとんどないのだが、あまりにも試合時間が長く、後の訓練が詰まるようだった場合、教師によって引き分けとなる場合がある。もしかしたらこの戦いも、引き分けに終わるかもしれない。


「はぁ……」


 ため息を一つ。憂鬱な気分を紛らわすための行動は、残念ながらあまり効果はない。


「どうしたの、ライズ君」


 クルルが武器の棍を振り回しながらライズに近寄る。彼女からは運動をした後特有の熱気と息づかいを感じる。恐らく、自分の訓練は終わったのだろう。


「これからみんなに二重紋様を御披露目すると思うとな」


「平気平気。そんなに気負わないの」


「そうなんだけどな……」


 腰から双剣を抜き『蜘蛛』の紋様を展開し、右手に持っていた剣を手から離す。


「おおー、二重紋様?」

 ライズの剣はビデオカメラに収めた映像をスローで再生させたかのようにゆっくりと下に落ちる。『蜘蛛』の紋様の能力は束縛。触れた物質や紋様を施した物質の運動を緩慢にさせる、比較的有名な紋様だ。


「これはただ束縛してるだけだよ」


 空中に浮かぶ剣を手に取ると、ライズは次に『花』の紋様を発動する。右手に『蜘蛛』、そして左手に『花』。ライズは左手に持つ剣から手を離す。


「……わ、すごい」


 剣は緩慢に落下する事はなく、刃を地面に向け重力に身を任せるように落下した。しかし剣は地面に落ちる事はなく、空中に留まる。糸をくくりつけた硬貨のようにゆらゆらと左右に揺れるその様は、クルルにはあまり馴染みのない光景だった。


「『花』の延長。普通は物質を少しだけ延ばしたりする紋様なんだけど、なぜか俺の場合だけこうして『蜘蛛』の力が及ぶ範囲を糸みたいな形にして延長させる」


「どういう仕組みなの?」


「『蜘蛛』で剣を完全に束縛してる状態。右側の束縛を緩めれば左に、左側の束縛を緩めれば右に移動するよ」


「へぇー、これで剣をビュビュッて自在に操るんだ?」


 クルルは不思議そうに、興味深そうにライズの手と剣を眺める。実際にまじまじと二重紋様を見せたのはこれが初めてになる。その上でもクルルは全く二重紋様を気にした様子はない。その反応が、ライズに少しだけ勇気を与えていた。


「クルル」


「ん?」


 剣から目を離し、ライズを見る。相変わらずまっすぐ目を見つめられるというのには慣れない。


「ありがとうな。少し気が楽になった」


 クルルはまばたきを一つ、そのままライズにはにかんで見せる。


「えへへ、良かった。ライズ君、少しだけ僕と会った時みたいな顔してたから」


「……そんな顔してたか」


「してたよー、こうやって目を細くして不機嫌そうに」


 クルルが眉間にしわを寄せ口をへの字に曲げる。顔真似のつもりなのだろうが、顔芸のような表情になっている。恐らく、自然にこうした表情になる人間はあまりいない。


「……似てねえよ」


「えー、絶対してたよー」


 互いに笑い合う。この光景を教師が見たらどうするだろう。待機中は遊びの時間ではないと叱られるに違いない。周囲にいる教師の視線がこちらに向いていないのを確認すると、内心で胸をなで下ろす。


「…………あ、そうだ。ライズ君」


「何だ?」


 手を後ろに組み、やや前屈みの姿勢でライズの顔をのぞき込むように見る。


「今日の訓練。ライズ君が勝ったらさ、その……今週の休みにでもどこかに遊びに行かない?」


「……別にいいけど、なんでそんな条件付きなんだ?」


「そっちの方が、試合頑張ろうって思うでしょ?」


「え、いや…………あ、えっと……」


 いや別に。そう言おうとした直前にクルルの真意を悟り、言葉が一瞬詰まる。


「次、ライズ・デュエル!」


 何を言おうかと迷った隙に、ライズの名前が呼ばれる。訓練の番が回ってきたのだ。


「あー……それじゃ、デートのために頑張るよ」


 咄嗟に捻り出した言葉にしては上出来と自分を誉めながら、ライズは自分を呼んだ教師のいる簡易闘技場へと駆け足で向かう。


「…………デート、かあ」


 残されたクルルは頬に手を当て温度が高くなっているのを感じる。同時に気分の高揚を感じ取り、最後にライズの言った言葉を反芻(はんすう)する。


「えへへ〜」


 顔が紅潮しているという気恥ずかしさからクルルはその場にしゃがみ込む。端から見れば具合が悪いかのようにも見えるその体勢の裏で、クルルの表情は笑顔に満ちていた。



 ライズの到着をポニーテルで眼鏡を着用した美人教師が確認すると、闘技場に入るよう促す。呼ばれてからやや時間がかかったため、何か言われるかと思ったが、駆け足で来たのが幸いしてか、少し睨まれるだけで済んだ。


「……ライズ・デュエル?」


「はいっ!」


 闘技場に入ろうとするライズを女教師が呼び止める。背筋を伸ばし、回れ右の動きで教師を見ると、怪訝そうな表情がライズの視界に飛び込んだ。


「……顔色が悪いぞ。大丈夫か?」


「え? そ、そうですか?」


「具合が悪いのなら保健室にでも……」


「あ、いや、大丈夫です。少し緊張してるだけなんで」


 否定するライズを見て、教師は更に眉間にしわを寄せる。この教師、美しい容姿に反して厳しい物言いで有名であった。不真面目な態度の生徒にはもちろん、無理をして授業に出るような生徒にも「自己管理がなっていない」と怒号を鳴らす、生徒の間では恐れられている人物なのだ。


「…………まあいい、気分が悪くなったらすぐに申し出る事」


「はい!」


 体調が悪いと思われないよう快活に返事をして闘技場に踏み込む。なるほど、自分は今、具合が悪い程にまで緊張しているらしい。そう自覚すると、少し心臓の鼓動が早くなった。


「ライズ、大丈夫か?」


 ライズを心配する声が聞こえたのは正面。闘技場の対面に位置する人物からだ。


「……は?」


「もしかして、昼にあげたサンドウィッチが悪くなってたのか? ああもうどうしよう私のせいだ……えっと、ど、どうしよう……」


 そこにいたのは、先日ライズを迫害し、そして本日謝罪の意を示したシルビア・カンパネラ本人であった。短い緑髪を揺らし、あたふたと周囲に助けを求めるように首を振っている。


「ち、ちょっと待て、今日の相手ってお前なのか?」


「え? あ、ああ。そうだよ。でもそんなんじゃ戦えないだろ」


「いや待て、大丈夫だ。体調が悪いんじゃない。少し緊張してるだけだ」


「緊張? 緊張って……え、緊張?」


 三回も同じ言葉を繰り返し、ようやくシルビアは言葉の意味を理解する。


「そう、少し緊張してるだけだ。だから気にしなくていい。それとサンドウィッチは美味かったぞ」


「あ、うん……ありがとう」


 ぽかんと口を開けてライズの言葉を聞いた後、シルビアは安堵のため息と共に胸を撫で下ろした。


「……ライズ、本当に大丈夫なのか?」


 闘技場の外から女教師が話し掛ける。


「大丈夫です。初めてください」


「……わかった。それでは模擬戦を始める。用意」


 女教師が手を振りかざすと同時にライズは双剣を腰から抜き取り、順手に構える。シルビアはそれから寸分遅れて彼女の武器であるブーメランを取り出す。


「始め!」


 掛け声と共にライズは前に飛び出し、右手の剣を振り上げる。シルビアはそれをブーメランで引っ掛け、受け止める。


「甘い!」


 ライズは空いている左の剣でシルビアの肩を狙う。多くの人の利き手側である右肩。そこにダメージを与える事は、多くの場合に戦況を有利に進めるきっかけとなる。


「……ふっ!」


 すんでのところで剣を躱し、シルビアは体勢を崩す。ライズは身を低くし足払いを仕掛けるが、シルビアはあろう事かブーメランを地面に突き刺し、側転の要領で足払いを避ける。


「っと、危ない危ない」


「冗談みたいな身体能力してるな。ランキングは何位だ?」


「私? 百二位だよ」


 意外な事実を知らされた。初対面は状況の判断能力に乏しい、協調性のない人物かと思っていたが、そうでもないらしい。百位の大台に乗る人物ともなれば実力だけでなく冷静な判断能力も試される。ライズは途端に勝利が遠のいた感覚を受ける。


「でも、今の連撃は危なかったな。大方五百六十位ってのも手加減してたからでしょ」


「まあな、でも、それももうやめた」


「え? ……それって、もしかして」


 シルビアは背中に寒気が走るのを感じた。そして一瞬それに気を取られ、対戦相手であるライズの動きを見ていなかった。


 ライズは膝を曲げ、前屈みに膝の横から何かを取り出し、上空に投げた。何を投げたのか、あるいは何も投げていないのか、シルビアには判断がつかない。


「油断するなよ?」


 その言葉を最後に、シルビアは神経を視覚に集中させた。ライズの動きが変化していたのだ。剣の持ち手を順手から逆手に、そして接近しながら腕を僅かに動かしていた。これが何を指し示すのかシルビアには理解できない。だが、一つだけ、ライズが何をしようとしているのかだけは、理解できた。


「くっ……二重紋様か」


 剣撃を受け止め、時には躱しつつ、小声で尋ねる。ライズは微笑を浮かべ、後ろに飛び退く。


「正解だ、シルビア・カンパネラ」


 手に持っていた双剣をシルビアに向けて投擲する。いや、正確にはシルビアに向けてではない。回転する剣の軌道は、ちょうどシルビアの横を通り過ぎるような、そんな軌道をしていた。


「……!」


 シルビアは剣の軌道を読み、上空に跳ぶ。それと同時に剣は曲がり、シルビアのいた地点で交差する。


「嘘だろ……変化前に反応するかよ普通」


 愚痴をこぼしつつもライズは腕を引き、次の攻撃を繰り出す。


(空中で動きが不自由になる中、真っ先に狙われるのは……)


「……後ろかッ!」


 シルビアは身体を捻り、空中に居ながらにして後ろを向く。視界には、回転しながら接近する小さな物体があった。


「はァああああああああッ!!」


 奥義『こがらし』。ブーメランを『扇』の紋様で巨大化、それを地面に対し垂直に持ち、横に振る。空気を押し潰すように振るわれたそれは、空気の渦を作り出し剣の軌道を大きく歪ませる。


「……やっぱりふざけた身体能力してやがる」


 苦い顔をしながら、地面に転がる双剣と、空中で不安定な動きで落下する双小剣を回収する。後ろでシルビアが着地した音を確認すると、膝に双小剣を戻し、剣を順手に構える。


(空中にいるのなら!)


 ライズは自身と両手に握る剣とを『蜘蛛』そして『花』で繋ぎ、シルビアに向け投げる。しかし剣は彼女に直撃する軌道を描く事なく、左右に避けるように曲がる。


「これでどうだぁぁぁぁぁ!!」


 裏技『ファレノプシス』。分かれた剣はそれぞれ不規則に曲がり、シルビアの視覚を撹乱、強襲する。


「なっ! ぐっ!」


 死角から襲い来る剣撃をシルビアは背中で受ける。空中でバランスを崩す事の危険性を知る彼女は剣撃の回避を諦め、姿勢を維持したままの着地を優先する。


「……チッ」


 初撃を受けてから着地をまでに四度、死角からの剣撃を受けた。無論、刃は入っていないし、ライズの剣は刀身が短く軽い。思い一撃は受けてはいないものの、シルビアの身体には着々とダメージが蓄積されていった。

「……凄いな、ライズ」


「初見で俺の剣見切る奴が言う台詞じゃないな」


「いや、凄いぞ。お前は間違いなく私より強い」


 若干おぼつかない足取りでシルビアはライズと距離を詰め、足を肩の幅まで広げる。息は少し荒く、額には脂汗がじっとりと滲み、天辺を目指す太陽の光を反射する。


「まあ、デートがかかってるんでね。少し負けられないんだ」


「デート?」


「これに勝ったらクルルがデートしてくれるんだってさ」


「は?」


「あいつなりに俺を励ましてくれてるんだと思う。だったら俺は、それに応え……」


 身体を上下で真っ二つにするかのようなブーメランの一撃がライズの腰を襲う。鋭い鈍器となったシルビアの一撃はライズに突然の衝撃を二重に与え、受け身を取らせる事もなく右に吹き飛ばす。


「がっ!? いってぇ……!!」


 奥義『春一番』。サイズの小さいブーメランを投擲直前に『扇』の力で巨大化、相手の反応を一瞬遅らせ、不意打ちを狙うシルビアの十八番。よもやあの場面で攻撃をするとは思いもしなかったライズは反応が大幅に遅れ、防御の体勢になる事すら適わなかった。


「……これに勝ったら、クルルとデートなんだな?」


「そうだけどシルビア、お前の全身からほとばしる殺気の原因はなんだ?」


「そうか、私に勝てばデートか……なら、絶対に勝たせる訳にはいかないなぁあああああああ!!」


 奥義『山颪』。ブーメランを巨大化、そして跳躍し自身の体重と共に叩きつける中距離戦闘を得意とするシルビアには珍しい近接格闘技。さすがに反応したライズは横に跳躍する事でそれを回避、双剣を投擲するために後ろへ跳び、距離を取る。


「甘い!」


 奥義『旋風』。時間差でブーメランを四つ投擲。それぞれライズの向かう先へ回り込み、動きを躊躇させる。


 それだけではない。シルビアは巨大化なブーメランを引っさげたまま動きの止まったライズへ突撃をする。その姿はまさに猪突猛進。大得物となったシルビアの一撃を、ライズの剣で受け止めるのは適当ではない。しかし左右に回避する余裕もない。


 ならば。


(上だ!)


 上に跳ぶ。同時に追撃を受けないよう、持っている双剣を投擲する。無論『蜘蛛』『花』、両方の紋様を発動してだ。


 その時、場外にいる女教師と周囲にいる生徒数名がライズを凝視しているのが目に映った。特に女教師の顔は青ざめている。模擬戦直前にライズの顔色が悪いと言っていたが、もしかしたらあんな顔をしていたのかもしれない。


 驚くなら驚けばいい。ライズは笑みを浮かべると、左右の手の甲に分かれて表れている二つの紋様を見せるように、両膝に仕込んだナイフ程の小剣一対を取り出す。


「どうして俺とクルルがデートするのを阻止しようとするんだ」


「お前みたいな不束者ふつつかものにクルルを任せるわけにはいかない!」


 普通その言葉は自分を卑下するために使うのであって他人に言うものではない。という感想を胸に、シルビアがライズに遠慮するのではないかという疑問が杞憂に終わった事を嬉しく思う。ライズとて、勝たせてもらう形で二重紋様を披露したくはなかった。


「周りも感づいてきた。あんまり長引いても引き分けになる。これで終わらせてもらう」


「言っていろ! 私は這いずってでもお前を勝たせないぞ!」


 シルビアが叫ぶ。その間にライズは両手の剣を上空へ放り投げ、直後にダッシュでシルビアと距離を詰める。


「視線誘導のつもりか! もう効かないぞ!」


 ライズの手に剣はない。ならばライズが接近した理由はシルビアを攻撃するためではない。狙うのは、空中で投げた双剣。


「そうは問屋が……あ……ッ!」


 シルビアは振り向き、剣を散らそうとした。そう、散らそうとしたのである。


 しかし剣は地面には存在せず、代わりとして双剣はシルビアの脇腹に、突き刺さるようにえぐり込んでいた。


「なん……え……?」


 追い討ちを掛けるように、剣から『蜘蛛』の紋様が発動する。これが指し示す意味が何か、シルビアは理解する間もなくライズがシルビアの前に到達する。


 紋様剣『蓮華』。あらかじめ直接触れた物質に『蜘蛛』の紋様を掛けておき、剣を操作。その物質に触れた物質に対し『蜘蛛』の効果を与える。『蜘蛛』に限る訳ではないが、紋様の効果を留め置く技術を必要とする、高等な技であるのは間違いない。


「……どうやって地面に落ちた剣を動かした?」


「何、お前、これの仕組み知ってんの?」


「野球の変化球みたいなものだろう。大体そんなイメージで動いていた」


 ライズの二重紋様はあくまで『蜘蛛』で剣に束縛を掛け、軌道を操る事。当然そのためには剣が何かしらの運動をしていなければならず、静止している物質は動かす事ができない。


 しかしライズは、シルビアを牽制する目的で地面に投げた剣を動かした。それがシルビアにはわからなかったのだ。


「剣が落下する運動そのものを遅延させただけだよ。お前が見ていなかっただけだ。後は遅延を解除して重力に乗せた後、方向を変えた」


「……全く、とんでもない能力だな、二重紋様は」


 シルビアの身体は『蜘蛛』の影響で自由に動かない。その上でこの距離までライズに接近され、そのライズも攻撃の姿勢が完璧に整っている。敗北を悟ったシルビアは瞳を閉じ、ライズに羨望にも感じ取れる言葉を吐く。ライズに勝たせないと言っていたが、負ける時は潔い。その覚悟、ライズは嫌いではない。その覚悟を裏切らないよう、ライズはシルビアの脇腹に突き刺さっている双剣を抜き取り、全力でそれを振りかざす。


 裏技『アルストロメリア』。先程上空へ放った双小剣とライズ自身による連続攻撃。ただ切るだけではない。『蜘蛛』で動きを束縛されている中、ライズ自身が動き回り斬撃する箇所を変える。シルビアはこの攻撃を避ける手段も、防御する手段も、ましてや耐え抜く手段も、持ち合わせてはいなかった。


「悪いなシルビア。俺が負けるとクルルの面目もなくなるんだ」


「いいよ……完全に私の負けだ」


 紋様を解除。同時にシルビアが力無くその場に膝を突く。あれだけの連撃を受けておきながら倒れないのは、さすがランキング上位なだけはあるか。


「……先生、終了しました」


「えっ、あ、ああ……そ、そこまで! 勝者ライズ・デュエル!」


 動揺しているのが目に見てわかる。それもそうだろう。世界でも希有な二重紋様を持つ人間と出会ったのだ。何も思わないはずはない。


「さて、立てるか?」


「ああ……ありがとう。しかしいよいよ凄いな。剣を操りながら剣で攻撃できるのか」


「やるととんでもなく疲れるんだけどな。まあ、今のが俺の本気だ」


「はは、いやあ、あの手数だ。剣撃を避けるのも精一杯だったよ」


 手を貸すつもりで手を出したが、思いのほかシルビアがふらふらとしていたので肩を差し出す。互いに笑顔で闘技場を降りた所で、二人の前を女教師が立ちふさがった。


「ライズ・デュエル。お前は……」


「はい、お察しの通りです」


 ライズは空いている左手を差し出し、二つの紋様を交互に見せる。


「『蜘蛛』と『花』。二つの紋様を僕は所持しています」


「……そうか、わかった……お前もいろいろ考える所があったのだろう。もういいぞ。お前の勝ちだ」


 女教師は何かを察し、手に持つペンを紙に走らせる。勝敗の記入だろう。この教師がライズを見て何を察したのか、直接知る由はない。しかし、少なくとも彼女の瞳は、ライズを軽蔑する眼差しではなかった。


「ライズ君!」


 静寂を破り裂いてクルルが視界の外から駆け寄る。ライズがそれを見やると、急に止まったのかやや前につんのめった姿勢になっていた。大方、ライズに飛びつこうと思ったがシルビアに肩を貸しているのを見て思い留まったのだろう。


「ライズ君、おめでとう!」


「ああ、ありがとう。お前のおかげだよ」


「えへへ〜」


 手を後ろに組みもじもじと身体を揺らすクルルの正面、ライズの横で肩を借りているシルビアの表情があからさまに険しくなったのを横目で確認したが、あえて気にしない事にする。


「シルビアちゃんも、手加減なしで戦ってくれてありがとう。身体は大丈夫?」


「え? あ、そうだな。ライズ、もう多分歩ける。離して良いぞ」


 言われてライズはシルビアと組んでいた肩を離す。シルビアは数回の屈伸運動と腕の旋回運動をした後、何事もなかったかのように自身の足で歩き出す。


「本当に冗談みたいな身体能力してるのな」


「シルビアちゃん、身体の頑丈さでいえば僕より強いもんねえ」


「お前に頑丈さが加わったらもう手が着けられなくなるだろう」


 談笑をしながら三人は模擬戦を見守る教師やウォームアップをしている生徒達の邪魔にならない校舎の壁際へと向かう。


 その途中。


「…………卑怯者」


 率直にて愚直。混じり気のない悪意の塊のような言葉がライズの耳に入る。声は女性のそれだ。そこそこに声量もあった。まるで、そう、その形容詞をあてがわれた者に聞かせるためではなく、周囲に言葉を認識させるためであるかのように、姿の見えない悪意は言葉を漏らした。


「……誰だ、今の」


「気にするなシルビア」


 怒りをこれでもかと露わにした表情を浮かべ、シルビアが呟く。それに対しライズは無表情のまま、声の主を探そうとする事もなく歩を進める。


「でも……!」


「二重紋様を明かす決意をした時点で覚悟はしていた。それに、誰が言ったのかを探っても意味はないんだ。どうあっても二重紋様を拒否する人はいる。別に俺は差別を取っ払おうとしているんじゃない。だから、別にいいよ」


 最も予想できていた事だ。最初に覚悟した事だ。気にする必要はない。気にする必要はないのだ。なのに、そうであるはずなのに。


 なぜ、こんなにも怖いのだろうか。手が、足が、全身が震える。身体に力が入らない。今すぐにでも校舎の壁にもたれ掛かりたい。それなのに壁は遠くに佇み、ライズに絶望を与える。果たして自分は壁に辿り着く事ができるだろうか。そんな弱音が心を支配する度に、意識が飛びそうになる。


「……ライズ君」


 ライズの異変に気付いたのか、クルルは不安そうにライズの顔を見上げる。気にしないで欲しい。助けて欲しい。相反する感情が同時に湧き上がり、息が詰まる。


「穢れた紋様が……!」


 ライズの心を踏みにじる新たな悪意が周囲に響く。ライズの膝は身体を支える事なく地面に崩れ落ち、両膝と右肘を地面に突く形でようやくその身体を支える。


 そしてそれと同時に、鬼神のような面持ちでシルビアは振り向き、叫ぶ。


「ぅお前らァッ!!!!」


「言っていい事と悪い事があるだろうがァッ!!!!」


 轟音と形容しても遜色のない、耳を鋭くつんざく声が周囲の声をかき消し、静寂を呼び起こす。怒号は二つ。シルビアと、男の猛々しい声だ。


 その声を、ライズとクルルは知っていた。いや、覚えていたと言うべきか。知り合ったのはごく最近、故にその声は、二人の記憶に鮮明に残っていた。


 今日の朝、ライズに対する噂を知らせ、真偽を問いただした、名も判らないクラスメイトだ。姿は見えない。彼もまたライズが二重紋様である事を知り、その上でライズを庇い叫んだであろう事は、その言葉から想像できた。


「二重紋様が卑怯だの何だの……物陰に隠れて安全な所からよく言えるな!」


「ち、ちょっとやめなよケン……」


「うるせぇ。友達がこんな陰険な奴らに好き勝手言われて黙ってられるか」


 男子生徒はその場から移動し、迷いなく一直線にライズの元へ歩く。膝を突き、尚も精一杯に自身の体重を支えるライズの姿を見て、唇を噛み締める。


「……お前!」


「今は後だ」


 シルビアと男子生徒が顔を見合わせるなり言葉を交わす。が、男子生徒は表情を変える事なくそう言い放ち、校舎の壁に背を向け大衆を見る。


「お前らはライズの戦いを見てどう思った。卑怯に見えたか、穢らわしいと思ったか!」


 大衆に対し大声で語りかける。ライズに陰から物を言った者達に対し、そして言わなかった者に対して。


「俺は全く思わなかった。ライズとシルビアは全力で戦った。純粋に力をぶつけ合った。そこに卑しい手段も穢れた力もない!」


「ケン……」


 シルビアが呟く。そして意を決したように、ケンと呼ばれる男子生徒に続け、大衆に言葉を発する。


「ライズは、今まで二重紋様である事を隠してきた。同時に、万一にも他人にバレる事のないように、人と関わる事を極力避けてきた。でも、それが変わったんだ。『魔女の黒猫(ウィッチズキャット)』、クルルによってな」


「シルビアちゃん……」


「クルルがライズの二重紋様を受け入れてくれたのをきっかけに、ライズは人と関わるようになったんだ。そして今日、ライズはこうして二重紋様である事をみんなに知らせた」


 シルビアもまた、ライズの二重紋様を疎ましく思っていた。しかし、その考えは自分の気持ちではなかったのだ。クルルを危険から守りたいという考えから、二重紋様という、通常とは異なる性質を持ったライズを遠ざけたい。そう思っていただけだった。


 結局、その考えはクルルの意志と行動によって無碍になり、彼女に残ったのは友の意志を阻害したという後悔と、他人を傷付けたという罪悪感だった。


「……ライズ君は、こうして二重紋様を知らせる事でみんなに差別されるかもしれないっていうの、知ってたんだよ」


「クルル……」


「それでも二重紋様を知らせたのは、みんなと仲良くなりたいからなんだ」


 クルルが二人の一歩前へ踏み出し、語りかける。誰よりも優しく、しかし沈黙した場によく通る声で、言葉を紡いでいる。


「ライズ君は、みんなに受け入れられないかもとも、言ってたよ。陰口を言われた時も、気にするなって言ってた」


 ライズはクルルの言葉を聞いていた。かつて自分を助けてくれた人かもしれないという理由でつきまとい、そして無理矢理閉ざされた心を開いた、無二の友の言葉をだ。


「だから僕は、陰口を言った人を責めたりしません。でも……」


 ここでクルルの言葉が止まる。しかし絞り出すような声で、クルルは思いを言葉にし続ける。


「ライズ君は強がりだから、陰口から何か言われると立ち上がれなくなるくらい弱いから……だから……」


 クルルは深々と頭を下げる。そして、叫んだ。


「ライズ君を嫌いになってもいいです! だから、陰口を言ったりとかはしないでください!」


 それは、願い事というにはあまりにも望みの低い、しかしライズの気持ちを知る彼女だから出来る、精一杯の願いだった。


「…………もういいよ、クルル」


 クルルの後ろから声。他でもない、先程まで地面に膝を突いていたライズだった。今は立ち上がり、首を回してあくびをしている。


「ライズ君! だ、大丈夫なの?」


「ああ、元気出た。ありがとう」


「ライズ君……」


「はいはい、そこまでだ」


 今にも泣いてライズの胸に飛びつきそうなクルルを邪魔するように、事態を傍観していた教師の一人、ライズとシルビアの試合を見ていた女教師が手を叩きながらライズ達の元へ歩み寄る。


「全く、授業を中断させて。お前ら、ライズがどれだけ好きなんだ」


「え、あ、いや、あの、僕は……」


「どれだけ慌てるんだ」

「あの……はい……」


 顔を真っ赤にして俯くクルルを尻目に、女教師はため息の後に続ける。


「今日の授業はここまでとする。本日模擬戦のできなかった者含め、自主練習で自分の課題を克服する事」


 その言葉を皮切りに、大衆がにわかに騒ぎ出す。言葉の中身はさすがに聞き取ることはできないが、少なくとも授業が終わった事に喜ぶ声ではなさそうだった。


「それと、クー・ロウフェンとミケル・ゲイナーは後で話がある。職員室に来る事」


 彼女の言葉に、大衆から明らかに反応の違う声が二つ響く。その反応を待っていたかのように彼女は笑みを浮かべ、そして言い放つ。


「陰からなら何を言ってもわからないと思ったか? その腐った根性を叩き直してやるからな。覚悟しておけ」


 その場にいた生徒全員が震え上がりながら、簡易闘技場を後にする。彼女の指導は悪魔をも畏れる。噂で聞いただけだが、果たしてどのようなものなのか、意味のない疑問がライズの頭に浮かぶ。


「……さて、お前らも解散しろ。授業中断に関しては見逃してやる」


「え……」


「見逃してやると言った。行って良いぞ」


「あ、はい! ありがとうございました」


 その場に居残った四人全員が頭を下げ、その場を後にする。やれやれといった表情で背中を見つめるその眼差しは、教師というよりも、母親のそれに近しいものがあった。


「……フォルス先生」


「おやモリス先生、いらしたんですか」


 授業を担当していた教師の一人であるモリスが、授業を中断させたフォルス・アイリスに近寄る。


「はは、事態を収拾しようと機会を窺ってたんですが、無意味だったみたいですね」


「授業を勝手に終えた事に関してはお咎めなしですか」


「私も同じ事しようと思ってましたから問題ありませんよ。それよりライズの事ですが……」


「ああ、問題ないでしょう。彼は良い仲間を持ちました。あの時のようにはならないでしょう」


「やはり、そう思いますか」


「ええ」


 かつて、彼らが学生であった頃。その過去を思い出す。壮絶であった。そして悲惨であった。一教師として特定の生徒をひいきする事はできない。しかしそれでも、何か力になれる事があるならと、二人は互いに思い合っていた。

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