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第二話 慟哭

「報告は以上です」


「……ご苦労。一部始終は監視カメラも記録してある。犯人もじきに捕まるだろう」


「監視カメラ?」


「ああ、こういう時のために小屋の近くに設置してある。お前らの戦いもしっかりと記録してあるぞ」


 ニヤリと口角を上げ、学年主任のモリスが言う。その表情とは真逆に、ライズの内心は焦りに満ちていた。


「あ、あの、それって公開されたりは……」


「必要があれば行う……が、恐らくはされないだろう」


 モリスはライズの右手を見やり、言う。その監視カメラの精度がどれほどのものなのか知らないが、少なくともモリスはライズの秘密に気付いている様子だ。


「……確認のために聞く。お前は二重紋様なのか?」


「……はい。『蜘蛛』と『花』。二つの紋様を持っています」


「そうか……」


 モリスは顎に生える髭をなでながら少し考える素振りを見せる。


「もし、俺がいる事でこの学園に迷惑がかかるなら、俺はここを辞めます」


「ん?」


「二重紋様の存在がどういうものか、俺もよく知っています。だったら……」


「待った、待った。何を勘違いしているのかは知らないけど、俺はお前をどうこうしようなんて考えちゃいないんだ」


「……では、晒し上げでもするんですか?」


「どうしてそうネガティブな考えになるかなあ……」


 モリスは苦笑いを浮かべて机越しにライズの肩に手を置く。煙草の臭いが少し鼻に付いて、足が自然と半歩後ろに下がる。


「お前が思っているほど、この学園は心の狭いヤツばかりじゃない。お前を理解してくれるヤツだっているさ。そんなに隠す必要はないんだ」


「でも、実際にあの場面にいた二人には……」


 シルビアの敵対する視線。クルルの驚愕を示す視線。どちらも忘れていない。今までの人生で、二重紋様に対して良いイメージを持つ人間が圧倒的に少ないのはよく知っている。二重紋様など気にしない、自分は分け隔てなく接する事ができる。そう思っている人間ですら、いざ二重紋様である自分と出会うと離れていった。


 そういうものなのだ。昔から穢れとされてきたレッテルは、そう簡単に剥がせるものではない。


「……シルビアはともかく、クルルが二重紋様でどうこうするとは、俺は思えないがなあ」


「どういう事ですか」


「どの学年も、上位ランカーは変人ばっかりだ。クルルはその中でも人当たりの良さ、人懐っこさで一種のカリスマ性のようなものまで見せる。知ってるだろ、あいつの異名」


 クルルの異名『魔女の黒猫』。だが、だからといってクルルが二重紋様を拒絶しない理由にはならない。


「まあ、俺が言えるのはこれくらいだ。二重紋様を理解する人間ってのは存在する。俺もその一人だ。何かあったら俺に相談するといい」


「…………失礼します」


 モリスに一礼。くるりと背中を向け、出口へと向かう。


 結局、何の答えも得られてはいない。今までずっと隠し通してきた二重紋様を、今更明かす事などできるはずもない。


 ドアノブを捻り、廊下へと出る。窓から空気の入れ替えがされているせいか、部屋の中よりはいくらか涼しいような気がする。


「よっ、報告お疲れ様」


 廊下に出た先で待っていたのは、魔女の黒猫。クルル・クレッセントだった。


「…………」


「あ、待ってよ、話しようよ」


 無視して横を通り過ぎようとしたのをクルルが腕を掴んで阻止する。その腕を咄嗟に振り払い、クルルを睨む。


「もう俺に関わるなと言った」


「嫌だよ。僕、ライズ君に訊きたいこといっぱいあるもん」


 クルルが再びライズの腕を掴む。今度は振り払われないように、強く。クルルのその行動に、ライズの心に苛立ちが募る。


「俺はお前に話す事は何もない」


「僕があるの!」


「うるさい! 俺に近付くな!!」


「僕は!!!!」


 クルルの怒鳴り声に、ライズの動きが止まる。怯んだからではない。クルルの声が、聞いた瞬間にわかるほどに、悲しんでいたからだ。


「僕は……ライズ君がどんな人間でも気にしない。ライズ君はライズ君だ」


「……嘘だ。みんな最初はそう言うんだ」


「嘘じゃない」


「嘘だ! みんなそう言って、最後には俺を拒絶したんだ!! もう誰も信じるもんか!」


 過去のトラウマが頭を過ぎる。自分を見る冷めた視線。存在を否定され、邪魔だと言われ続けた二年間。吐き気と憎悪が入り混じり、立つのも苦しくなる。息も上手くできない。どうして、なぜ、ここまでクルルという人物に心を引っ掻き回されなければいけないのだろうか。一体何の目的があるというのだろうか。


「俺が何をした! 何が目的だ!!」


「ライズ君、落ち着いて。自分から人を拒絶したらダメ!」


 半ばパニックを起こしているライズを宥める。が、クルルの言葉は届かない。


「拒絶したのはどっちだ! 俺がどんな思いをしてきたか、わかっているのか!!」


「僕はライズ君の味方だから、僕はただ……」


「もう俺に近付くな! 鬱陶しいんだよ!! 邪魔なんだよお前はっ!!」


「ライズ君!!」


 クルルがライズに抱き付く。いや、これは寄りかかると言った方がいくらか正しい。ライズの胸に頭を付け、腕を掴んでいない左手はライズの肩の上にある。クルルは身体を震わせば、時折鼻水をすするような仕草を見せる。


「……クルル?」


「僕はライズ君の味方だから……僕はライズ君を拒絶したりしないから……だから……」


 胸の辺りが湿るのを感じ、ようやくライズは気付く。クルルがなぜ、こんな事をしているのかを。そしてライズが悟るのを待っていたかのようにクルルが顔を上げ、ライズを見上げる。


「……うっ」


 なんとも申し訳ない気持ちになる表情をしているクルルの顔が、そこにはあった。涙と鼻水を垂れ流し、口は涙を堪えようとへの字に曲がり、呼吸は不安定に嗚咽を繰り返している。数十秒前までクルルを邪険に扱っていたライズも、この表情には何も言えない。それほどまでに彼女は幼かった。


「そういう事言っちゃダメだよぅ〜」


「わ、わかった。お前の言いたい事はわかったから、ひとまず人の服に涙と鼻水を擦り付けるのをやめろ」


 そう言ってクルルを引き剥がすと、ライズはポケットからハンカチを取り出しクルルの顔中に付いた水やら粘液やらを拭き取る。汚いとは思わない。後で洗えばなんともない。ライズの無関心な性格のなせる、即座の判断である。


 もっとも、クルルの表情が見るに堪えない状態であったのもあるが。


「……さて、俺も少し昔の事を思い出して考えがネガティブになっていた。それは謝る」


「ぐずっ……うん……僕もさっきは勇気がなくてライズ君に何も言えませんでした。ごめんなさい」


 クルルは手を前に組み頭を深々と下げる。鼻と目はまだ赤いが、涙はもう引いている。


「何も言えないのが普通だ。こうして謝りに来たのは、お前が初めてだ」


「えへへ〜」


 なぜかクルルが照れる。意味がわからない。別に褒めた訳でも、褒められた事をした訳でもない。


「じゃあ、僕はライズ君の初めてのお友達かな?」


「……お前、本当によくわからないよな」


 自分と友達になれた事に対して照れていたのか。とライズは解釈する。なるほど、この人懐っこさが『魔女の黒猫(ウィッチズキャット)』と呼ばれる所以か。


「ね、保健室行かない?」


「保健室? ……どこか怪我してるのか?」


「ううん、お兄ちゃんの所に行きたくて」


 カイル・クレッセント。クルルの兄にして軍事学科のある校舎の保健室に駐在する大学医学部の生徒である。


「……行こうか」


 理由は訊くだけ無駄な気がした。多分、大した理由ではないのだろう。その大した事のない理由でライズを引き連れ保健室に向かう。その無茶苦茶な行動にも、少し慣れたかもしれない。



「……なあ」


「ん?」


 歩き始めて数分。ライズはクルルを横目に見ながら口を開く。クルルは手を後ろに組みながら、少し前屈みになってライズに身を寄せる。


「くっつくな」


「えへへ〜。で、何?」


「……いや、何でもない」


「ええー、変な所で止めないでよー。気になるよぉー」


「いいって、それとくっつくな」


 子猫のようにすり寄るクルルを引き離し、ライズは早足に階段を降りる。クルルもそれに追い付こうと手すりを滑り台にして階段を文字通り滑り降りる。着地の際にライズを支えにバランスを取った際にまた「離れろ」と言われた以外は危なげなく追いついた。


 ライズは、確認したかった。クルルが本当に自分を拒絶しないという事を。それはライズの好まない口約束のようなものだ。似たような事を言った人間は他にもいくらか存在する。しかしクルルは、他の人間とは圧倒的なまでの差異を見せた。


 クルルはライズのために『泣いた』のである。


 今までに、誰一人として、ライズに同情はしても、感情移入をする人間はいなかった。ましてや泣く人間など尚更だ。人懐っこさ故の豊かな感受性の賜物か、あるいはただ単に涙もろいだけか。ライズには判断しかねる事ではあったが、それでも、ライズはクルルを信用しようと思い始めていた。


 ライズの言おうとした事は、信用し慣れていない事からの、些細な杞憂から来るものであった。


「あ、大事な事聞き忘れてた」


 階段を降りて、保健室のある棟へと向かう渡り廊下の途中、クルルが立ち止まり言う。惰性で数歩前に出たライズは後ろを振り向き、吸い込まれそうなほど目を見開いて立っているクルルを見る。


「ライズ君の秘密がわかった所で改めて尋ねるけど、三年前に僕を助けてくれたのって、ライズ君だよね?」


「う……」


 やはり、そこを訊いてくるのかとライズは苦い顔をする。


「その反応は、やっぱりライズ君なんだね?」


 輝かしい瞳がライズを見つめる。なぜだろうか、期待されているはずなのに心が痛い。が、今更適当な事を言ってなあなあにもできそうにない。ライズはクルルと目を合わせないようにして、話す。


「……鉄骨が落ちてくるのを見て、その真下に女の子がいるのを確認して……さすがに鉄骨の速度に束縛を掛けるのは無理だったから軌道を弄って、女の子には当たらないようにしたっていう事があったのは、覚えてる。その時は周りの人に二重紋様がバレるかもしれないと思って急いで逃げたけど……もしもその時の女の子がクルルなら、きっとそれだ」


「やっぱりライズ君だったんだ!」


 クルルが飛びかかるようにしてライズに抱きつく。バランスを崩しそうになったがそこはクルルの体格が幸いして案外簡単に受け止める。タイミングを計っていたのか、ライズ達の来た教室棟から女生徒が二人歩いてきた。二人はバカップルのいちゃつきを見る目でこちらに近付いて来ていたが、クルルを見るや目の色を変えて早足で去っていった。クルルを知っている様子だったし、四年生なのだろうかという思考が頭を過ぎった。


「やっと見つけたよ、僕の王子様!」


「王子様!? お前ん中でどんだけ美化されてんだ! こっちはただ逃げ出しただけだぞ!?」


「ずっと思ってたんだよ、僕を助けてくれた人はどんな人だろうって。やっぱり素敵な人だった!!」


「だからどんだけ美化されてんだ! いい加減離れろ!」


 非常に軽いクルルを持ち上げ、横に置く。急に頭が痛くなった。ちょうどいい、今から保健室に行くのだからついでに診てもらおう。なぜだかクルルの兄からもいろいろと言われ更に頭が痛くなる気がするが、気のせいだろう。


「はあ、ともかく、俺はお前の思うような人間じゃない。素敵だなんて言葉とはかけ離れてるんだよ」


「それでも、僕を助けてくれたよね?」


「……必死だっただけだよ」


「誰かのピンチに助けに入れる。それって十分素敵な事だと、僕は思うよ」


 クルルの言葉に、ライズは何も言えなくなる。どこかの国で大昔に主張された性善説というのを思い出した。そのたとえ話に、井戸に落ちそうになっている子供を助けるという話がある。井戸に落ちそうになっている子供を助けるのは、周囲から賛美の声を受けたいからでもなく、その子の親と親密な関係になりたいからでもなく、ただひたすらに子供を助けたいという気持ちからなのだと。ライズの行動はともかく、知ってか知らずかクルルは間違いなくこの考えを持っている。


「……ん、そうかよ」


「そうだよ」


 ライズの内心は、感心と納得に満ちあふれていた。人懐っこいクルルはしかし、クルルを鬱陶しく思ったという人物を、鬱陶しく思ったライズ本人以外で見たことがなった。その理由が今、わかったのだ。


 性善説の基本的な考え、人間の本質は善であるという考えを、彼女は地で行っているのだ。他人を拒絶する事なく、受け入れる。その大らかさと器の大きさ、そして元来の人懐っこさ、これらが全て合わさり『魔女の黒猫』という名が付いたのではないか、ライズはそう分析した。


「クルル」


「うん?」


「ありがとう」


「えっ? 何で?」


 クルルの疑問には答える事なく、ライズは渡り廊下を再び歩き出す。後ろでは繰り返し疑問を述べる小さな君子が、後を着いて来ていた。



 個人差というのは、人が二人集まれば必ず生まれる、まさに個性そのものを指すような言葉であり、存在だ。外見はもちろんの事、性格や生まれ、趣味や好みに致るまで、個人個人には必ず異なる部分がある。それは本来個性なのであり、優劣を付けるにはまた別の指標が必要となってくる。


 例えば、ライズの隣で不機嫌そうに横を向いて座っている、齢十も行かないような外見を持つ少女、クルル・クレッセント。彼女なんかは他人とは違う、大きな個性を持っている。


 まずは外見だろう。彼女は小さい。中等部の女子の方がまだ背の高い者がいるだろう。だがしかし、これは別段他人より体格が劣っているわけではない。事実、彼女は素で高い身体能力を有しているし、その小さい身体から繰り出される棒術は芸術の域に達していると言っても過言ではない。そこに、使用者の瞬発力を上昇させる『虎』の紋様を使用したならば、もはや彼女に速さで適う者はいないだろう。


 次に性格だ。彼女は『魔女の黒猫』という通り名を持っている。体格に似合わない彼女の高い戦闘能力と非常に人懐っこい性格からこの名が付いた。そう、彼女はとても人懐っこい。それでいて他人に嫌われる事がほとんどない。自然に人を惹き付け、味方にする。カリスマとも言うべき不思議な魅力を彼女は持っているのだ。


 だがしかし、ここまで強い個性を持つ彼女とは真逆の個性を持つ者が、ここにいる。真逆とは言っても、負の意味ではない。先述した通り、個性とは優劣を付けられる者ではない。あくまでもクルルの魅力とは真逆の魅力を持った人物、という意味だ。


「ごめんなさいね、カイル君、教授の所に行ってるのよ。急ぎの用だったら場所を教えるけど」


「あ、大丈夫です。ここで気長に待ちますから」


 マリア・サーレット。軍事学科最寄りの保健室に駐在する、もう一人の学生だ。やや暗めの赤く長い髪に、女性にしては高い身長。そして恐らくは、思春期の男子ならば一瞬で釘付けにされ、女子からは羨望の眼差しで見られるであろう豊満な胸が特徴の女性だ。


 クルルの兄、カイルは外出中であった。そのためか今は保健室に人はライズ、クルル、マリアの三人だけだ。マリアは二人にコーヒーを出し、対面の席に腰掛けた。


「どうぞ」


「どうも」


「……」


 コーヒーを一口啜る。ブラックだ。しかも濃い。『休む事も訓練』と、休息を十分に取る軍事学科の人間には馴染みはないが、やはり身体を動かすより机に向かう時間の方が圧倒的に多いマリアのような人間は、恒常的にこうしたコーヒーを飲んでいるのだろうか。


「あなた達の事は聞いてるわ。モンスター小屋のモンスターを全部倒して、拡散するのを防いだんでしょう」


「……やっぱり広まってるんですね」


「ええ、情報だけは誰かの『手紙』で拡散されまくったからね」


 コルネットだ。『手紙』がライズの元にも届いた時には素晴らしい判断だと思ったが、今思うと自分の二重紋様という事実を拡散させる事になっていたかもしれない。そう考えると、複雑な気持ちになる。


「…………」


 会話に全く参加しないクルルの事が少し気になった。保健室に入って、兄がいないと知った時からずっとこの調子だ。


「……クルル、さっきからそっぽを向いてばかりだけど、何があったんだ」


「別に……」


「お兄さんがいないのは残念だったけど、そんな露骨に不機嫌になる事はないだろ。マリアさんにも失礼だ」


「ああ、いいのよ別に。クルルちゃん、私の事嫌いだもんね」


「えっ……?」


 マリアの言葉にライズは耳を疑い、クルルはふんと鼻を鳴らす。そしてそれをクルルの肯定と理解したライズは、クルルとマリアを交互に見て、両方に言う。


「……なんで?」


「さあ、初対面の時は少し警戒されてるだけだったんだけど、次に会った時には口も利いてくれなくなって、よくわからないの」


 クルルからの返事はない。言う気がないのだろう。ライズが他人となるべく接点を持たないようにしているのと同様に、何か言いたくない理由があるのかもしれない。ならば、ライズは無理に話させるような事はさせたくない。


「……クルルも苦手な人間っているんだな」


「別に、僕だってそんな人もいるよ。『魔女の黒猫』だって、みんなが言い出した名前だもん」


 保健室に来てから初めてクルルが言葉を話す。相変わらず不機嫌だが、ライズの言葉には反応するようだ。


「ふふ、私とクルルちゃんの不仲は置いておくとして、あなた達、もしかして付き合ってたりするの?」


 マリアの言葉にクルルがびくりと身体を振るわせる。そしてただでさえ横を向いていた身体の向きを更に変え、ほとんどマリアに対して背を向けたような格好になる。


「付き合ってませんよ。打ち解けたのもついさっきです」


「という事は……今日の一件で仲良くなったのね?」


「……まあ、そうなりますかね」


 以前、一方的に詰め寄られて腕を思いきり擦りむく怪我をしたのを思い出した。知り合ったのはその頃だが、こうして共にいられるような関係になったのは今日の事があってからだ。


「素敵ね。そういう出会いって大切よ」


「……俺もそう思いますよ。今までは、少し自分を否定しすぎていた」


「大変だったのね」


 マリアの言葉には、何も答えなかった。大変だったと言われれば、そうなのだろう。他人から見れば壮絶な、それこそ悲劇と呼ぶに相応しいような人生を送ってきた。だが、昔からそれが当たり前となっていたライズにとってはそうではない。悲劇が日常として起こり、その度に様々な痛みを耐えてきた。それに耐えるために、感情を殺してきた。


 今日、クルルという理解者が現れるまでは、それがライズにとっては普通だったのだ。


「……ん!」


 クルルが頭を上げ、椅子から立ち上がる。


「クルル?」


「お兄ちゃんが来る」


「は?」


「クルルちゃん、聴力が尋常じゃないものね」


 状況を飲み込めないライズに対してマリアはとても落ち着いている。元々テンションの高いような人でもないのだが、それにしてもライズが気配すら感じられてないというのに聴力だけで兄の存在を感知するという事実に対して少し落ち着きすぎであるように思う。


 クルルは迷う事なく出口へと歩み出し、その前に棒立ちする。奇特な物を見る目でクルルを見ているライズは、視線をそのままにコーヒーを一口含み、ゆっくりと飲み込む。苦い。眠気のあまり夢を見ているわけではないと確信し、更にライズは自身の目を疑う。


「マリアさん、紋様応用の資料、どこにあるか……」


「お兄ちゃん!!」


「うおっ」


 慌てた様子でドアを開けたカイルに予備動作無しでクルルは突撃をする。とはいえ攻撃の意志など微塵もない。非常に軽いクルルを受け止め、持ち上げると一回転、クルルを床に置く。


「クルル、どうして……っていうか大丈夫か? モンスターと戦ったって聞いたけど」


「そんな事よりもお兄ちゃん! 見つかったの!」


「見つかった? 僕が誕生日にあげたブレスレットかい?」


「ち、あれはもう見つけたもん! そうじゃなくて、僕の王子様!」


 クルルがライズを指差しぴょんぴょんと跳ねながらながら兄に歓喜のままを報告する。カイルはライズを見ると、少し驚いた表情の後、微笑む。


「あはは、またクルルの気まぐれかと思ったら、君だったのか」


 カイルは苦笑いを一つライズに向ける。その眼差しの正体をライズはみた事があった。四年前まで、身内の者が自分を見る時の目。そして今日、ライズが二重紋様だと知った時のシルビアの目だ。


「なるほど……確かライズ君だったかな。怪我は大丈夫かい?」


「おかげさまで、痕もほとんど残ってません」


「それはよかった。軍事学科だから怪我はつきものだし、傷跡は戦士の勲章でもあるけど、転んだ傷なんて残したくはないだろうからね」


「カイル君、これでいい?」


 カイルとライズとの会話にマリアが割り込む。マリアの手には数十枚の紙がクリアファイルに入れられており、ライズ達が普段使っているクリアファイルより幾分か分厚くなっている。カイルはそれを受け取ると、マリアに礼を言った。


「さて、これからまた教授の所に言ってこれを見せないといけないんだけど、クルル、用事は彼の報告?」


「うん!」


「うん。なるほど……どうせだし、二人とも途中まで一緒に話しながら行くかい?」


「うん!」


 クルルが二つ返事をする。しかしライズは少しカイルの提案に懐疑していた。クルルとしては大好きな兄と一緒にいられるのが嬉しいのだろうが、ライズにはそれが嫌な予感にしか思えなかったのだ。


「……いいですね。行きましょうか」


 だが、ライズは提案を受け入れた。世界に敵を作らない。世界を拒否しない。自分の存在すら否定し、誰とも心を開かなかった自分を、モリスがノックしクルルが開けた。少なくとも二人は、ライズを受け入れた。そのおかげで僅かではあるが、自分から他人に歩み寄ってみようという思いが、彼に芽生え始めていた。


「よし、じゃあマリアさん、後はお願いできるかな」


「いいわよ。私も適当に帰るわ。じゃあね、クルルちゃん」


 クルルは無言でマリアを睨み付け、保健室を早々に立ち去る。


「あはは……まだマリアさんの事嫌ってるんだね」


 何か事情を知っている様子のカイルが固い笑みを浮かべる。ライズはマリアに会釈をすると、カイルと共に保健室を出て、そのドアを閉めた。


「……確かあの資料って、紋様の組み合わせによる反応に関する物だったわよね」


 独り言を呟きながら、マリアは椅子から立ち上がり荷物をまとめる。


 カイルと出会ったのは高等部の三年生の頃。今まで誰にも負ける事のなかった定期テストで、マリアが初めて二位になった事がきっかけになる。自分を負かした人間がどんな人となりなのか、興味があった。ライバルとして宣戦布告でもしようと思っていたのだ。今思えばとても青く若々しい行動だった。


 しかし彼は宣戦布告を受けなかった。というより、宣戦布告をする間もなく、二人は友となっていたのだ。それほどまでにカイルは社交的で、優しかった。


 そんな彼が個人的に気になっていたのは、紋様術に関してである。あくまで趣味の範囲で、暇を見つけてはそれとなく紋様について調べていた。そして大学に入ってからは、紋様術の専門家に会いに行って何かを調べているようだった。


 そしてマリアが突き止めたのが『二重紋様』である。それとほぼ同時に、クルルが事故に遭った際、どうやら二重紋様を持つ人物に助けられたらしいという事も知った。


 ともすれば、だ。クルルの連れてきたあの少年。あれが二重紋様だとしたら、彼はどういう行動に移るのだろうか。


「……カイル君、二重紋様嫌いだったっけ」


 そう呟き、独り言の主語を自分に置き換えてみる。もし彼が二重紋様だとしたら、自分は彼と普通に接する事ができるのだろうか。


「…………フフッ」


 思わず微笑みがこぼれた。自分は何を考えているのか。そんな事、考えるだけ無駄というものだ。


 現につい先刻まで、自分は彼と普通に会話していたのだから。



 ライズは別に、人と関わるのが嫌いな訳ではない。ただ、二重紋様である事を隠すために他人との関わり合いを最小限にまで抑えていただけなのである。


 だがしかし、他人とほとんど会話をしない時期が長かったのは確かだ。コミュニケーションというのは勉強と同様。やらなければ出来ないし、怠っていれば能力も落ちる。


 ライズは今、クルルとその兄であるカイルと途中までという事で一緒に歩いている。その中でクルルが中心となり、ライズとクルルが知り合った経緯や兄弟の思い出、そしてライズにも弟がいる事とかを話していた。その際にクルルは、ライズが二重紋様であるという事を一切話さなかった。会話の中にも、それを匂わせるような事を言っていない。出会った当時には自分勝手で人の話を聞かない達の悪い子供のようだと思っていたが、案外こういう気遣いもできるらしい。


 閑話休題。三人で歩いていた中、クルルが思い出したようにトイレに行きたいと言い出した。丁度近くにトイレがあったので、ライズとカイルは廊下で二人、クルルを末事にした。というのが、ここまでの流れである。


「…………」


「…………」


 話は最初まで戻る。ライズは他人との関わりを嫌うわけではない。ただ少し、他人との関わり合いから離れていただけなのだ。しかしそのブランクはライズに重くのしかかり、沈黙となって苦しませていた。


「…………」


 以前のライズならば、こんな沈黙など平然と流していただろう。会話などする気はないし、話しかけられても一言二言で済ませていた。そうして他人を遠ざける。これが一番楽なやり方だった。しかしライズは今、そうしてきた事を後悔していた。コミュニケーションを絶っていた自分がコミュニケーションの取り方がわからず困っている。なかなか皮肉な状況ではあるが、もう少し、もう少し他人との関わりを大事にしてもよかったのではと、思わずにはいられないのだ。


 とどのつまり、カイルと何を話せばいいのかわからないのである。


 いや、話題など探せばいくらでもあるだろう。二人には、関係性は違えど話題を共有できる人物、クルルがいる。彼女に関した話題であれば例え短くとも、クルルがトイレを済ませる時間ぐらいは保てるはずだ。


「ク……妹さん、カイルさんの事大好きなんですね」


「ん? ああ、あの子、両親がいないからね。僕が親みたいなものなんだ」


「え……?」


「あれ、クルルから聞いてないか。クルルは養子なんだよ。両親が亡くなって、親戚もいない。孤児院にいたのを僕の両親が引き取ったんだけど、その直後に僕の両親は外国で仕事する事になるしで、クルルが甘えられるのは多分、僕だけだったから」


 想像以上に重い返答に何も言えず、頭を抑える。ともすればライズよりも暗い過去があったんじゃないかと思えてくる。何せ、今の話を聞くだけならば彼女は肉親のいない、天涯孤独であるように思える。その上であの性格が形作られているのだ、二重紋様を理由に他人を拒絶していた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。


「あの……なんか、すみません」


「気にしない気にしない。僕も両親が忙しくてまともに過ごした事がないから、家族が増えてうれしかったよ」


「ご両親は何をなさっているのでしょうか」


「記者とジャーナリストだよ。主に紛争地域を中心とした、ね」


 これまた返答に困る言葉だ。どこの紛争地域か知らないが、ライズの知る限りではかなり絞られてくる。どこも泥沼の、いるだけで死が襲い来るような状況だ。しかも、凄いという賞賛の言葉も大変だという畏敬の言葉も、この先の会話に繋がらないのが目に見えるものだから辛い。


「……ライズ君、ちょっといいかい?」


 話題を転換するようにカイルはライズの方を向くと、その距離を詰める。成人した男性の身長を成長期であるライズは見上げる形となった。


「まどろっこしいのは嫌いだし、時間もない。単刀直入に言うよ」


 神妙な顔つきで、白衣のポケットに手を入れながら、カイルは言う。その目は憂うような、悲しむような、哀れむような、そんな感情の混ざった表情をしていた。


 そしてその目から、ライズは何を言われるのかを理解した。カイルが保健室に入った瞬間から感じていた事だ。それを今、訊かれようとしているのだ。


「ライズ君、君は……二重紋様だね?」

「……はい」


 ライズは両手の甲を見せ、両方に別々の紋様を浮かべる。巣を張り獲物を待ち構える『蜘蛛』と、風にたゆたう一輪の『花』。


「なるほど、やっぱりか……」


「どうやって俺が二重紋様だと知ったのか、詮索する気はありません。もしもあなたがクルルさんに近付くなと言うのなら、そうします。ですから、俺には関わらないでください」


 言いながら後悔をする。なぜ拒絶するのか、と。意外にも二重紋様を嫌う人間は少ない。モリス先生もそう言っていたではないか。そう自分を責める。しかしもう遅い。ライズは拒絶の言葉を口にしてしまったのだ。例えカイルが自分を受け入れようとしていたとしても、拒絶をしては意味はないのだ。


 クルルには近付かない。そう言ってしまった手前、もうクルルと一緒にはいられないだろう。短い、非常に短い間ではあったが、友達ができたようで、嬉しかった。


「……それでは」


 また、居場所をなくしてしまった。


「ちょっと待ってライズ君、僕まだ何も言ってないよ!?」


 カイルがライズの腕を掴み、引き込む。丁度一歩を踏みだそうと片足が宙に浮いていた中での事だったのでライズはバランスを崩しかけ、そのままなし崩しに元の位置へと戻る。


「いいかいライズ君。僕が二重紋様如何を確認したのは、君を差別したり拒否したりするためじゃない」


「…………だったら何で、知っているんですか。俺はこの事を他人に言いふらしなんかしてない。だとすれば、何らかの形で調べるしかないでしょう」


「落ち着いて、あくまで推測だったんだよ」


「推測?」


「そう。クルルの話では、クルルを助けたのは『蜘蛛』の紋様を持っているという事だった。でも『蜘蛛』には物体を遠隔操作する能力はない。だとすれば考えられるのは二つ。クルルの見間違いか、二重紋様かだ」


 そこからは科学の教師が長たらしく授業と関係のない蘊蓄を話すかのようにカイルは自分の理論を展開し始める。半分以上が専門的な事で理解できなかったが、どうやら趣味で二重紋様について調べるうちに、紋様同士で特殊な反応を見せる事があるというのを突き止めたらしい。


「つまり、ただの興味本位だったというわけだ。驚かせてしまったのなら謝るよ」


「……でも、あの時」


「ん?」


「保健室に入ってきた時、カイルさん一瞬だけ俺に敵対心向けてましたよね。あれ、実家でよく受けてたんで、それかと思ってたんですけど」


 ライズが二重紋様だと知った者が見せる、奇異な物を見る目。カイルはそれを、ほんの一瞬ながら見せていた。一般人なら見逃すような事柄ではあるが、過去の経験と日頃訓練で気配の察知が比較的容易にできるライズには、それがわかった。


「あ……ああ、あれね。うん。確かにそんな目したかもね。ははは……」


「無理しなくてもいいんです。二重紋様がどういう物なのか、よく知ってるつもりですから。俺は気にしません」


「いやいやいや、そういうんじゃないんだよ……ゴ、ゴホン!」


 カイルはやや中腰になり、ライズと目線を同じにする。そしてライズの耳元に口を寄せると、恐らくライズにしか聞こえないような声で囁く。


「……妹に彼氏ができたら、兄としては少し複雑なんだよ」


「は? 彼氏?」


 カイルは慌てて元の姿勢に戻ると、今度は唇の前に人差し指を突き立てる。大きな声を出すな、という事らしい。


「クルルは自分を助けてくれた人が運命の人だと信じて疑っていない。それにライズ君。男の僕が言うのもなんだけれど、クールだし顔もなかなかいいし礼儀正しい。男としては合格点だ」


「はあ……」


「でもね、君がどんな素晴らしい人だとしても、兄としては妹に恋人ができるっていうのはこう……気持ちとしては微妙な所なんだ」


「いや待ってください。俺とクルルさん、そんな関係じゃ」


「クルルでいい。いつもそう呼んでいるんだろう?」


「あ、はい……」


 なぜ知っているのだろうか。クルルが兄にライズの話をして、その流れでというのが一番考えられるが、推測とはいえライズが二重紋様だと突き止めたその前科があるせいだろうか、この人物ならどこからか会話を盗み聞きしていても不思議でないように思える。


「と、とにかく、俺とクルルはそういうんじゃないですから」


「僕とライズ君がどうかした?」


 タイミングを見計らったようにクルルがトイレから出てくるそういえばすっかり忘れていたが、クルルはトイレにいたんだった。


「クルル、まどろっこしいのは嫌いだ、単刀直入に訊く。ライズ君の事は好きか?」


「好きだよ」


「やっぱりじゃないか!!」


「何が!?」


「くそう、突然現れた若僧のくせして、妹はやらんからなああああ!!」


 カイルは子供のようにライズを指差すと、これまた子供のような言い方で親父のような捨て台詞を吐き、どこかへ走り去る。


「……何があったの?」


「いや……うん、お前にだけは話しづらい」


 他人の話を聞かない所はそっくりである。ライズは今あった出来事を忘れるために、気を紛らわせる目的で、そう考えていた。

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