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七、赤春

 女検事の立石望は、その日、上司からの飲み会の誘いを断った。

 「すいませんが、家に食事の準備をしてもらっていますので……」

 それを聞いていた周囲の人間達は、わずかばかり好奇の視線を彼女に向けた。中には小声で噂をしている者もいる。

 「やっぱ、ショタなんじゃない?」

 明確に聞き取れた訳ではないが、そんな事を言われているのだとは、容易に想像がついた。

 “……下世話な連中”

 彼女はそう思う。しかし、それほど気にしてはいない。ただ、やはりそんな噂をする人間達を、少しばかり軽蔑してもいたが。

 “あんな連中よりも、あの子の方が、よほど人間として尊敬できる。そりゃ、多少は臆病過ぎる嫌いもあるけれど”

 そう思いながら、立石は急いで帰り支度を整えた。別に自分はショタコンではない、と心の中で付け加えて。

 立石が彼と初めて会ったのは、7年前の人間牧場事件の時だった。保護された矮躯童人達の中の一人に彼はいたのだ。そして彼を一目見た時に、彼女は直感した。この矮躯童人こそが、自分をここまで導いた張本人である、と。

 マンションに辿り着き、ドアを開けると夕食の良い匂いがした。味噌汁かな?と彼女は思う。テーブルの上には、既に焼き魚や野菜などが並べられてあり、その料理を作った本人は、ちょうど温めた味噌汁をお椀に注いでいる最中だった。踏み台の上に乗ったまま帰って来た立石の方を見ると、彼は「お帰りなさい」と、少しだけ微笑みながらそう言って来る。

 「ただいま」

 と、立石はそれに返す。なんだか落ち着く、と彼女は思った。思わず、彼女も微笑みを浮かべてしまった。

 彼がこの家にやって来た当初、彼は少しも彼女に安心をしてはくれなかった。怯えた様子で常に彼女の顔色を窺っていた。彼の生まれ育った環境を思えば、それも無理もない事だったのかもしれないが、その態度は彼女を傷つけもした。

 “随分と変わったものね…”

 「今日はまた、一段と美味しそうね」

 と、そう立石が言うと、味噌汁を運びながら「いつもと同じですよ」と、そう彼は応えた。子供サイズのエプロンが、よく似合っている。実質、彼は彼女の家で主夫業をやっているようなものだ。これでは、ショタコンと言われても仕方ないかもしれない。その姿を見ると、彼女はそう思い、心の中で苦笑をした。

 女検事である立石望は、主に人権問題、矮躯童人が絡む問題を専門にしていた。人権擁護団体などとも手を組んで捜査に当たり、2005年、その仲間達と共に人間牧場の摘発に成功をし、実績が高く評価された彼女は、若くして矮躯童人問題の功労者の一人に数えられた。

 しかし、その成功は、実は彼女自身の実力と努力によるものばかりとは言えなかった。気楽な酒の席の冗談まじりの会話でくらいしか、彼女はそれを口にしてはいないが、実は“正体不明の声”に導かれて、彼女は捜査を行っていたのだ。いや、そればかりか、彼女がそもそも検事になったのは、その“正体不明の声”が原因でもあった。

 子供の頃から、彼女はその声を聞いていた。頭の中に直接響く声。その声は、優しげであり、知慮に富み、また頼もしくもあった。それで彼女は、その正体不明の相手に対し、いつの頃からか強い憧れを抱くようになったのだった。しかし、その正体不明の誰かは、決して自分の身元を明かそうとはしなかった。

 もちろん彼女は、自分は異常なのではないか、と子供の頃から、漠然と不安に思ってもいた。ある程度、成長すると統合失調症なのではないかと本気で悩みもしたが、その相談に乗ってくれ、最も彼女を安心させてくれたのは他ならぬその声自身だった。これでは、その声を病気だと否定する事ができるはずもない。そしてある時期に、こんな噂を耳にする。矮躯童人と呼ばれる民族には、テレパシーのような異能を持つ者が存在する。それは、同じ矮躯童人の間ならばより強力なものとなるらしい。

 立石がその噂を聞いて、可能性を疑わないはずがなかった。半ば都市伝説の信用するに値しない内容ではあったが、あまりに自分の体験と一致し過ぎている。“正体不明の声”の主は、矮躯童人なのかもしれない。彼女はそう思い、自分の家系を調べてみると、父方の曾祖母に当たる人物が、矮躯童人だった事が分かった。つまり、身体的特徴には現れていないが、彼女も矮躯童人の血を引いていたのだ。そのテレパシーが実在するのならば、彼女にそれを受信できたとしても不思議ではない。

 そして同時に彼女は、矮躯童人について調べるその過程で矮躯童人達が未だに家畜として扱われているという噂があるのを知った。“正体不明の声”に相談してみると、それは事実だと返ってくる。証拠もないし、根拠も説明できないが、事実だと。彼女はその時、直感的にこの“正体不明の声”は、裏社会に捕まっている誰かなのだと、そう悟った。そうして、矮躯童人問題に興味を持つようになり、それをより詳しく調べているうち、いつの間にか彼女は、検事という職に辿り着き、そして捜査すらをも行うようになっていたのだ。

 もしかしたら、その“正体不明の声”の主を救い出したかったのかもしれない。

 “正体不明の声”の助けを借り、人間牧場の摘発に成功すると、立石はその声の主を探した。その人間牧場の中に、声の主がいるという根拠はまったくなかったが、それでも彼女にはそんな気がしていたのだ。そして、赤春あかはると呼ばれる矮躯童人を見つけた時、ほとんど衝撃に近い感覚から、彼女は声の主は彼だと断定した。赤春の姿は、立石が想像していたものとは似ても似つかなかったにも拘らず。

 周囲を不安そうな瞳で常に見つめるその臆病な態度は、卑屈過ぎて苛立ちを覚える程だったし、どうやらいじめの対象となっていたらしい彼は、体中にいくつもの痣を作り、痩せていて尊厳の欠片もなかった。声を発すれば、小さ過ぎる上に震えていてよく聞き取れない。こちらが少しでも怒りの感情を抱くと、それを敏感に察し委縮する。その反応が更に怒りに油を注ぎ、思わず殴ってしまいたくなる。

 そのあまりの差に愕然となりながらも、それでも立石は赤春の事を引き取る事にした。否、むしろ、だからこそだったのかもしれない。このまま彼が正常に社会生活を送れるとは思えなかったし、それに何より、彼自身に興味があったという事もある。子供の頃からずっと、どうして自分に声を送り続けたのか。どうして自分を導いてくれたのか。しかし、赤春はそれから少しも彼女に対し、そんな話をしなかったのだった。

 一ヶ月ほど経っても、まだ赤春は立石に慣れてくれなかった。本当に“声”の主なのだろうかと疑った事もあったが、赤春を引き取ってから“声”は一度も響いて来ない。彼女にはそれが偶然とは思えなかった。家ではそれなりに寛いでいるようで、家事などもしてくれるようになっていたが、彼女の前で怯えるのは変わらない。そこで、彼女は彼に慣れてもらう為に、一緒のベッドで眠ることにしたのだった。

 言葉で駄目ならスキンシップしかないと思ったのだ。

 赤春は抵抗する態度を見せはしなかったが、それでもベッドの中で緊張をしているのは明らかだった。できるだけ、彼女から離れようとする。根気よくいくしかないと思い、ベッドで一緒に寝続けると、五日目に変化があった。

 夜中に、腹の辺りに異物感を感じて目を覚ます。すると、赤春が慌てて身体の向きを変えるのが分かった。それは、硬いようでいて、柔らかい何かだった。彼の態度で、それが何かを立石は直ぐに悟った。男根だ。それから彼女は、こう言ってみた。

 「ごめんなさいね。子供の姿をしてはいるけど、あなただってちゃんとした成人だものね。その気もなく一緒に寝るなんて、失礼な話だったわ」

 実は立石は、少なくとも感情の上では、彼の事を子供と認識していたのだ。赤春は顔を反対に向けたまま、「いえ、こちらこそ、すいません」とそう応える。

 それから立石は少し悩むと、赤春の背中に身を寄せてからこう言った。

 「ねぇ、いいわよ。身体の表面だけで我慢できるのなら……。“使って”も」

 ここで布団から追い出せば、確実に彼との距離はまた離れてしまう。もっとも、その反対に受け入れても、彼との距離が離れる可能性は大いにあったが、そう応えれば、少なくとも気分を害していない事だけは伝わるはずだと彼女は考えたのだ。

 それからしばらく後で、赤春はゆっくりと身体の方向を立石に向けると、彼女の肉体にこすりつけ始めた。

 ふっ ふっ ふっ

 という吐息。その動作を暗闇に感じていると、何とも言えず、立石は彼の事を愛おしく思い始めた。やがて、動きを止めると、彼は布団から出る。

 「あの… 汚してしまうので」

 と、それだけを言うと、彼は暗闇の中を歩いて行った。恐らくは、トイレで済ましているのだろう。直ぐに戻って来て、布団に入ったが、彼女にとって、それはとてつもなく長い時間に感じられた。もし、このまま消えてしまったら、どうしよう。

 「ねぇ、どうして、あなたは私に協力してくれていたの? 自分を助け出させるため? それとも、他に目的があったの?」

 赤春が布団に戻ると、立石はそう問いかけた。彼はそれにビクッと震えたが、少しの間の後で、実際の声ではなく、心の中に響く例の“声”でそれに応えた。


 “――今は言えない。でも、これからも僕はあなたに協力する。その代わり、あなたも僕に協力して”


 その声は、臆病に震える事はなく、確りと立石の頭の中に響いた。テレパシーを使えば、どうやら赤春から臆病さは消えるらしい。人格が変わるのだ。

 その事実に驚愕しながらも、立石はその声に何処かで安心していた。そして同時に、もしかしたら私は、この“男”に利用されているだけなのかもしれない、とも思っていた。ただし、それでも、不安や後悔は何も感じない。

 もし、この男に騙されているのだとすれば、自分の人生は全て偽物……、いや、自分という存在は全てこの男の手によって作られた偽物という事になる。だから、何も感じないのかも。

 彼女はその時、そんな感想を持った。


 それから、何度か行為に及ぶこともあった。しかし、赤春に対して何か恋愛感情と呼べるものを立石が抱く事はなかった。そして初めに約束した通り、彼は彼女に協力し続けたのだった。ただし、本当に協力していたのは、彼女の方だったのかもしれないのだが。

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