六、白秋
取材に来ていた記者の神谷が帰った後、堺ツユは簾の裏に歩いて行った。自分の肩を揉みながら、巫女の立場には相応しくない、どことなく野卑な歩き方で。何とか無事に済ます事に成功し、安堵しているようだ。
「……ああ、たっく、疲れたわ」
そう独り言を漏らす。しかし、その独り言は、意図的に他の誰かに聞かせる為のものでもあった。可笑しそうに笑いながら、その誰かはそれに応えた。薄暗い、簾の影から。
「フフ。ご苦労様」
ツユは言う。
「笑ってるんじゃないわよ、白秋! そもそも、あんたの所為じゃない」
影の中に微かに姿を浮かばせながら、その白秋という者は、声を発する。少しばかりおどけた口調で。
「まぁまぁ、そう怒るなよ。海千山千のオヤジやジジイどもの相手をして来た君には、あの程度の三流記者を手玉に取るなんて、容易いだろう? 流石、神楽の演者。良い“舞”だったよ」
「おだてても無駄。余計な労力を使わせるんじゃないって言ってるのよ! 私は! 断っておくけど、これは“貸し”だからね。返してもらうわよ……」
「こっちだってちゃんと手伝っただろう? あの“蛙”の幻。お蔭で、すんなり金を渡せたんだ。そんなに高い“貸し”にはしないでくれよ」
「何言ってるのよ? だいたい、なんで出てきたのが“蛙”の幻なのよ? 誤魔化すの大変だったじゃない」
「それは知らないよ。現れる“幻”がどんなものになるのかを、ボクが自由に操作できる訳じゃないんだから。あの時、君らの間にできた関係性、そこに生じた金の象徴が、たまたま“蛙”の姿をしていたってだけ。もしかしたら、君の方に原因があるのかもしれないぜ、あの“蛙”は。
いずれにしろ、幻を見せたお蔭で、あの記者は金を受け取ったんだ。感謝してくれ。無意識に、欲しがっていたからだろうが」
人々の間に生じた関係性。社会的実存とも言える“それ”を、実際に幻として見せる能力。白秋にはそんな異能があった。
「そんなのはどうでも良いのよ、白秋。私が問題にしているのは、別の点。
ぶっちゃけ言うと、危ういのよ! あんたは! 見事にバレバレだったじゃない。あんたの事」
反省しろ、という風にツユは次にそう言った。仕方ない、といった表情を作り、白秋はこう返す。
「確かにね。まさか、あの文字化けメールに気付く奴がいるとは…」
「そもそも私は、反対だったでしょう? あのメールにはさ。知り合いに連絡を取りたかったのなら、なんで、あなたの友達を頼らなかったのよ? なんだっけ? 名前は、アカハルだったっけ?」
それを聞くと、軽くため息を漏らして白秋は言った。
「赤春の奴には、できるだけ頼りたくないんだよ。あいつは、何を企んでいるか分からないからな。悪賢いんだ」
ツユは「ハッ」と笑うと、「あんたよりも、悪賢いっての?」とそう言う。白秋は澄ました顔でこう答える。
「そうだよ。あいつは油断できない」
その答えに、ツユは顔をしかめた。
「なんか、前に聞いたのとは違うわね。赤春は“いじめられっ子”なのでしょう? 気の弱い臆病者だって言っていたじゃない」
「それも事実だ。あいつは、気の弱い臆病者だよ。だが、同時に悪賢い策士だ。あの当時は、僕も気付いていなかったが、時が経てば経つほど、不自然だと思えてくる。そもそも、ボクにこの宗教の存在と黒磐氏の子供に対する性的虐待の秘密を教えたのは、あいつなんだよ。絶対、ボクを何かに利用しようとしてやがるんだ。
……或いは、既に利用されているのかもしれない」
ツユはその白秋の返答に肩を竦めた。
「見事に疑い深いわね。心が醜い証拠。自分が常に誰かを騙してやろうって思っているから、相手もそう思えるのよ。その赤春ってのは、テレパシー能力に長けた便利な友達なんでしょう。使っときゃ良いじゃない」
「その通り。あいつの思念伝達能力は、ボクらの中で最も高い。だからこそ、最も情報を多く握ってもいる。つまり、情報操作も簡単にできるって事だ。そして、こっちがあいつに何かを頼むのは、あいつに更に情報を与えているのと同じ。まぁ、不特定多数に送る文字化けメールじゃあいつにも気付かれるかもしれないが、今回は実験のつもりだったから、それでも構わない。内容も、他愛ないものだ。昔の仲間に呼びかけただけ。次からは、もっと範囲を絞って慎重にやるよ。それが必要なくらい、赤春は信用できない。
正直に言うなら、あいつがいじめられていたのだって、わざとなんじゃないかとボクは考え始めているんだ。否、違うな。いじめられている立場を利用していたんだ。そのお蔭で、あいつは何年も売られないで済んでいたのかもしれない。いじめられている奴の身体なんて、誰も欲しがらないだろう?」
その説明を、ツユは真面目には取り合わない。
「はいはい。とにかく、なんにせよ、あんな記者までやって来ちゃったからには、今度からは、その赤春を頼りなさいな。安全な情報伝達手段なんでしょ。今回みたいな危険な真似をすれば、下手すれば、私達は共倒れよ? 油断してるとさ」
そう言って、ツユは灯りを点けた。電灯。薄暗い影がそれで取り払われ、そこに童形の存在が現れる。妙に大人びた顔。色白。整えられた細く繊細な髪は、その知性を演出しているように思え、子供っぽい丸い瞳からは、何処となく冷徹な雰囲気が感じ取れる。一見、子供のように思えながら、注意深く観察すると、異形を見つけられる。そんな姿。
「油断はしないさ。そんなに余裕のある立場でもないしね。ま、正直、ボクらは薄氷の上を進んでいるようなもんだよ」
「なら、不審がってないで、その“いじめられっ子の赤春くん”を頼りなさいな。はっきり言って私には、警察とか記者とかの方がよっぽど怖いのよ。あんたの友達なんかよりね」
それを聞くと、多少、機嫌を悪くしたのか、白秋はこう言った。
「ボクの判断を信用しないのか?」
「信用? してないわよ。あんたみたいな悪知恵の働く“子供の姿をした大人”を、どうやって信用しろって言うのよ? おまけに変な能力まである。私は常にあんたに騙されているんじゃないかって疑ってるの。覚えておきなさい。
私は初めっから、あんたを胡散臭いと思っていたんだから。実際、その予感は当たったけどさ」
……この矮躯童人、“白秋”が、七つ子教に初めてやって来たのは、7年前の2005年の事だった。ちょうど、次の御神体を決める話し合いをしている最中に現れ、そして「自分が御神体になる」と、そう宣言したのだ。
普通なら、そんな訴えは無視されるだろう。ところが、そこでこの白秋は、奇跡を体現して見せたのである。もちろんそれは、幻を見せるという、白秋の異能によるものだったのだが、とにかく、それでこの白秋は、七つ子教の御神体の位置に納まってしまった。問題はその後だ。白秋は、それからなんと、七つ子教に資金援助していた黒磐氏を脅し、富裕層、政財界の大物達への児童による違法性サービスをし始めてしまったのである。脅しのネタは、もちろん、黒磐氏の異常性癖、小児性愛と性的な虐待行為である。つまり、記者の予想はほぼ正しかったのだ。
「実際、よく潰されなかったもんだわよ、あんたは」
ツユがそう言った。黒磐氏を脅迫した時点で、白秋は黒磐氏に消されていたとしても、不思議はなかったのだ。
「まぁねぇ… この御神体の位置は、そういう意味でも使えたのさ。ボクを本当に神聖な存在だと信じている連中は、まだたくさんいるんだぜ」
「それだけじゃないでしょう?」
「もちろん、それだけじゃない。ボクを潰せば、その異常性癖をばらすと黒磐氏を脅したって点もある。児童虐待もね。ボクがどうやってその情報を手に入れたのか、ボクにどんな能力があり、どんな後ろ盾がいるのかは、隠したまま。
情報を伝えない事で化け物を産み出し、その化け物に黒磐の爺さんは怯えたんだな。だからボクを潰せなかった。ま、ボクが自分の異能を使って、早めに対策を執ったってのもあるんだけどさ」
そう白秋が言い終えると、彼を指差しながらツユは言った。
「そういう、あんたの“悪賢さ”が、信用できないって言ってるのよ、私は」
「だから、君にはちゃんと“ネタ”を伝えているじゃないか。ボクの方は、君を信用しているのに、酷いな」
「どーだか。まだ私には伝えてない秘密をいくつも隠しているんじゃないの?」
それを聞くと、白秋は笑った。
「君はまだ金が欲しいのだろう? なら、ボクの言う通りにしろよ。もっと、金を稼げるぜ。
違法性サービスなんて、ただの布石に過ぎないんだから……。君はボクの重要なパートナーだ……」
そう言い終えると、白秋はツユに近付いて行った。小さな身体を伸ばし、ツユの顔に自分の顔を近付ける。
「断っておくけど、私にショタの趣味はないわよ」
無表情のままツユはそう言った。それに白秋はこう返す。
「知ってるよ。ボクは大人だ」
それに対しツユは、「こういうのは、見た目が重要なのよ」と返したが、抵抗はしなかった。そのまま唇を重ねる。ん。
……赤春は信用できない。
その白秋の不安は、彼が“人間牧場”で一番の古参だった事、その意味に気付いた時から生まれた。
知識を教える者がいないはずの矮躯童人達の“人間牧場”には、何故か、知識が溢れていたのだ。もちろん、彼らを支配していた人間達が教えたものではない。彼らは家畜に知識を与えようなどとは考えない。馬鹿の方が、扱い易いからだ。その知識は、矮躯童人達が“思念伝達能力”によって外部から取り入れたものを蓄え、それが文化として密かに定着したものだった。
そして。
その為に、重要な働きをしていた存在が“赤春”だったのだ。もっとも、それは表立っては認識されていなかった。が、それは彼が積極的に隠していたからであると白秋は考えていた。
優れた思念伝達能力。古参で、高い知能と知識を持っていたという事実。文字化けのように思える“言語”も、赤春の手によって開発されたものである可能性が高い。
そう疑ってみると、自分の“幻を創る”という能力に気付いてから、赤春は知識や思考能力を自分に教えていたように、白秋には思えてきた。そして、この七つ子教の事と表沙汰に出来ないその秘密を伝え、それを利用するよう促し、取引を持ちかけた上で、実際に実行させた。優れた思念伝達能力で、外の世界の情報を最も多く蓄えていた赤春には、それが可能だったのだ。もちろん、白秋がどんな類の人間なのか見抜いた上でなければ、そんな事はできないだろう。まるで、掌の上で踊らされているよう。つまりは、相手の方が上手だったという事だ。
“癪だ。本当に、癪だ”
白秋はそう思った。
行為が終わった。傍らには乱れた巫女衣装のまま、横になって目を瞑っている堺ツユの姿があった。目を開けはしないが、眠っている訳ではないらしい。白秋には彼女が何を思っているのかは分からなかったが、少なくとも不機嫌ではないように思える。
自分が臆病者と馬鹿にしていた人間に実は操られていた、らしい、その事実が、彼のプライドを刺激していた。いくら年長者とはいえ、気に食わない。
――しかし。
確かに、堺ツユの言う通り、赤春を利用するのが最も安全であるのは事実だった。彼の思念伝達能力ならば、誰にも疑われず、情報を盗まれる事もなく、目的の相手との確実な情報交換が可能だ。
「くそう。だが、あいつには限界まで頼らない。あいつは危険だ。ボクの勘は当たるんだ……」
そう、白秋は独り言を言った。