第三幕(1)
自宅に着いた利賢は、思いもよらない事実を聞かされる。
※この物語はフィクションです。作中に登場する人物・組織・団体その他もろもろは、現実とは一切関係の無いものです。
そりゃ、大切な車を置いて帰る馬鹿はいないけれど、なくなっている車に乗って帰ろうなんて馬鹿はもっといないだろう。
私はあのとき確認したのだ。自分が車に乗ってきたかを。
もちろん、車はなくなっているので、私はそのとき、車に乗ってきていないことを確信した。
疑わず。ただ素直に。確信してしまった、と言うほうが正しいか。
それに、別に車を使わなければならないほど、図書館と家は離れてもいない。
それゆえ、異常に気づいたのは、家に着いてからだった。
車が家にないことを見た私は、一気に記憶がフラッシュバックのごとく甦る。
――ああそうだ、車に乗っていったじゃないか。
今思えばとても冷静で、客観的だったと思う。まったく、そのときの自分を尊敬したい。
私は携帯電話で警察に電話をしようとするが、その刹那、着信があった。〝水鳥川さん〟と出ている。
「はい……嶌村です」
私が電話に出ると、水鳥川さんは早口に、いかにも焦った様子で話し出した。
〝――あ!? 嶌村さん! よかった……。いいですかよく聞いてください。あなたの車が……――――〟
早口すぎて聞き取れなかった。
しかし公安部長である水鳥川さんがこんなにも焦っていると、どうして不安にならずにいれるだろうか。
「すみません、もう一度ゆっくりお願いします……」
多少、気が滅入っているような口調になってしまった。
〝――ですから、嶌村さんの車が爆破されたんです!――――〟
まさか。
もう一度聞き返したいくらいだった。
車が爆破された? 誰の?
今なんて言った? 俺の……?
――俺の車が爆破された?
体中の血の巡りが早まるのをはっきりと感じた。憤怒なのか、恐怖なのかはわからない感情とともに。
さっきまでの冷静さはどこへやら。嵐の前の静けさだったのだろうか。
東館長からもらった『シャクナゲ』の花が、夜風に揺れている。
私はあの日と同じように駆け出していた。
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走っているときは火柱が上がっているように見えたが、私が現場に到着したときには炎は勢いを失っており、すぐさま消防によって鎮火が確認された――とは言っても、車はもはや自分のものであったかもわからなくなっている有様だが。
なるほど、これが車の燃えた臭いか。もっと強烈なものだと思っていたが、意外と普通だ。
……見た目は予想以上にひどいけれど。
あの後、水鳥川さんに聞いた話だと、最初、水鳥川さんら面識のあった刑事の方たちは、どうも私が車に乗っていたのだと思っていたらしく、安否確認のために水鳥川さんが私に電話をかけたら、きちんと私が出たので驚いた、という流れらしい。
これは現段階で予測の範疇らしいが、あらかじめ爆弾の仕掛けられていた私の車を、何者かが、車上荒らしの類であろう人物が車ごと奪って逃走、その後爆発に至った、とのこと。
実際、車の中から若い男とみられる死体が発見されており、現在身元確認中である。
とばっちりを受けた形となった見ず知らずの男だったが、申し訳ないという感情は湧かなかった。そもそも車を盗まれているし、なにより今はそっちの方に気が回らない。
刑事さんたちの心配は、まあ、杞憂だったのだろうけれど、自分の身が狙われていることが露呈されてしまったので、先ほどの何とも言えない孤独感から恐怖へと徐々に私の感情は変わりつつあるのは否定のしようがない。
さながら死刑が確定している囚人のような気分だ。
もっとふさわしいのは、余命を宣告された患者、かもしれないが。
どっちにしろよくない状況ではある。助かる見込みがほぼ0だ。
しかし、こんな事件、小説内にはなかったはずだ。
「……水鳥川さん。身元が確認できました」
「山下くん、ご苦労だったね」
気づけば、水鳥川さんって公安部長なんだから、こんな現場に来るべき人ではないんじゃ、なんて呑気なことを考えてしまっていた。
なんでも、限界を超えると普通というか、そういった状況が当たり前のように感じてしまうらしいけれど、それにしては早くないだろうか? 私の限界。
それともそこまで極限状態ではないのだろうか。
のんびり思考することができているし、後者なのだろうけれど。
とにかく、明日から命の危機を感じながら生きていかなければならない。
大げさかもしれないけれど、これぐらいがちょうどいい。のちに杞憂になってしまうぐらいが。
「嶌村さん、ちょっといいですか?」
突然、寺町さんに声をかけられ、体がこわばる。なんだろう。
……もしかしてメアド聞きたい、とか?
って馬鹿か私は。連絡先やらの個人情報は、今日の午前中に教えたじゃないか……。そもそも私なんかに興味を抱いてくれる女性はいないだろう。たぶん。
やはり極限状態なのだろうか……。
そういえば昨日の出来事になるのか。いつのまにか日付が変わってしまっていたようだ。
だが、今そんな細かいことまでは気にする必要はない。
寺町さんは努めて平静な口調を保っている様子で言葉を続けた。
「我々はこの事件の後すぐ、あなたの身をどのようにして守るかを話し合いました」
寺町さんは話し合った当事者でないのだろうけれど、私がちゃんと理解できるように、おそらく伝え聞いたことを丁寧に説明してくれた。
しかし、この人は本当に真面目である。私が最初に警視庁に行ったときも丁寧に案内してくれたのだ。
もっとも、それも昨日の出来事なのだが――まあそんなこともどうでもいい。
一番重要な部分はその話し合いとやらの結論である。
「――そこで、嶌村さんには2人のボディーガードを常時付けることになりました。私と山下です」
なるほど。それはひとまず安心と言える。一応顔見知りという点で人選にも気を遣ってくれたのだろう。
「それから当分の間、我々の指定する建物に過ごしてもらうことになります。今お住まいの家よりも幾分狭いのですが……」
「それはまったく構いません。気遣いありがとうございます」
自分の命と一時的な快適さなら、命を選ぶ。当然である。
「今すぐそこに向かいたいのですが、何かやっておきたいことはありますか?」
やっておきたいこと、か。
そういえば小説を書くと決めた学生時代から、恋愛も、遊びすらせずに過ごしてきた。
別に今更それをしたい、という訳ではなかったし、直ちにやっておきたいことはない。
「ありません。しいて言うなら連絡ぐらいです」
連絡は移動中でもできるし、あまり連絡しなければならない人もいないので、別にどうでもいいのだが、とりあえず言っておくことにした。
寺町さんはそれを聞くと、「わかりました」とだけ言い、すぐさま水鳥川さんと話をしに行ったようだ。
――はあ……。寺町さん、やっぱり美しいな……。
初めに会ったときもタイプだとは思ったが、近くで話をすると本当に綺麗である。
あれ? これって恋なのだろうか?
いやいやいや、それはないだろう。ないはずである。
仕事が恋人だと、小説が恋人だと語ってきたこの私が……まあ結婚願望はあるけれども。
なんてくだらないことを悶々と考えていると、寺町さんが山下さんを連れて戻ってきた。
「準備が整いましたので今から向かいましょう。よろしいですね?」
もちろん、「はい」としか言わなかった。
これからいったいどんなところに住むことになるのだろうか。
さっきは都内を出て埼玉県内へ向かうとは聞かされたが、手狭であることだけしかわからない。
まあでも、私はどんなところでも構わないし、もともとそういう心構えである。
だが都内を出るのはいささか残念な思いがあった。
さきほど言ったように、やり残していることはない。
それよりも、私が埼玉という安全圏内にいる間も、東京都民をはじめとしたたくさんの一般人が事件に巻き込まれる可能性があるのだ。さっきの一件でまざまざと思い知らされた。心配でなく、残念でないわけがない。ずっと心に引っかかっているのだ。
両親にこっぴどく「他人様に迷惑をかけるんじゃないぞ」と言われて育ってきた私。
そんな影響もあってか、ここまで極めて真面目に、できるだけ迷惑をかけず過ごしてきたつもりだ。
しかし今回は、もうすでに多大な迷惑をかけている。警察のお世話になっているくらいだ。
私はそれに耐えきれない。死んでも御免である。
「……村さん……嶌村さん!」
突然大きな声が聞こえ我に返る。寺町さんの声だった。
「どうかしましたか。ずいぶんと思い詰めた表情で」
「あ……いえ。何でもないですよ」
そんなに表情が出ていたとは。これからは注意しなければ……。
「車は山下が運転します。目的地は埼玉県の藤干です」
どこだろうか。聞き覚えのない地名だった。
「それでは出発しますのでどうぞお乗りください」
「……どうぞ」
寺町さんと山下さんに促され車に乗り込む。頭が痛くなりそうな新車のにおいがする車内だ。
シートベルトを締めたのを確認すると山下さんがアクセルを踏んだ。ゆっくりと車が動き出す。
現在時刻は午前2時になるところ。もうすぐ丑三つ時である。
よくよく思い出してみると、こんな時刻に外を出歩くのは初めてかもしれない。
都内の真夜中は割と明るい。さすがに住宅街では明かりも乏しくはなるが、田舎町のように真っ暗ではない。なるほど、どうりで妖怪変化のともがらも活躍しにくくなるわけだ。
もっとも、妖怪変化のともがらとテロリスト、どっちが怖いかと問われれば「テロリスト」と答えるだろう。人を驚かすことが主流の妖怪より、危害を加えることが主流のテロリストのほうが脅威であり、驚異でもある。
「……嶌村さんはどこの出身だ? ……捜査資料では東京都、となっているが……一度関西のほうに行かれたことがあるように思える」
不意に山下さんから質問が飛ぶ。さすが刑事と言ったところか、なかなか鋭い質問である。私のときどき出る関西弁の訛りからくみ取ったのだろうか。
「……はい、私が小学校へ通っていたとき、諸事情で奈良のほうへ少し」
そうなのである。私は奈良に住んでいたことがある。
諸事情、というのは母親の死が原因だ。小学4年生のころ、とある交通事故で母は亡くなった。幼心でもその時は悲しかったものだ。直接母が死んだ、と伝えられはしなかったが、うすうすそのことには気付いていたのだ。
確かそのときの裁判では、いろいろとごたごたがあったような気がする。しかし、20年が過ぎようとしている今、当時は幼かったこともあり、ほとんど忘れてしまった。
「……そうか。それは……母親が亡くなったことを受けて?」
少し聞くのをためらったのは私のことを慮ってだろう。と言うか、捜査資料のすごさを改めて実感する。いらないような情報まできっちりと調べられている。
「……ええ、そういうことになります。中学に入学するまでは奈良にいました」
「……なるほど」
山下さんは短く答え、黙り込んでしまった。寺町さんもさっきから一言も話さない。
だがいったいなぜ聞いたのだろう。まあ、あいさつ程度に捉えておけばいいか。
車は都外――埼玉県へ向かう。
車の窓から外を見ると、街灯の電気がチカチカと、今にも消えそうに光っていた。
いちおう第三幕になりますが、深い意味はありません。
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