八、黒夏
暴力団幹部の火田修平は、その矮躯童人の事を気に入っていた。初めはむかつく奴だとそう思っていたのだが、いや、それは今でも同じなのだが、何度か会ううちにそのどす黒い炎の塊のような印象に惹かれ、火田は黒夏という名のその矮躯童人を気に入っていったのだ。何をどう気に入っているのかは、火田本人にも実はよく分かっていなかったのだが。
東南アジア。フィリピンにある、組の施設の一つに火田は今いる。ドアの向こう側には、相変わらずに生意気な態度の、あのチビがいるのだろう。そう思っている自分が、何故か喜んでいるのを彼は自覚していた。
ドアを開けると、凶悪な瞳で黒夏はチョコレートケーキを食べていた。その姿に思わず火田は笑ってしまう。
“似合わねー… いや、似合っているのか”
入って来るなりにやついた顔を浮かべた火田に対し、黒夏は
「なんだよ」
と、そう言った。火田は笑いながら、それにこう返す。
「あまり甘いもんは食い過ぎるなよ。体調管理はお前の仕事みたいなもんだろうが、黒夏」
黒夏は怒り易い性格をしている。直ぐにキレる。矮躯童人の気性は普通、穏やかなのだが、中には例外もいるのだ。更に言うと、黒夏は怒ると何をするか分からないタイプでもあった。つまりは、厄介な男なのだ。
「言われるまでもねーよ。オレは頗る健康だ。ちゃんと考えて食べてるんだよ。てか、久しぶりに会った第一声がそれか、火田」
火田はフッと笑うと、こう言った。
「そりゃお前が悪いよ。俺と会うのに、そんなもん食ってんな。笑わそうとしてるのかと思ったぜ」
「お前が待たせ過ぎなんだよ」
そう応えてから、黒夏は少しチョコレートケーキを崩し、その欠片を弄んでからフォークで刺したが、それを口には運ばず、代わりにコーヒーを一口飲んだ。そしてこう言う。
「なんで、売った? まだ、時期には早過ぎただろうが。もう少し待てば、値は更に上がっていたはずだ」
火田はそれを聞くと、肩を竦めてこう応えた。
「何の話だ?」
その反応に黒夏は怒る。机をダンッと叩き、怒鳴った。衝撃でコーヒーが少しこぼれたが、黒夏は気にも留めない。
「惚けるな! オレのガキ共を、売るよう指示を出したのは、お前だろうが! 気が小せぇな。もう少し待って成長させれば、もっと金になっただろうが?! あ?」
火田はその様子を見て、怒らせるのは得策ではないと判断し、こう答える。
「落ち着けよ。こっちにも色々と事情があるんだ。お前も知っている通り、お前を使った人体販売事業は、まだまったく利益を上げていない。一体も売ってなかったんだから、当たり前だけどよ。だから、取り敢えず、経費分くらいは稼いでおかないと、上が納得しなかったんだよ」
黒夏は首を横に振る。
「本当に臆病だな。ヤクザが、聞いて呆れるぜ」
その言葉に火田はこう返す。
「そりゃ、お前の勘違いだ。ヤクザってのは、基本的には臆病なんだよ。なにせ、非合法活動を行っている団体なんだぜ? 下手すりゃ、少しの事件で致命傷だ。臆病じゃなけりゃ、生き残れない世界なんだ。分かるか?
今回の件だって、もし途中で摘発されでもすれば、丸損なんだ。経費分を稼いでおくってのは、充分に理に適っている。それに、実際にこうしてバレそうにもなった訳だしな。ここを畳む費用だって馬鹿にならないんだぜ」
黒夏はそれを聞くと「チッ」と舌打ちをしてからこう言った。
「で、なんで、わざわざお前が出てくるんだよ? 退くだけだろうが」
煙草に火を点けて、ふかしながら火田はそれにこう答えた。
「“退く”作業ってのは、案外、デリケートなんだよ。ま、それで、信頼されている俺が直々に指導って訳だ。
それに、だ。お前が嫌われているってのもあるにはあるな、黒夏。他の連中はお前をどう扱って良いのか、分からないんだろうよ。お前、ちょっとキレ過ぎなんだよ。少しは下々の奴等の事も考えてやってくれ」
「知らねぇよ、ヤクザの連中の事なんて考えてられるか!」
そう返すと、黒夏はチョコレートケーキを口に入れた。コーヒーを飲む。火田はそれにこう言った。
「はは。何言ってやがるんだ。お前だって、もうヤクザの一人みたいなもんだろうが。さんざん、俺らの金で飯食っておきながら」
「抜かすな。用済みになったら、売る気だろうが」
また、黒夏はチョコレートケーキを口に運ぶ。何故か、機嫌が直っているようだった。実は黒夏も、火田をそんなに嫌ってはいないのかもしれない。
「で、今度は、オレは何処に行くんだよ?」
黒夏は続けて、そう訊いた。
「取り敢えずは、日本に戻るぞ。お前が矮躯童人だって事は伏せる。少し身長は低いが、お前ならギリギリ大丈夫だろう」
「日本ねぇ…」
それから最後のチョコレートケーキを、黒夏は口に入れる。飲み込むと、「甘ぇ」とそう言った。
“何、当たり前の事を言ってるんだ、こいつは?”
と、火田はその言葉に、そう思った。
黒夏は矮躯童人にしては、例外的に身長が高かった。157cm。普通に大人でも有り得る身長だ。そして、その身長の高さが、黒夏の処遇を決める一因にもなったのだった。もっとも、彼がヤクザの組織に“買われた”当初は、そのまま転売される予定だったのだが。
前述した通り、黒夏は矮躯童人にしては珍しく荒い気性の持ち主だった。その為か、彼はかなり安く手に入ったのだ。恐らくは、牧場側も彼を早く手放したかったに違いない。2005年の“人間牧場事件”が起こる前に、彼はヤクザに買われた。
その転売を手掛けていたのは火田で、彼は黒夏のその身長の高さに目を付け、大人サイズの身体を欲しがっている富裕層の人間に、黒夏の身体を高く売りつけるつもりでいた。火田は比較的若い頃にその地位を固め、ビジネス志向のヤクザとして実績を上げており、その転売は彼にしてみれば、ほんの小遣い稼ぎ程度の仕事のはずだった。何も事件が起きなければ、彼はそのまま、黒夏の身体を富裕層に売っていたかもしれない。しかし、そこで“人間牧場事件”が起き、自由には動けなくなった事が、黒夏の扱いを変える転機となった。
「例の矮躯童人が、火田さんに会いたいと言っています」
部下の一人からそう言われた時、火田は何の冗談かと思った。火田にとっては、矮躯童人は家畜と大差なかったのだ。だから初めは真面目に取り合うつもりはなかったのだが、部下が言うには、その矮躯童人は「金になる話がある」と主張しているのだという。少し詳しく話を聞いてみると、そいつは、自分を使って人間牧場を始めてみないかと提案しているらしい。
その矮躯童人は、このままいけば、身体中をバラバラにされて売られた挙句に殺されてしまう。だから、何とか助かろうとそんな提案をしているのだと火田は考えた。“人間牧場”が摘発されたこんな時期に、人間牧場をし始めるなど、明らかに自殺行為だろう。そう思い、それを聞いた時も、火田は特に興味を抱かなかった。
ただし、真っ当な教育を受けた事もないはずの家畜扱いされて育った人間に、どうしてそんな提案ができるのかについては、好奇心を少なからず刺激された。それで、火田は黒夏に会ってみようとそう思ったのだ。
火田は、家畜として育てられた黒夏は、卑屈な態度で自分に接するものとばかり思っていた。だから部下から、「火田さん、銃を持ってください」と言われた時、その言葉を馬鹿にした。だが、あまりに部下がしつこく言って来るので仕方なしに銃をスーツの裏に隠し、それでもやはり馬鹿にした気分のまま、黒夏のいる部屋に入ったものだから、その想像と実際の印象とのギャップに驚いた。
凶悪な瞳。矮躯童人の特性からか、目は大きく子供のように思えたが、それでもその狂人のような印象は強烈だった。写真で確認した時に受けた印象とはまるで違っている。
「よぉ、ヤクザ」
と、一目見るなり、黒夏はそう言った。両手は縛られている。野生の獣が、そこに捕えられているかのようだった。
「オレの提案は聞いたか? これは、ビジネスチャンスだぜ。良い時期に、オレを買ったな。
お前は、運が良い」
黒夏は続けて、そう言って来る。多少、気圧されていた火田は、それを誤魔化す目的もあって、おどけた口調で言う。
「良い時期に買った? おい、家畜。馬鹿かお前は。こっちは、お前一人売るのだって、大変な状況なんだよ。
俺がお前に会う事にしたのは、単に珍獣が見たかったからだ。ビジネスを何にも分かっていないガキが、誰に物を言ってるんだ?」
しかし、それを聞くと黒夏は笑った。
「ははっ それって、人間牧場が摘発されたからだろう? おい、非合法活動団体。何を今更、ビビってるんだよ。どうせ、お前らがやってるのは犯罪だろうが。今は売り難いってのなら、今は売らなきゃ良い。ほとぼりが冷めるのを待てよ。そしてその間に、ビック・ビジネスの準備だ」
その返しに火田は顔を歪める。
「ああん? 何言ってるんだよ、家畜。お前、自分の立場が分かってるのか?」
「分かってるよ、お前よりも、断然、有利な立場だ。オレの提案が気に食わないってのなら、今からお前らをぶっ殺して、外に逃げ出したって良いんだぜ、オレは」
なんだ、こいつ?
火田はそれを聞いて、そう思う。もしかしたら、本気で狂っているのかもしれない。そんな事ができるはずがない。それとも、単なるハッタリなのか。そこで火田は、入室してからずっと、自分が立ちっぱなしでいる事に気が付いた。
「両手を縛られたその格好で、何を言っているんだ、家畜。身の程をわきまえろ」
それで、椅子に腰を下ろしながら、そう言った。しかし、そう言い終えるなり、目の前に突然、壁が現れるのを彼は見つめる事になる。
なんだ、これは?
突然、目の前に現れたそれが何であるのか、火田には分からない。瞬間、子供の頃に妖怪図鑑か何かで見た“ぬりかべ”という妖怪を思い出す。壁が突然に目の前に現れる怪異だ。が、それはもちろん、そんな怪異などではなく、単なる机の裏側だった。
……黒夏が、縛られた手のまま、机を軽々と持ち上げていたのだ。
それを理解すると、馬鹿な、と火田は思う。この机はかなり重いはずだ。それから黒夏は乱暴に机を下ろす。大きな音が鳴った。火田は慌てて、銃を取り出すと、それを黒夏へと向けた。
なんだ。なんだ、こいつのこの怪力は?
背の低い子供のような男が見せた、異常な力に火田はかなり動揺していた。その様子を見ると、黒夏は楽しそうに笑う。
「この程度のパフォーマンスで、そんなに怯えるなよ。気が小せぇな、おい、ヤクザさんよ」
銃を向けられても、黒夏は少しも態度を変えなかった。不遜だ。そしてそれから、黒夏は力を入れると、両手を縛っていた縄を引きちぎってしまった。
「動くな、お前!」
それを見て、火田は更に慌てた。苦笑すると、黒夏は言う。
「だから、怯えるなよ。窮屈で嫌だったんだよ、この縄」
そして言い終えるなり、火田の握っている銃を睨みつけ始めた。
何をしている?
火田は不審に思う。その次の瞬間、握っている銃から、彼は不可解な熱を感じた。反射的に離してしまう。
「熱っ!」
――なに?
「面白いだろ? こういう事もできるんだぜ、オレ」
火田が銃を落としたのを見て、ケラケラと笑いながら黒夏は言う。その言葉に、また火田は驚愕をした。
黒夏には、思念伝達能力の他、“怪力”と“加熱”という二種の異能があるのだった。直接触れていなくても、睨みつけた何かを熱する事ができる。もっとも、その代わりなのか、彼の思念伝達能力は低かったが。
火田が怒鳴った。
「どういうつもりだ、てめぇ!」
黒夏は淡々と返す。
「慌てるな。オレが、逃げ出そうと思えば、いつでも逃げ出せるって事を証明してやっただけだよ。お前らをぶっ殺せるって事もな。
なぁ、どうしてオレが、あんなに安かったのか、これで分かったろう? 人間牧場の奴等もオレが怖かったんだよ。で、さっさと、何処かに行って欲しかったから、値を下げていたんだ」
それから黒夏は火田が落とした銃を拾った。それを見て、火田は慌てて席を立とうとする。しかし、そんな火田に向けて黒夏は「落ち着け、話を聞け」とそう言ってから、銃を差し出す。危険はないとアピールしたのだ。
「お前にオレが話したいのは、ビジネスの話だ。オレは、金が欲しいんだよ。分かるか? 金だ。お前だって欲しいだろう」
そう黒夏が言った事で、なんとか火田は気持ちを落ち着けられた。と言っても、まだ興奮状態ではあったのだが。火田は言う。
「ビジネスだぁ?」
「そうだ、ビジネスだ。いいか? 人間牧場の摘発で、これから間違いなく闇市場に流通する“人体”の価格は高騰する。となれば、これから人体販売事業を手掛ければ、かなりの金になるって事だ。もちろん、直ぐに売り始めるのは馬鹿だ。だから、さっきも言った通り、時期は観る。そして、その間で販売用の人体を増やすんだよ。もちろん、その種馬役はオレだ。
オレの身体を観ろよ。矮躯童人にしては、かなりでかい。つまりは、移植用としても適しているって事だ。オレから生まれた子供なら、でかくなるだろうぜ」
親指で自分を示しながら、黒夏はそう言った。
「何言ってるんだ、お前? 今、どうやって、そんな事が……」
火田はその言葉に戸惑っている。
「そうか? 海外なら、まだ充分可能なんじゃないのか? 日本では無理でもよ」
黒夏のその言葉に、そう言えば、うちの組は東南アジアに拠点を伸ばしている最中だったと、火田は思い出す。それから冷静になって考え始めた。治安も悪く、賄賂が効く地域を狙って場所を確保し、貧困層を誘えば、母胎役も簡単に手に入るか……。
「海外で、子供を産みまくってよ、人体をたくさん“生産”しておくんだよ。ほとぼりが冷めた頃に、それを売る。当然、さっき言った理由で、高値で売れる。どうだ? ぼろい商売になりそうだろう?」
それを聞くと、火田は言った。
「で、お前は、女とやりまくりな上に、毎日、遊んで暮らせるってか? 身体にさえ気を付ければ、バラ色の生活だな」
黒夏は少しも慌てない。当然の事のように、こう答える。
「当たり前だろう? ギブアンドテイクだ。オレにも利益があるからこそ、こうして提案しているんだよ。分かれ、ヤクザ。
てか、お前だって、その方が安心できるんじゃないのか? オレの目的が分かった方が」
その頃には、火田は興奮し始めていた。もちろん、先とは違ったタイプの興奮だ。期待に胸を膨らませる類の快感が、彼を支配し始めていたのだ。
「しかし、てめぇ、かなりの鬼畜だな。自分の子共を“売る”つもりか? しかも、移植用人体としてよ!」
それに黒夏は「ははは」と笑いながら、「ヤクザに言われたくねぇよ」とそう返した。
それから火田がその提案を受け入れた事により、黒夏は東南アジアを転々とする生活を送る事になった。しかし、ある時期、その拠点が国際警察に見つかりそうになった危機を受け、久しぶりに日本に戻る事になったのだった。それが、火田が黒夏の許を訪れた冒頭のシーンだ。
日本では、白秋達が彼を待っている。その事を彼はまだ知らない。