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第三幕(5)

※この物語はフィクションです。作中に登場する人物・組織・団体その他もろもろは、現実とは一切関係の無いものです。

 私が渡した情報は大したことではなかった。少なくとも、私にとっては。さっきのような台詞を伴ってする話でもない。

 それこそ、宮地さんであれば少し調べればわかりそうな情報なのかもしれない。

 なので、加えてこれからも何か情報が入れば連絡する、ということも交渉の条件として提示した。

 こんなもので納得してもらえるかどうか不安なところもあったが、宮地さんが私の持っていた話に価値があると判断してくれ、快く情報収集に協力してもらえることになった。

 とにかく、貴重な情報収集源を得られたことが非常に大きい。警察で調べられないことも、全部手を尽くして調べ上げてくれるのだ。

 ただ、その行為に好印象を持ってはいない私ではあったが。

 有名人などのスキャンダルが発覚したときの取材ほど醜いものはない。

 されども、今はそんなことを言っていられる場合でないのを私は十分に理解している。

 私の思いなど、二の次、である。

「ではこれで。次はお互い良い情報を持って会いましょう」

 宮地さんは笑顔を湛えながら短くそう言って、去って行った。

 もしかすると、宮地さんは私が大した情報を持っていないと知っていたのだろうか?

 その上で、まるで私の力量を見極めるために、あんな言葉を使って捲し立てるようにしたのだろうか?

 どちらにせよ、彼にとって事件の一番の当事者である私から直接、それもいとも簡単に聞き出せるとあっては互いの利害関係は一致する。

 もしそうであれば、力量を認められ少し嬉しい反面、そんなことにも気付かず額にうっすらと脂汗を掻きながら彼と対峙していたのはいささか恥ずかしい。

――下らないことを詮索するのはやめよう……。

 今私が頭を回すべきところは、目の前から去っていく宮地さんではなくテロ事件の解決法なのだから。

 先ほどまでの激しい雷鳴が、ほんの少しだけ弱くなったのを感じながら、私は浴場へと向かった。




□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□




――はぁ……。気持ち良いな。

 私は浴槽に浸かりながら、しばしの休息を取っていた。

 現在時刻は午後8時。浴場への客足も増えてくる頃だろうか。

数人の見知らぬ顔が並ぶ薄明るい浴室に、檜風呂の何とも言い難い香りが浴場全体に広がっている。

 ところで檜といえば、“翌檜(あすなろ)”という木をご存じだろうか。

 翌檜というのは檜によく似た木で、「翌日(あす)は檜になろう」、つまり翌檜になったという説がある。

 一部ではこれを否定する意見もあるが、どうしてこんなに良い話を否定するのだろうか。まったくもって勿体ない性格の持ち主だ。

――昔は私もこんな姿だったのかな……。

 夢を見ていた高校時代。私は翌檜のそれだった。

 いつか売れっ子の作家になろう、なろうとばかり思っていた。結局、翌檜にはできなかったことを成し遂げるという結果を手に入れることができた。私は、売れっ子の作家そのものになれたのだ。

 それなのに、こんな仕様もない内容で売れてしまったがために。推敲せず、問題を検討せず作ってしまったために。……最近、こんなことばかりが頭を回るようになった。

 だから、あのとき寺町さんが犯人を捕まえた、と言ったことは本当に救いの言葉だった。

 それゆえ、その言葉が崩れてから今、絶望の淵へと追い込まれてしまっているのだが。

 自信家の一面もあった私は、いつもプラス思考であった。

 昔、高校在学中に進学か就職かみんなが迷う頃も、私だけはあっさり作家の仕事をすると言って聞かなかった。まったくもって無策ではあったが、何とかなると考えていた。

 もちろん両親は猛反対。離れて暮らす私をわざわざ実家へ呼び出し、大学を出てからでも遅くないと何度も説得されたが、聞く耳を持たず何とかなる、何とかなるの繰り返しであった。

 しかし今では、こんなにもマイナス思考。自分でも驚きである。

 こんな状況は、何とかなると思えないのだ。

 言うなれば、挫折という挫折を味わっている気分だ。心の奥が痛む。

 以前のような暮らしに早く戻りたい。そう思う他なかった。

 私はひとまず浴槽から上がり、今までの悪い考えの全てを洗い流そうとシャワーを浴びる。

 蛇口をひねると火傷してしまいそうなくらい熱いお湯が出たので、知らぬ間に声を上げてしまった。それも、小さな声ではなく、浴場に響き渡るレベルのボリュームで。

 一瞬にして視線がこちらに突き刺さるが、すぐに何事もなかったように目が逸らされる。

 気を取り直して、シャワーの温度を調節する。少し冷やかさを感じられる程度だ。

 まんべんなく体を流し、洗髪を手際よく済ませる。備え付けられていた洗髪剤と石鹸は、見ただけで上等だとわかるような代物だったので、大して量の多くない髪だが、ありがたくたくさん使わせてもらう。

 風呂には毎日入っているはずなのに、一日入らないだけでこんなにも気持ちが悪いものなのかとまざまざと実感した。まるで刑務所から出所して入るような風呂の爽快感である。

 少し体が冷えてきたので、再び水の温度を上げる。もちろん、上げすぎるようなヘマはしない。

 すると湯気が一気に立った。鏡に映っていた私の顔がほとんど見えなくなるぐらいに。

 十分に髪を流してから、体を洗い始める。やはり見た目通り、石鹸も上物である。

 なかなか石鹸の、ボディーソープとは違うソフトな肌触りも悪くないな、と思うのであった。さすが高級なだけはある、と言ったところか。

 二日分の垢を落としきった私は、再び湯船に浸かる。今度は、浴槽が大理石でできている。私は、足を滑らさないように注意深く体を沈めた。

 この湯船からは外の様子が伺えるようだが、夜で暗いうえに嵐の最中いうことで景色を楽しむことはできなかった。ちなみに晴れていればライトが点けられ、その手の業界では有名な庭師が管理しているという庭の景色も楽しめたらしい。

 あいにく、雷鳴が弱まっても雨が上がる気配はない。景色を楽しめないのは多少名残惜しい気もしたが、どうせまた今度来ればいいとすんなり諦めた。

 時計などもちろん持ち込んでいないので、一体どれぐらい時間が経過したのかはわからないが、のぼせるのも体に毒なので、しばらく経ってからちょうどいいところでシャワーを浴び、浴場を後にした。

 脱衣所にでると、扇風機の人工的な風が顔に当たる。顔面に風をもろに受けるのは私は好まないので、すぐに背を向け、背中で風を浴びる格好になる。

 乱暴にタオルで水分を取りながら、喉がカラカラに乾いていることに気付く。

 確か入り口に自動販売機があったはずだ。

 服を手際よく着、高い湿度で余計に暑さを感じる脱衣所を出る。入り口の真横、ごみ箱と並んで自販機は立っていた。

――さて、何を買おうか。

 喉を潤せられればよかったので、別に迷わずお茶や水といったものを選択してもよかったのだが、どうも自然と物事を悩んで決定する方向に行ってしまっているようだ。

 不意に、小学生時代によく飲んでいたスポーツドリンクが目に入る。今水分補給を第一とする私にもピッタリだったので、それを選んで、自販機のボタンを押す。

 デザインこそ変わっているものの、そのスポーツドリンクの味は全く変わっていない。テレビか何かで聞いた話では、ロングセラー商品でも少しずつ味を変えていき、消費者に飽きが来ないようにしているらしいが。

 自販機の横に腰を掛けながら風呂上がりの小休憩をしながら飲むと、私が奈良に住んでいた時のことが思い出される。その刹那、私は頭の奥に鈍い痛みを覚えた。風呂から上がって周りの環境が急に変わったからであろうか。そんなことを考えていると、痛みはすぐに消え失せた。

 しかしそういえば、あのころはこんな小説どころか、作家になろうとも思っていなかったな……。

 ただ、一日一日を確実に楽しんで過ごしていたと思う。

 当時の友達は今何をしているのだろうか。気付けば、20歳のときに行った同窓会以来誰とも顔を合わせていない。

 忘れている名前も多いが、母親を亡くし、落ち込んでいた私を、励ますかわりに毎日一緒になって馬鹿みたいなことをして遊んでくれた親友の名は忘れることができない。

 その親友たちは、私がこうして大変な事件に巻き込まれていることを知っているだろうか。

 多分、私が相手の現状を把握できていないので、よもや私のことを現在話題になっている作家だとは誰も思うまい。むしろその方が好都合で、気が楽である。

 しかし、このような事態の中、心配してくれる人がつゆほどにもいないとは、少々寂しいものがある。

 いるとすれば……イラストレーターの天ちゃんであろう。

 実のことを言うと、私は母親だけでなく父親も亡くしている。

 男手一つ、私を精一杯愛情尽くして育ててくれた父は、9年前、私が高校を卒業してすぐに癌で亡くなってしまった。

 寂しくはあったが、一番近しい親族が亡くなることを経験するのは二度目であり、その頃はちょうど大学やらなんやらで多忙の日々を過ごしていたので、正直言って悲しんでいる余裕は無かったし、感謝の気持ちだけが私の中を渦巻いていた。

 いろいろな親戚が、私を心配してくれたが、当時すでに執筆活動に励んでおり稼ぎはあって、大学も奨学金やらなんやらで結局両親の遺産を使っても余るぐらいだったので、迷惑をかけるわけにもいかず、丁重にお断りしたのだった。

 時折、私は苦労人だとよく言われる。だが、現状を差し引いて考えれば幸せな人生そのものであった。恐らく、私より苦労している人間は何万、何億といるだろうし、両親を早くに喪ってしまったこと以外は、本当に何一つ不自由の無い人生だ。

 こうして自分の歴史を一度振り返るのもなかなか悪くない、と思っていると、突然ひとつの新たなアイデアが浮かんでくる。それは、テロ事件を解決させるものではないが、作家である私にとっては非常に重要な閃きであった。

 すぐさまメモに書きとめたいところだが、あいにくと旅館の部屋に置きっぱなしだった。不覚である。

 風呂上がりの水分補給を兼ねた休憩も、そろそろいいかと思っていたころなので、部屋に戻ることにする。立ち上がりると、さっきのアイデアを忘れないように反復し、改良も加えつつ、部屋を目指す。

 一度弱まった雨は、また強く降り出してきたようだ。雨粒が旅館の屋根や窓ををたたく音が聞こえる。

 途中、寺町さんとすれ違ったが、何やら申し訳なさそうに、スタスタと歩いて行ってしまった。

 その他は特に変わったこともなく、私は自分の部屋に着いた。

 部屋に入ると、一目散にペンとメモを取り出し、考え付いたアイデアを箇条書きのように書き綴る。

――なかなかいい作品が書けそうだな……。復帰第一作はこの路線で決定だな。

 ジャンルは恐らくファンタジーだ。空想世界は設定がいろいろと大変だが、もう現実世界でこのようなことを起こされてはたまらない。

 逸る気持ちを抑えつつ、メモに一通り書き終えると、布団を出してさっさと寝ることにした。

 どうせここではろくなこともできないのだから。

 私は布団に入ると、すぐに寝息を立てていた。

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