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ポストモダンはわんこのエサにしましょう

 唐突ですけれど,小林正弥氏は『サンデルの政治哲学』のなかで,以下の指摘しておられます。

「ポストモダン思想においては、『私たちはどう生きるべきか』『政治経済はどうあるべきか』といった問いに建設的な答えを見出すことができないように思われる」――同感だが,なぜ? 「そもそもポストモダンは、そういった理想や真理の体系を批判する所から生まれた知だからである」――なるほど。

 ところで,いまよりむかしですが,1930〜45年をさして,野村喜和夫氏は以下のように言っておられます。

「詩はみずからを断罪しなければならない」。――なぜか。「破局への途上で,詩は何もしえなかった」からだと。ただし「何もしえなかったこと自体が問題なのではありません。いつの時代にも詩は,たとえば飢えた子供ひとりに対しても無力だということはありますから」ともいっておられます。

 では何が問題なのでしょう。曰く,詩がみずからの「力能のありように無自覚のまま,戦争を賛美したりそれに協力したりする詩が書かれさえしたということ,あるいは沈黙と言う最低限の行為すら行いえなかったということ,その軽さや弱さが問題なのです」。

 では問いましょう,詩はいかに在ればよいのかを。「言語の実験室に閉じこもったような詩,高尚な趣味の詩,イデオロギーに奉仕する詩,あるいは共同体の伝統的な感情にもたれかかったような詩,今後そうした一切は書かれてはならない。唯一書かれうる詩があるとすれば,みずからを否定することによってかろうじて成り立つような,あるいは少なくとも,みずからの外部に何ら拠り所を求めず,つまりはそれ自身が自立した思想となりうるような,そういう詩であらねばならない。第二次大戦後の日本現代詩は,以上に述べたような反省から出発しました」。

 なるほど,氏のいうところの「唯一書かれうる詩」であるためには,ポスト・モダンの側面をもつ必要があることでしょう。

 しかし,たとえば現実が破局の途上にあって,じっさいに社会経済等が挫折した際に,座禅を組んで浮世を諦観していた詩から「それ見たことか」と諭されるのでは,あまりに説得力がないし,あまりにラビ・バトラやノストラ・ダムス的でないでしょうか。

 そうしたものに,いったいだれが目をむけるのかと。

 ましてや昨今はご承知の通り空前の政治哲学ブーム。「『私たちはどう生きるべきか』『政治経済はどうあるべきか』といった問いに建設的な答えを見出す」ものが求められているといえるのではないでしょうか。

 詩については,野村氏のご指摘のとおり,イデオロギーに奉仕する等々の性質をおびないほうがよろしいとおもいます。むろん現行体制に言及すれば,必然的にイデオロギーを帯びてしまうでしょう。60年代のファッション・デモのそれのように,時流にのれ,というわけでもありません。けれど,つよいむすびつきの先が主に愛であるところから,そろそろ詩のほうからも歩み寄りがあってもいいのかなあとおもうところであります。

初出:2011.2.21「いまとあしたのかきものについて」

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