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プロローグ

 国立アンジェラス学園。街そのものを学園とし、下は6歳から上は18歳までの男女の生徒に一般教養から専門知識を教える事を目的とした世界最大規模の学園都市。


 ここに入学した生徒はまず3年間の初等教育を受けた後、また3年間の中等教育を受ける。ここで一旦国の定める義務教育の課程は終了し、一部の生徒は学園を卒業するのだが、ほとんどの生徒はそのまま6年制の高等部へ進み、専門的な技術を学ぶ。


 数学科や地質学科のような理系学問や歴史学科、文学科のような文系学問。音楽科や芸術科のような文化的学問もある中、一つだけ存在する異彩を放つ名前の学科がある。


 軍事学科、所属生徒総数6051人。この学園において最も人気で、この学園が街そのものを敷地とする所以。学園の生徒総数の約半分を締めるその学科で、物語は始まる。


 昼も過ぎ、眠気も襲って来ようかといった五限目。一対一にて模擬戦を行う実戦訓練の時間。屋外に設置された十メートル四方の簡易闘技場で真剣に戦いを繰り広げる男二人を眺めながら、学年ランキング560位、ライズ・デュエルは、校舎の壁を背もたれに使いながら両手に持つ二本の小剣を弄ぶ。


 実戦訓練。戦争の基本である集団での動きを徹底的に叩き込む集団戦と、ここの戦闘能力を確認、高め合う事を目的とする個人戦の二通りある授業の中で、現在は個人戦を行っている。ルールはあまり難しいものではない。各自が自前の武器を使用し、相手が降参するか意識を失うか、あるいは簡易闘技場の外に出されるかのいずれかで勝負が決まる。基本にそれだけなのだが、各闘技場には一人、審判として教員が付いており、残虐行為や非人道的行為を行った場合、直ちにその訓練を中止する義務を持っている。安全と言い切れるわけではないが、危険な要素はなるべく排した訓練となっている。


「次、ライズ・デュエル」


「……はい」


 自分の名前を呼ばれ、いやいやながらもライズは校舎の壁から背を離し、簡易闘技場へと向かう。


「相手は……クルル・クレッセント」


 無骨で無愛想な表情と雰囲気を醸す教員が紙を見ながらライズの対戦相手となる生徒の名前を呼ぶ。


「はいっ」


 幼児保育を終えたばかりの子供のような声が聞こえる。その声の主は手に自身の身長程はあろうかという長さの棒を手に持ち、逆の手で大きく手を振りながら走ってくる。声も幼ければ見た目も幼い。頭でっかちなその容姿で走るその姿は、大好きな遊具を前に無邪気に走り出す子供そのものであった。ライズは闘技場に登る階段に足を乗せながら、自分の対戦相手を怪訝な眼差しで見ていた。


「お待たせしました!」


「いいから早く闘技場に入りなさい」


「アイアイサー!」


 黒い髪に黒い目。そして年齢以上に幼い、童女と呼んでも違和感の無い女生徒は、敬礼もどきのポーズをしたかと思いきや膝を曲げ、跳躍する。そしてくるくると芸術的な回転を見せた後、闘技場の上で見事に着地する。


「それでは、模擬戦を開始する」


 教員のその言葉に、先程まで自主訓練や友人との談笑を楽しんでいた生徒達がにわかに騒ぎ出す。その全員がライズの居る闘技場を見つめ、その戦いを観ようと期待を膨らませていた。


「……やりづらい」


「あはは……気にしないでいこうよ」


 独り言のつもりだったが、クルルはしっかりとライズの言葉を返す。さっきまで満面の笑顔だったクルルも、ライズの仏頂面には苦笑いしか浮かばない。


「用意!」


 教員の言葉に、ライズは剣を両方逆手に持ち替えて右手と右足を前に、左足を曲げ、左手をこめかみの前に位置させ、クルルは長い棒を前に突き出したシンプルな構えをする。


「始めっ!」


 一瞬の静寂の後、戦闘が始まる。先に動いたのはクルル。姿勢を低くし、自身の射程圏内にまで距離を詰める。ライズは微動だにせずクルルの接近を棒立ちで見つめる。


 クルルの突きがライズを襲う。ライズはそれを寸でのところで回避し、身体を回転させながら逆手に持った剣をクルルの首に手早く運び、斬る。


「……ハァッ!」


 元々低かった姿勢を更に低くし、クルルは剣を避け、そのまま棒でライズの足を狙う。


「でぇい!」


 クルルの棒は見事にライズの足に命中し、ライズは自分を支えていた柱が無くなったことでバランスを崩す。


「ガッ!」


 頭を強打する。このまま気絶した振りでもすれば終わったのだろうがそうはいかない。ライズは本能的に受け身を取り、地面を転がりながらクルルと距離を取る。


「甘い!」


 彼女の武器は棍。形状は棒そのもので、何の仕掛けもないが、それ故にシンプルな強さがある。実際、長いリーチは小さい彼女にとってはディスアドバンテージを補う最大のメリットになるし、少しコツさえ掴めば女性にも扱いやすい。


 その棍による突きが、距離を取ったライズに容赦なく浴びせられる。たかだか十メートル四方の闘技場では、素早く動く彼女の射程圏外に出る事は難しい。それでも尚、ライズは彼女の連撃を避けつつ距離を取る。


「逃げてばかりじゃ勝てないよ!」


「知ってるよ」


「だったら男らしく戦いなさい!」


 クルルが突きから突然、棍を振り上げる。それを避けたライズはこれが好機とばかりに剣を順手に持ち替え、左足を軸にその場で回転する。


 剣に蜘蛛を模した紋様が浮かび上がる。そして刀身が光り、空気を切り裂きながらライズの剣がクルルへと向かう。


 訓練する事で身体に浮かび上がる紋様。それを利用した、紋様術と呼ばれる戦闘術。個人によって浮かぶそれは変わり、その性質も変化する。


 ライズの紋様は蜘蛛。それによって得られる力は束縛。攻撃を受けた部位の動きを一時的に麻痺させる能力。


 そしてライズの剣技、秋色紫陽花。紋様による麻痺の能力を周囲に散布させる、ライズの文様術。


 しかしそれは惜しくも決まらず、反応の早かったクルルの棍による返しでライズは場外に吹き飛ばされ、敗北となった。


 五百三人の在籍するアンジェラス学園軍事学科四年生。各学年毎に設定されている学年ランキングにおいて、七位の実力を持つ生徒。黒い髪と目、そして猫のような人懐っこい性格から『魔女の黒猫(ウィッチズキャット)』と呼ばれる彼女、クルル・クレッセントは、危なかったとでも言いたげな表情で、地面に叩きつけられているライズの姿を、肩で息をしながら眺めていた。



 授業が終了し、ロッカールームで男子生徒が着替えをする。ライズはクルルに思い切り打ち抜かれたこめかみを押さえながら制服のボタンを締めていた。


「よう、ライズ。黒猫と当たったんだって?」


「……ああ」


「しかもまともに戦おうとしたんだろ? 尊敬するぜ全く」


 彼女に限らず、ランキング十位圏内に位置されている『ランカー』と呼ばれる人物というのは個人戦では敬遠される。理由は至極単純、絶対に勝てないからだ。故にランカーと遭遇した者はひたすら逃げ回るか、多少の攻撃を受けた後にあっさりと降参する。ライズのように真っ向から勝負を挑むなど、通常は有り得ない。


「……お前には関係ないだろ」


「ははは……そうだったな。悪かったよ」


 苦笑いを浮かべて隣で着替えていた男子生徒は体操着を袋に詰める作業に戻る。ライズは着替えを終えてロッカールームを出る。


「いってぇ……」


 頭痛が激しくなる。授業が終わったら保健室にでも行こうかと思いながら、ライズは自分のテキスト類が入っているロッカーへと向かった。



 ライズ・デュエル。十六歳。アンジェラス学園四年生。武器、双剣。学年ランキング千五人中五百六十位。成績は中の中。集団戦においても目立った欠点を見せる事なく指示された命令を淡々とこなす。将来軍隊に入り生活する分には何一つ問題の無い、一般的な生徒。


 唯一、一般的という枠組みから外れているとすれば。


「デュエル君、頭大丈夫?」


「……別に」


 他人とのコミュニケーションを極端に避けるという事だった。


 授業中、とはいえその内容や教室の広さから講義と呼んだ方が正しい気もするが、先の授業で受けた一撃を見ていた女生徒が心配して頭の様子を訊いてくるが、ライズはそれを一言で突っぱねる。女生徒は不機嫌そうにライズを睨むと、授業に戻り講師の板書をノートに写す。


 コミュニケーションを避けるとは言っても、コミュニケーションができないわけではない。集団行動における報告や授業の中で時たま行われるレポートの発表はそつなくこなすし、必要な会話なら避ける事もない。ただ、他人との談笑だとか必要な時以外での協力というのをしない。


 そんな他人に興味を持たないニヒリズム溢れる様子が極一部の女生徒に受けているのか、過去に数回告白された事もある。結果は当然。


『悪い……興味ないんだ』


 と、散々なものであった。そんな事を続けるうちにその女生徒も離れて行き、現在は気のいい人が時たま話しかける程度で、それ以外は基本的に話もしない。


 それをライズは不便に思った事はない。そちらの方が気楽だし、他人に変な気苦労をかける事もない。他人と関わらずに生きるというのは無理だが、最低限の接触で生きる事は可能だ。ライズはその生き方を選んで、それを全うしている。


「それでは今回の授業はここまで。来週は極東の国の兵法を見る。テキストは百二ページからだから、各自予習するように」


 今日の日程が全て終了し、生徒達が一時の開放感に浸る。遊びに出ようと友人を誘う者、戦闘訓練をするべくロッカールームに向かう者、家に帰り予習をしようとそそくさと教室を出る者。ライズもいつもなら教室を出て戦闘訓練か家で勉強かをする所なのだが、今日は違う。クルルから受けた一撃が未だ頭に響いているので保健室に寄る予定でいた。


「あっ!」


 ここから最も近い保健室は高等部軍事学科一棟一階の一番奥。そしてこの教室は高等部二棟の二階。建物が違うので一度外に出なければならないのが少し煩わしい。外の喧騒が耳に入ったりするとそれだけで頭に響く。


「ねえ、そこの君!」


 街そのものを学園として使用しているだけあって、この学園は広い。初等部中等部高等部、そして大学と大学院まで一つの街にそのままある。高等部だけで在籍人数は一万人を超えるし、アンジェラス学園に在籍する全ての学生となると、そのおおよそ倍となる。このように広大な敷地面積と多くの学生が存在する事から、店や各施設の管理や経営も学生が行っている場合も多い。保健室もその一つで、いわゆる『保健室の先生』というのは存在せず、大学や大学院の医学部に在籍する生徒がボランティアで受け持っている。性別や人柄は様々だが、器量の良い人が担当になると用もないのに保健室に入り浸る事態が起きたりもする。


「聞こえてるでしょ? ねえったら!」


 高等部軍事学科の保健室を担当する学生はというと、端的に言えば超が付くほどの美人と気が優しく笑顔の眩しい美男のコンビである。泥まみれで汗臭い軍事学科とはいえ、思春期真っ盛りの年頃だ。保健室はいつも『腹痛』や『頭痛』の生徒達が溢れかえっている。とはいえ、担当者もわかってはいるので、今のライズのように本当に頭が痛い人が来れば優先的に診るのだが。


「もう、無視しないで……よっ!」


「がっ!?」


 後頭部を何か硬い物で殴られ、ライズは視界が揺れるのを感じた。同時に、周囲の音が響く程度にまで収まっていたこめかみの痛みがぶり返してくる。


「誰だ!」


「私だ!」


 怒気を込めて振り返る。黒く長い髪、黒く大きい瞳。高等部の制服が全く似合わない小さい身体。そして悪巧みでもしているかのような笑みを浮かべる童女、クルル・クレッセントが武器である棍を持って立っていた。


「指定された区間や場所以外での武器の使用は……」


「ねえ、君。今日の授業で僕と戦った人だよね」


「話を……」


「僕と真っ向から戦おうとするなんて変わってるよね。何か策でもあったの?」


 話を聞く気がない事に気付きライズは頭を抱える。こういう時にライズが取る行動は二つ。無視して先に進むか、適当な事を言ってあしらうかだ。ライズは何の迷いもなく前者を選び、保健室へ、いやその前に教室の外へと向かう。


「こらー! 無視するなあ!」


「痛って!」


 再び後頭部に打撃。ライズは諦めて後者を選び直すと、振り向きクルルの目を見る。


「何で俺が途中で剣の持ち方を変えたか、わかるか?」


「リーチを伸ばして蜘蛛の文様術を当てやすくするためでしょ」


「だったら何で最初は逆手に持っていたと思う?」


「あー……小回りを利かすため?」


 クルルの自信の無い解答にライズは好機を見出す。そして振り向きながら言葉を残す。


「それがわかった時に、また戦おう。今度は本気を出すから」


 こういう思わせぶりな事を言えば大抵の人間は引っ込む。とはいえ、その謎がわかるはずはない。ライズが剣の持ち方を変える事に、さほど意味はない。以前はそれに意味があった時期もあったが、今となっては昔の癖で最初に逆手持ちをしてしまう、といったようなものだ。


「ってわかるかー!」


 後ろから猪のような足音。クルルが突進をしながら突きを繰り出してきた。が、今度はしっかりと気配を読み取り避ける。手応えのないままライズの横を通り抜けたクルルは一瞬バランスを崩すが、それもすぐに立ち直らせライズに向き直る。


「そういう謎めいた事はもっと趣のわかる人に言いなさいよ。僕はわかりません!」


 幼い身体でありながらランカーである事から、見た目以上に精神も成熟しているだろうと少しでも思った自分が馬鹿らしい。クルルの精神年齢は見た目とさほど変わらない。ライズは自分の言った思わせぶりな事を後悔する。


「だったら少しは考えろよ。俺は保健室に行きたい」


「え、保健室? だったら……」


「それ以上何も言うな、それ以上何もするな、それ以上俺に関わるな!」


 ライズは左手に見える窓を乱暴に開けると、迷いもなく飛び降りる。周囲の生徒がざわついたのが聞こえたが、構いはしない。


 もう絶対にランカーと当たっても戦ったりするもんかと、ライズは胸に刻みこんだ。



「はあ……頭が痛い」


 肩に付いた砂埃を払いながらライズはため息を吐く。今はこめかみだけでなく後頭部にまで痛みが走る。今日は厄日なのだろうか。


 ライズが飛び降り、着地する瞬間。ライズは蜘蛛の紋様術を自分に発動。落下する速度を束縛し、無傷で着地した。紋様術の応用というものだが、元々紋様術の扱いが得意なライズにとっては造作もない。


「とおぁ!」


 ふわりと巻き起こった風に、ついさっき聞いたような声。人生最大の嫌な予感を背中に浴びつつ、ライズは後ろを振り向く。


「ふぃー、やっぱり飛び降りるのって少し怖いね」


「……冗談だろ」


 クルル・クレッセントだ。ライズと同じく二階から飛び降り、ライズと異なり紋様術を使わず、平然と飛び降りてきた。


「……何が目的だ」


「え?」


「俺の何が目的だ。お前と戦ったのがそんなに気に食わなかったのか? 凡人は凡人らしく逃げ回ってろと? ランカーと戦うなんておこがましいってか?」


「い、いや……」


「俺は消極的な行動を取る事で平常点が下がるのが嫌なだけだ。ランカーと真っ向から戦おうだとか、あまつさえ勝とうだとか思ってたわけじゃない!」


「落ち着いてよ……ね?」


「もう俺に構うな! 俺に近付くな! 一切合切俺と関わるな!!」


 言いたい事を言って、逃げる。保健室はもうどうでもいい。今はとにかくこいつから逃げる。自分の紋様が身体能力を強化させるものではないのをこれほど悔やんだ事はない。とにかく遠くへ逃げるべく、ライズは走る。


「何なんだよアイツは! 何の恨みがあって俺に近付くんだよ!!」


「ねえ、保健室はあっちだよ?」


 心臓が止まるかと錯覚するような衝撃と同時に足がもつれる。バランスを崩し、ライズは盛大に地面を転がる。


「ぐっ! も、紋様術!」


 転がる途中で蜘蛛の紋様術を発動。転がる速度を束縛し、体勢を立て直す。


「うわ、大丈夫?」


「…………うるさい」


「うるさいじゃなくて……うわぁ、血出てるじゃん! 腕、大丈夫?」


 言われて腕を見る。右腕の肘から上までが思い切りすりむけて血がにじみ出ていた。


「保健室行こうよ。ああいやえっと、この場合病院の方がいいのかな? えっと……」


「いい……構うな。保健室なら一人で行ける」


「一人で行けるっていうか、私も保健室に用があるから一緒に行くよ。心配だし」


「……」


 真実か方便かは知らないが、右腕を押さえる左手を支えながら、クルルはライズの後をついて行く。頭は依然として痛い。更に妙な奴に絡まれもしている。


「厄日だ……」


「だったら明日はもっといい日になるよ」


 独り言のつもりだったが、クルルはそれにしっかりと言葉を返す。そのポジティブシンキングに、アトラはますます頭が痛くなった。



 保健室の扉を開いて早々、出入り口近くにいた数名の女生徒がこちらを奇異な目で見てきた。それもそうか、訓練で事故があれば病院に運ばれる事の多いこの学科、保健室に本物の怪我や病気で来る者の方が珍しい。


「やっほー、お兄ちゃんいるー?」


(お兄ちゃん?)


「ああクルル。お弁当なら机の上にあるから持って行っていいよ」


「うん、それはいいんだけどさ。怪我人連れてきたんだけど」


「怪我人……? ああ、なるほど。転んだのかな?」


 保健室に居た気のよい男性の担当学生がライズを洗面台に持ってくる。


「傷口をよく洗っててね。右のボタンが温水、左が冷水だから、自由に選んで」


 ライズは即断して左を押し、蛇口から冷水を出し、傷口を洗う。砂と混ざり合って妙な固まり方をした血や肌に突き刺さるように深く入り込んだ小石が痛々しい。


「大丈夫?」


 クルルがひょっこりと顔を出すが、ライズは無視して傷口を洗い続ける。


「ああ、それくらいでいいよ。消毒するし、傷口を変に広げるのもよくないし」


 逆側からのぞき込んできた担当学生の声を聞いて、ライズはボタンをもう一度押す。無言で渡してきた白いタオルで傷口以外に付いた水を拭くと、誘導されるままにソファに腰を掛ける。


「結構な勢いで転んだみたいだけど、どうしたの?」


「……逃げていたら、追い付かれまして」


「逃げる? 誰から?」


 左手でクルルを指差す。


「……プッ、あはははは! そりゃ妹が悪い事をしたね」


「妹?」


「ん? うん。ああ、名前を言い忘れてたね。僕はカイル・クレッセント。クルルの兄だよ」


「……そうですか」


 興味なさげに答える。実際、ライズにとっては微塵も興味が無い。


「あ、それと、頭も痛いんですけど」


「頭も打ったのかい?」


「いえ、こっちは授業中に」


「僕に思い切り打ち抜かれたんだよねー」


 クルルが突然会話に割り込んでくる。余計な会話をしたくないライズにとって、こういう行為は本当に鬱陶しい。


「ふーん…………ああ、それじゃあ君がライズ・デュエル君か」


「……そうですけど」


「なるほど。妹と真っ向から戦うなんてどんな物好きかと思ったけど、以外と無口で大人しいんだね」


 どんな先入観を抱いていたのかは知らないが、ライズは別に物好きでもなんでもない。クルルと戦ったのだって、逃げ回る事で成績が下がるのを避けたかったからだ。


「へえ、君、ライズって言うんだ」


(知らなかったのか)


 よくもまあ知らない人物にああやって馴れ馴れしく絡む事ができるものだと内心で嫌みたらしく悪態を吐く。いや、『魔女の黒猫ウィッチズキャット』の性格は何となく噂に聞いていたし、それを鑑みれば噂通りと考えられなくもないのだが。


「……それにしても、クルルがこうしてしつこいくらいに付きまとうって事は」


「お兄ちゃん、しつこいってどういう事よ」


「ははは、言葉のあやだよ。……もしかしてライズ君、蜘蛛の紋様を持っていないかい?」


「……持っていますよ」


 ライズは左手に蜘蛛の紋様を浮かべ、カイルに見せる。カイルは包帯を巻く手を休め、その紋様をまじまじと見つめる。


「うん。やっぱりだ」


「……蜘蛛の紋様持ってると、ランカーに襲われるんですか?」


「あっははは、クルル、お前嫌われてるぞ」


 この兄妹は人の話を聞かない遺伝子でもあるのだろうか。さっきから話の方向が定まったためしがない。


「蜘蛛の紋様がどうかしたんですか?」


「ん? ああ、クルルが高等部一年生の頃にね、工事現場の鉄骨が落下する事故があったんだよ」


 ライズが聞き直すと、カイルは話を戻した。この兄妹との会話の仕方が少しずつわかってきた気がする。


「鉄骨の真下にクルルは居て、まだ紋様も現れてなかったクルルは何もできなかった。少し離れた場所にいた僕も、何もできなかった」


「……」


「でも、それを助けてくれたのが、蜘蛛の紋様を持った人だったんだ。仕組みはわからないけど、鉄骨がクルルに当たらないように操ってくれたんだ」


「蜘蛛の能力で鉄骨を?」


 蜘蛛の紋様の能力は束縛。対象の動きを遅延させる能力だ。動きを遅くするだけであって、運動の方向を変える訳ではない。通常ならば、それは有り得ない事だ。


「だから僕も未だ信じられないんだ。紋様を見たのは僕じゃない。クルルだからね」


「……みんなは見間違いじゃないのかって言うけれど、物に触れないで動かす紋様は本の紋様しかない。本と蜘蛛を見間違えたりしないよ」


 本の紋様の能力は念力。対象に触れる事なく物質を動かす、単純ながら強力な能力。使用者は少なくないものの、先の話にあった鉄骨を同時に動かす程の能力となると、相当に強力な紋様術の使いという事になる。


「それで、蜘蛛の紋様を持った人を探していると?」


「うん!」


 なんとも迷惑な話だ。過去に何があったかは知らないが、他人をあまり巻き込まないでほしい。


「だったら残念だったな。俺はそんな大それた事はできない」


 包帯が巻き終わるのを確認すると、ライズは立ち上がり腕を軽く回す。痛みはない。


「お風呂入るときに染みるかもしれないけど、それだけなら大丈夫だから。身体洗うときも傷口を強くこすらなければ大丈夫だよ」


「ありがとうございました」


「ああそれと、頭痛に関してだけど、こぶになってるだけだから心配ないと思うよ」


「はい。それでは失礼しました」


 淡々とした言い方で礼を述べると、ライズは保健室を出る。クルルが追いかけてこないかと少し気になったが、その様子はなかった。

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