第三幕(2)
※この物語はフィクションです。作中に登場する人物・組織・団体その他もろもろは、現実とは一切関係の無いものです。
もうどれぐらい経っただろうか。私はどうやら眠っていたらしい。
そりゃ、久しぶりに体を動かすというのに、2日連続で全力疾走をしたものだから疲れてもいるだろう。しかも昨日の今日の話である。
それに加え筋肉痛が尾を引いている。最悪のコンディションだ。
私は寝ぼけている頭を必死に覚醒させようとするが、どうも意識がはっきりとしていないようだ。
「ここは……」
やっとの思いで言葉が出た。寺町さんが答える。
「埼玉県との県境を越えたあたりです。もうしばらくかかりますので、寝て結構ですよ」
まだあまり時間は経っていないことがわかる。とはいっても、新聞配達が動き出す時間にはなろうとしているが。
「すみません……ありがとうございます」
私は寺町さんの言葉に甘え、もうしばらく眠ることにした。
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山下さんの運転する車は、問題もなく、目的地に到着したようだ。
もっとも、私は眠っていたのでどんな道を通って、安全運転をしていたかなんてわかるはずがないが。
まあでも、今こうして無事なんだし、何より警察の方なのだから危険なことはしていないであろう。
車から降りた私は、疲れの取れていない体を目覚めさせるため、大きく伸びをする。
初夏と言うこともあり、まだ6時にもならない時間なのに太陽が昇りはじめようとしていた。
しかし、空気が澄む、とはこのことを指すのだろうか。自分の住む東京とは違い、気分が爽快である。
『藤干』という地名には未だ覚えがないが、悪くない印象だ。
「どうですか? いいところでしょう?」
寺町さんが尋ねてきた。
「ええ、とっても。ここは埼玉県のどのあたりなんです?」
「そうですね……ここは本当に県の端、西の端に位置しますね」
と言うことは秩父に極めて近いことになる。長野県との県境付近でもあるのか。
……本当に山の中、と言うべきところだな……。
「ところで、私が住むことになる家というのは……?」
辺りを見回しても家らしきものは確認できない。というか町でも、村ですらない。あるのは……旅館?
「お気づきかもしれませんが、こちらの旅館に滞在していただくことになっています」
「え……どういうことですか? 一軒家、もしくはマンションを想像していたのですが」
「……説明不足で申し訳ない。『藤干』、と言うのはこの旅館の名前なのだ」
そうだったのか……。どうりで聞き覚えがないはずだ……。
「費用は我々警察が負担いたします。その点は心配なさらず」
いや、そこは心配しないのだが。
「いったい、どれくらいの期間になるんです?」
「今考えている範囲では、約一ヵ月間、ここで過ごしてもらいます。その後は、また別の宿泊施設へ行き、一か月ほど滞在してもらいます。これの繰り返しですね」
「それは……ずいぶんと大変そうですが」
「勝手で申し訳ありません。ですが、嶌村さんが狙われている可能性を完全に拭いきれない限り、我々のやり方に従っていただくことになります」
「……申し訳ない。我々が力不足なせいだ」
寺町さんと山下さんが一気に表情を曇らせる。こうも気を使わせては、私としても申し訳なかったので、まるで誘導尋問のごとく了解してしまった。
「本当に、申し訳ありません……。それでは、こちらへ」
寺町さんは最後まで申し訳なさそうに、私を旅館に案内した。そう言えば出発するときに2人がやけに無言だったのは、このことに後ろめたさを感じていたからかもしれない。
しかし、いざ足を踏み入れると、私の悪い予感は外れ、人里離れたこの旅館は、周囲の静けさとは裏腹ににぎやかであった。
若い年齢であろう女性の従業員が4人ぐらいで出迎えてくれ、どうやら宿泊客の数も多いらしく、知る人ぞ知る隠れた名旅館、というイメージを受けた。
売りは松茸の採れる旅館の裏山と、鉄分豊富な地下水を沸かして作られた露天風呂。秋でも冬でもないのが少し残念だ。
様々な娯楽施設も内設されているらしく、卓球場やエステ、ゲームセンターまで見て取れた。
部屋は2部屋を使用するらしく、片方は私と山下さん、もう片方は寺町さんが使うとのこと。
本音を言えば寺町さんとがよかったのだが、これはいろいろと問題になるから我慢しよう。
しかし、朝方からの来客は旅館にとって異例ではないだろうか? よく宿泊を許可してもらえたものだ。
さすが警察権力、と言ったところか。
まあ、細かいことは気にしないようにしようではないか。せっかくの休暇、楽しまなくては。
女将さんに聞いた話だが、この辺はどうも松茸以外にも自然を満喫できるスポットが多いらしいので。
とは言っても、車の中で寝たぐらいでは疲れも筋肉痛も取れない。それにまだ早朝なのである。
「すみません、山下さん。私はまだ体が回復してないので今日は休んでいますね」
「……わかった」
そう言うなり、気を使ってくれたのか山下さんは部屋を出て行った。
私は山下さんが出て行くのと同時に、眠りの中に落ちて行った。
窓からはどんどん昇っていく太陽の日差しが照りつけていた。