家計の不確実性・試論
今回は拠り所が少ないので「論」
われわれがいま抱く不安というものは,どうにも漠然としたもののように思われる。
一般的に不安とよばれるものを挙げてみると,たとえば,「生活の不安」や,「老後の不安」といったようなぐあいで,じつに曖昧としたものである。
では,老後の不安とは具体的にどんなものであるか。
パネルデータ分析によれば,それは「年金不安」であったり,「万一の事態」であったりするという。
けれどはたしてわれわれは,そうした1つの不安,しかも遠く将来の不安を,ほんとうに危惧しているのであろうか。むしろ,われわれはつねに漠然と,うすぼんやりとしたもやもやとした気分を抱いていて,たまたまそこにあったりワイドショウなどで見聞きした身近な話題へその曖昧な感情ををなすりつけるか転嫁するかして,「不安」として無理矢理に存在させている,と考えるほうがしっくりくるのではなかろうか。
そうかんがえると,家計がどの問題にたいして真の意味で「不安」を抱いているのか,パネルデータ分析による結果では,知ることができえない。たとえかように言い切らずとも,依然として不明瞭のままで,真の結果を明らかにしないといわれなければなるまい。
そもそも一般的な家計,あるいは個人について考えたとき,彼らはある事象について情報の不確実性に直面しているとはいえども,ある事象について危機等が表出したり顕在化しない限りにおいては,彼らとその事象の本質のあいだに横たわる不確実性を自助努力によって解消しようとはしないであろう。
これは,取引費用がかかるからかもしれぬし,そもそも自らの身や財産に危険が及ばなければさほど関心がもてないのかもしれない。
おおよその個人は,その情報源をテレビであったり少し関心があれば新聞やインターネットを活用する。しかしそれは,おそらくすべてを網羅するものではない。
われわれがなにかを詳しく調べようとおもったとき,それは必ずなんらかのインセンティヴに基づいているはずである。そのインセンティヴ付けは,もしかすると読書の結果,学習の結果,レポート執筆の結果,おこなわれているかもしれない。そういったものももちろんあるだろうが,たとえばふつうに生活していて調べモノをしようとするとき,それは,新聞の見出し,雑誌の表紙,中吊り広告,あるいはワイドショウや特番で取り上げられていたので興味をそそられたか,あるいは必要に駆られたかしているはずである。
だがたいていのひとは,そもそも調べる行為を怠る。
なぜならば,ワイドショウなどが平易に解説しその背景や何が問題なのかを視覚的に指摘している「かのように見せかけている」からである。だから,ワイドショウや新聞という媒体のみで満足し物事の本質までを追求しようとしない。それに,そこまでしている時間的余裕も無い。個人が持つ時間は有限なのだから,である。
身の回りの事象で具体例を挙げると,それは中国農産物の残留農薬,ギョーザ,国内でいえば,冷凍食品,コメなどの食の安全あるいは年金などである。もうひとつ挙げさせて頂けるのならば,好況のときは売れ行き不振で,不況のとたんにいっせいに購入される「経済書」である。
すなわちわれわれは,不安を抱くといってもそれを自助努力により真に解消しようとしない。狭量な知識のまま放置している可能性がある。いっぽうで狭量たる情報源は,不安をやたら煽り徒に個人の不確実性を増やしている可能性がある。
例外もある。 金銭支払いにより解消できえる場合である。
これは,損害保険や生命保険,医療保険である。巷でよく我が国民が「リスク回避的」であるとされるのは,この類の商品の売れ行きや,あるいは金融商品保持率の低さによるものである。
つまり,われわれは,情報の非対称性に直面するも,「情報獲得という側面からは自助努力をしないが金銭支払いによって解消できるリスクという名の不安要素については事前回避することを好む。
こう考えると,われわれは,将来を考慮しているとみるよりも「現在できうる自助努力」のみをしているとみるほうが適切のようなきがしてくる。
つまり,われわれは現在時点における不安要素を取り除いているのみであって将来不安を取り除いているわけではない,ということである。
これは,われわれの「視覚」に似ているかもしれない。というのも,われわれの眼球には,こんな面白い性質がある。われわれは,ふだんモノを「立体」的に捉えていると思いがちであるが,じつは脳においては平面の画像として処理している。
将来の物事を見通しているつもりがじつは,現在時点の不安を解消するという近視眼的選択であるということは,じつによく似ていると思わないだろうか。
2009.02.04作